◎正当な理由による書き込みの削除について: 生島英之 とみられる方へ:日本思想 [転載禁止]©2ch.net YouTube動画>7本 ->画像>15枚
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日本思想の本スレです、無かったので立てました 聖徳太子 最澄 空海 源信 法然 一遍 親鸞 道元 日蓮 蓮如 世阿弥 藤原惺窩 林羅山 中江藤樹 熊沢蕃山 山崎闇斎 山鹿素行 伊藤仁斎 伊藤東涯 貝原益軒
室鳩巣 新井白石 荻生徂徠 本居宣長 三浦梅園 富永仲基 山片蟠桃 本多利明 海保青陵 安藤昌益 佐藤信淵 佐藤一斎 大塩中斎 頼山陽 平田篤胤 伴信友 大国隆正 二宮尊徳 大原幽学 吉田松陰
渡辺崋山 高野長英 佐久間象山 横井小楠 橋本左内 勝海舟 福沢諭吉 西周 中江兆民 陸羯南 三宅雪嶺 内村鑑三 岡倉天心 徳富蘇峰 丘浅次郎 木下尚江 西田幾多郎 鈴木大拙 幸徳秋水 柳田國男
日本人の思想ってことでいいの? 律令制以前の、中国から見た倭国像とか、そういうのは度外視で
長谷川如是閑 石川三四郎 吉野作造 河上肇 山川均 大杉栄 大川周明 折口信夫 田辺元 柳宗悦 和辻哲郎 林達夫 三木清 戸坂潤 小林秀雄 大岡信 山崎正和 加藤周一 外山滋比古 中村雄二郎
山本健吉 森本哲郎 中村光夫 磯田光一 伊藤整 鈴木孝夫 唐木順三 高橋和巳 吉川幸次郎 高橋英夫 森有正 霜山徳爾 丸山真男 村上陽一郎 加藤秀俊 多田道太郎 上田三四二 尼々崎彬 夏目漱石 山折哲夫
河合隼雄 中埜肇 寺田寅彦 高階秀爾 桑原武夫 市川浩 中村明 中西進 池上嘉彦 中沢新一 山口昌男 中村真一郎 遠藤周作 多木浩二 坂口安吾 古井由吉 木村敏 梅原猛 井上靖 石川淳
武満徹 福田恒存 谷崎潤一郎 金田一春彦 梅棹忠夫 中野孝次 小此木啓吾 森鷗外 湯川秀樹 大江健三郎 饗庭孝男 柄谷行人 九鬼周造 正岡子規 岸田秀 白洲正子 辻邦生 赤瀬川原平 吉本隆明 五木寛之
共通してるのはみんな外国カブレってことかな 日本人の思想と、日本人思想家の思想はかなり解離があるというのが特徴ですね。
亀井勝一郎 池内紀 池田弥三郎 山路愛山 三島由紀夫 森毅 吉田健一 今村仁司 花田清輝 正宗白鳥 津田左右吉 吉見俊也 中谷宇谷郎 吉田秀和 小松和彦 篠田一士 秋山駿 今西錦司 河盛好蔵 宮本常一 日本人思想家一覧終わり
>>11 そんな事言ったらイギリス思想も外国カブれだろ
日本思想とイギリス思想では日本思想の方が独自性は高いと思う
誰のことをいってるのか イギリスは、プロテスタントから、ニュートンから、ケンブリッジ啓蒙主義からあるが
西洋では思想が倫理を支えてるんだけど、 日本ではなにが倫理を支えているのか?
聖徳太子からして、中華思想のアレンジだしな 思想そのものは海外からの輸入アレンジばかりで 習慣の方に独自性がある、としたほうがいいのでは?
輸入した思想を習慣に合わせてアレンジさせる能力において 独自性がある 日本人は思想では動けない 娯楽と職業意識が最優先
>>15 イギリス思想はヘレニズムとヘブライズムの延長線上にあるだけ
>>20 プロテスタントは教皇中心主義否定の原キリスト教回帰
イギリス国教会の成り立ちからも、ドイツ思想を輸入したのとは違う
>>21 それってイギリスとかじゃなく、キリスト教の成り立ちそのもの
ブリテン列島生まれの独自の思想あるの? 日本には神道がある
神道の見直しを!とか縄文!とか叫んでるやつって 似非ウヨクばかりだよな、実際 愛国というファクターが欲しいがゆえ、利用しているだけ
思想ってやっぱり基本が文字文化だと思うんだよね。 最初の文字が漢字でそれでずっときてるとこに、日本人の思想の限界があったんじゃないかな。 抽象的、超越論的思考って、文字がないとできなさそう。 だから慣習伝承文化になった。
>>26 だから原キリスト教回帰はルターに始まったわけではない
>>30 キリスト教はイギリス生まれの思想じゃないだろ、、、
おれが聞いてるのはブリテン列島生まれの完全オリジナルの思想があるのかってこと
で、神道が完全オリジナルという根拠はどこにあんの? 今までどの書物を見てもそれらしい記述がないんだけど 寺社の歴史って知ってる?
>>33 それもブリテン列島オリジナルではないな
自由主義の起源はギリシャ哲学だ、つまりヘレニズムの延長線上の思想
今時「完全オリジナル」とか「純粋な日本文化」とか主張してるのは モノを知らないアホだけ 文化として発展していく過程で必ず外のものとの混交が行われている
>>36 だな。
>自由主義の起源はギリシャ哲学だ、つまりヘレニズムの延長線上の思想
これを言うと、なんでもありだろ(笑)
自由主義は、ケンブリッジ啓蒙主義を背景にもつイギリスオリジナルの思想
縄文時代は確かに数万年?規模の長い歴史性があって 日本精神の基礎が培われてきたのかもしれないが 縄文後期には既に海外から農耕文化が入ってきて、オリジナルとやらは毀損されている
>>38 縄文人が日本人の起源かは怪しいだろう。
渡来人がやってきて、
縄文人は、北のアイヌ、南の沖縄に追いやられた。
いまや遺伝子的にも、縄文系の濃い顔はアイヌと沖縄
日本人て薄い顔の人が多いけど あれって大体渡来人要素よね
日本の縄文、弥生時代とか、中国は春秋時代とかだからな レベルが違いすぎる。
弥生と縄文は二項対立的に語られ過ぎ。 短期間に急激な変化があったかもしれないにせよ。
縄文が長すぎて何が起こったのかよくわからんよね 後期の出来事ばかり語られるし
土偶からは底知れない思想を感じるが あれなんなの?
>>45 土着の縄文に、外来の弥生が到来という断絶があるからだろう
>>47 生気論的なもんじゃないの
>>48 農耕様式に関しては弥生が整然とした水田だというのはステロタイプだと言われている。
佐藤洋一郎あたりなら縄文に肩入れしすぎないから良いと思う。
>>11 波平が考える最高レベルの日本人思想家を五人教えてくれ
空海、親鸞、西田幾多郎の三人は外せない あと二人は好みの問題
神道枠、儒教枠、仏教枠、近現代枠で一人ずつ あと一人は好み
とりあえず、この5人だろう。 他にいる? いまも続く日本人の判官贔屓思想の原点、義経? 聖徳太子・・・仏教、儒教を日本風の和の思想にアレンジ。日本の原点。十七条憲法。 ほんとに聖徳太子が作ったか、とも言われるが 天武天皇・・・中国から律令制、農本主義。日本国を作った人 親鸞・・・日本にはじめて民衆思想を成立させた。浄土真宗はいまも最大派閥の日本人の一つの原点。 道元・・・いまでも日本と言えば、わびさび、武士道。それら超越論の原点、禅宗を庶民に広めた。 豊臣秀吉・・・太閤検地、兵農分離。農本主義の回帰させて、江戸時代そしていまに続く日本を再構築した。
聖武天皇の力なくして仏教は根付かなかったような気もする。 あのとき天然痘がおさまらなかったら仏教どころではない。
>>59 大丈夫だよ。
中国仏教ブームの唐代をもとに、
日本国を作ったんだから。
なんにしろ、儒教より仏教が入ってきた。
聖徳太子や天武天皇は信長に対応して 桓武天皇や聖武天皇は秀吉に対応して、 藤原道長や院政の法皇たちは家康に対応する気がする。 中興の祖と創始者が好きなのはわかった。
仏教とか言っても、日本では日本人大好きの祈祷法として受けたんだから。 空海も偶然、祈祷マジックがうまくいって、名が売れたわけだし。
空海よりも道鏡の方が棚ぼた感が強いけどな〜 空海は修行の賜物だろ。
>>64 空海は、超天才ではあるが、
その時代の人にしてみたら、祈祷師だよ。
デビューも密教のそれでしょ。
>>65 ポスモダはわざわざ日本人から選ぶ必要はないでしょ
行基とか日蓮とか法然とか山内得立とか西谷啓治あたりかな
日本思想を勉強するのも大変そうだな 古文と漢文を相当勉強する必要がある 最近の若者は森鴎外の文章も読むのが大変と聞いた
日本古典問題ね。 西洋の古典は絶えず、最新の日本語に直されて読まれるのに、 日本の古典は、古文、漢文のままで読まれない。 いまや日本の古典を読んだことがある若者は皆無。 なぜこうなってしまった。
>>66 空海は土木技術者でもあったんだから凄い。
なんでも出来た人。
現代文の授業でも 山月記とこころで頑張っちゃうと 森鴎外の長編小説にじっくり取り組む時間的余裕はなさそうだしな。
上の方に貼られてる日本思想家の本はそもそも本屋に売ってないだろ 売っててもめちゃくちゃ高い値段だと思う
まあどこの国でも古典は読まなくなっているよ。 イギリスやドイツでも同じらしい。
「古文漢文を無くして英語の授業を増やすべき!」 とか言う自称有識者が結構多いんだよ そうなると日本人は過去と断然してしまうね
>>75 日本は読まなくなってるレベルではないと思う。
結局、明治前後で言語がかわったようなもんだから。
読まれなくてはなく、その時点で死んでる。
>>77 学校で古文や漢文も勉強するじゃない。
有名どころの本は今でも文庫とかでも入手できる。
死んではいないよ。
>>78 学校で勉強って、読むっていうレベルかね
岩波文庫とかあるけど、あれ読む人いるの?
>>79 そりゃいるさ(笑)
いるから何度も文庫で復刊されているんじゃん。
読む気があれば辞典片手に何とかなるし、解説や注でなんとかなる。
読む気があるくらいの人なら読めるだろう。
俺だって読むくらいなんだからさ(笑)
>>80 だよね。
いるんだよね。
で、いやなのが、
たとえば江戸時代の解説本を読んでると、
古文原文をそのまま引用しながら、書いてる本。
引用するからそこは大切なんだけど、
古文なんか読めないよ。
古文ってある種の選民化している。
日本人なら、原文で読まないと、精神が伝わらない的な
それが、広く読まれることを妨げてる気がする。
>>81 なんでも訓練です。
繰り返し原文が出てきてもそのうち慣れる。
学問は一日にしてならず。
それが選民なんだろ 今時古文に興味をもって繰り返し学習する人なんてごくわずか
日本人にとって、文章とはなにだったのか。 自らの文字を持たず、漢文に縛られてた。 漢文って、基本は記録用だよね。 日本人の思想は、文章によって伝承されたのか。 現代文、いわゆる国語は明治の小説家たちが作ったわけだけど、 欧州の、近代的な写実小説の翻訳からつくったわけでしょ。 ようするに、単にですます調と作ったというだけではなくて、 その文章が表現するものそのものがかわった。 現代文をつくるのに、もっとも参考にされた古典が落語らしいが。 それぐらいしか、私的な表現がなかった。
>>84 その時代に用いられていた文体というのは重要らしい。
つまり現代人の我々が古文や漢文調の文体の文章を読むと何やから堅く感じるよね。
でも昔から文体がどんどん変化してしていく課程においてもやはり「柔らかい文体」になっていっている
という感覚はあったらしい。
堅い文体に規定された意識は強固に貫き通されるくらいの力があった。
それもなにかの本に書いてあったことなんだけれど現代は文体が緩くなったと同時に意思決定にもそれが影響しているらしい。
まさかとも思ったんだけれどもそれが文体の力なんだそうだ。
だからハイデガーが哲学を行う言語として古代ギリシア語やそれを受け継ぐドイツ語に注視したのも理解出来る。
ごめんちょっとそれらの本の著者とタイトルなんかが出てこないけれども。
>>85 まず心情があり、それを言葉で表現するのではなく、
言葉によって、心情が作られる。
同じ人でも、日本語で語るときと、英語で語るときで、人格が変わる。
それは良いんだけど、そのときに口語と文章の関係が問題。
明治以降に、口語と文章はかなり近くなった。
でも古文の場合は、口語と文章は別物。
そして記録に残るのは文章。
そんな文章はどれほど日本の思想は伝えてきたのか。
日本の伝達は口語で伝えられてきたのでは。
いまは再現できないが。
日本には、西洋に比べて、文章で思想を表現する、伝える文化はない。 もともと文字を持たない民族というのもあるんだろう。 漢字が伝わった聖徳太子の時代以前に、 口語の長い長い歴史があった。 口語による伝承の文化って、世界的にも普通だよね。 日本だと民話とか、昔話とかから、平家物語、太平記とか、 明治までは、むしろそっちがメインでないのかな。
いまも平家物語、太平記と、文章で残っているけど、 語りの文化って、書かれたものと違って、 一つの思想を伝承してきた。 「太平記読み」が一つの秘伝として、多くの武将たちに伝えられて、 武士として心得、日本人としての義理人情などの思想を 伝承してきたのは有名だよね。 特に、江戸時代に、儒教が大々的に取り入れられる前までは。
>>86 それは複雑な問題だよね。
ただ、「哲学の言葉」「日常の言葉」「法律の言葉」「商売の言葉」…というようにTPOがある。
思想系の文だと文章を分かりやすく訳すだけでかなりのものが失われてしまう場合がある。
これらを「言霊、プネウマ」などと言うけれども、そうした効果がやはり文体そのものにはあるみたいだよね。
日本に哲学といえるほどのものが無いのは、宗教の問題があるんじゃないかな。
仏教でもこれだけの流派があって残っているというのは、国の規模を考えても珍しい。
ヨーロッパはキリスト教との闘いだからね哲学思想が。
唯一絶対神というのは人間にとっては精神的にかなりキツイ拘束力があるから。
江戸時代前じゃなく、江戸時代そのものだった。 「太平記読み」の時代―近世政治思想史の構想 若尾政希(著) 江戸前期、民衆相手の『太平記』講釈が爆発的に流行する以前、大名や武士相手に講釈する「太平記読み」たちがいた。 その講義のタネ本は『太平記評判秘伝理尽鈔』。『太平記』の描く人物や事件を論評し、膨大な別伝を付け加えたこの本は、 楠正成を理想の為政者=仁君として描き出す政道の書でもあった。そしてそれは、戦国武将から藩の為政者へと変身を 余儀なくされた大名たちに幕藩体制確立のマニュアルを伝授し、思想家たちに、こぞって楠正成を持ち上げさせるほどの 決定的な影響を与え、版行されるや、口承の伝達回路をも稼働させて、民衆の「修身斉家」のための強力な指針へと 読み替えられる。つまり『理尽鈔』は、この時代・社会の政治に関する共通認識を形作ったのである。江戸の政治思想の基軸は、 朱子学などではない。「太平記読み」の思想こそが江戸の秩序の根幹である!―従来の思想史、近世史の通念を一新する、 大胆かつ綿密な画期的論考。
>>89 どの言語にも、同じようにTPOがあるわけではないということ。
漢文は、基本は権力者が使う記録用言語がメイン。
>>91 だからこそ戦国時代なんかはたいそうな戦と頭脳戦略があったわけ。
無学の百姓だった秀吉ですら書からなにから勉強しまくったでしょう。
当時の権力者はみな同じように勉強していたから戦えた。
百姓にはそもそも漢文は必要ない。
必要な者にとって必要だった教養。
>>92 日本は大宝律令の昔から文書社会なので、読み書きは重要。
まさに漢文の得意なTPO。
室町時代以降に、仏教が流行って、村にお寺が建てられて、
坊さんが常駐したが、坊さんの大きな仕事が、書類の読み書き。
さらに江戸時代は、法治国家として整うので、
上申、裁判するのは、文字は必須。農民の識字率は高い。
逆に、漢文は心情など日本人の好きな情緒的な表現は苦手なので
仮名文字が発明されていた。
でも仮名文字は、女性が使いものなど俗な文字で、
オフィシャルな文書として認められなかった。
日本芸術の中心を、和歌、俳句などが占めてきたという
特殊な事情の一つは、このような漢文の限界から、
日本人の情緒を、文字そのものではなく、
行間の込める文化が育ったのかもしれない。
なんにしろ、日本人は文字の外、語りや行間に
思想を込めて伝承した文化なんだろうね。
だからいまでいう思想家、ようするに西洋中心主義での定義、
思想家とは論理的に文章で表現するもの、という考えで、
思想をピックアップすると、日本の思想の王道が抜け落ちてしまう。
インタビューで「韓国人あたまおかしい」と答えた女性の画像、ネトウヨの捏造だった [転載禁止]©2ch.net [628354739]
http://fox.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1433311968/ 上の方の一覧に加藤弘之と橋川文三が入っていないのには違和感がある。
綱吉時代に起こった、赤穂浪士もトンでもない話だよ。浅野さんがなにしたって言うんだ? 赤穂藩主が殿中でいきなり浅野さんを殺害しようとして、そりゃ、切腹、藩つぶされて当 然だろう。それを今度は、浪士が逆切れして、1年ごしで浅野さんを殺害する。ほんとト ンでもないやつらだよ。でも事件当時から、赤穂浪士は庶民のヒーローだからね。日本人 はなにを考えてるんだと これに対して、当然、儒教家は、赤穂浪士を批判する。正統だよ。浅野さんなにもわるく ないし。こんな暴力許してたら、政治運営なんかできないよ。でも方や、葉隠では逆に意 味で赤穂浪士は批判されてる。武士道舐めるなと。武士道とは死ぬ事と見付けたり!よう するに、とろとろと復讐とかするなと、武士道というのは、成し遂げようと命を惜しむも のじゃないと、藩主の恨みを晴らす。ならすぐに復讐にいけと。それで失敗するとか、ど ーでもいい。命を惜しむな。ようするに、武士の生はただ差し出すためにある。つべこべ 考えるな。 まあ、葉隠も江戸中期で、平和な時代に書かれたからね。たぶんに、精神論だな。実際の 戦国時代にこんなこと考えた人がいたか怪しいね。それでも、江戸儒教導入前の、武士の 精神性ここまで、刹那なものがあった。武士はとんがってた。たしかにほんとにいつ死ぬ かわからない世界だったからね。自分だけじゃなく、一族もろとも。
とんがり度としては、以下のような価値があったわけだ。 葉隠 ← 赤穂浪士 → 儒教(朱子学) 由比正雪 とんがりすぎ? 庶民の支持 お堅い 忠義重視 幕府重視 その後、尊皇攘夷 その後の、右化傾向(水戸学、尊皇攘夷)とは、葉隠方向のとんがりでしょ。武士の原始 的な忠義って、主君との一対一の人間的な関係なんだよね。それと突き詰めると、葉隠的 には、自分を無くしてただただ主君に自ら(生)を与えるということなんだろう。 こういう考えって、平和な時代にはそぐわないんだよね。幕府が目指した安定した政治運 営、秩序ある政治システム。平和になじめなくて、落ちぶれた浪人が集まって幕府転覆を 狙ったのが、由比正雪の乱なんだよね。でも、そもそも幕府を転覆できるなんて思ってい なくて、死に場所をさがしていた的なことなんだろう。 で、浪人たちの主君は誰かというと、天皇なんだよね。現代のウヨと似てる。ネットウヨ も社会からはみ出した貧しい人々が向かいやすい。そこで、日本人という民族の象徴とし て天皇に向かう。それが尊皇攘夷に向かう面がある。彼らが、貧しい下級武士が多かった のは偶然じゃない。
さて、この「秘伝」書が、先に述べたように「太平記評判秘伝理尽鈔」と書名に「秘伝」 の名を冠しながらも、一七世紀半ばに出版された。今田洋三氏が指摘するように、一七世 紀は日本史上初めて出版業が成立した時代である。まさに成立したばかりの出版業者の手 にかかり、「理尽鈔」はその享受層を一挙に拡大していった。・・・地域・身分を越えて「理 尽鈔」が広く流布し、もてはやされたという。・・・直接講釈師に依らずともこれらの書物 を通して「理尽鈔」講釈に接することができるようになったのである。 このように。一七世紀半ばを転機として、「理尽鈔」講釈は大きな変化を余儀なくさせられ た。一七世紀前半には、読み聞かせという口誦による知(知識・知恵)、いわばオーラルな メディア(情報媒体)による知であった「理尽鈔」講釈が、一七世紀後半には書物による 知、出版メディアによる知へと大きく変質させられた。その享受層も、前者では口誦の場 を共有した限られた人々、よって特権的な階層の人々(具体的には上層武士)を対象とし たのに対し、後者は、地域・身分を越えた広い層に受容されていった。・・・ 実は、太平記読みという呼称は、史料的にいえば、現時点では貞享三年(一六八六)が初 出で、民衆相手の芸能者を読んだものであり、「理尽鈔」の講釈・講釈師を太平記読みと呼 んだ史料は見つかっていない。しかしながら、従来、たとえば「国史大辞典」で「太平記 読」を定義して「江戸時代前期に、主として「太平記評判秘伝理尽鈔」を読み聞かせるこ とによって生計を立てた芸能者、またそのような芸能。講談の源流となった。「源平盛衰記」 「難波太平記」などの軍書読の代表的なもの」と解説していることからわかるように、「理 尽鈔」講釈と民衆相手の太平記読みとを区別せずに一括して太平記読みと見なしてきた。 だが「理尽鈔」講釈と太平記読みとは、先に見たように出版メディアによる知を介してつ ながっているもの、やはりひとまず別のものと見るべきだろう。そこで本書では、民衆相 手の太平記読みと区別して、「理尽鈔」講釈及びその講釈師を「太平記読み」と括弧をつけ て呼ぶことにしたい。P42-45 「太平記読み」の時代 近世政治思想史の構図 若尾政希 (ISBN:4582767753)
「太平記読み」は、(1)従関係が恩の反対給付に依存した双務関係であると認識しているといえよう。 次に(2)領主と民との関係は、・・・撫民を領主の責務とする。もし民を苦しめる悪政を行え ば、・・・民は国法を恐れず君を恨み、国が乱れるという。鞭によって従属させるような一 方的関係ではなく、民を慈しみ民に「君の恩」を感じ入らせる。相互的なものとして、領 主−民関係を捉えている。 (3)「国家」は領主の忠の対象なのである。「太平記読み」によれば、領主による過酷な収奪 は、・・・民を疲弊させ税収を激減させる。結局・・・民の反抗をまねき、・・・警告して いる。・・・万民の養育こそが領主の責務であり、「国」に対する領主の忠なのである。 また(4)家臣の忠についても、・・・主君個人と並べて「国」が挙げられる。しかも、両者の うち、・・・主君への忠より「国」への忠が優先するという。すなわち・・・主君を補佐と、 ときに諫言をし、撫民を実現することを国への忠と見なすのである。 さらに、(5)「国」への忠は為政者層に限定されない。すべての国民は「国の土地・食をは み」、その恩恵を受けているのだから、領主・家臣だけではなく下万民に至るまで、国家に 忠を尽くす必要ががある。「太平記読み」は、国への忠を・・・万民の責務と見なす。 (6)領主に忠を尽くすことを万民の責務とする。国恩の場合と同じく、職分を尽くすべきだ という。このような「太平記読み」は、領主と「国」とを分離し、忠とはまず「国」に対 する道徳であり、領主から庶民までがそれぞれの職分を果たすべきだと見なしているので ある。P122-125
最近の日本の書き手はくだらない評論本、ビジネス本、自己啓発本、実用本、解説本しか書かなくなってる これは日本の知的滅亡を暗示してるのだろうか
日本の自称知識人は知識人という看板で小銭を稼ぐ事しか考えてないから、 くだらない本を恥も外聞もなく何冊も出す 酷いのになると対談をまとめただけの本や口述筆記本も出す ヨーロッパでこんな事やったら完全に読者やアカデミズムから軽く見られて人文学者としては終わる 日本は人文知の欠如した実用主義的大衆が占拠してるから、言論人が口述筆記本出しても誰も批判しない 売れればいいじゃん、で終わり
小銭本を量産する事しか考えてないのが日本の自称知識人の正体 あと地上波テレビのコメンテーターに成りたがる 小銭本を量産し、テレビのコメンテーターをやるのが日本の自称知識人の完成形なのである
『日本思想全史』 清水正之 ちくま新書(2014)
『善の研究』西田幾多郎 『文明論之概略』福沢諭吉 『歎異抄』親鸞
新刊は読むべきではない 書物の評価は最低10年は経過しないと定まらない
10年たって本の中身が熟成するわけでもなく 自分の不明を棚に上げて馬鹿な事をいうな
日本語で書かれた本で一番難しい本って何?善の研究?
