のである → んでぁ → だ
→ ぢゃ → や
のである、は現代日本語会話の中核を為す表現の元祖なのである
>>3 どうせお前の実力じゃ国語学でも言語学でも飯は食えんよ
5ちゃんねるだからまだいいが、リアルで再起不能の赤っ恥かかないうちにこの道は諦めた方がいい
どうでもいい個別の話題で伸びないクソスレ立てすぎじゃね?
近いのであるくことにした
↓
近いくことにした
ダメだろ、やっぱり必要じゃん
文章が上手い人は意識しなくても自然に使わずに済ませている
「のだ文」についても知らないくせに印象だけで文法を語るな
いまや論文やレポートですら「のである」は使わないように指導されているからな
日本語もだいぶ洗練されてきたと言える
動詞終わりと「動詞+のだ」の使い分け
「だ」と「である」の使い分け
この2つは別の問題だ
「のである」はその2つでそれぞれ選んだ形の組み合わせで生まれる
だから2つの異なる組み合わせについてまず知るべきなのだ
いきなり感覚で「のである」だけ語ったって何も見えていない
そういえばアールという面積単位を小学校で教わったが
小学校で教わった以外には全く聞かない
誰も使わない単位を教えてどうするんだ
>>32 農業だとアール単位で土地を測るのがデフォだと聞いたことはある
もう少し正確に言うと、使われる単位の名前は尺貫法の「畝」「反」「町」だけど
その内実はメートル法で「畝=1アール」「反=10アール」「町=1ヘクタール」換算らしい
尺貫法とメートル法の面積の違いは1%にも満たないので、厳密にこだわらなければ問題にはならないという
宏洋の人生ゼンツッパ!! ※炎上注意!!※宏洋は幸福の科学と決別したのか?!
小学校で教わるけど使わん二大単位
アール
デシリットル
本人は人畜無害だけどTLで見たくないことありますよね
「のである」は日本語としておかしいと谷崎潤一郎は言っていながら
自分の作品では「のである」を乱用していた
「ーやねん」が無いのだから仕方がない。文語でも京阪語を使えば便利なのに。
文語てそもそも京阪語やろ
文語は平安中期頃の京都の言語が元になってるはずや
中央(京阪)の上流階層の言葉をそのまま江戸に移植して
その結果関東要素の調整が入ったのが今の標準語
今の標準語の関東要素て関東式アクセントだけやろ
それ以外はほとんど上方要素や
【天塚啓示】総合時間事業会社代表取締役社長専属秘書田中誠司 名刺8枚目
>>1 「のである」はなくてもいいけど、
遣ってもそんなに鬱陶しい感じはしないと思う。
それより、「・・・だと思う。」をどう思いますか。
私の知人にこの表現が良くないという人がいる。
「だ」がいらないというのだ。具体例を示せば、
「「のである」は不要だと思う。」ではなく、
「「のである」は不要と思う。」の方が美しいという感覚のようだ。
私としては、「・・・だと思う。」は多くの人が遣っているし、
気にすることでもないと思うのだが、皆さんはどう感じるだろうか。
「・・・と思う。」の方が、美しい感じがするだろうか。ぜひ教えてください。
一番鬱陶しい表現は当為を表現するための二重否定なのである
「のである」を使わなければならないのである というやつ
当為の助動詞「べし」を使えばすっきりするのに
当為の助動詞を使わないせいで法律の条文は二重否定だらけなのである
動詞や形容詞はそれ自体に断定の機能があるから
文法的に見ても全く必要ない
作文の文字数を稼ぐためには必要なのであると思うのである。
戦前の軍人が「〜であります」体を好んだが、動詞には後続させられないため
「の」を挟み「するのであります」のように言ったのが一般にも広まったものだろう。
軍人口調であることと、屋上屋を架すくどい表現であることから、「理屈はともかく、
こういうことだぞ。天下り式に受け入れよ」という横柄さを読者に感じさせる。
著者にそのような意図がないなら使うべきではない。
個人的なメモを取るときにはそういう文体だわ。
「今日は土曜。天気がいい。買い物に出かける予定。」みたいな。
「〜なのである」はなんていうの。
「〜なのだ」か?
「のである」は必要でしょう。使うかどうかは個人の勝手ですが。
>>82 デアリマスが軍隊で使われたのは明治陸軍を長州人(山県有朋)が育てたからだ
長州から豊前、豊後にかけてはデアリマスが日常語として根付いていた
デアリマスが訛ってヂャリマスとして使われるくらい方言としてなじんでいた
>>88 必要ない。例えば「日本語には必要ないのである」という文は、ほとんどの文脈では
「のである」は冗句に過ぎないので削り、「日本語には必要ない」と書けば良い。
例外として前文の理由や換言を付記している文脈も少しあるが、理由は「日本語には
必要ないからである」、換言は「つまり、日本語には必要ない」か「日本語には必要
ないということである」と書き直せば良い。
>>90 「必要ない」のあとに付く接尾こそ日本語の肝のように思う〇〇。
『日本語の文章に「のである」は要らない』 vs 『日本語の文章に「のである」は必要なのである』
どっちに説得されるそうかというと…後者だな。
「〜のではある」は机をドンと叩いて唾を飛ばしながら言っているようでみっともない。
「〜のである」は机をドンと叩いて唾を飛ばしながら言っているようでみっともない。
文語としては問題なく使える。
むしろ口語でのダを止めてはどうか。
ださすぎる。
「〜した」と書くべき所を「〜したのである」「〜するのであった」「〜したのであった」と
書いているのを見かけるが、これら3つに何の違いがあるのか? どれも無意味な水増し文体
でしかない。
>どれも無意味な水増し文体でしかない。
それはカタカナ語に言ってくれ
>>99 口語向けに適応し撥音化した「〜んだ」になってる方は?
やたら使うたらそらくどいけど単なる言い換えの表現やん?
念のためRuth Benedictの英語原文を見ても、簡潔な文体で書かれていて、倒置や動詞の
前にdoを挿入するなどのゴテゴテした強調構文が連発されているわけではない。訳者が
勝手な判断で不必要な「のだ」「のである」を濫用しただけ。
All these contradictions, however, are the warp and woof of books on Japan.
They are true. Both the sword and the chrysanthemum are a part of the picture.
The Japanese are, to the highest degree, both aggressive and unaggressive,
both militaristic and aesthetic, both insolent and polite, rigid and adaptable,
submissive and resentful of being pushed around, loyal and treacherous, brave
and timid, conservative and hospitable to new ways. They are terribly concerned
about what other people will think of their behavior, and they are also overcome
by guilt when other people know nothing of their misstep. Their soldiers are
disciplined to the hilt but are also insubordinate.
そういやとあるシリーズに口癖がのであるのキャラクター居たけど普通の文章で頻繁に使うたらこうなるんやな
そのキャラは作品全体の傾向もあってそんな浮くようなことにはならんけどあんまりあっても念押し過ぎみたいで不自然やしな
>>68 その人が西の方の人か分からんけど「こういうことと思う」「…するなんて」のときにだを挟むのは関東や東日本や知らんけどそっちで使われる表現で多分古文ではあまり見られんと思う
近世近代から関西の人がこういうのをどう言うてきたかもっと知られたら東西の差と認知されるかも知れん
語感がだいぶ変わるからな、必要ないとは思えないのである。