道元の『正法眼蔵』じゃない? 読むに値するかどうかは別として
☆ 総務省の『憲法改正国民投票法』のURLですわ。☆
http://www.soumu.go.jp/senkyo/kokumin_touhyou/ ☆ 日本国民の皆様方、2016年7月の『第24回 参議院選挙』で、日本人の悲願である
改憲の成就が決まります。皆様方、必ず投票に自ら足を運んでください。お願いします。☆
c点論者 @「日本思想」なるものの存在の有無は、日本人の一人一人によって異なる と思われる。 Aこれまで諸賢のかなり多数が、「輸入思想」が多いと発言している。 「日本神道」は、どうで有ろうか。これは、輸入か否か不明であるが、他国 の神々の多くが「太陽神」であるのは、事実である。
c点論者 B自然界の動物の殆どは、「太陽のリズム」に従い、一日を暮らし、四季 を暮らし、年月を送る。自然の「摂理」を、具体的には太陽が具体化 し、動物たちを、「本能」として導く。 C世界の国々に「太陽神」があるが、それは「人間も動物」である故に 了解可能である。
c点論者 D日本神道の「天照」も「太陽神(女性が他国でもやや多いか)」で有り その発生は他国と同様と思われる。天照の子孫(天皇家)が、日本の 民衆(生物学的起源は諸説アリ)を支配する根拠は「古事記」「日本書紀」 に文献(いずれが重要か古いか諸説アリ)として「文章化(歴史)」 されたが、この文章化は「大陸(中国)の文化(精神生活)の手法」に よる(輸入された文化)。 E「天照」(天皇家)の誕生自体は、不明?だが、今日に至る世界一の 旧家である事実は、疑問が無い。終戦後の昭和天皇の「人間宣言」 まで、当主は「神」であり、今日は「シンボル(日本国および国民の)」 である。
如何にもってタイミングでマツコ・デラックスを立ててきた電通
Televisionを使って民衆と業界を対立させる構想 仏教的終末論
c点論者 F「日本思想」と言う時は、「他国の思想」に対する思想であるべき だが、大きく問題と成ったのは、明治維新以後、今回の敗戦までで ある。国民は「天皇の名において」また「天皇の子孫として」、軍 により、政府により、日本の「アジア戦略」に動員された。これが 今日の「アジア諸国の反日」を創り出した。 Gこれは世界に誇れる「日本思想」と言う事は出来無い。
ひょうきん族の懺悔をする対象も汚いデブ フジテレビのやり方
c点論者 H日本文化をリードした事は、古来の「神がみ」の多くは「自然、や 自然現象、特異な人物など」である。また、日本人は死者を裁く事 は無い。「靖国問題」は他国から「理解に困難さ」がある。これら は「天皇家の神道とは別」である。 I大陸(中国)から、「儒、仏、道」(三教)が輸入され、維新以後 には、欧米の「文化、文明」が津波の様に「輸入され、日本化」を された。 「日本思想」の有無はよくわから無い。
c点論者 終戦後70年の今は、殆どの日本人は戦争を知らない。戦前の「日本思想」 は、シュプールロスに消えて、「現在の日本人」には、想像すら困難な のは、事実である。多様、多彩な「文化」の混乱が現実である。 国策としての「日本思想」も無い。「日本の哲学」は無い。 「科学と科学技術の進歩」で、「少数者の多数支配(特に、産業経済で)」 「超格差社会」(形こそ異なるが、昔も)が出現して、少子高齢化により 「日本の未来」は見えず、日本人の「生命力の減退」すら感じられる。 「日本人の純化の維持」か、「外国人の労働者(労働ビザの増発)の 導入か、移民の受け入れか」不透明が続き、未来は「不安」である。 「多国籍企業」が、世界の国々を超えて、活動し、「日本の企業」も 組み込まれている。これ等が、「安価な衣食住」を日本人に与えて 形こそ違うが、「日本人の生命線」を握っている。日本の財政危機 は、続いている。
c点論者 現在の日本は、新しい「日本思想」「日本哲学」を、「本音」でも 「建前」でも、必要としている。 若き「2ちゃんねる」哲学徒への、期待は大きい。
日本思想と言うよりも、世界そのものが新しいル−ル(多様性を持った経済的・政治的秩序)が、 切実に求められている。現在の市場原理に代わる新たな経済ル−ルそして、デモクラシ−(基本的人権)を基軸とした 新たな政治ル−ル、そしてなによりも、国連機能に代わる“真”の国際連邦的な世界各国を調和・統制する組織機能の 創設が必要とされている。
>>134 その日本思想を完成させるには日本、東洋、西洋の三つを止揚する事が必要だが、
その為には日本語、漢語、梵語、英語、独語、仏語、希語、羅語の八言語を習得して原書を読み込む必要がある
つまり常人の知能では不可能という事だ
しかしそれが出来れば世界の思想史に確実に名前が刻まれるだろう
エスペラント語 無用でした。今は英語がメイン用語。次は ? もちろん、中国だよ。
そもそもどうして日本「哲学」ではなく日本「思想」なのだろうか
物質文明の歴史
ダウンロード&関連動画>> VIDEO >>139 「学」は普遍を目指すから、特定の国で限定するのは不自然ってことじゃね。
日本物理学や日本経済学がないように。
『ノーベル賞 メルク "子宮頸がんワクチン"』でググると陰謀論サイトが山ほどヒットするんだが?
『ブッシュ メルク社 ナチス』で検索するともっと巨大な陰謀論がw
聖徳太子の和の精神を完成させたと豪語している鼎梯仁のシグマ思想(総和思想)もよろしくお願いします。
>>136 ま、でも本の中に書いているのはあくまでヒントであって
己の真理は己で書くしか無いのだと思いますよ。
現にシグマ世界ではそういった考え方が当たり前のことと認識されています。
そもそも日本思想だなんて「丸め方」に無理があると思うのです。
強引に価値観を共有(強要?)しようという愚者の考えだと思います。
そのためシグマ思想では和の精神を素材にしながらも
その世界観が日本人に限定されているなどとは申しておりません。
むしろ今の世界で和の精神を最も実現しているのはアメリカ人だろうなとすら感じます。
日本精神を最も具現化しているのは日本人ではなくアメリカ人。
なんてこった、と思いますよ。そりゃ。
あのとき私に瞬いた星々は星条旗だったのではないか?とすら思えてしまいます。
by 鼎 梯仁
日本に思想なんてものは良い意味でないんだよ あったとしても思想ごっこ
丸山はともかく大江みたいなカスを入れているわりに 北一輝みたいな大物が入っていないみたいだけど、どういう選択視なんだ?
思想ってのが地球上において普遍か、というとちょっとずれるんじゃないかと思う。 形而上にしろ形而下にしろ、なにかをある言語で記述した場合、その言語からして その所属する文化の一部なわけだ。 西欧、北欧、東欧とロシア、アメリカ、中南米、日本、支那、朝鮮などのアジア、のように 地域を分け、それぞれについて、出現した思想を考える、ってのがよさそうに思う。 日本は文化的には取り入れて改変する、ってのがひとつの特徴だと思う。文字がそう だし、宗教、まあ仏教だけだけれど、仏教もそう。同じ島国でも、イギリスのように異文化 によって侵略されなかったので、個性は歴史を持ったと思われる。 ここ70年日本のインテリは自国の文化を否定し、西欧文化に迎合してきた。 家族制度から戸籍など、インテリの意見を聞いた結果、改悪しているんじゃないか と言う気がする。 昔に帰る必用はないけれど、客観的に過去を見て、制度などは採用を検討しても よいように思う。それは思想の基盤を見直すことにも通じると思う。
素粒子物理学の発展により、西欧ではキリスト教文化との整合性が危ぶまれるように なり、CERNではそのために自殺者まで出している由。 一方、わが国の古事記の国産みは、巷間言われる「ビッグバン」との類似性が見られる らしい。
○未読、△読中、●完読 ●日本仏教史―思想史としてのアプローチ 末木文美士 新潮文庫 ISBN:4101489114 △日本文学史序説〈上〉加藤周一 ちくま学芸文庫 ISBN:4480084878 △人口から読む日本の歴史 鬼頭宏 講談社学術文庫 ASIN:B016O8V0HS ○神と仏の古代史 上田正昭 ISBN:4642080295 △日本霊異記 原田敏明 平凡社ライブラリー ISBN:4582763197 ○仏と天皇と「日本国」――『日本霊異記』を読む 伊藤由希子 ISBN:4831513695 △神道の成立 高取正男 平凡社ライブラリー ISBN:4582760058 △買い物の日本史 本郷恵子 角川ソフィア文庫 ISBN:4044092079 △日本の民俗宗 宮家準 講談社学術文庫 ISBN:4061591525 ○贈与の歴史学 儀礼と経済のあいだ 桜井英治 中公新書 ISBN:4121021398 ○史実 中世仏教 第1巻―今にいたる寺院と葬送の実像 井原今朝男 ISBN:4904139496 ○史実 中世仏教 第2巻 葬送物忌と寺院金融・神仏抗争の実像 井原今朝男 ISBN:4904139658 ●葬式仏教の誕生−中世の仏教革命 松尾剛次 平凡社新書 ISBN10:4582856004 ●百姓の力 江戸時代から見える日本 渡辺尚志 角川ソフィア文庫 ISBN:4044000034 △近江商人の理念 近江商人家訓撰集 小倉榮一郎 ASIN:B00MTUI01U ○葬式は、要らない 島田裕巳 幻冬舎新書 ISBN:4344981588 △「世間体」の構造 社会心理史への試み 井上忠司 講談社学術文庫 ISBN:406159852X △近代化と世間 私が見たヨーロッパと日本 阿部謹也 朝日文庫 ISBN: 4022618116 △贈与論 マルセル モース ちくま学芸文庫 ISBN:4480091998 △経済の文明史 カール ポランニー ちくま学芸文庫 ISBN:4480087591 ○ポランニー・コレクション 経済と自由:文明の転換 カール ポランニー ちくま学芸文庫 ISBN:4480096663 ▲カール・ポランニーの経済学入門: ポスト新自由主義時代の思想 若森みどり 平凡社新書 ISBN:4582857841
>> 無償贈与の美学 1)名誉を守る(名を惜しむ) ←世界的に集団では一般的。ポトラッチ 2)死を捧げる ←世界的な美談の領域。儒教(忠義) 3)相手に負債を与えないよう配慮する ←日本人の美学の領域。世間の倫理。仏教(空、慈悲) 4)ただ与える ←神の領域。仏の大慈悲 <<
>3)相手に負債を与えないよう配慮する ←日本人の美学の領域。世間の倫理。仏教(空、慈悲) はじめての方に、他の民族と違う日本人の特徴は、 3)である。
仏教では因果ってのもあるよね。 西欧の神は契約でしょう。俺に従わなければ死ね!みたいなところもあり。
>>147 イギリスこそ侵略と制服の歴史でしょ
ローマに占領されアングロサクソンに侵略されノルウェーに侵略されとね
日本よりはっきりと民族の混雑と入れ替えがはっきりしている
だからいまでウェールズ・イングランド・アイルランド・スコットランドと別れているだろ
お前はイギリスの何を見ているんだ?
>>155 因果は、慈(空)より概念的に低い。
死を捧げることを、武士のみならず「世間」が倫理として望むように全面化に至ったのは、仏教の影響が大きいだろう。
仏教は輪廻転生であり、死んで次の世を生きる。死は終わりではない。そして次の世でよい世界へ行くためには、現世でのいかに慈悲を行ったかが重要である。
慈悲とは、自らを滅して、相手に負債を与えないよう、見返りなく与えることであり、その究極の一つが死を捧げることである。
そして「世間」とは、本来、仏教用語で諸行無常の輪廻転生の世界のことである。
仏教が日本に広く広まる中で、世間も認める武士の死を捧げる贈与文化が形成されたといえる。
キリスト教の奉仕と、仏教の慈悲の違いは、 奉仕は神からの指令だが、 弱者救済意味が強い 仏教には初めからの神はないので 慈悲は仏になるための修行だから 弱者救済とか関係なく、 自己の修練のために行われる
優しさは、sensitive to other people's feelingsってことだよ。 英語だと「Don't be too sensitive」みたいなネガティブな意味で使われる ことが多いけどね。「too sensitive」は、自分に対する人の発言に過剰に 反応して、「自意識過剰」ってことね。
神経が細いとか、神経がず太いとか、細いと繊細で敏感、太いと動じないけど 鈍感って発想は、とくに日本に限ったものではないね。
優しさは人に対するものとは限らないから、sensitive to the feelings of othersの方が適切かな。
まずもって、西洋人から見て、日本人がいかに不思議な民族か知ること。 ここからすべてが始まる。 テーマ 冬 ・日本人は季節の変化に敏感。 ・日本のコンビニで商品が夏冬で変わる。海外では年中同じで品数も少ない。 ・日本では夏冬で食器がかわる。 ・日本では季節で部屋の中の生活用品を変える。たとえばカナダでは一年中同じ布団を使う。日本では布団が代わるし、ゴザを引いたり、工夫がある。 テーマ 集団行動 ・日本の学校の体育など整然とした集団行動が学ばれる。このような教育で道徳が養われる。海外では個人の意志が重視されるので無理だろう。 子供でも従わないだろう。学校は勉強をするところで必要がないという考え。 ・いくら大人数になろうと、日本人はきちんと行列に並ぶ。 ・日本の立ち入り禁止を示すプラスチックのチェーンの不思議。侵入になんの物理的効力もないのに侵入しない日本人に働く不思議な抑止力。海外では塀でもつくらないと侵入してくる。 テーマ 動物 ・奈良の鹿、ウサギ島、ネコ島、狐村とか、動物とのふれあう場が多くて外国の観光客に人気。日本での動物と人間の近さに魅力がある。 ・アメリカでは動物保護団体からのクレームなどがあり無理。 ・日本人は古来より人間と動物という境界を設けてこなかった。 テーマ 老舗 ・世界で老舗メーカーがだんとつで1番多いのが日本。 ・老舗が多い理由として、日本人はこつこつ改善を続ける。会社の利益を越えてユーザーのことを考える。 ・アメリカでは個人の成功が目的だが、日本人は個人よりも会社を重視する。 ・日本の老舗は経営者が家族で継承されることが多いが、アメリカなどの老舗では会社名が同じで経営者が代わっている場合が多い。 ・アメリカでは企業は拡大を目指し、大きくなると魅力を失う場合が多い。
四季はいつからあったのかな。 英語のサマーは、半年のことらしい。 「ふゆ」と「つゆ」は関係あるのか、ふゆには雪が降る、つゆには 雨が降るから、「ふゆ」の「ふ」は雪に関係してるの? 疑問が尽きない。
なんと言っても日本人には、一万年の縄文10があるから その頃はみんな鮭が取れる関東より北に住んでた。 まさに四季に生きてた。 まずかここが日本人の基本かな
1年を互いに比べられる4つの期間に分けていたという根拠は何?
なるほど、四季の概念ね。 当然、季節の変化は感じただろうが、 四季として、認識していたか。
四季の意味は、 必ずしも、四つの意味ではなく、 季節のサイクルだよね。
それだと、人生のサイクルを四季にたとえるなら、 幼年期=春、青年期=夏、壮年期=秋、老年期=冬ってことになる。 植物のサイクルから見れば、子孫を産み落とすだけなら晩秋に当たる 壮年期の終わりに子供を産むのが合理的なんだろうけど、子育ての 必要性から生む時期が早まったってことかな。
>>174 人生のサイクルを四季に例える意味がわからんが、
縄文時代は集団の維持をはかるには、
寿命を考えると、女性は継続的に子供を生み続けなければならない。
でないと、人口が維持できない。
多分、乱婚だったんだろう。
ゴリラは一夫多妻、ボノボは乱婚、チンパンジーも乱婚に近い。 一度に一匹しか生まれないので、 群れを維持するには乱婚が必要なんでしょう。 人間はさらに妊娠期間が長くて、 生まれた後の育成も大変です。 だから年中発情になった。 土偶はほとんど女性で壊れて発見される。 祭りで乱交して女性は妊娠する。 集団全体で育成する。 多分、年寄りや子供が面倒をみたのでしょう。 日本では乱交文化は田舎では昭和まであったと言われます。 歌詠み、盆踊りなど、文書記録が残る古代から続いていますね。
乱交は多分、人類共通の文化だったんでしょうが、 これを世界的に破壊したのが、キリスト教ですね。 日本も、明治に近代化する中で、性的な禁欲が徹底された。 混浴、着物からの露出、女性の貞操、買春など 法的に取り締まられて、厳しくなった。
波平の家の合鍵を純一がもってたら どうアナルさしだす所存なの??
>>176 >ゴリラは一夫多妻、ボノボは乱婚、チンパンジーも乱婚に近い。 波平は母妻だもんな お幸せそう (´艸`)クスクス まあ、陰陽自体がオスメス由來だろうから、思想として論じるのはいいんだけれど、 ちょっと次元が低いな(笑
歴史学者も入ってくるだろうな。 黒田俊雄とか永原慶二とか安丸良夫とか。
奇形グック女子wwwwwwwwwwwwwww
奇形グック男子wwwwwwwwwwwwwww
日本は 元来、野ション天国なのよ 伝統に立ち返るべきだわ
おまえのションベンが迷惑とちょびっちょびっと距離つめられるBBA
>>185 哲学板にションベン書き込みばかりしても、
臭いよおまえ何を食べたらそこまで臭いのかといわれる
それも悟り
>>187 なんと無粋な人
哀れを通り越しているわっ (笑)
>>187 そうよ。手羽先、焼肉、ステーキ、ホルモン、それにポムポムプリン。
そんなものばかり食べているから、オナラは臭いわ。
雨に降られて、濡れちゃったわ☔
日本語の哲学って如何に可能だと思う?
『日本語の哲学へ』 長谷川 三千子 著
「もの」と「こと」をさぐる
言葉は、実は哲学の中身を方向づける働きを持っている。和辻哲郎の問いを糸口にパルメニデス、
デカルト、ハイデッガーなどを参照し、「日本語の哲学」の可能性をさぐる。
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480065537/ 和辻とハイデガーが結びつけられるのか・・ ものとかこととか言えば木村敏だけど、それとはまた違った感じで論理が展開されるんだろうね。
古寺巡礼でもテーマ別の本だから、意識記憶、書体流れが不自然だろうな。
デカルトと和辻は丁度今読んでいる最中だからいいタイミングだが、 パルメニデスは難関だな。
☔でパンツ濡れました✨💧☔でもスカートはいてた私が悪いのね😃
☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と 生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの 導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。 ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆
百年以上前の日本
ダウンロード&関連動画>> VIDEO 多くの欧米人がいろいろ観察をしているが、ほぼ全てに共通しているのは、「人々は貧しい。しかし幸せそうだ」である。 だからこそアメリカ人のモースは、「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」と言ったのだ。 欧米では、裕福とは幸福を意味し、貧しいということは惨めな生活と道徳的堕落など絶望的な境遇を意味するのだが、 この国では全くそうでないことに驚いたのである。 ●イギリス人の詩人エドウィン・アーノルドなどは、明治22年に東京で開かれたある講演で、日本についてこうまで言っている。 「地上で天国あるいは極楽にもっとも近づいている国だ。…その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、 その神のようにやさしい性質はさらに美しく、 その魅力的な態度、その礼儀正しさは、 謙譲ではあるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾ることもない。 これこそ日本を、人生を生甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、 あらゆる他国より一段と高い位置に置くものである
ハリスの通訳として活躍したヒュースケンはこう記す。 「この国の人々の質樸な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。この国土のゆたかさを見、いたることろに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、 そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、 西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならない」
西洋化された後の日本 《いわゆる米英流の生活のしみを洗い去り、皇国本来の国家観に立脚した生活の真義を打ち樹てねばならぬ。 金儲けのための生活、立身出世のための生活、 他人の困苦を顧みず己だけ快楽を得さえすればよいという独楽独善の生活、 精神を忘れ 物に捉われた生活、これらは何れも生活の真義を遠く離れたものである》
>>201-205 こういう日本会議的な妄想が、日本を侵略戦争に駆り立てるんだろうね。
6」オーエンラチモア 「日本が立派にやりとげたことは、アジアに於ける欧米植民地の十九世紀的構造を破壊したことであった」と。 大東亜戦争の意義を讃えました。太平洋戦争とは私もいいません。 これはアメリカに都合のいい言い方なのです。 「7」オランダ国 アムステルダム市長 「日本は各地で侵略戦争をしたとペコペコ謝罪していますが、間違いです。 あなた方こそ、血を流して、アジア民族を解放し、人類最高のよいことをしたのです。本当は白人が悪いのです。 日本は敗戦しましたが、アジアの解放は実現しました。日本軍は欧米諸国すべてをアジアから追放しました。 その結果、アジア諸民族は独立を達成しました。日本の功績は偉大です。 血を流して戦ったあなた方こそ最高の功労者です。 自分を蔑むのを止めて堂々と胸をはって、その誇りを取り戻すべきです。」
>>209 人は最終的に自分で選択するので、心配しなくても大丈夫です。
>>208 そのアジアから恨まれてるのが日本なんだけどねw
>>211 名誉白人の座が心地よかったりもしたみたいだけどねw
白人は 人 ではなかった
日本人が戦った残忍な白人ども
ダウンロード&関連動画>> VIDEO 白人の歴史は侵略と殺戮の歴史です
本当に彼らに哲学や思想などあるのでしょうか?
神の名の下 殺戮と支配を繰り返してきました
http://www.yaei-sakura.net/index.php?society_h0022 日本人は西洋の学問の成果を全て集めた。 そして、西洋の成果を応用し、組み合わせて使いこなしている。 この民族は我々の育んだ複雑な文明を、 わずか一世代余りの内に習得したのだ。 ロシア軍はロシア人最高の武勇を発揮している。 しかし、それを攻撃する日本人はもっと偉大と言わざるを得ない。 粘り強さ、機転、素晴らしい勇気、厳しい状況への知的な対応。 今、世界中が興奮している。 日本人は誇り高い西洋人と並び立つ列強であることを世界に示したのだ。 ――タイムズ(イギリス)より 1905(明治38)年1月3日
やっぱり日本人は頭良いよね(*´∀`) 西洋科学を一世代で習得したんだから
>>217 そのロシア戦は、帝国軍にとっても悲惨な状況で、自軍の兵士を塹壕に生き埋めにして戦闘を進めたとも伝えられている。
乃木希典は、自身の二人の息子を含めて、多くの子弟を死なせてしまった自責の念が去らなかった。
戦争というのは、決して華々しいものではない。
苦しく、悲しいものなのだ。
神道にはイエス・キリストや釈迦のようなカリスマ創唱者が存在せず日本の風土や生活習慣から自然に発生しました。 要するにエスキモーやインディアンと同じくシャーマニズムなのです。 神道において「神」は自然そのものであり、恩恵を与えるのも 「神」、天変地異を引き起こすのも「神」でした。 そして「神」と「人々」を繋ぐのが卑弥呼のようなシャーマンの存在だったのです。 シャーマンは「神」の言葉を代弁することで血縁や地縁で結ばれた部族の行く末を示す存在でした。 神道はシャーマンを中心とした地方共同体の要の役割を果たしてきたのです。
卑弥呼は魏志倭人伝にて表記されたものですから、この感じは音を当てたものと考えられます。 時の女王に【卑しい】の字が正しい表記であるとは思われません。 そもそも卑弥呼とは、特定の個人をさす固有名詞ではありません。 征夷大将軍と同じ役職名だと捉えています。
では、何をする方の役職名なのでしょう。 ひ・み・こ 男性が戦う仕事が有ったように、女性には神の声を聞く大切な仕事がありました。 その神様の声を聞く仕事をする女性が巫女です。 ひみこは、おそらく【陽巫女】だと思われます。 征夷大将軍が、将軍の中でも一番力があるのと同じように、 あまたいる巫女にも、通信できる神様が違っていても不思議はありません。
つまり【陽巫女】は特別な巫女ということになります。 おそらく、【太陽意識】の声を聞くことができた巫女さんなのでしょう。 その当時は、自然信仰が普通であり、その中でも最も太陽信仰が強かったでしょう。 現在のように銀河と言っても理解できない人たちに銀河意識の言葉を伝えても意味がありません。 それであれば、根源神や銀河意識なども、太陽神の言葉として伝えるのが良いということになります。
その時代に一人いるかいないかでしょう。 それだけ稀有な存在であるから、国の統治もまかされても自然なことです。 これが【ひみこ】が女王であることの理由でしょう。 つまり、【陽巫女】は、太陽意識以上の存在と意思疎通ができた、 優秀な巫女だということです
太陽神 天照大御神も おそらく後世の人々が 陽巫女を神格化したものでしょう
日本人は一貫して争いを好まず、出来るだけ話し合いで物事を解決しようとしてきた民族である 然からば聖徳太子は何故一七条の憲法の冒頭に「和を以て尊しとなす」と書いたのであろうか。 私は日本古来の神と伝来の仏教との和解だったと思う。 欽明天皇時仏教が伝来し、仏教を信じる蘇我氏と、 在来の神道を信じる物部氏の対立が始まった。遂に587年蘇我氏は物部氏を攻め滅ぼした。 この物部攻めに太子は蘇我の一門として加わっている。 聖徳太子は仏教に深く帰依していた。 しかし五九九年の大地震、602年の征新羅軍将軍木目皇子の病死とそれに伴う新羅征討軍の派遣中止等、 何らかの理由により、神道との和解が必要となったのであろう。
聖徳太子は「日本の神々を幹として、仏教を枝として延ばし、日本を豊かな国にしていこう」と諭されたとのことである。 この結果日本の神仏は混淆し、神社と寺院が同居するようになった。 そしてあらゆる神に敬虔な「神の国」が出来たのである。 森元首相の「神の国」発言が非難されたが、神様も仏様も、キリストにもマホメットにもそれぞれの素晴らしさを認め、 それぞれの神に敬虔である。 森羅万象すべてに神が宿ると考える。まさに「神の国」だと思う。 無実の罪で筑紫に流された菅原道真は天神様と崇められ、国に反乱した平将門も将門神社や神田明神に祀られる。 戦争が終われば敵方の戦死者を含め、厚く葬る。死者に鞭打つより、死者の呪いを解放しようと言う意味もあるように思う。 世界の各地で宗教をめぐって戦争が起きているが、日本では考えられないことである
日本における「宗教に対する政治の優越」を確立したのは、織田信長である。 比叡山の焼き討ち、石山本願寺攻めで、宗教の呪縛を解き放った。 豊臣秀吉のバテレン追放、徳川幕府の鎖国も「神の絶対優位」を求めるキリスト教を危険宗教と認識したからであろう。 秀吉・家康は信長の武将として比叡山・本願寺と戦った。特に家康は今川から独立直後の青年時代、一向一揆に大変苦しんだ。 恐らく鎖国しなければ、キリスト教信者の大名が各地に出来、 ヨーロッパの宗教戦争の余波を受けた可能性が高い。 この信長から家康に至る決断こそ徳川300年の平和を作ったと考える
「まあ、日本は、西洋の民主主義を、それをそのまま、取り入れても、うまく機能せんわね。 それは、ヨーロッパや米国では、当てはまるかもしれんが、日本では、日本的な民主主義を作り上げんといかん。 そういう努力をこれから日本人は取り組み、つくり上げんとね。 でないと、国民に根付かんね
聖徳太子さんのな、あの『十七条の憲法』の第一条に“和をもって貴し”とあるね。 人間は、お互いに仲良くすることが大切であって、争いや戦争などしてはならない、 和の精神を貴び、平和を愛好しなくてはならないということだと思う。 そういうことをいろいろ考えてみると、日本人には、知らず知らずのうちに、和の心というか、精神が培われていると
日本人は、もともと、そうした和の精神を民族の伝統として持っているのであり、そのことを忘れてはならんな。 長い歴史を通じて受け継がれてきた”和を貴ぶ精神”、それをはっきり認識し、その上に立って、 平和というものを求めていくことが、きわめて大切ではないかと思うな。
和とは自然との調和
ダウンロード&関連動画>> VIDEO 人と人との調和
ダウンロード&関連動画>> VIDEO >>240 そのわりに日本は、明治維新から内戦、侵略を繰り返して武力を重んじてきたね。
現代でも、平和の理念を高く掲げた憲法を否定する人たちが政権党には多い。
和の国であると同時に 不正を許さない武の国でもあったからね
児童虐待が殺人にまで至ったケースやいじめによる自殺など、 暗いニュースばかりです。しかし、なぜ人と人はこうしてまで争いをやめないのでしょうか?個人の虐待やいじめに始まり、 国同士でも争ってしまうことを考えると、人間とはそもそもが好戦的な存在なのかもしれません。 いじめにしても児童虐待にしても、自分の攻撃性を制御、コントロールできずに、 他人に向けてしまうといった構造は同じです
いじめは大人の中でも存在し、パワハラやセクハラがその構造は同じものです。 いくら、仕事ができないからと、相手を攻撃したり、無視をしたりすることでは、その問題は解決しません。 むしろ、職場の雰囲気が悪くなり生産性が落ちるのが関の山です。 しかし、それでも人間は他人を攻撃することをやめないのです。
>>244 自分の不正を武によって糊塗する、ずるい国なんだよ。
ヤマトタケルがいい例だ。
しかし、その一方で震災以降の日本国内を見ると、いろいろな分野で皆が協力して復興に努力している姿などを見ると、 決してそれだけでもないようです。 戦前はともかく、現代のこうした日本人を見ていると本当に平和的で友好的な国民であると実感します
愛と平和を唱えることが今必要なのでしょう。 千年以上も前から「和をもって尊しとなす」を憲法の第一条においた聖徳太子の偉大さが、今になってようやく実感できます。 個人のレベルでも、国のレベルでも物理的な争いでは物事は解決せず両者ともに不利益を被ることは、 過去の歴史がすでに証明しています。話し合いや協力といった 平和的解決でなければ、真の解決は得られないと思います
>>249 その「平和的で友好的な国民」が敵兵に対してだけではなく、敵国の一般市民どころか、自国兵士に対してまで、残虐な行為をしたんだけどね。
あくまで一部ですよ 正義の戦争 話し合いが通じない相手(白人)も いるんです
>>252 たとえば、日本の満州侵略にはなんの正義もない。
ひたすら利権を追究しただけ。
東南アジア侵略も、日本の侵略の結果として、列強の力が落ちてアジアの植民地支配からの解放が早まっただけ。
だから、中国、朝鮮だけではなく、フィリピンなどの東南アジアの戦後の反日感情もすごく強かった。
>>254 侵略だよw
統治するために、侵略するんだよ。
ソ連軍が行ったのが侵略でしょう
http://www7a.biglobe.ne.jp/ ~mhvpip/Stalin.html
>>257 日本が満州を侵略した後の話だよ?
せめて、時系列ぐらいは把握しておこうね。
>>260 大前提として、個人のブログを見てネットで真実だと思い込むのは愚かだよ。
そんな人間には、日本も思想も語る資格はないから。
満州国というのは、関東軍が作り上げた傀儡王国。
清国と漢民族の民族問題だというなら、完全な異民族である日本が支配したことの説明がつくとでも思ってるのかな?
傀儡というのはいい方が悪いだけでは ないでしょうか 治安が悪いところを統治していたのなら
>>262 治安というのは、利害の対立をいってるだけのことも多い。
満州というのは、明治時代から日本が侵略支配していて、国民党が侵略者の追放に向けて立ち上がったとみるべき地域だ。
「我々は日本が満州で実行し、そして中国その他の地域においても継続しているような 不快な侵略路線を支持したり、 許容するものではない。しかし日本をそのような行動に 駆り立てた動機を良く理解するならば、その大部分は、 中国国民党政府がしかけた結果 であり、事実上中国が『自ら求めた』災いだと、 我々は解釈しなければならない。」 シナにいた当時のアメリカ公使は、満州事変の原因を作ったのはシナ自身だと明言して ます。 実は、これ、他の国の公使たちも全く同じ意見だった訳です。 シナに駐在して、 ありのままを見てきた外交官なら誰でも分かることだったんです。 マクマリーはアメリカ政府と同じ「満州事変は侵略路線」という認識だったようですが、連盟が そういう採決を行っていない以上、侵略と決めつけることはできない
>>264 日本の満州侵略は日露戦争の前から始まっている。
日露戦争自体が、満州の利権を争った戦争だ。
ロシアの侵略が正しいか日本の侵略が正しいかという、悪の侵略戦争だったともいえる。
第二次大戦での、日本と列強の侵略戦争と同じ構図だ。
>>265 ロシアの侵略なんて悪そのものじゃないですか
支配しか考えてないのだから
>>266 そう、日本と同じ。
侵略支配は、悪そのもの。
>>267 それも考え方の相違ですね
支配と統治はまた意味が違いますので
>>268 どう意味が違うのか教えて欲しいものだw
他国の支配を統治と言いかえても、実態は他国の支配であることは変わらない。
支配とは一方的な搾取
統治とは一国として治める
日本はお金をかけてまで統治国の
文化水準 生活水準 教育水準を上げていった
http://ameblo.jp/eatingpeach/entry-10708472143.html >>270 満州では、日本がすべての利権を手に入れて、現地人は下働きと肉体労働。
どこが搾取じゃないんだ?
>>272 個人の思い付きブログを真に受けるなってw
頭が悪いのか?
>>274 >>272 のようなことを書く人間が日本人なら、僕は日本人じゃない。
そう言い切りたいところだけど、僕は自由を愛する人間だから、多様な意見を認めるよ。
でも、「天皇は天の神の御子」なんていうのは、ものすごくバカげた意見だ。
君が、もう少しまともな人間になることに期待するよ。
「支那人ほど下劣で油断のならない民族はいない。 西洋人は道徳観は人類に共通するものと考えているが、それは間違いである。 西洋人は人様に親切にしてもらったら何かお礼しようと考え、少なくとも迷惑をかけないように気を使う。 これが支那では通用しない。恩義を感じないのである」 「支那に長く居る英米に、 支那人の性格で我々と最も違うものを挙げて欲しいかと訊くと、 ほぼ全員が躊躇なく”嘘つきである”と答える」
>>276 そのアメリカが、ハルノートを日本に突き付けて、日本を侵略者だと決めたんだよ。
歴史をしっかり見ることだ。
流石嘘つき国家アメリカ 正直者が馬鹿を見る時代だったんですね
>>278 日本が正直だったわけではない。
溥儀を傀儡皇帝に仕立てたり、張作霖事件を起こしたりと、多くの謀略を行っている。
勿論私も日本に完全に非がなかった とは言いません 戦時下という極限状態においては いろいろ非はあったでしょう
>>280 そうだよ?
極限状態ではなくても、積極的に他国を侵略した。
20世紀は電話、自動車、機関車、飛行機などの発明 また 20世紀後半はコンピューター、インターネットと 我々の生活そのものを変えてしまう ものが 一般化しました。 第二次世界大戦後生まれの人々にとって はあたり前の生活なのですが 実は このようなものが大量生産されることにより コストが落ち 一般大衆にもいき渡ったという 資本主義の意義のあるところです。
しかしながら、物質 つまり ものを追求するために その交換財である 紙幣(お金)を稼ぐことが目的となってしまい 、一部の金融機関関係者を中心とした人たちの横暴が 1929年の恐慌をまねき 、 また、今回の「金融危機」にいたっているわけです。 この金融危機は 欧米ではすでに「恐慌」にはいっているわけですが、発想の転換が必要です。 「物質文明」から「精神文明」への転換です。日本国は古代より精神文明の国であったのですが、 敗戦により アメリカ占領政策の基 「物質文明」社会への転換を余儀なくされました。
アメリカ型資本主義が終焉を迎えたのですから、「助け合う」「困った人がいたら助ける」「お互い迷惑はかけない」など 人と人とのつながりを大切にする社会へ脱皮する機会でもあるわけです。 日本人が忘れているアジア型社会の模範は ベトナムにあります。 彼らは 助け合い、周りの人々に思いやりをもち 生きているのです。 儒教を中心として小乗仏教の国という日本と同じ土壌をもっています。 「物質文明より精神文明へ」これがこれからのキーワードです。
物質文明に侵食される前の美しい日本
ダウンロード&関連動画>> VIDEO 多くの欧米人がいろいろ観察をしているが、ほぼ全てに共通しているのは、「人々は貧しい。しかし幸せそうだ」である。 だからこそアメリカ人のモースは、「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」と言ったのだ。 欧米では、裕福とは幸福を意味し、貧しいということは惨めな生活と道徳的堕落など絶望的な境遇を意味するのだが、 この国では全くそうでないことに驚いたのである。 ●イギリス人の詩人エドウィン・アーノルドなどは、明治22年に東京で開かれたある講演で、日本についてこうまで言っている。 「地上で天国あるいは極楽にもっとも近づいている国だ。…その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、 その神のようにやさしい性質はさらに美しく、 その魅力的な態度、その礼儀正しさは、 謙譲ではあるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾ることもない。 これこそ日本を、人生を生き甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、 あらゆる他国より一段と高い位置に置くものである
ハリスの通訳として活躍したヒュースケンはこう記す。 「この国の人々の質樸な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。 この国土のゆたかさを見、いたることろに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、 そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、 おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、 西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならない」
ヒュースケンは斬られる前にそれを書いたんだろうね。
戦時中の日本 《いわゆる米英流の生活のしみを洗い去り、皇国本来の国家観に立脚した生活の真義を打ち樹てねばならぬ。 金儲けのための生活、立身出世のための生活、 他人の困苦を顧みず己だけ快楽を得さえすればよいという独楽独善の生活、 精神を忘れ 物に捉われた生活、これらは何れも生活の真義を遠く離れたものである》
>>290 ブータンみたいだね。
未開アジアの特徴だともいえる。
戦時中の東南アジアでも、水木しげるは現地人との交流が一番幸せだったと書いている。
現地人と交流できたのは水木しげる一人かも知れないが、現地人の生活ぶりは良く伝わってくる。
共通してるのは文明人が未開の地に行って 原始的な生活してるのに 人びとが幸せそうな生活をしている点ですね
本来は地球上に数ある諸文明の一つに過ぎない欧州文明を格別のものとしてみなす考え。 欧米文明を西洋としこれ以外の文明を全て東洋とすることなどはその一例とされる。
第二次大戦以降これらの植民地の多くは独立したが、その後も欧州とアメリカ合衆国の技術的、政治的、 経済的優位は変わらず、ヨーロッパ中心主義は根強く残った。
哲学の始まりをギリシャからとし、それ以外の地域の哲学は傍系のものとする。 欧州文明を西洋として、それ以外の文明を東洋としてひとまとめにする。 欧州の技術、科学が全時代にわたって他文明のそれに対して優位にあったと見なす。 欧州文明は合理的であるとし、それ以外の文明は非合理的であるとする
文句言っても、西洋文明の方が圧倒的に優秀なんだからしょうがないだろ? 東洋には、処世術はあっても、物事の本質を追究しようとする哲学なんかない。 自然の把握である科学的な思考については、いうまでもない。
神道と仏教が既に 西洋哲学を超えているということを 理解しなければいけないでしょう
>>304 処世術だろ?
善だの悪だのって、善も悪も根拠がないんだから。
「1」 メーソンというアメリカ人――1879-1914 彼は神道はインドの仏教より遥かに優れた精神原理で、よりよく現代生活に適し、儒教より内面的、 哲学的、かつはるかに深遠で更に西洋文化よりすぐれていると言いました。 「2」 イギリス貴族のポンソンビー1878−1937 皇室の尊厳に憧れ京都に住み、生活の凡てを日本式とし京都御所には土下座で遥拝しました。かれは日本で神を見た英国貴族といわれた。 「3」 元フランス大使のクルーデル 私が決して滅んで欲しく無いと願う世界の中の一つの民族は日本だと。
「8」英国人ビッケン名古屋商科大学教授 「キリスト教文化は、科学、哲学、産業革命を生み出し現在の経済中心の世界を作り上げた。だが ユダヤ、キリスト教を中心とする宗教は、闘争に明け暮れて、疲れ果てている。 これは人間と自然との関係を排除してきたからだ。 自然と人間、人間と人間の調和・共生を求める日本の古神道に帰らねば人類は救われない」 「9」 韓国人 金ワンソプ氏--親日派のための弁明より 「私の個人的な意見を言うなら、日本の神道は人類が作り出した、 もっとも理想的なたかちの宗教だ。」 「10」 フランスのエリート 「十数年前フランスの若いエリート達が伊勢神宮を見て自国の聖地は伊勢神宮程の精神性は無いと言った。 他の学者も伊勢の荘厳、森厳の静寂に宗教の根源的なものを感じた。」
「11」 アメリカ女性歴史学者 ヘレン・ミアーズ 「日本の伝統神事は肉体的満足の対象である食物、 精神的満足を齎す自然美への感謝の儀式だ。」 「12」 日本に宣教師ザビエルが来たのは足利時代 ザビエルは記録に残している。 「日本人たちは、キリスト教の諸地方の人々が決して持っていないと思われる特質を持っています。 それは武士たちがいかに貧しくても、そして武士以外の人々がどれほど裕福であっても、大変貧しい武士は金持ちと同じように尊敬されています---。 武士以外の人々は武士を大変尊敬し---。そして、日本に来るなら、真の謙遜が必要」。 「13」小泉八雲 「日本人は目に見える一切の森羅万象の背後に、超自然の神霊を考え、 山川草木から井戸、かまどにいたるまでそれを司る神を見る。 日本人はこの国土を創造した神々の子孫である。 神道とは、その祖先崇拝の思想で、死ねば霊となって子孫と国を守ると考える」
「14」 ポルトガル人・モラエス 1854年--1929年 「日本には西洋世界に無い、他人を疑わない人情味あふれる人間関係がある。 平和で優美な日本の環境のとりことなった。」 「15」 フランス作家 オリヴィエ・ジェルマントマ 「日本の霊性に感動した、その霊感から発する日本の文化、芸術、文学を愛し溺愛する。 私は師であるアンドレ・マルローを那智の滝に案内した。その時、マルロー師は叫んだ、滝の中にアマテラスを見た、と。 神聖とは何かを日本でつかんだと話された。神道の中に神聖を体感されたのである。」 「16」 米国オハイオ州 コーイチ・パリッシュ氏 ワシントン州 「神ながら神社宮司」 「神道こそ神に近づく道であり、手順であり、それを厳格に実践することで、深く霊性を開発し、人格を高めることができるものである。 神道はわれわれ地球人にとって必要不可欠で「人類の宝」と確信する。」
「17」アーノルド・トインビー トインビーは神道を高く評価し、「日本の活路」で言った。 「戦後、日本人は近代化の道を邁進してきたが、その見返りとして心理的ストレスと絶えざる緊張にさらされている。 それは産業革命がもたらすまぬがれない代価である。 ところが神道は、人間とそのほかの自然との調和のとれた協調関係を説いている。 日本国民は、自然の汚染によってすでに報いを受け始めているが、実は神道の中にそうした災いに対する祖先伝来の救済策を持っているのである。」。 物質文明が避けられない災いを救う宗教であると言っている。 「18」アーノルド・トインビー 昭和42年に来日した歴史学者トインビーは、真っ先に伊勢神宮に参拝して、千古の神宮林の繁る神域に立ち、 「すべての宗教の基底になるものが伊勢神宮にあると感じ」毛筆で神宮に記帳した。 「19」社会学者エマーソン 「日本の神社、鎮守の森の中に神聖がある・・・・・」
「20」ドイツ植物学者ヒューセン博士 「日本人が生活環境に郷土固有の神社林を保護育成してきたこと、また山岳地帯には祖先伝来の原生林がまだ存在することとあいまって、 日本民族の優秀な資質育成に大きな効果を果たしてきたことからも、現代人はこれらを大切に守って子孫に伝える責任がある。 ヨーロッパ諸国では、放牧により早くから原生林を失い、その弊害を補うために人口植林に努めている。 日本の社叢などを見て祖先の賢明さに敬意を表する」と神道の鎮守の森との関係で味わうべき言葉を残している。 「21」アルベルト・アインシュタイン博士 1933年来日した時の発言、「世界を驚かせた近代日本の発展は、一系の天皇を頂いていることにある」と分析し 「戦いに疲れた世界が求める未来の盟主は、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜き越えた最も古くて尊い家柄である天皇家を頂くアジアの高峰、日本である。 我々は神に感謝する。我々に日本という尊い国をつくっておいてくれたことを」と絶賛した。 「22」サミュエル・ハンチントン教授ーー文明の衝突の著者 世界には西欧文明、イスラム文明、中華文明など沢山の文明があるが、 日本は独自の文明を形成しており、中華文明のなかには含まれない。と分析している。
「23」詩人のポール・クローデル 1943年、日本の敗戦が濃厚になってきた時である、パリーのある夜会で詩人のポール・クローデルー元フランスの駐日大使ーの言葉は有名である。 「私がどうしても滅びて欲しくない一つの民族がある。 それは日本人だ。あれほど古い文明をそのまま今に伝えている民族は他にない。 日本の近代における発展、それは大変目覚しいけれども、私にとってし不思議ではない。 日本は太古から文明を積み重ねてきたからこそ、明治になって急速に欧米の文化を輸入しても発展したのだ。 どの民族もこれだけの急な発展をするだけの資格はない。しかし、日本にはその資格がある。古くから文明を積み上げてきたからこそ資格があるのだ」 クローデルは、こう述べた後、ポツンと付け加えた。 「彼らは貧しい。しかし高貴である」 「24」H・G・ウェルズ(イギリス、歴史学者) 「この大戦は植民地主義に終止符を打ち、 白人と有色人種との平等をもたらし、世界連邦の礎石をおいた。」
「26」ククリックド・プラモード (タイ国元首相 )「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。 日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、産まれた子供はすくすくと育っている。 今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。 それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。 十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意をされた日である。 我々はこの日を忘れてはならない。」( 十二月八日、現地の新聞「サイアム・ラット紙」において ) 「27」バ・モウ (ビルマ元首相 独立宣言より) 約五十年前ビルマは三回にわたる対英戦争の結果その独立を失えり、英国側はアジアに対する掠奪的野望を以て此等の戦争を遂行せり。 英国はさらにその伝統的陰謀賄賂及び想像し得るあらゆる詐欺及び術策の武器をしようせり。・・・ ビルマ人は徐々に搾取され時の進むに従い総ての国民的実質、莫大なる物資的資源、機会、文化、言語、さらに遂にはその生活様式までも失い・・・ 愛国者は挺身的精神をもって鎮圧、入獄、流謫、拷問及びしばしば死そのものを甘受して突進して来れり、これらの英雄はビルマの生存のため苦難を受け遂には斃れたり。 ビルマ人はアジアを結合せしめアジアを救う指導者を待望しつつありしが遂にこれを大日本帝国に発見せり。・・・ ビルマ人はこのビルマに対する最大の貢献に対する日本への感謝を永久に記録せんことを希望するものなり・・・」(一問に百答 日下公人 PHP研究所
「30」ジョイス・C・レブラ女史(アメリカ、コロラド大学歴史学部教授) 大東亜戦争下、アジア諸国に進駐して行った日本軍政の最大の特徴の一つは、 各国の青年を教育し、組織し、独立精神を振起した点にある。 その遺産は戦後も様々な形で生き続けている。日本の敗戦、それはもちろん東南アジア全域の独立運動には決定的な意味を持っていた。 今や真の独立が確固とした可能性となると同時に、西洋の植民地支配の復活も、許してはならないもう一つの可能性として浮かび上がってきたのである。 民族主義者は、日本占領期間中に(日本軍により)身につけた自信、軍事訓練、政治能力を総動員して、西洋の植民地復帰に対抗した。 そして、日本による占領下で、民族主義、独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということをイギリス、オランダは戦後になって思い知ることになるのである。 (中略) さらに日本は独立運動を力づけ、民族主義者に武器を与えた。日本軍敗走の跡には、二度と外国支配は許すまいという自信と、その自信を裏付ける手段とが残ったのである。 東南アジアの人間は今や武器を手にし、訓練を積んでおり、政治力、組織力を身につけ、独立を求める牢固たる意志に支えられていた。(「東南アジアの開放と日本の遺産」秀英書房、256〜7ページ)
「31」ロスロップ・スタッタード(アメリカ、歴史学者) すでに四百年の間、連続的勝利によって、白人は本能的に自己の膨張は無限に継続するものと信ずるに至った。 1904年の日露戦争以前には、自己の膨張が停止するというような思想は白人千人中の一人にも考えがおよばなかった。 (中略)1900年は、四百年間みなぎりきった白人潮勢の頂点であった。 白人はその時、威名と実力の頂上に達したのである。 その後わずか四年にして日本は猛然起って露国に抗し、旅順港に巨砲弾を浴びせて世界を驚かした。その刹那に白人の退潮が始まった。 (長瀬鳳輔訳『有色人種の勃興』政教社、147,151頁)
「32」ジョージ・S・カナヘレ(アメリカ、ハワイ日本経済協議会事務局長・政治学博士) 日本占領軍がインドネシア民族主義のために行った種々の仕事の中で、 最も重要なものの一つは、正規軍及び准軍事組織を創設して、それに訓練を与えた事である。(中略) インドネシア人が軍事訓練を受けたことの意義は極めて重要なものであった。 これが後のインドネシア革命軍の大部分の将校と何千の兵士となり、復帰してきたオランダ勢力と独立戦争を戦う際の基盤となった。 日本によって与えられたこのような機会がなかったならば、 戦後のインドネシア民族革命の経過は違ったものになっていたであろう。
>>307-317 そんなことで喜んでるの?
日本人て、そんなにレベルが低いの?
フランシスコ・ザビエルやルイス・フロイスなどのヨーロッパの宣教師は、 当時の日本社会の実情を記した手紙・報告書を故国に書き送った。 その中で彼らは「日本人はヨーロッパの最先進国の人々ですら足元にも及ばぬほどの、 高い文化とモラルを持っている」と絶賛している。 フランシスコ・ザビエルは日本人の民度の高さに驚き、「とても気品があって、驚くほど理性的、慎み深く、また才能があり、 知識が旺盛で、道理に従い、その他さまざまな優れた素質を持つ」。 また「大部分の人は読み書きができる」と、本国のスペイン人、あるいはインド人や中国人よりも民度が高いことに驚いている。
日本の各地でザビエルは宣教するのですが、出会った日本人が彼に決まって尋ねた事があります。 それは、「そんなにありがたい教えが、なぜ今まで日本にこなかったのか」ということでした。 そして、「そのありがたい教えを聞かなかったわれわれの祖先は、今、どこでどうしているのか」ということだった。
つまり、自分たちは洗礼を受けて救われるかもしれないけれども、 洗礼を受けず死んでしまったご先祖はどうなるのか、やっぱり地獄に落ちているのか・・・・・ 当時の日本人はザビエルにこういう質問を投げかけた。 元来、キリスト教においては、洗礼を受けてない人は皆地獄ですから、 ザビエルもそう答えました。
すると日本人が追求するわけです。 「あなたの信じている神様というのは、ずいぶん無慈悲だし、無能ではないのか。 全能の神というのであれば、私のご先祖様ぐらい救ってくれてもいいではないか」 ザビエルは困ってしまいまして、本国への手紙に次のように書きました。 「日本人は文化水準が高く、よほど立派な宣教師でないと、日本の布教は苦労するであろう」と。
当時の中国にも、韓国にも、インドシナにもこうしたキリスト教の急所(?)を突くような人間はいなかったわけです。 この他にも、『もし神様が天地万物を造ったというなら、 なぜ神様は悪も一緒に造ったのか?(神様がつくった世界に悪があるのは変じゃないのか?)』 などと質問され答えに窮していたようです。
ザビエルは、1549年に日本に来て、2年後の1551年に帰国しますが、 日本を去った後、イエズス会の同僚との往復書簡の中で 「もう精根尽き果てた。自分の限界を試された。」と正直に告白しています。 集団原理の中で生きてきた日本人にとって、魂の救済という答えは個人課題ではなく 先祖から子孫に繋がっていくみんなの課題であったはず。
「信じるものは救われる」=「信じない者は地獄行き」 といった、 答えを個人の観念のみに帰結させてしまうキリスト教の欺瞞に、 当時の日本人は本能的に気づき、 ザビエルが答えに窮するような質問をぶつけたのではないでしょうか。
>>319-325 そんなことで喜んで、どこまでバカなんだろう?w
右翼にはバカがなる、とはよく言われるけど、こういうレスみてると実感するな。
宣教師が日本人と比べてるのは、西欧の白人じゃなくて、未開の地域の原住民だぜ?
日本は、前代未聞の原発災害によって未曾有の放射能国家になってしまった。 この状態が何と3年以上も続いてきたために、数千万人以上の日本人が放射性物質を吸って食べて深刻な内部被曝状態になっている。 しかし、国家政府も大衆個人も無策のまま! とどのつまり、私たちは、いま、政府にも、官僚にも、 国会議員にも、知識人にも、医者にも…、誰にも助けてもらえない状況に置かれているのだ。 (この現実をキチンと認識できるかどうかが、生死の分かれ目になる
こういう悲惨な状況のなかで、私達が、いま、第一に考えねばならないのは健康の問題である。 一回しか生きられない人生、先ず健康でなくては何事も始まらない。 病気になったら最後、人生は苦痛の日々になる! どうしたら良いのか? 答は一つしかない。免疫力を上げること。これだけである。 免疫力は、体内の免疫細胞(マクロファージやNK細胞)の数で決まる。 免疫力を上げるためには、どうしたらよいか? 1)乳酸菌(特に豆乳ヨーグルト)の摂取 2)血流をあげる運動 3)日光浴(太陽凝視を含む) 4)入浴 5)少食・粗食 上の5項目を確実に実行すれば、私たちは放射能に負けない体質になり、 病気にならずに、健康な人生を送れる!何も心配することはないのだ!
いじめ(苛め、虐め、イジメ英: Bullying)とは、「肉体的、精神的、立場的に自分より弱いものを、暴力や差別、 いやがらせなどによって一方的に苦しめること」である いじめ防止対策推進法(平成25年法律第71号)第4条にて、 いじめは禁じられており、同法第25条にて加害児童等に対する懲戒処分・出席停止についても言及されている。
モラルの低下・混乱によるもの。1980年代中ごろに頻発したタイプで、被害者が偶発的に決定されるところに特徴がある。 一種のモラル・パニックや集団ヒステリーといえる。 社会的偏見・差別による排除的なもの。 1のケースと比較するといじめの対象となった理由(特定の社会的属性を持っていたということ)は明瞭であり、 差別意識自体を取り除く指導をすることがこの種のいじめの対策となる。
子供に限らず、社会人(モンスター社員、クラッシャー上司)においても暴力そのものやパワーハラスメント、 セクシャルハラスメントといった職場いじめが起こっている。 上司が部下に対し、職場で陰謀を巡らし、「自分が悪い」と誤解させる状況を、故意につくられるような不当労働行為や、 責任をとって辞めさせるような状況をつくる不当解雇もある。
インターネットが普及した現代社会ではネット上におけるいじめ、 ネットいじめも存在する。 滝川高校いじめ自殺事件(2007年)では学校裏サイトでいじめが行われていた。 イギリスでもインターネット環境の発達とともにネットいじめが増加している アメリカ合衆国、カナダでもネットいじめが深刻化している。
>>327 レスの意味がわからない。
質問なのか、反論なのか、それともただの呟きなのか。
日本思想スレなんだから、普通の日本語で書いてくれ。
日本人の道とはなにか? 神道 武士道 空手道 合気道 柔道 剣道 茶道 華道 弓道 書道
日本人の道とはなにか? 日本人は本来のあるべき道を 外してしまったが為に 現在の世の中のように歪んでしまっているような気がします。 いまの世の中は隠されている部分の方が実体としては大きいのです。 あらゆる分野を多角的に見極めて、初めて見え てくるものがあります
全体をとらえる事で、新しい未来を描 ける事があります。 私たちは細分化時代に生きているとも 言えます。 極度に専門性が高くなり、「木を見て 森を見ず」となってしまい、 バラバラ に社会を組み立ててしまっている事が 社会のひずみを生んでしまっています
地球全体、 社会全体を見つめる事を失 ってしまっているからこそ、多くの対 立が存在するのです。
づく事もあります。 右や左の政治思想に偏る事無く、 スピリチュアルや自然派だけにも偏る事無 く、 または目先の生活や経済ばかりで もなく、 表面的な情報や裏情報に惑わ される事無く、 その為にも日本人の本来のあるべき道に戻らなければいけない気がします。
道の大元は結局のところ 神道になるわけです。 いま一度 縁のある 誠の日本人の方と 地球レベルで地球をよくする実践を していけたらと思います
ちなみに 神道とは 一神教ではなく 教典をもたず 押しつけがましくなく 誰もが気軽にお参りできる これだけで すでに 既存の宗教の枠組みには 存在しないことが 日本人には 理解できます
外国は教え 日本は道 今の時代、人間が説いた教えでは駄目なようです。 誰かに教えられそれに従順に従う宗教ではなくて それぞれが互いに 内在する神性を認め合い 尊重し 生かし合いながら ともに栄える 【道】 でなくては これからの混沌とした時代は乗り切れない
神道とはもっとも古く かつもっとも新しい理念であると言われる。 思想や哲学がないと海外から指摘される今の日本は ともすれば破滅の方向に向かわんとしている 人類社会を根底から 救済する偉大なる理念が 巌として存在している。
人間がなぜ、ここまで愚かになれるのだろうか? 右翼思想を考えるときの、もっとも大きな課題だ。
・なんで日本ではキリスト教が全然広まらなかったのだろうか? 日本人はキリスト教が嫌いなの? ・元々日本は神道や仏教の国だからだと思うよ。 かつて外国から宣教師がやってきて日本にキリスト教を広めようと試みたけど結局根付かなかったのはその為だと思う。 ・日本はキリスト教徒が非常に少ないけど、日本の隣の国の韓国はキリスト教徒がメチャメチャ多いんだよね。 韓国は人口の30%がキリスト教徒だったりする。 私はこの事実をとても興味深いとずっと感じてて、日本と韓国の国民性はこのキリスト教徒の数の違いからも大分異なってるんだと思ってたりする。 日本は島国で自国の自然的哲学のような物が発展したことにより特定の外国の宗教に依存しなかったんだろうと思うんだ。 一方の韓国は大陸と接してることにより外部からの様々な影響を受けたのではないかと思ってたりする。
>>356 日本の独自色を強調したいようだけど、贔屓の引き倒しかもしれない。
キリスト教が広まらなかった国というのは、実はとても多い。
わかりやすいのは、長くキリスト教国の植民地であったインドとパキスタンだろう。
イギリス国教会というちょっと変わった宗派ではあるが、キリスト教には違いない。
調べるまでもなく、両国のキリスト教徒はごく少数派だ。
アジアでキリスト教が強いのは、フィリピンぐらいかな?
要は、時の支配者がどこまでその宗派に肩入れするのかが、その国の宗教を決めているに過ぎないともいえる。
日本版カバラ
平田篤胤「古道大元顕幽分属図」(1820)
セフィロトの樹
古き良き清潔な心 日本
ダウンロード&関連動画>> VIDEO 私は、地球の自然の環境を破壊し、無数の生物を殺害し続ける、 人間中心的、自己中心的、利己的、排他的闘争の思想の、間違いを断じ、自然の萬物、全生物の尊厳と畏敬と愛と、 平等と平和の、自然中心の芸術思想、宗教思想を、六十年間の自然の存在と生命に直接に対面し接触した日々の制作の、 自然の真理、真実、美の探究によって、持つことの決定に達した。 地球の自然の環境を破壊し生命を殺害する、傲慢な人間中心思想の物質文明から、 地球の自然の萬物、全生物の尊厳と畏敬と慈愛の、自然中心の精神・心の文明への転換の行動。 人間本位に自然と共生するのではなく、自然に生かされて生きている感謝の謙虚な心。
殺されることが多いからだよ。 殺戮していない敬虔な信者もいるはず。折り合って。
日本思想のなかで、不遇にある無資格の若者のアイテムとして、この世での未来の指針の知恵 を学ぶ智者は、二宮尊徳氏のわらしべ長者の童話でも有名であり、昭和の前半の頃には小学校 のグランドの脇には、少年の頃の二宮尊徳氏が本を読み、木枝をマキにして背にした銅像があり ました。 この世の生業の苦悩の生き方とならない意味でも、アイデアによる創意工夫の知恵が、この世の 幸せに貢献することはあきらかであります。
右翼の人に聞きたいんだけど、なんで日本は世界の中でも特別な存在だ、とか思うの? 自分が住んでるから、なら、世界中どの地域も同じだよね?
江戸時代くらいまで 日本は妖精の国と呼ばれていた 日本が特別な国だったのは確か
俺は日本が好きだが、特別な国だと思ったことは一度もないけどな…
『哲学の探究』第20号目次1992/9 ●第20号刊行にあたって ●シンポジウム自然と人間―その倫理的考察― 題目 著者 報告 プラトンの技術観 小野木 芳伸 報告 カント哲学の限界内における環境倫理学の可能性 小野原 雅夫 報告 日本における自然と人間―その倫理的考察― 平山 洋 シンポジウムのまとめ 頼住 光子 ●テーマ別分科会 題目 著者 種差別か、しらずんば能力差別か? ―ピーター・シンガーはいかにして障害新生児の安楽死を擁護するか― 土屋 貴史 ウェーバー社会学における物象化論の位置 鈴木 宗徳 ●研究発表 題目 著者 ヤスパースの「超越論的」感性論 ―『哲学的論理学・遺稿』よりカテゴリー論をめぐって― 今本 修司 アランのシーニュ論 河津 邦喜 超越論的システム論の可能性 永井 俊哉 ウェーバー研究は何を求めているか 橋本 直人 ●編集後記
ジゼル・ブンチェンはお風呂でオシッコするんだってな . l,‐、i三三三' ,. -"二三,、: : : : : . -"二三- .i lll三三三 ´;ィ彡'",ニ、`ヾ、、: : : ;彳"ニ、ヾミ、、: !三三三 .::メ《″(::🌀:) ,l:ヾ、: : ,イ'ヘ,.(:🌀::) ゞヘ、: 三三 : : : ::``ーゞ='-‐'"ンソ、 ´``'-`''‐="‐'"´:: : ヾ三ミ : ::`ー---‐'''"´: :ノ : : ヾ、 |:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;i′: : : :/ / - ― ′ ', l l:;:;:l゙リ:;:;:;:;:;l : : : : : : ,,r'" ヽ }, l . l:;:;l l゛'r、:;:l: : : : : : / `ー‐、_ ハ ,' ヾヽニンl;;l : : : : : .;';';';';';';';';';';';';';';';';';.,. l. ,' l:;:;|: : : : : : : : : ', ヾ〒〒〒〒〒ァ:;' / "l:: : : : : : : : : ', ヽ±±±ン ;' ,/ . / `丶、:: : :\ ヽ 丶、_ ノ/ / ドンドンドンドン! 苧疾壺玖嵯夷於饅壺雅簾喜軟蛇絽?
【ステロイド抜けたらガリガリで横チンを公共電波に晒したり 土俵に力水はいたり尻の穴ほじくった手でツッパリして相手をひるませたり 自分で隠し持っていた山響株を兄が盗んだと騒いだりした】人は、 マラも洗わずに被害届を出しちゃったのかね? この人こそ、実は協会あげての片八百長で夥しい星を献上してもらっておきながら 何を勘違いしてるのかねえ
970 :コ−ヒ− ◆VMSHVHTgws :2017/11/30(木) 14:10:06.64 0
今の借金いくらなん?
971 :底辺 ◆49ci.4gb8c :2017/11/30(木) 14:15:21.43 0
450万くらいだね。
親には、ほぼ頼ってない。
974 :コ−ヒ− ◆VMSHVHTgws :2017/11/30(木) 14:20:57.29 0
450万の借金て相当だよ
どうやって返すつもりなん?
もしかして奨学金なのか
975 :底辺 ◆49ci.4gb8c :2017/11/30(木) 14:23:23.73 0
>>974 消費者金融
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/philo/1509417474/960- 👀 Rock54: Caution(BBR-MD5:9368c25c0e1fcb4c3420acd807713d27) >>368 俺は日本が嫌いだが、やっぱり特別な国だと思ったことはない。
他国も、さまざまな良いところと悪いところがあるのだろう。
だから俺は、しかたなく、嫌いな日本に住み続けてるんだ。
富岡八幡宮の宮司がテロで心肺停止ということだが・・・ 反日本会議、反神社本庁の声明を出したばかりだから、憶測を生むのは間違いないね。
>>378 右翼の行動にはいつでもお金が絡む。
右翼の一番大切なものは、お金。
526 :可愛い奥様 :2018/01/06(土) 20:12:08.92 自分に当てはまる事検索すると発達とかサイコパスとか出てくる
下記は“世界思想”だと思います。
2000年の少し前頃に発刊され、アメリカで異例のベストセラーになり、日本でもベストセラー、
いまや30数カ国以上に翻訳されて読まれているニール・ドナルド・ウォルシュ氏の『神との対話』シリーズ。
もし本当に「神の存在と恩寵」を確信したいなら、まず正しい「神の理解」が必要です。
単なる読書本ではなく、人生の観方と体験が変わるスピリチュアル本ではありますが、
思索的な哲学書として読んでも面白いと思います。
《10分ほどで読めて分かる『神との対話』》
https://conversationswithgod.wixsite.com/kamitonotaiwa-matome とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法 役に立つかもしれません グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』 35PUA
>>302 確かに物質的には西洋文明の方が優秀でしょうが
精神的には東洋
特に日本古来の文明の方が優れていますよ
>>385 精神的に東洋、日本古来の文明が優れているという根拠はなに?
物質文明については、現実にある物を比較すれば容易に確認できるけど。
うわっ、東洋思想と西洋思想って極めると 両方同じこと言い始めるの知らないのかね?
ただのものの見方の違いなだけでしょ 東洋思想は円を意識してるし、西洋思想は直線を意識してる でも、人間であることは同じだから結局同じことを言い始めるのは道理なんだよね つまりは、思想って螺旋状になってる訳だけど、分からない人多いよね
>>388 ものの見かたを思想という。
見かたが違えば思想が違う。
>>389 具体例は忘れちまったわ
覚えてる範囲だとカントみたいなこと言い出したり
キルケゴールみたいなことを言い出したりし始める
>>390 回転する螺旋状の物体を横から(時間軸を基準に)見るか
上から(輪廻転生だとか流転を基準に)見るかだぞ
確かに西洋は客観的に東洋は主観的に見てるけど、
同じ人間を表現してる思想なんだから
共通点が出てくるのは当たり前じゃないか
>>391 >両方同じこと言い始めるの知らないのかね?
それでは大威張りで御託を並べるのはやめたほうがいいよ。
>>392 上とか横とかいうことになんの意味もないし、対称させてる概念がめちゃくちゃだよ?
ちなみに、転生も流転も時間軸だ。
同じ人間を見ても違う捉え方をするから、思想が成立するんだよ。
>>393 御託ではないから大威張りしてるんだよなぁ…
これ、高校倫理程度の知識なのに嘘つきみたいな扱いをするのなお前
>>394 別に輪廻転生が時間軸でないとは言ってないぞ
時間軸+αで西洋思想とは違って明確な区別をしてないだけだぞ
その中で、西洋哲学ではパトスを重視する流れが出てくるし、
東洋哲学で理性を求めるっていう明確な区別を重視する思想の流れが生まれるんだ
まあ、昔の中国の話だから、ほぼ東洋哲学は進歩が止まっちまったけどな
日本は江戸以降はずっと朱子学中心だからパッとするような発展はないしね
>>395 時間軸+αってなに?
パトスを重視する西洋哲学って誰?
東洋哲学で理性を求めたのは誰?
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56509?page=2 >私の担当科目「現代政治理論」で扱ったテーマのなかで、
>今年ダントツで評判が悪かったのが、藤田省三だった。
>丸山眞男のもとで学び、高度経済成長による日本社会の変容と批判的に対峙した思想家である。
>講義では「離脱の精神――戦後精神の一断章」(1978年、『精神史的考察』所収)
>を紹介したが、「抵抗」なきデモクラシーは「翼賛」になりかねない、と主張する藤田に、
>共鳴する学生はほとんどいなかった。
>最後に学生に書いてもらったオピニオン・シートには、
>藤田に対する違和感と嫌悪の言葉が並んでいた。「たんなる老害」というコメントすらあった。
>「公的なもの」の喪失を危惧するハンナ・アーレントの評判は決して悪くない。
>しかし、彼女とともに「全体主義」について考え、
>経済的な豊かさという「安楽」にすら「隷従状態」を見た思想家は、いまどき受け入れがたいらしい。
藤田省三よりかは橋川文三の方がええわ。
もっと言えば、本多延嘉とか鳴海清とかの方がすごいと思うわ。
>>397 なんだか知らないけど、藤田のほうが正しいのは、現在の安倍政権が証明してるんじゃないか?
学生が、特に日本の学生がバカになってるだけだろ?
まあ、ネット依存で物質主義に毒されてる可能性はあるわな。 形式的には出席とかアクティブラーニングで大学への参加が求められてはいるが。
正直言って、今の大学生は、講義や演習で求められる読書を必死に行う以外に エッセイとか文学に嵌りすぎない方がいいかもしれんね。硬い本ならともかく。 卒業後に硬い本を買って読む時間の取れる身分になれるかどうかが大事だと思う。
「古来の大思想家は無欲ではなく大欲を説いた」というのは夜話巻の5(二宮尊徳)にある。
大欲とは何か。「国家を経営して、社会の幸福を増進する」ことである。
小欲を捨て大欲につくー石橋湛山 聖人は無欲と思へども然らず、其の実は大欲にして、
其の大は正大なり・・・・二宮尊徳
https://plaza.rakuten.co.jp/jifuku/diary/200905120001/ 蒼頡(そうけつ):中国伝説上の漢字の発明者
“これは、中国で漢字を発明したと言われる蒼頡という神話上の人物です。
絵を見るとわかるように、蒼頡は四つ目の人物として描かれています。
中国の伝説では、蒼頡は非常に目がよくて、さまざまな動物の足跡などを見分けて
それをもとに漢字を発明したことになっています。”
― 『新記号論:脳とメディアが出会うとき』 石田英敬、東浩紀 (2019/3/3)
https://kotobank.jp/word/ 不束-619363
不束(読み)フツツカ
ふつつか【不▽束】
1 気のきかないさま。行きとどかないさま。不調法。「不束な点はお許しください」
2 太くて丈夫なさま。
「いと大きやかに、―に肥え給ひつるが」〈宇津保・蔵開上〉
3 太くてぶかっこうであるさま。
「指の―になるを厭(いと)ひて」〈浮・禁短気・三〉
4 風情がなく、下品であるさま。無骨。
「山賤(やまがつ)の焚(た)き木を負へる如くなる、いかにも―なる我が身に」〈仮・竹斎・上〉
「ひそ(秘)か」が、「ひ(秘)せられた様子」なら、 「おろそ(疎)か」は、「おろ(下)された様子」ということかな?
私の主語が「天」になるような生き方をしてみてはどうだろうか。 批評家の若松英輔氏は、私の主語が「天」になるような生き方をしてみてはどうだろうかと、 内村鑑三が『代表的日本人』の中で言っているように思うと述べている(『100分de名著 内村 鑑三 代表的日本人』 P.25 NHK出版)。
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『詩経』と『古今和歌集』 “天地を動かし、鬼神を感ぜしむるは、詩より近きはなし” ― 『詩経』 大序 ↓ “天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思わせ、 男女の仲をもやはらげ、たけき武士の心をなぐさむるは歌なり” ― 『古今和歌集』 仮名序 『詩経』 目加田誠 訳、講談社学術文庫 (1991) 『新版 古今和歌集 現代語訳付き』 高田裕彦 訳、角川ソフィア文庫 (2009)
しかし、ここ数年、明治以降の日本の哲学者や仏僧がどんどん文庫化されている。 良い本が多いので、やはり、日本の出版社の知識はすごいのだろうと想像する。 出版に関わってる人が先に読んで理解しているはずなのだ。 田辺元、大西祝、波多野精一、井筒俊彦、山崎弁栄、鈴木大拙。 ぼくが気づいただけでもこれだけ。 本当に、どんどん良書が出ている。 岩波文庫になった哲学者たち。 2010年:田辺元選集 2013年:波多野精一 2014年:大西祝選集 2016年:鈴木大拙 2018年:山崎弁栄 2019年:井筒俊彦
柳田国男はタピオカを食べていた
「たとへば私の家の朝飯には、折としてタピオカを食ふことがある。」(柳田国男『民間傳承論』現代史學大系第七巻、共立社、1934、P76)
「〜するな」という禁止の「な」は、「な〜そ」の「な」に由来する。 この「な」は、中国語の「哪(那)ピンインnǎ」に対応しているだろう。 中国語−英語辞典を引くと、「哪」の英訳として、"where"、"which"、 "any"、"how"などが記載されている。ゆえに「どこ」、「どっち」、 「どの」、「いずれの」、「どのように」などの表現に対応すると考えら れるが、より単純には、「なに(何)」の「な」でもあると考えることが できるのではないか。「な〜そ」の「そ」の方は、「す(る)」という 動詞の古い命令形であるとされる。現代の日本語にするなら、「そ」は、 「〜して」という命令形に相当するのではないか。 すると、「な〜そ」は、「〜」を省いてつなげると「なそ」⇒「なぞ」 ということになるが、これは、古語において、反語として「どうして (〜するのか)?」という意味になる。「な」が、「どう/how」に相当 し、「そ」が「〜して」に相当すると考えるなら、「なぞ」が「どうして?」 になるのは当たり前のことであるとも言える。方言では、「なして(〜するか?)」 という言い方もある。したがって、禁止の「な〜そ」は、「どうして〜するのか?」 ⇒「〜しないでくれ」を表現していると解釈することができ、「〜するな」と いう禁止の「な」は、反語的な疑問に由来することになるだろう。
https://cjjc.weblio.jp/content/哪 ;
哪(那)
ピンインnǎ ⇒ [異読音] ・na,né;那Nā,nà
副詞 (反語文に用い,結果として否定を示し)どうして…であろうか,
…であるはずがない,…であるものか.
用例
天下哪有这样的事?=世の中に(どうしてこんな事があろうか?→)
こんな事あり得るはずがない.
明示的に輸入された漢語の場合以外に日本語と中国語の対応関係に気づきにくい とすれば、それは、漢字に頼り過ぎているからであり、さらに、単語の対応という 考え方に囚われて、言葉が表現であることを忘れているからだ。 また、日本語が。どれほど広く、深く中国語の表現を利用していたにしても、 日本語は、中国語が変化して形成されたものではない。そのような仕方で 日本語が形成されたなら、いくら中国語が地域的に多様であり、時代的に 変化しているとはいえ、中国語を学んだ人には誰にでも、日本語は中国語 のヴァリエーションに見えることになるだろう。中国語⇒日本語のような 「系統関係」で考えたのでは、あまりにも違いが大きすぎるので、日本語 の祖語は古代の中国語であるというような説が有力になることはなかった のだろう。 その一方で、古代に日本列島で全体で共通する何らか原日本語が話されて いて、その原日本語に古代の中国語の単語が大量に入ってきて広く用いられる ようになったのだと仮定するような考え方も説得力をもたない。無論、 日本列島で生活する人々は、いつの時代でも何らかの言葉を話していたはず であるが、それがどのような言葉であったのかは、日本列島で使われていた ことが現在、分っている言語から遡って類推する他なく、そのような言語 として知られているのは、現代の日本語につながる歴史的な日本語と、 アイヌ語として括られる言語しかないのである。しかし、歴史的な日本語は、 原日本語としてアイヌ語に近い言語を想定して、その発展形態として説明 できるようなものではない。
日本列島に住む人々が共通で原日本語を用いていたはずであるとするような 考え方は、その具体的な根拠を示すことができないかぎり、幻想に過ぎない。 しかし、歴史的な日本語は、日本列島という広い地理的範囲にわたって高い 共通性を見せている。その共通性は何によるのか。 「共通性を遡るなら、共通の祖先に辿りつくはずである。」そう考えるのが 系統論の発想である。方言の比較研究をしなくても、共通性の認められる表現 を比較検討するなら、「語源」と認識され得るような表現としての共通性を 類推することが可能となる。そのような類推によって「語源」と見なすこと ができるような表現の発音とイメージを抽出してみると、日本語の日常的な 表現の根幹を成すと感じられるような部分まで、中国語の表現との対応関係 を見出すことができる。にもかかわらず、既に指摘したとおり、日本語は、 中国語が変化して形成されたものであるようにはまったく見えない。 したがって、明白に現れていくる表現の対応関係にもかかわらず、中国語 の表現を、日本語の表現の「祖語」と呼ぶことはできないだろう。 日本語は、中国語をその言語的な祖先としているのではなく、中国語の 表現を利用しているのである。しかしながら、中国語の表現を利用する際、 利用する側の主体としての「日本語」は、「原日本語」と呼べるような身元 を有さないのである。だからこそ、中国語の表現を「日本語」に対する 外来の要素と見なして、それを取り除いていっても、「原日本語」が 正体を現すことはなく、その根幹であるように見える部分まで消え去って しまうのである。「原日本語」と呼べるようなものが存在するとすれば、 それはまさしく、中国語の表現を利用することの共通性によって形成され ているであり、その用法の様態こそが日本語の身元として認識されるのだ。 ウィトゲンシュタインを引くまでもなく、言葉の意味とは、その用法 であり、用法の共通性により、言語の共通性が「身元」として現れるのである。
仮に、古代の日本語と呼べる言葉の用法がほとんど全面的に中国語の 表現を利用したピジン語として形成されているとした場合、そのように 形成された「日本語」は、中国語に依存して自律性を欠いた二次的な 言語であることになるのだろうか。 そのように考えることは、中国語の表現をピジン語として流用していた 人々が、実は、中国語を話そうとしていた、つまり、自らの話し方が 中国語の規範を逸脱していることに気づいたなら、その都度、規範に 合せるように自らの言葉遣いを修正しようとしていた、と想定するなら、 確かに正しいだろう。しかし、そのような想定をしなければならない 根拠はどこにもない。 言葉の用法が、すべて他者の表現の流用に由来するという理由で、その 用法に自律性がないと見なすとしたなら、言葉の自律性、さらには 自律性そのものについての理解が間違っている。言葉は、それが 表現として通じてしまうなら、通じるように使われること自体によって、 否認しようもなく自律性を生じてしまうのである。
そのように否認しようもなく生じてしまう自律性の認知を抑圧し、隠蔽する ために用いられる常套手段が、そのような自律性の認知を、あらゆる規範の 受け入れの拒絶と等価であると見なして、暗黙にすり替えを行ったうえで 批判する、いわゆる「相対主義批判」であり、この常套手段は、一見、 それとはまったく無関係に見えながら、同じ抑圧と隠蔽を目的としてる チョムスキーの生成文法の思想の推進と手に手を携えて相補的に用いられ ているのである。
人は、組織が何かを推進しているのを見るとき、それがまったく無駄なこと に見える場合でさえ、単純に何かが目的に向かって推進されていると信じて しまう。そこに大きな錯誤と盲点がある。組織にとって、何かを推進している という名目で人々をそれに動員するとき、しばしば、最大の目的は、人々の 活動の抑圧と排除であり、明示的に掲げられる目標は、そのための空虚な 名目に過ぎない。
人々がいつでも、空虚な名目を容易に信じてしまうのは、組織が推進する 目標に向かって貢献しているように見えるように協力することが、組織の 下で生きる限り、自らの生活条件を優位に保つのにプラスに働くからである。 このことは、それまで属していた組織が転覆してしまい、人々が新たな組織 の管理下で生活することになって、それまでとは逆の名目が掲げられる ことになったとしても変わらない。
誰かが、その時に勇気を出して本当のことを発言していたなら、こんなこと にはならなかったのに、というのは常に幻想だ。多くの人は名目が、名目 に過ぎないことに既に気づいていたのであり、流れが変わっていたとした なら、それにすぐにでも鞍替えをする用意があったことは確かだろう。 だが、それが常態なのである。名目の空虚さに気づかされて、恥じ入って 黙り込むのは、せいぜい、掲げられる名目を本当に心から信じて、その 実現に自分が大いに貢献していると自負している「役に立つ馬鹿」だけだ。
「こんなことにはならなかったのに」と人々が反省を口にするとき、人々は 既に鞍替えを済ませている。そして、新たに掲げられる名目に自ら進んで 協力しているのだ。
少し前に以下のような書き込みをした。
>ところで、日本語の「う」という発音は、「表面」や「表面化」を
>想起させるように用いられており、この「う」の用法は、
>中国語の、「虚 ピンインxū」という発音とイメージをそのまま
>利用したものであると推測することができる。
>訂正します。発音としては、こちらの方ですね。
>
https://ja.wiktionary.org/wiki/ 虚
>閩南語 POJ: hu
確かに、日本語の「う」は、イメージとしては表面化を想起させる
ように用いられているが、中国語の発音との対応関係については、
この書込みは少し先走り過ぎて、歩みを誤っている。特に、
「ピンインxū」に対応すると思ってしまったのは、私がピンイン
の表記法を理解していなかったからだ。このため、日本語の「う」
と中国語の対応関係については、一筋縄ではいかない感じが強く、
さらに探ることをつづける必要性を感じていた。
特に難しいと感じたのは、万葉仮名で「う」に当てはめられている漢字が、 「兎/鵜」などの、中国語では「う」という発音と無関係の漢字の場合 を除いて、日本語の「う」の発音が多くの場合に想起させるイメージと まるで対応していないことがその理由としてあげられる。私には、中国語 の発音の歴史的な変化についての知識がないので、どのような経緯に よるものかは知らないが、万葉仮名で「う」に当てられている「宇」や 「羽」は、現代の中国語ではいずれも「ピンインyǔ」と発音される ようである。
「虚 ピンインxū」と「う」の対応に無理が感じられる一方で、
訂正として書き込んだ、閩南語の「虚」の発音である「hu 」と「う」の
対応関係には、それほど無理は感じられない。しかしながら、このように
恣意的に都合のよい対応だけを選び出してくることは、手続きとして
仮説のネットワークの形成を妨げる。そこで、閩南語の「虚/hu」を
手がかりに、「う」に、より無理が少ないように対応する中国語の
表現が見当たらないかどうかを探ってみたところ、日本語の「皮膚」
という表現における「膚(ふ)」に対応するように中国で用いられてている
漢字である「肤(膚)ピンインfū」に行き当たった。
こちらの方は、想起させるイメージにおいても、その発音においても、
日本語の「う」に対応し得ると考えて、それほど無理がないように
私には感じられる。
https://cjjc.weblio.jp/content/肤 ;
https://zh.hatsuon.info/word/肤 ;
https://www.wordreference.com/zhen/肤 ;
肤(膚)
fū 名 skin
肤(膚)浅(淺) fūqiǎn 形 superficial
こういう回り道をすることで、日本語の「浮(う)く」という表現の「う」も
中国語の「浮 ピンインfú」にそのまま対応していて、本来的に「表面化する
様態」、つまり、英語にするなら"surfacing"を表していることがはっきりと
理解でき、さらにそれが、「空虚である」ことを換喩として表現している
ことが分る。
https://cjjc.weblio.jp/content/ 浮
表面の,表に浮いた.
空虚な,中身のない.
https://www.wordreference.com/zhen/ 浮
(=表面上) superficial
浮面(麵)
(=空虚) empty
浮夸 fúkuā
>>435 私自身、以前に以下のように指摘しているので、なぜ、日本語の「う」に
対する中国語として「浮 ピンインfú」を真っ先に思い浮かべなかったのか
不思議だが、これを書き込んだ当時は、中国語のことなど念頭になかった
ので、連想のネットワークにおいてつながっていなかったのだ。
>同じ「さ」という要素が「さ(≒removing)る/さ(≒revealing)る」という
>関係で、同じ「う」という要素が「う(≒filling)め/う(≒surfacing)く」と
>いう関係で、それぞれ互いのインデックスとなるように用いられることを
>もたらしている。
単語の対応で重要なのは、身体関係の言葉といわれている。 その他は他の地域の文化からの影響の可能性があって、時代を遡ることが難しい。 面白いレスが続いているが、万葉集は朝鮮語(中国語)だった、というような安易な結論を導き出すことがないように気を付けてほしい。
中国の漢字として「う」の発音とは何の関係もない「兔/兎」や「鵜」が 日本語において「う」と読まれるのは、以前から指摘しているとおり、 これらの名称が、以前から指摘しているとおり、「表面化すること」≒ "surfacing"を表しているからである。 「鵜」が潜水艇のように水から「『浮かび上がってくる』動物」である ことをイメージするのは容易だろう。「兔/兎」が同じように「『浮か び上がってくる』動物」であることが直ちに感じられないとすれば、 それは、ペットとして飼われているような環境で飼育されている ウサギをイメージしてしまうからであり、言うまでもなく、古代の 「兔/兎(う)」は、草叢に身を隠して、時折、飛び跳ねて姿を見せる 野生のウサギを指しているのである。そのように姿を「垣間」見せる ことが、「ウ・サギ」の「サギ」によって表されているのであり、 この「サギ」は、古典で誤って解釈される、あるいは解釈が意図的に 捻じ曲げられて隠蔽されている「見さく」の「さく」と同じもの である。
>>437 そのような誤った理解に対しては、既に
>>424-426 で十分に答えている。
>>439 利用という概念では、ただの外来語の受容に過ぎないが?
>>438 ところで、「うさぎ」という名称が「う(≒表面化/surfacing)」+
「さき(≒裂き/間隙/interstice)」のようなイメージを想起させるもの
であることを理解すると、『古事記』に出てくる「稻羽之素菟」
(稲羽の素兎)の説話が、「うさぎ」という呼称を利用した
言葉遊びに基づいていることが分る。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 因幡の白兎
兎は、八十神に「海塩を浴び、山の頂で、強い風と日光にあたって、
横になっていることだ」と教えられた通りに伏せていたが、
海塩が乾くにつれ、体中の皮がことごとく裂けてきて
>利用という概念では、ただの外来語の受容に過ぎないが? 既に明確に答えているが、利用が日本語を形成している。 それ以外の外来語を除いた原日本語の存在は確認できない。
>>441 口承筆記である古事記に言葉遊びが入る余裕はないと思うが?
>>442 原日本語の存在を確認できないというのは、外来語の受容を日本語と外国語との類似と混同しているから、根拠が薄い。
特に日本語は、中国語と比べて著しく音数が少なく、一つの音で多数の意味を持ってしまっているので、偶然の類似多くなる。
万葉集は朝鮮語だったという議論を作った根拠が日本語の音数の少なさ。
>>445 日本語を論じるときの注意点を指摘してあげてる。
>古事記に言葉遊びが入る余裕はないと思うが? 言葉遊びだらけだが?
既に明確な具体例を詳しく例示しているし、それが理解できないようなら、 あなたに判定してもらう必要性がない。
>>449 古事記のウサギが言葉遊びだという根拠は皆無。
思い込みの決めつけが理解されないと怒るのでは、ただの子供だ。
だから、君の記述に注意を促した。
批判は、盲点を突くようなものであるなら役に立つが、結婚しても いない人間に対して、"Stop beating your wife!"と警告するような ものは、相手にする価値がない。相手にされなくて気分を害するなら、 別にそれはそれでいい。私の知ったことではない。
>>451 僕は気分を害したりしてないw
自分の論点の欠陥を指摘されて怒っているのは君のようだ。
冷静に自分の記述を考え直せばいいことだ。
言葉遊びの構図を見て取ることができないと文句を言っているのは あなたであり、何を考え直す必要があるのかまったく不明である うえに、自分がそれを認識できないからといって、不特定多数の 他の人々を代表してあなたが判断する必要性もない。そんな ことは、便所の落書きを目にする各自に任せればいいだけのこと なのだから。
>>453 >言葉遊びの構図
それが思い付きの決めつけ、つまり妄想だと言ってる。
便所の落書きとはいわないが、万葉集は朝鮮語でできているという思い付きと同じレベル。
だから、冷静に、自分の記述を考え直せと注意した。
別にあなたが私の書き込みを妄想だと感じるのは別に構わないですよ。 あなたに、不特定多数の人々の判断を代表してもらう必要がないという だけのことです。さらに、あなたがいくら私の書き込みを妄想である と強く感じたところで、それに同感するように私を導くことができる 根拠をあなたが示せないのであれば、考え直すべき理由は私にはない。
>>455 君の思い込みは他人の意見を寄せ付けない。
根拠がないから、自分の思い付きをどこまでも進めることができるからだ。
根拠のない話には、根拠がないと注意するしかない。
統失患者の幻覚を注意しても無駄だということは知っているが、君が統失患者であるとは思いたくない。
>統失患者の幻覚を注意しても無駄だということは知っているが、 >君が統失患者であるとは思いたくない。 あなたのような人には、統失患者だと思ってもらっていっこうに構わないし、 それどころか、注意することが無駄だと自覚してもらえる方がありがたいw
>>457 僕は、君を怒らせるために書いてるわけではない。
君が感情的にしか反応できなくなっているから、これ以上は書かない。
冷静になったときに、一度は読み返して自分の論の欠陥に思い至ってくれることを期待する。
言葉で表現するとは、事象がどのようであるか(という関連付け)と、 どのようでないか(という区別)が伝わるように徴候/合図を構造化して 使ふことである。
どのようであるか(という関連付け)と、どのようでないか(という区別)が うまく伝わるように構造化を工夫するのであり、構造化された徴候/合図の 体系によって、どのようであるか、およびどのようでないかが決まるのではない。 構造化された徴候/合図の体系性をできる限り乱さないように表現を工夫する のは、伝わる関連付けと区別において混乱が生じないようにするためであり、 体系性を規範として守ることによって、伝えようとする関連付けと区別が うまく伝わらないなら、それを逸脱してでも伝わるように、既存の体系を 変形/拡張しようとする試みが行われる。
うさぎの「体中の皮がことごとく裂けてきて」というエピソードは、 「う(≒surfacing)・さぎ(≒splitting)」という言語表現がどのような 様態を表す言葉として構成されているのかを、文脈をずらすことに よって伝えようとするメタ言語的なアレゴリーとなっている。
伝達の手法としてのこのような「言葉遊び」を、おやじギャグのように下らない 駄洒落のようなものと考えるべきではない。なぜなら、このような「言葉遊び」は、 単に「うさぎ」とうい呼称の由来を孤立したエピソードとして伝えるものでは なく、言葉の表現の一般的な分析となっているからであり、しかも、私が、 ここで英語を明示的にメタ言語として利用することによって行っているような 分析を、そのような分析として機能していることに気づかれずに「語り継がれる べき物語」として伝えているからである。
「うさぎ」の「う」が中国語の「浮(fú)」や「肤/膚(fū)」に対応するイメージ
を利用しているとするなら、「さぎ」、つまり、「さ(裂)く」という表現は、
どのような中国語の表現を利用していると考えられるか少し検討してみた。
万葉仮名では、「さ」に「狭」という漢字が当てられて用いられているが、
発音から見ても、それが想起させるイメージから見ても、「さ(裂)く」の
「さ」は、中国語の「狭(狹)ピンインxiá」に対応していると見てよさそう
である。
https://cjjc.weblio.jp/content/ 狭
狭(狹)
ピンインxiá
1(多く書き言葉に用い,単語・4字句を作り;幅・面積などが)狭い.
↔广,宽.⇒窄 zhǎi .
実際、そう想定して検索してみると、「宇佐神社」の「うさ」にも、
「菟狭」という漢字が当てられていたことが分る。
https://kotobank.jp/word/ 菟狭津彦-1057620
菟狭津彦 うさつひこ
古代伝承上の豪族。
宇佐国造(くにのみやつこ)の祖。神武天皇が東征し菟狭(大分県宇佐市)に
きたとき,菟狭津媛(ひめ)とともに駅館(やっかん)川の上流に一柱騰宮
(あしひとつあがりのみや)をつくり天皇をもてなしたという。高魂尊
(たかみむすびのみこと)(高皇産霊尊(たかみむすびのみこと))の孫とする
伝承もある。宇沙都比古,宇佐都彦命とも。
私は、このような事実関係を、あらかじめ学んで知っている知識に 基づいて検索して見出しているわけではない。推論の妥当性が仮説の ネットワークの形成を助けるのである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 因幡の白兎
>『因幡国風土記』は現存せず、『出雲国風土記』に記載はない。
>「稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)が淤岐島(おきのしま)から稻羽(いなば)
に渡ろうとして、和邇(ワニ)を並べてその背を渡ったが、和邇に毛皮を剥ぎ取ら
れて泣いていたところを大穴牟遲神(大国主神)に助けられる」
ところで、宇佐神宮のあった地の名前は「菟狭(うさ)」である。
https://www.weblio.jp/content/ 菟狭
菟狭
読み方:ウサ(usa)
宇佐神宮のあった地。
では、海を渡った対岸の地の名前は何だろうかと、地図で検索して
みると、山口県の宇部市、つまり、「宇部(うべ)」であることが分る。
そこで、「宇部(うべ)」という地名は、「宇佐/菟狭(うさ)」と何か
関係があるのだろうかと思って検索してみると、次のような記述が
見つかるが、地名が関係しているとは説明されていない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 宇部市
>859年(貞観元年) - 行教が宇佐神宮から石清水八幡宮へ八幡神を勧請する
途中で宇部郷琴芝の浦に行宮が設け、その跡地に村人が八幡神の分霊を祀る
(琴崎八幡宮の起源)。
さて、「た(食)べる」という表現は、「たう(食)ぶ」という古語に由来する と考えることができる。この場合、「たう(食)ぶ」の「〜ぶ」は再帰形を 表しているので、既に繰り返し指摘した私の想定では、中国語の「复(複) ピンインfù」を流用している。したがって、「食べ」の「べ」も、活用形 として発音は「ふ/ぶ」から変化しているものの、やはり「复(複)ピンインfù」 に相当すると考えられる。万葉仮名を調べると、「へ」の発音に「返」および 「反」が当てられていることが分るが、これは、そのように「へ」の発音が 再帰形の活用形として用いられていることを反映しているのではないかと 思える。実際、「か(交)ふ」に対して、「かへ(返)る」、「かへ(返/反)す」 という表現が存在する。 すると、「宇部(うべ)」という地名が「う(生/産/初)ぶ」という再帰形の 表現に関係するのではないかと考えても、必ずしもこじ付けとは言えないだろう。
現代語で「うぶ」という表現を聞いたとき、どのようなイメージを思い浮かべる だろうか。「うぶ」をGoogle検索すると、以下のように表示される。 うぶ 1. 【初・初心】 《名ノナ》まだ初々(ういうい)しくて、世間慣れが していないこと。すれていないこと 皮膚が「す(擦)れる」と硬くなって「たこ」ができる。「うぶ」を 英語の"naive"に対応すると考えるなら、その逆の「すれた」状態 は、英語の"callous"に対応することになるので、日本語も英語も 類似した隠喩を用いていることが分り、ここで、「うぶ」という表現 が「すれていないやわらかい皮膚」をイメージさせると考えても 問題ないだろう。
さて、ここで、「うぶ」の「ぶ」は、再帰形を表すものとして、中国語の「复(複) ピンインfù」に対応しているものと想定している。ここで、「うぶ」が 「すれていないやわらかい皮膚」をイメージさせることに留意し、さらに、 「菟狭(うさ)」の「う」が「肤/膚(fū)」に対応するイメージを利用していると 想定したことを思い起こすと、「うぶ」という表現に「肤复」という漢字を 当てはめてみることが思い浮かぶ。また、「ふ/ぶ」が活用形として「へ/べ」に 変化することを考えると、「宇部(うべ)」が「うぶ」から派生していると 想定した場合、「うべ」に「肤复」を当てはめても問題ないことになるだろう。
ところで、ここで発案した「肤复(うべ)」に対応するような中国語の表現は 存在するのだろうか。 「肤复」という漢字で表された表現は、中国語ではなく、日本語としても 存在しないので、当然、そのまま検索しても何もヒットしない。しかし、 ここで、「肤复」の表記を逆転して「复肤」にして検索すると、すぐに 化粧品に関連するらしい、「复肤堂化妆品 - 阿里巴巴」などの結果が 表示される。さらに、私は中国語を知らないので、「复肤」がどのような 意味で用いられているのかを知るために、「复肤 & 翻訳」で検索して みると、中国語「复肤」⇒日本語「スキンリサーフェシング」という 結果が表示される。もちろん、「スキンリサーフェシング」などという 日本語は存在せず、これは、自動翻訳で中間言語として利用されている 英語の翻訳結果、"skin resurfacing"にカタカナを当てただけのものである。 それでも、「复肤」がどのようなイメージの表現なのかは、英語を 知っていれば、すぐに理解できることになる。
ここで、さらに、"skin resurfacing"をGoogle検索してみると、"Photorejuvenation" について表示され、以下のように記載されている。 光線活性化は、レーザー、強力なパルス光、または光線力学療法を使用して皮膚の 状態を治療し、しわ、しみ、質感などの光老化の影響を取り除く皮膚治療です。 このプロセスは皮膚に制御された創傷を誘発し、新しい細胞を作り出すことに よってそれ自身を治癒させる。 ウィキペディア(英語) 「肤复」という漢字によって解釈した、「宇佐/菟狭(うさ)」の対岸の 「宇部(うべ)」という地名は、「因幡の白兎」のエピソードを彷彿とさせ ないだろうか。「うべ(宇部)」という地名は、「宇佐/菟狭(うさ)」という 地名と無関係なのか。古事記に記載される「素菟」の話と無関係なのだろうか。 大穴牟遲神が兎に「今すぐ水門へ行き、水で体を洗い、その水門の蒲(がま) の穂をとって敷き散らして、その上を転がって花粉をつければ、膚はもとの ように戻り、必ず癒えるだろう」と教えたので、そうすると、その体は回復 した。これが、稲羽の素兎(しろうさぎ)である。
日本語は、中国語の表現の構造化を変形することによってではなく、 中国語から借りてきた表現を、好都合に別の構造に組み替えること によって形成されている。だから、日本語の表現が流用したで あろう中国語の表現を見出すことは容易であるものの、日本語を 中国語の変形/ヴァリエーションとして解釈することはできないのだ。
日本刀を帯刀しない日本思想って 必然的にニヒリズムに行き着くと思うんだけど言い過ぎかな?
924 :世界@名無史さん :2019/11/21(木) 20:44:34.94 0
タイ語版の記事「戦艦大和」には
宇宙戦艦ヤマトと戦艦大和の比較図が付いている。
こうして並べてみると、艦橋の位置とか結構ちがうね。
925 :世界@名無史さん :2019/11/21(木) 20:53:03.20 0
前方からの視点の構図において
艦橋と大砲をワンカットに入れる為に中央に寄せたんだろう
創世神話の外在と内在 [外在] 天地(=世界、宇宙)を創る神 [内在] 天地から成る神、天地に成る神 “1:1 初めに、神は天地を創造された。 1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。 1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、 1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。 1:16 神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。” ― 旧約 「創世記」 1:1-5、16 “天と地とが初めて分かれた開闢の時に、高天原に成り出でた神の名は、 天之御中主神(アメノナカヌシノカミ)、次にタカミムスヒノ神、次にカムムスヒノ神である。 この三柱の神は、皆単独の神として成り出でた神で、姿形を現されなかった。 次に国土がまだ若くて固まらず、水に浮いている脂のような状態で、水母のように漂っているとき、 葦の芽が泥沼の中から萌え出るように、萌えあがる力がやがて神と成ったのが、 ウマシアシカビヒコヂノ神であり、次にアメノトコタチノ神である。” ― 『古事記(上)』 「天地の初め」 次田真幸、講談社学術文庫 (1977)
>>477 大川の解釈では、古事記は混沌から宇宙の生成へ、天地が自己展開していくものであり、
宇宙に内在する生命と力とが神として顕現するのだという。(cf.丸山眞男、本居宣長)
“この〔古事記本文冒頭の〕意味多き一節は、混沌Chaosが宇宙Cosmosに成り往く道筋を述べたものである。
古事記の世界観に就て注意すべき一事は、そが天地の創造を説かずして、天地の啓発、天地の開展を説く事である。
天御中主神は宇宙の根本生命、高皇産霊・神産霊〔高御産巣日・神産巣日〕の両神は宇宙の生成力の神格化である。
そは決して宇宙に超在する神にあらで、内在せる生命と力とが、神として顕現したのである。”
― 大川周明 『日本文明史』 p25 (臼杵陽『大川周明』青土社、2010、p220より孫引き)
日本創世神話の原型『淮南子(えなんじ)』 ・『淮南子:知の百科(中国の古典)』 池田知久 、講談社 (1989) 原文、書き下し、訳文 ・『淮南子の思想:老荘的世界』 金谷治 、講談社学術文庫 (1992) 解説と部分訳 “天地がまだ形づくられていなかったときは、 ただ何かがもやもやと漂い、ふわふわと浮かんでいるだけであった。 これを太始(大いなる始まり)という。 道がこの虚霩(漠然たる広がり)を作り出したのであるが、 やがて虚霩(カオス)から宇宙(空間と時間と)が生まれ、 宇宙(コスモス)から元気(万物の根源的な元素)が生まれた。 そして元気の中に二つのものへの分化が現れると、 清んで明るい気は、広くたなびいて天となり、重く濁った気は、凝固して地となった。” ― 『淮南子:知の百科(中国の古典)』 「11 天地創造」 池田知久 、講談社 (1989)
『古事記以前』 工藤隆、大修館書店 (2011) 日本神話の源流にあたるものとして、中国四川省イ族の創世神話「勒俄特依(ネウォテイ)」を全文紹介。 1. 前口上 大昔、上界の勒俄(ネウォ)は太陽と月を中心とする儀礼だった。 一方、下界の勒俄の中心は、雲、神と鬼、雲雀、虎、雄鶏、山と谷、水、蜜蜂、魚、ニシキドリ、竹鶏、猿、暴風だった… 2. 天と地の系譜 大昔、空にも大地にも穴が無く、空も大地もそれぞれが四方に繋がっていた。 空も星も無く、大地も草も無く、中間に霧も無く、周囲に空間も無く、あれも無くこれも無く混沌としていて、煙霧が立ち込めていた… 3. 天地開闢 天と地がまだ分かれていなかった時、上界には四十八体の神が、下界には二十四体の神が住んでいた。 大きな石の板の下には阿旨(アジュ)という蛙神が住んでいて、天と地をわけるために九年と九か月も鳴き騒いだ… 神話の類型整理にとどまらず、工藤は長江流域を中心とする「歌垣文化圏」をも想定している。 日本の記紀歌謡や万葉歌が七五調で歌われるのに対し、 同じく母音で終わるイ語の創世神話「ネウォテイ」は五音を中心に歌われている。 これらと似た定型・音数律を持つものとしては、 雲南省ペー族の七七七五+七七七五音であるとか、 江西省チワン族の五音、湖南省ミャオ族の七音、モソ人の七音が挙げられている他、 ブータンの四音や沖縄の六・八音も「休止」を含めて数えることで同類なのだという。
意味ないっす。そういう神話や物語なんていう女子供の読む読み物は。
天地の始まり、という神話はどこにでもある。 自己の立場の正統性を必要とする支配者が周辺環境を自分の正当性に結び付けるために作り上げる。
工藤は
>>480 の中で、神話の強度を8段階のレベルに分けて説明している。
共同体の祭式の中での生きた神話のあり方を最高レベルの第1段階とすると、
原型性が薄まった『古事記』は第7段階、
文字と国家意思によって権威づけられる『日本書紀』などは第8段階のものだという。
身内の不幸をはじめとした次々と自分に降りかかる災厄にへこたれず思索し続けた人 ってだけでも西田は凄い人だと感じられる。
西田はこちらで解説書から全集の通読までやってる
【西田】京都学派・近代日本哲学総合スレ【西周】 [無断転載禁止]©2ch.net
http://2chb.net/r/philo/1494594731/ 有名な歌が多く、百人一首の元になっている『古今和歌集』と『新古今和歌集』はペアでやる。 それより古い形になるのが『万葉集』。 迷ったら、この三つは、角川ソフィア文庫にあるものが、手軽で註もしっかりしている。 その他は、講談社学術文庫、新潮日本古典集成など。
『百人一首の秘密:驚異の歌織物』 (1981)
『百人一首の世界 新装版』 (1986)
林直道、青木書店
百人一首をテーマ毎に10×10に並べると、一枚の大きな絵になるという話。
↓
↓
哲学の世界では丸山圭三郎が取りあげた(『丸山圭三郎著作集3』「言葉と無意識」)。
ソシュールのアナグラム研究と比較をして。
井筒「私は、元来は新古今が好きで、古今、新古今の思想的構造の意味論的研究を専門にやろうと思ったことさえあるくらいですから」 ― 井筒俊彦×司馬遼太郎「二十世紀末の闇と光」
『未来哲学:創刊号 特集・未来哲学とは何か』 未来哲学研究所 (2020/11/25) 末木文美士、山内志朗、中島隆博 思想の冬の時代に、あえて船出する思想誌です。希望を語ろうとするのではありません。 そのこと自体が主題となるほどに困難であるからこその挑戦──手がかりは、非西欧の思想圏への、あらためての着目です。 イスラーム、東アジア、ロシアその他の地域の見えなくされた可能性を掘り起こし、思想の風景を描き直すカギを探します。 希望とは何か、終末とは何か。一つの大きなサイクルが巡り終えたかのような、薄暮に閉ざされた時節を超えるために。 <特集・未来哲学とは何か> 前近代・ポストモダン・超近代、あらためて一つの時代区分ではない、思想の、生き方の「近代」を問う。 創刊の言葉 〈哲学〉は〈未来〉に船出できるか? 末木文美士 特集 未来哲学とは何か 1 通底する存在と情念──中世から未来を問うために 山内志朗 2 未来哲学としての東洋哲学 永井 晋 3 来者を思う──哲学の希望 中島隆博 対話 時間軸上の希望とフロンティア──世界哲学と未来哲学 中島隆博・納富信留 コラム 太古の化石林、未来の生態系 辻誠一郎 『バビロン天文日誌』と未来予知学 三津間康幸 二〇世紀の天動説──ロシア宇宙主義のヴィジョン 細川瑠璃 論考 仏教認識論の射程──未来原因説と逆向き因果 護山真也 存在と本質──中世的なるもの 小村優太 AI・仏性・倫理 師 茂樹 モノたちが互いに区別されて存在している世界 法貴 遊 ──アシュアリー学派の行為論と偶因論── 革命・国家・悪──田辺元の実践哲学 田島樹里奈 書評と対話 思想史を書く枠組みをめぐって 葛兆光+末木文美士
185考える名無しさん2020/11/29(日) 11:21:34.350
「『ぢ/じっ』としていろ(≒"hold still")」や「『ぢ/じっ』と見つめる(≒stare at/gaze into)」などの表現における「ぢ/じっ」が流用したのは、中国語の「执(執)ピンインzhí」となった表現だろう。
https://en.wiktionary.org/wiki/ 執#Chinese
Middle Chinese: /t͡ɕiɪp̚/
Old Chinese (Baxter–Sagart): /*[t]ip/, (Zhengzhang): /*tjib/
Min Nan (Hokkien, POJ): chip, (Teochew, Peng'im): zib4
それに関連しているのが、日本語にも漢語として取り入れられている
「蟄居(ちっきょ)」の「蟄」という表現である。
https://en.wiktionary.org/wiki/ 蟄
>>492 沖縄には「勢理客」という地名がある。なんと読むのだろうか。
その答えは、「じっちゃく」である。
「じっちゃく」が表現として何を表していたにせよ、それを表記するのに
用いられている漢字「勢」を構成する「埶」が、「執」とよく似ている
うえ、「じっ」と読まれていることから見て、共通する表現であり、
なんらかの中国語の表現の流用である。実際、中国で用いられる漢字を
参照すると、「埶」と「執」はともに「执」として簡略化されて表記される
場合があることが分かる。
したがって、
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 勢理客
>「じっちゃく」という読みは、「せりきゃく」の沖縄方言(母音の「e」→「i」、
子音の「k」→「ch」)読みである「しりちゃく」が、濁音化・音便化したものである。<
という一般に流通している説明は、誤りであるか、あるいは意図的な隠蔽であるものと
私は考える。
https://userweb.mmtr.or.jp/sumiyoshi-do/tetugaku (jinsei)17.htm
>縦欲之病可医、而執理之病難医
>縦欲の病は医すべし、而して執理の病は医し難し『菜根譚』
「執」の代わりに簡略された「执」で「执理」を検索すると、 多くのサイトがヒットする。 >「法执重而不去践行佛法,便是执理废事」
「勢理客(じっちゃく)」の「勢」は、本当は「執」と表記されるべきもの
であったのではないかと仮定して、「執理客」と書き換え、さらに
「執」を現代の中国で用いられる簡体の「执」に置き換えて「执理客」を
検索すると2件だけヒットするようだが、私は中国語を知らないので、
それがどのような用例なのか明確には分からなない。ただ、
「勢理客(じっちゃく)」が「执理客」に対応すると想定した場合、
「執/执」は、「執念」のように「執着」の意味合いや、
「『じっ』としている」のように「保持された様態」を表すように
用いられているのではなく、「執行」のように「執り行う」ことを
意味するように用いられているのだろうと思われる。すると、「客」
は、「ゲスト」というよりは、「刺客」や「論客」などのように
>ある能力で生計を立てる者<
https://ja.wiktionary.org/wiki/ 客
や、あるいは、「あるカテゴリーの人々」を表すように用いられている
のではないかと推測される。ただし、「勢理客(じっちゃく)」が
実際にそのような表現として地名となったのかどうかは、当然のことながら、
歴史的な検証が必要である。
「あし(足)」や「葦(あし)」が、「あしひきの(≒”lofty”)」の場合と同様に
「高く離れている」ことを表現していることは、既に何度も指摘してきた。
587考える名無しさん2020/10/06(火) 09:33:41.340
話が横に逸れてしまったが、ここで問題にしているのは、指示詞の「あ」であり、
「あなた」の「あ」である。この「あ」は、中国語では「岸ピンイン àn」
(1(そそり立って)高い.2 尊大である.⇒傲岸 ào’àn ) として用いられた
表現の流用であると考えられることを、私は以前から指摘してきた。
https://en.wiktionary.org/wiki/ 岸
Old Chinese
(Baxter–Sagart): /*[ŋ]ˤa[r]-s/
(Zhengzhang): /*ŋɡaːns/
現代の日本語で用いられる「岸」という漢字からは少しイメージが湧きにくいかもしれないが、関連する漢字として用いられてきた「崖」をイメージしてみるといいだろう。ちょうど、水面(みなも)から、そそり立つ断崖を見上げるイメージである。想定される古代の発音が「岸」と近い「仰/卬」の用法もそれに関連しているはずだろうと私は思う。
https://en.wiktionary.org/wiki/卬 ;
卬
(literary or old-style Xiang) I
Alternative form of 昂 (áng).
to raise
high
To admire, or look up to (someone)
ところで、「勢理客(じっちゃく)」には「神アシャギ」と呼ばれるものが存在する。
「あしゃぎ」は、現代の標準の日本語の発音にすれば、「あしあげ」に相当し、
その語源は、「民間語源説」によって以下ように解釈されているとのことである。
http://yannaki.jp/kamiasagi01.html >神アサギは地域によってアシャギやハサギと呼んでいる。その呼称から「屋根に
足をつけてあげる」ことに由来するとか、「神にご馳走(アシ)をあげる場所」
だからという。久志の汀間や大浦や瀬嵩などの神アサギはかつて海浜や潮がくる
場所にあったことから「足上げ」だと解しているようである<
言うまでもなく、表現を素直に解釈するなら、「神アシャギ(あしあげ)」の
「あし」も、枕詞の「あしひきの」の「あし」と共通であり、「高く離れた様態」
を表現しており、「あげ」は、そのまま「上(あ)げ」であり、
「神アシャギ(あしあげ)」は、単に「神を高く上げること」つまり、
「神をうやま(敬)/おが(拝)む行為のための場所」を意味している。
本当はよく分かっているはずのことを隠蔽しようとするから、簡単に解釈可能な 表現も「由来のよく分からない不明な表現」とされ、さらにそれを語呂合わせで 説明する民間語源説が、誤誘導のために一般に広められるのである。
>>498 「アシャギ(あしあげ)」という言葉をイメージするのに、例えば、
用法は異なるものの、「高揚/昂揚(こうよう)」という表現を考えてみるといいだろう。
放送終了後の長谷川博己も、そのことを匂わせていた。
長谷川博己さんから、みなさんへ。ラストメッセージをお届けします。
https://twitter.com/nhk_kirin/status/1358400195889946625?s=19 ・光秀は生き延びたんだと信じたい
・番外編でお会いできたら嬉しい
・このあと、どうやって光秀は江戸幕府を作ったのか?
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
説の真偽はともかくとして、
↓などは、タイトルと重なる。
天海所用とされる兜『麒麟前立付兜(きりんまえだてつきかぶと)』
『現代思想 2020年1月臨時増刊号 総特集=明智光秀』 エンゲルスの『ドイツ農民戦争』の話とか
歴史はこうやって哲学を以て読むべき ロマンではなくて
377考える名無しさん2021/02/08(月) 13:19:12.240 振る舞ひに伴って生じる"accountability"に人々を納得させられる ような形で都合よく応える物語("storytelling")が歴史である。
『朝鮮思想全史』 小倉紀蔵、ちくま新書 (2017) 朝鮮思想史を概観すると、思想の純粋性をめぐる激烈な闘争が繰り返し展開されてきたことがわかる。 思想闘争は政治闘争と直結し、その様相は朝鮮時代の儒教や、解放後の韓国と北朝鮮のイデオロギーに典型的に見られる。 そしてその思想の純粋志向性はやがて運動となり、国家や共同体の成員の肉体的生命を超え 「朝鮮的霊性」が燃え上がる―それが現代の韓国・北朝鮮の激烈な思想運動にもつながってきた。 朝鮮思想をできるだけ客観的に捉え、全体を俯瞰するはじめての試み。 第1章 朝鮮思想史総論 第2章 神話および「古層」 第3章 高句麗・百済・新羅 第4章 高麗 第5章 朝鮮時代1―朱子学(性理学) 第6章 朝鮮時代2―「実学」、陽明学、儒教以外の思想 第7章 朝鮮末期および大韓帝国 第8章 併合植民地期 第9章 朝鮮民主主義人民共和国 第10章 大韓民国
『人物でみる韓国哲学の系譜―新羅仏教から李朝実学まで』 金教斌、金明順 訳、日本評論社 (2008) 韓国に哲学があるのか??教え子の質問に衝撃を受けた著者が構想10年、 誰もが予備知識なしに読める韓国伝統哲学の入門書。 思想家を中心に韓国の思想をわかりやすく書いた一冊。 第1章 韓国哲学の道 第2章 元暁―韓国仏教のルーツ 第3章 知訥―至誠を尽くしても砂でご飯は炊けない 第4章 花潭・徐敬徳―ヒバリを眺めて年を送る 第5章 晦斎・李彦迪―論争を通じて性理学を根づかせる 第6章 退渓・李滉―人が馬を行かせるのか、馬が人を行かせるのか 第7章 栗谷・李珥―王の上には民衆が、民衆の上には米が 第8章 霞谷・鄭斉斗―わが心こそ万物の理致 第9章 燕巖・朴趾源―激動の人生を歩んだ北学の祖 第10章 茶山・丁若〓(よう)―土地は、農民にあらずんば所有すべからず 第11章 現代における韓国哲学
『現代思想 2021年5月臨時増刊号 総特集=陰陽道・修験道を考える』
>>514 この雑誌もやること減ってきてだんだんムーみたいになってきたな
>>517 マニア以外に哲学を好む人はいないかも。
歴史なら、普通の人が話に乗ってくることもあるけどな 一般人との会話で哲学を話題にするのは、まず無理だ
>>515 陰陽道 → 易 → 『易経』「繋辞上伝」 → 形而上学
東洋哲学の根本
伊藤 仁斎(いとう じんさい、寛永4年7月20日(1627年8月30日) - 宝永2年3月12日(1705年4月5日))は、江戸時代の前期に活躍した儒学者・思想家。京都の生まれ。 『論語』を「最上至極宇宙第一の書」と尊重した。 初めは朱子学者であったが、後に反朱子学となり、孔子・孟子の原義に立ち返る「古義」を標榜した。 古義学(古学)を提唱し、主著として、『論語古義』『孟子古義』『語孟字義』『中庸発揮』『童子問』。 仁斎の学問手法は、当時支配的だった朱子学的経典解釈を廃し、直接テクストを検討するというものである。 朱子学は学問体系としては非常に整ってはいたが、その成立過程に流入した禅学や老荘思想といった非儒教的な思想のために経書の解釈において偏りがあった。 仁斎はそのような要素を儒学にとって不純なものとみなし、いわば実証主義的な方法を用いた。 このような傾向は同時代の儒学研究に共通にみられるものである。仁斎は朱子学の「理」の思想に反して、「情」を極的に価値づけした。 客観的でよそよそしい理屈よりも人間的で血液の通った心情を信頼している。四端の心や性善説を唱えた。
江戸城には将軍直属の儒学者の詰め所があった 官職で式部大輔、式部少輔、大学頭、紀伝博士、明経博士、明法博士、算博士、音博士、書博士、侍講などに就けたのは伝統的に儒者だけだった
γνῶθι σεαυτόν/nosce te ipsum/ Know thyself/我(が="self")としての汝/己(な=羅)を知れ
「〜を!」/《vouloir》がかなは(叶/適/敵)ないことがかな(哀/悲)しいからといって、 「わ(侘/詫)ぶ」こと、すなわち、「みづから(身づ柄/自ら)の我(が)が委縮する」 ことを理想とすることなかれ。「わ(侘/詫)ぶ」ことを「我(が)」の究極的な 理想とすることは、生きることに反する。
JDSC 東大ベンチャー AI企業、この国は変えられる。これからは、AI時代です
https://jdsc.ai/mission/ この国は変えられる
これからは、AI時代です。AIの活用で、日本は変えられる。
アップグレードできる。AIの活用の活用がキーです
JDSC 東大ベンチャー AI企業 加藤 エルテス 聡志
MISSION:この国は変えられる。
わたしたちは、日本をアップグレードする。
この国の未来を憂えるのではなく、変えるために、私たちは、日本の英知を結集する。
東京大学の知を社会に還元する
ビッグデータ、機械学習、IoT、ロボティックスなど、デジタル領域で東京大学は膨大な知見を有しています。
JDSCは東京大学の複数の研究室と協力し、知の社会還元と実装をリードします。
2022年 テンバガー候補
JDSC 4418
AI銘柄で、東大からみ
AI分野の成長は、まだ始まったばかり
半導体株の成長が何年も続いたと同じ
今後のAI分野の成長、楽しみです
AI通信@ 今、投資対象として「AI」をどう見るか? 日興證券
https://www.smbcnikko.co.jp/products/inv/toshin_lab/column/002.html AI関連企業の成長物語はまだ始まったばかり
官民の積極的な取り組みが加速するAI
https://manyoshu-japan.com/10059/ >原文:奈我波伴尓 己良例安波由久 安乎久毛能 伊弖来和伎母兒 安必見而由可武
>訓読:汝が母に嘖られ我は行く青雲の出で来我妹子相見て行かむ
>かな:ながははに こられあはゆく あをくもの いでこわぎもこ あひみてゆかむ
>訳:あんたの母さんに叱られて私はすごすごと退散する。でも青雲のように
そっと出てきておくれ私の彼女。一目見て行きたい。
>>523 中国語の漢字の用法として「情」が「心+青」であるのは、
それが「心の行(ゆ)きの深さ」を感じさせるものだからだろうか。
青が深海と結びつくならそうかもな。 それにしても、原武史って今放送大学で教えているんだな。気づいていなかった。
江戸時代以前の原子論、宇宙論、世界観に関心あり。 わかりやすい本、雑誌記事教えてください
デジタル源氏物語「AI画像検索」がリニューアルされました!「源氏物語」諸本の検索の利便性を高めるため、くずし字OCRを活用した検索結果を提供してきましたが、対象資料数が約30点に増えました。読みたい個所を効率的に探したいときなどに是非ご利用ください。
https://mobile.twitter.com/UTokyo_GenLib/status/1552094645282549760 https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
日本あああああああああ!の劣化コピー推進委員会(にほん-れっか-すいしんいいんかい,Nihon Aaaaaaaaa! No Rekkacopy Suishin Iinkai 略称NARSI)とは日本在住の活字フェチ達の有識者会議である。彼らは非常に平仮名を愛好しており、平仮名の最初の文字である「あ」を信仰・崇拝する過激派あ教徒である。この委員会のメンバーは主に夜行性動物であるモモンガ、ヤマネコ、コウモリ、アイアイ、タスマニアデビルなどからなる。彼らの指はキーボードを打つのには不適切だが、人間に改造されてロボットアームを取り付けられたサイボーグアニマルであるためノープロブレムである。 彼らと同様の団体は全世界に存在しており、AAAAAAAAA! Association; AAと称される超国家結社である。彼らの正体はスーパーハッカーである真のVIPPERやNEONEETと呼ばれる大富豪であるため、アンサイクロメディア財団へ大金を寄付して管理権を「買う」ことが可能である。 彼らはなぜかウィキペディアンに恐ろしいまでの怨念を抱いており、ウィキペディア攻撃用に田代砲などのF5兵器を大量に隠し持っていると言われているが、彼らは米帝の陰謀であるとして真っ向から否定している。
朝鮮語で「置く」を意味するように使はれる「두다」の「두」と日本語の「あと(跡)」の「と」の間には、前者の声には漢字の「斗」(万葉仮名では、甲類の「と」に当てられる)が対応するものとされ、「跡」は、万葉仮名では、乙類の「と」に当てられるという違ひがあるものの、共通性が感じられる。 これは、朝鮮語と日本語の間の関係というよりも、中国語とも共通する表現における声の用法にその基盤があるのだろうと思う。
>「把」(bǎ)というのは簡単に言うと日本語の「〜を」という助詞です。 日本語では修飾する目的語の後に「を」という助詞が来ます。 「把」構文完全マスター!中国語学習における使い方と注意点 このように説明されているけれど、表現法としては、日本語の「〜を」は、中国語で介助とされる「把」(bǎ)には対応していない。 むしろ、日本語の「〜は」の方が、中国語の「把」(bǎ)に対応する表現の流用であると見る方が自然ではないのか。
朝鮮語の「혹시 • (hoksi)」の「시 」が「或是」の「是」であるように、日本語の「も(若)し」などの「し」も「是」だと思うが。
「そんな・に」の「に」も、「彼呢」のように台湾語では、「呢」で表記される「昵/暱(Middle Chinese: nrit)」の流用だろうし。
「〜や」の「や」は、そのまま「也(Middle Chinese: yaeX)」だし(「である『是』」)。
国語学/日本語学は、とても不正直だと思う。 岩波古語辞典には、どうみてもこじつけの無根拠な朝鮮語起源ばかり記載されているし。
「ひとつ、ふたつ、みっつ」の「つ」も、数詞が中国語の表現をそのまま使っているのだし、「次々」が「つぎつぎ」と読まれるのだから、「つ(次)」だよね。
「〜が」の「が」が、同一性を表現するように流用された「我」であることは以前から指摘してきた。 こうして、逐一、対応関係を洗い出していく作業は、中国語との対比において日本語の表現がどのように形成されているのかを明確に意識するためにも大切だろうと思う。 その作業を丁寧に進めることで、印欧諸語の表現との意外な対応関係も明らかになる。例えば、日本語の「ぬ(貫)く」などの「ぬ」のこゑ(声)は、中国語の「路」、「露」、「漏」、などに使はれる"Middle Chinese: luH"や"Middle Chinese: luwH"などのこゑ(声)に対応していると考へられるが、この後者の声は、例えば、英語の"luck"などの表現における声の使はれ方と共通して、「通り『ぬ』ける様態」を想起させる。
日本語の「わ」、「ゐ」、「ゑ」、「を」について考へてみても類例がすぐに思ひ当たるはずである。
例えば、逆方向で、英語の"way"を日本語の平仮名で「ゑゐ」に移してみると、そのこゑ(声)は、すぐに中国語の「外((Pinyin): wài (wai4))/(Middle Chinese: ngwajH)」という表現を想起させることになるだろう。
「怨(ゑん)」は、うち(内)にこもると「悪(あく)」にかは(変)り、「鬼(おに)」として姿をあらは(顕/現)すようになる。
「ゑゐ」は、"way"の平仮名への転記としては正しくなく、より適切には「ゑい」だが、「ゑゐ」に移してみることは、"way"という表現の"away"や"way-out"としての用法を捉へるのに役立つ。
英語の"want"と、中国語の「願(Middle Chinese: ngjwonH)」と、朝鮮語としての「원(願) (won)」の流用と、日本語の「〜を」という願ひは、こゑ(声)の使ひ方としても互いによく対応しているだろう。
言語系統論には、「それなりの妥当性」が認められるが、しかし、それはやはり「それなり」のものでしかなく、どのような基準により言語が同系統であると分類されるのかは、その考え方の根本においてそれほどはっきりしていない。 「そんなことはない、異なる言語の間で『基礎的な語彙』を比べて、規則的な音韻対応が認められるなら同系統の言語と認められるのだ」という反論があるかもしれないが、そもそも、「語彙に使はれる音韻に規則的な対応関係が認められるとはどのようなことなのか」について十分に深く考察されているとは言い難い。 無論、ラテン語、イタリア語、スペイン/ポルトガル語、フランス語が「同系統の言語」として認められることや、中国大陸の公用語とされる中国語と台湾の台湾語が「同系統の言語」として認められることを否定する人はまずいないだろう。 しかし、逆に、何がどれだけ異なっていれば、別系統の言語であることになるのかは、それほどはっきりしない。 また、系統を判断する際に、比較の対象として「『借用語』は排除する」ことになっているが、どのような表現が「借用語」であり、どのような表現が「固有の語彙」であるのかを分ける明確な基準があるわけでもなく、そのような明確な基準が存在するかのように決めてかかること自体が、「ことばを使ふとはどのようなことであるのか」について根本的に誤った考え方に人を導くことになる。
>訓読み 訓読み(くんよみ)とは、日本語において、個々の漢字をその意味に相当する和語(大和言葉、日本語の固有語)によって読む読み方が定着したもの。 (ja.wikipedia.org/wiki/訓読み)
このように、日本語の「訓読み」は、一般には、和語に対応する意味の中国語の漢字を当てたものであると理解されている。 そのように考へると、「音読み」の方は、それが日本語の発声により変化させられているにしても、中国語における漢字の読み方に対応するものとされ、中国語としての漢字にはその「正しい読み方」が決まっているものであるかのように思える。 その一方で、中国語の「方言」、例えば、台湾語の漢字表記を見ると、公用語としての中国語の漢字の読み方には対応しない「当て字」が多く見られる。 例えば、台湾語で「〜している」を表現する"teh"(教会ローマ字表記)や、「〜にある」などの場所を示す表現である"ti"を表記するのに用ゐられる「在」は、公用語の中国語の漢字の用法から見れば、「当て字」だろう。 これらの「こゑ(声)」の用法から見るなら、これらに対応する漢字として、私には「在」よりも、むしろ、「佇」のような漢字の方が想起される(それが適切であるかどうかは別として)。 しかし、では、翻って、公用語の中国語として使はれる漢字の読みについてはどうなのかと言へば、それぞれの読みが公式に定められているとしても、原理的には、やはり、ことばとして使はれるこゑ(声)を適切に表記するために考案されて慣習的に用ゐられるようになった「当て字」であることになるはずである。
例えば、日常語としてもよく使われる「枠(わく)」という表現について考へてみるといい。 「枠」は、中国では用ゐられない日本で独自に考案された「国字」である。 では、「枠(わく)」は、和語だろうか、漢語だろうか。 「枠外(わくがい)」、「枠内(わくない)」、「予算枠(よさんわく)」のような表現を見ると、漢字の音読みと組み合わされているのだから、漢語であるようにも見える。 その一方で、「窓枠(まどわく)」、「大枠(おおわく)で」、「外枠(そとわく)」を「窓枠(そうわく)」、「大枠(だいわく)」、「外枠(がいわく)」と読む人はいないし、「枠(わく)組(ぐ)み」とは言っても、「枠組(わくそ)」とは言わない。 このことから見ると、「枠(わく)」は、漢語ではないものとして意識されていることになるだろう。 これについて、また後でさらに書き込むことにする。
ひと(人/一)として「気まま」であろうとすること、すなはち、「任(/認)性」を具現化しようとすることにこそ、ひと(人/一)としての「まともさ」/"integrity"の追求がある。
>>554 さて、「枠(わく)」は、漢字の訓読みだろうか、音読みだろうか。
「枠外(わくがい)」、「枠内(わくない)」、「予算枠(よさんわく)」などにおいては、音読みされる漢字の表現と一体化するように組み合はされているのだから、「枠(わく)」も音読みであるように感じられる。
これに対して、「窓枠(まどわく)」、「大枠(おおわく)」、「外枠(そとわく)」、「枠組み(わくぐみ)」などにおいては、訓読みされる漢字の表現と組み合はされているのだから、「枠(わく)」も訓読みであるとするのが自然である。
ところで、「音読み」とは、その定義上、中国語として用ゐられる漢字の日本における漢語として読みとされるのだから、「枠(わく)」という漢字が中国で用ゐられてきたものではなく、日本で考案された「国字」であることから、「枠(わく)」は、定義上、音読みではあり得ないことになり、Wiktionaryの記載を参照してもやはり、「枠(わく)」は、「訓読み」であると記載されている。
「国字」の読みを「音読み」とすることは認められないということだろう。
しかしながら、「枠 - ウィクショナリー日本語版」を参照すると、 >「わく」は糸枠を意味する「篗」の字音であろう。 意義 1. いとわく。まわして糸を繰るのに用いる、木を組み合わせた道具。 2. わく。いとわくの様に、木を組み合わせて周囲を囲むもの。 とも記載されている。ここで「いとわく」を漢字表記するのに「糸(いと)枠(わく)」ではなく、「糸(いと)篗(わく)」と表記し、この事例に限らず、一般的に「枠(わく)」という国字を「篗(わく)」で置き換へたなら、例えば、「窓枠(まどわく)」ではなく、「窓篗(まどわく)」と表記することにしたなら、「窓(まど)」は訓読みのままであるものの、「篗(わく)」の方は、その定義上、音読みということになるだろう。
ところで、「窓枠」や「型枠」が「そうわく」、「けいわく」と読まれるのではなく、「まどわく」、「かたわく」と読まれるのはなぜだろうか。 そもそも、「篗(わく)」という漢字が既に存在するのに、わざわざ日本語独自の「枠(わく)」という「国字」を考案したのはなぜだろうか。 それは、「わく」が、既に漢字としてどのように表記されるのかとは無関係に「日本語のこわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として通用するようになっていて、「篗(わく)」と表記すると、ただちに「糸を巻き取る道具」としての「篗(わく)」が想起されてしまい、不都合が生じたからだろう。 「わく」の用法に対して「篗(わく)」という漢字表記が適当であるとは感じられなくなっていたからこそ、「枠(わく)」という別の漢字を新たに考案することが要請されたのだろう。
その時点で、「枠」と表記することが適当であると感じられる「わく」という「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」は、既に中国語として通用する表現である「篗(わく)」を離れて、日本語として独立した表現となっている。 しかし、日本語としてだけ通用する「わく(枠)」が中国語の表現としての「篗(わく)」から独立したことは、これらのそれぞれの「こゑ(声)」の用法の対応関係が失はれたことは意味していないことに留意することも、極めて重要である。 「わく(枠)」は、日本語の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として独立して通用しているのだから、それがもとは、中国語の表現としての「篗(わく)」の流用であったとしても、その中国語の表現に依拠する「借用」ではない。 その一方で、日本語として意識されるようになったこの「わく(枠)」は、にもかかわらず、依然として、中国語の表現としての「篗(わく)」の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」と、そのそれぞれが想起させるイメージにおいて対応関係を保っている。 さらに具体的に説明しよう。
日本で中華鍋として知られる滑らかなドーム状の円形の鍋のことを、英語では"wok"と呼ぶ。 "wok"の"o"の発音は、日本語の母音に移そうとすると、「あ」とも「お」ともつかない中間的なものなので、日本語を母語とする人がその発音を聞くと、「ワク」と聴こえるだろう。 ところで、この中華鍋を指す英語の"wok"は、言ふまでもなく、その鍋を指す中国語の表現の借用である。 Wikipediaで「中華鍋」の項目を参照すると、次のとおり記載される。 >広東語では「鑊」となる、英語も鑊の音をそのままに訳して「ウォック、wok」と呼ぶ。 もう気づいただろう。「鑊(Middle Chinese: hwak)」("wok")は、「金*蒦」という構成だが、「篗(わく)」は、「竹*蒦」という構成であり、これらの「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」は互いに共通している。
ここで、日本語の「わく(枠)」という表現まで含めて、これらの「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」がなぜどのように互いに共通しているのかについて説明することはたやすい。 「篗(わく)」については、岩波古語辞典を参照すると、「糸を巻き取る道具。軸木のついた枠(わく)を回転させながら巻き取る。」と記載される。 要するに、「ぐるりと回(まは)す(ことによりその周囲に糸を巻き取る)道具」である。 その道具を指すことを意図する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」が、「鑊(Middle Chinese: hwak)」("wok")や「わく(枠)」を指すことを意図する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」とどのように共通するのかは、 例えば、スペイン語の"contornear"という動詞について考へてみれば、直観的にすぐに分かるだろう。 >contornear 1. ...の輪郭を描く、スケッチする 2. 周囲を回る。contornear una montaña 3. [技] 輪郭に沿ってのごぎりを引く (出典: 小学館 西和中辞典)
「鑊(Middle Chinese: hwak)」("wok")と呼ばれる中華鍋は、調理の具材をぐるぐる回しながら調理するのに都合よく工夫された形状の調理器具であり、「枠(わく)」は、周囲をぐるりと輪郭、すなはち、英語で言へば、"contour"である。
ここで、日本語の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として、周囲をぐるりと輪郭/"contour"を表現するものとして通用するようになった「わく(枠)」が、その日本語としての独自性にもかからわず、中国語の表現における「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」との対応関係も依然として(それを特に意図することなく)保っていることは、例えば、中国語の「廓(Middle Chinese: khwak)」という表現について考へてみれば分かるだろう。 >廓 broad; wide; open; empty (literary) to expand; to widen (literary) to clear away; to eliminate outline; contour 輪廓/轮廓 ― lúnkuò ― outline (出典 en.wiktionary.org/wiki/廓#Chinese)
さて、「日本語」そのものが全般的に、中国語とも共通する表現から、このようなプロセスにより「独立した言語」として形成されたと想定したとするとどうだろう。その場合、日本語は、中国語と「同系統の言語」ということになるのか、それとも「別系統の言語」ということになるのだろうか。
>>564 ・中国語…シナ・チベット語族
・日本語…ウラル・アルタイ語族
・朝鮮語…ウラル・アルタイ語族
・ドラヴィダ語…ウラル・アルタイ語族
トラヴィダ語は、南インドやスリランカなどに多い、インド先住民の言語。
日本語・朝鮮語とタミル語などドラヴィダ語との比較は以下が詳しい。
現地では、「しめ縄」や「門松」、「鏡餅」、「どんど焼き」の原型とみられるものも見つかっている。
現在のカマラ・ハリス米副大統領がタミル系。
・大野晋『日本語はどこからきたのか:ことばと文明のつながりを考える』 中央公論新社 (1999)
・大野晋『弥生文明と南インド』 岩波書店 (2004)
南インドやスリランカは、「南伝仏教(上座部仏教、小乗仏教)」と呼ばれる、ブッダの時代の仏教を今日まで継承してきている地域。 日本が中国・朝鮮を経由して輸入した仏教は漢訳された「北伝仏教(大乗仏教)」。
誤:「枠(わく)」は、周囲をぐるりと輪郭 正:「枠(わく)」は、周囲をぐるりと囲む輪郭
その語源がどうであれ、じゃんけんの「グー」は、手のひらを「にぎる」ような凝集性を想起させる「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」である。 では、中国語の「外(Middle Chinese: ngwajH)」は、どうだろうか。 現代の日本語で考へてみても、中国語の中古音として想定される「外("ngwajH")」は、何らかの「凝集が広がりゆく」ような様態を想起させるのではないか。 このように想像力を働かせて、「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」が互ひにどのように「を(折)り合ひがつく」ように用ゐられているのかを考へてみることは、ことばがどのようなことを伝へようとしているのかを知るために無駄なことではないだろう。
「凝集が広がりゆく」という表現は、あまりよくないな。 「何かが凝集した状態から広がりゆく」と表現した方がいいだろう。
ことばの表現の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」は、それがどのようなことを伝へようとしているのかを知る手がかりとしてとても役に立つ。 私は、中国語の学習者ではなく、興味本位で地元の図書館から中国語のいくつかの「方言」の入門書を借りてきて眺めてみただけだが、それだけでも、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」を比較からいろいろなことに気づかされる。
例えば、台湾語の入門書には、「歹勢 ― pháiⁿ-sè」という表現が出てくる。 この表現は、日本語にすれば、「恐れ入る」に対応するような意味で使はれている。 ここで、「歹」という漢字が当てられている"pháiⁿ"という「こゑ(声)」は、「歹」という漢字の字源がどのように解釈されるにせよ、「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」としては、私には、中国語の普通話における「怕( (Pinyin): pà/Middle Chinese: phaeH)」との対応関係をすぐに想起させる。 しかし、それだけには留まらない。
「歹("pháiⁿ")」/「怕( (Pinyin): pà/Middle Chinese: phaeH)」は、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」において、フランス語の《avoir peur》という表現における《peur》によく対応しているが、このことは、日本語の表現として「怖気付(おじけづく)」という表現を思ひ起こさせる。 現代の日本語では、かな表記は、「おじけづく」とすることが「標準」とされるが、本来、この表現に適切なかな表記は、「おぢけづく」であり、この「おぢ・け」に表現に当てる漢字は、「懼(お)ぢ・け(気)」である。
気づいただろうか。この「懼(お)ぢ・け(気)」の「懼(お)ぢ」の「ぢ」は、「懼(お)づ懼(お)づと」という表現から分かるとおり、既にかなり詳しく検討した中国語の普通話において"Pinyin: r"として表記される「そり舌音の"r"」に対応するものと考へられると私が指摘した「ゆづ(譲)る」の「づ」の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」と同様である。
「怕( (Pinyin): pà/Middle Chinese: phaeH)」には、「〜を嫌ふ」という用法があるが、この場合の「嫌ふ」が伝えているのは、例えば、「羹に懲りて膾を吹く」という日本語のことわざに対応するように使はれるとされる英語のことわざ、"Once bitten and twice shy"の"shy"であり、"shy away from 〜"である。 このことからも、「歹("pháiⁿ")」/「怕( (Pinyin): pà/Middle Chinese: phaeH)」⇔"shy away from 〜"⇔「懼(お)ぢ」という対応関係を見出すことができる。
ここで、岩波古語辞典で「懼(お)ぢ」を参照すると、 >オドシ(威)の自動詞形。相手を恐ろしい物だと思い込んでいる結果、相手の前で委縮して動作がにぶる意 と記載されている。 しかし、このように見てくると、この説明が「論理的に逆立ちしている」ことに気づくだろう。 表現の関係として、「懼(お)ぢ」が「オドシ(威)」の自動詞形なのではなく、「オドシ(威)」の方が「懼(お)ぢ」から派生させられているのである。 このことは、形容詞として英語の"shy"に対応し、日本語の「懼(お)づ懼(お)づとした」に対応するような意味で用いられるドイツ語の»schüchtern«という表現について考へてみれば分かる。
なぜなら、ドイツ語の»schüchtern«に対応する日本語が「懼(お)づ懼(お)づとした」であるとすれば、「おど(威)す」に対応するのが、そこから派生した動詞である»einschüchtern«だからである。 >einschüchtern Etymology ein- + schüchtern + -en, calque of Latin intimidō. 1. to intimidate den Gegner einschüchtern ― to intimidate the opponent (出典 en.wiktionary.org/wiki/einschüchtern#German) このように「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」を手がかりとして利用すると、様々なことばの表現が言語の境界を超えて自然にネットワークを形成することになる。
この場合も、中国語の普通話においては、"Pinyin: r"として表記されることになった「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」が日本語の表現として取り入られれて、「和語」として広く使はれているだろうことに気づかされる。 ただし、この場合は、「わく(枠)」のようにまだ漢語であるのかそうでないのかという判断のあいまいさを引き起こす事例とは異なり、中国語としてはすぐに対応関係を見出すこともむづかしい、単に日本語固有の表現において用ゐられる「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」としてしか一般に認識されなくなっている。
ひと(人/一)は、「任性」が「忍性」である限りにおいて、つまり、(恁/忍)=(忍/恁)である限りにおいて、ひと(人/一)として「まとも」であり得る。 しかし、大君(おほきみ)と大伴(おほとも)の間では、「ま(任)けのまにま(随意)に」とみづから(身づ柄/自ら)が気をとりなほしてみても、決して(恁/忍)=(忍/恁)というひと(等)しさは成立しないのである。
台湾語で自身に対する相手を指すのに使はれる「恁」について考へていたら、「恁」と「我」の関係性から日本語の古語の「やさし」の用法についてメタ言語的にうまく記述できることが分かった。 これについて後で書き込むことにする。
万葉集 八九三 >「世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」 この「やさし」が伝へているのは、英語を用ゐて説明するなら、"make one to forebear (too much)/require (too much) forbearance"である。 なぜそのように解釈することが妥当であるのか、後でさらに詳しく説明する。
ヒントとなるサイトの記述を引用しておこう。 >forbearing プログレッシブ英和中辞典(第5版)の解説 [形]((形式))〈人が〉自制心がある,がまん強い;寛容な(lenient). >lenient プログレッシブ英和中辞典(第5版)の解説 [形] 1 (人に)寛大な,哀れみ[情け]深い≪with,to,on≫;(事を)大目に見る≪about≫. 2 ((古))(痛みなどを)やわらげる,静める. [原義は「やわらかくする」]
しかし、ここで「恁」という漢字を見れば、 相手である「恁」に対して「我」を自認する者に対して、「恁」の様態は、「『我』を『自・認』する者の「任・性」」に対する「忍」となることから既に応へは得られている。
>「また人の奉り代ふるまでは置かせ給(たま)ひて、とり動かすことはせさせ給はぬ。あまりやさしきことなりな」 (出典 大鏡 師尹) この「やさしき」の用法が現代の日本語では通用しなくなっているのは、「やさし」という表現が日本語の古語において本来、伝へていたはずのこと、すなはち、「恁」(≒"lenience")と「忍」(≒"forbearance")のキアスム的に反転する関係性にあり、(恁/忍)=(忍/恁)という反転が成立することが忘れられているからである。
>「我」を自認する者に対して、「恁」の様態は、「『我』を『自・認』する者の「任・性」」に対する「忍」となる 「あまりやさしき」態度を見せることは、「『我』を『自・認』する者の『任・性』」を増長させる。
>impetret, bellante prior, iacentem lenis in hostem
>>584 誤:のキアスム的に反転する関係性にあり
正:がキアスム的に反転する関係性にあり
「やさし」を非人称的に「概念化」すると、「ゆづ(讓/让)り」/"yielding"となる。
>>580 誤:forebear
正:forbear
>>548 >「また人の奉り代ふるまでは置かせ給(たま)ひて、とり動かすことはせさせ給はぬ。あまりやさしきことなりな」
(出典 大鏡 師尹)
このように「やさしき」という表現ににより「寛容」と「忍耐」のキアスム的な反転可能性が伝はることは、日本語の表現法に特有であるわけではない。
そのことは、例えば、ドイツ語であれば、この「やさしき」に»duldsam«という表現がちょうどそのまま対応することによっても明示することができる。
>duldsam
1. tolerant, indulgent
2. meek, submissive
(出典 en.wiktionary.org/wiki/duldsam)
>「やさし」を非人称的に「概念化」すると、「ゆづ(讓/让)り」/"yielding"となる ドイツ語の場合は、»nachgiebig«となるだろう。 >nachgiebig ❶ 譲歩しがちな,折れる,弱腰の Er ist ein nachgiebiger Mensch.\彼は弱気な人だ. ❷ たわみやすい,しなやかな.
しかし、そもそも、「折り合ひ」をつけることを求めていない人々には、いくら方法論を明示し、その有効性の証拠を提示してみせたところで無駄である。
そのような人々に対して、こちら側が»duldsam«な姿勢を自発的に示そうとするなら、単に沈黙させられることになる。 だから、そのような人々は相手にせずに、独り言を延々と言ひ続ける方が幾分でもましなのだ。
ひと(人/一)としての本当の「やさしさ」とは、 (恁/忍)=(忍/恁)というひと(等)しさを成立させようとすることであり、 「任性」の発揮において「人性」を十全に具現化しようと努めることである。 >En mi nota soy extenso, a mi nadie mí corrige La Gota Fria - Carlos Vives
本当に正しい認識=认识、つまり、ま(真)あたら(可惜)しき認識=认识において、恁/忍性=忍/恁性は、人性である。
>全ての地は、同じ言葉と同じ言語を用いていた。[...] 主はそこから全ての地に人を散らされたので、彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。 — 「創世記」11章1-9節 現実には、人々はすべて同じ言葉と同じ言語を用ゐていたわけでも、一緒に力を合はせて塔を建設しようとしていたわけでもないだろう。 また、人々が、互ひに異なる言語を用ゐる人々と「『ことば』が通じる」ようにしようとするとき、ひとつの塔を建設しようとするような企てに一緒に力を合はせて取り組もうとするのでもない。 それでも、「不特定の人々」は、勝手に放っておかれたとしても、互ひに「『ことば』が通じる」ようにしようとしてしまうのであり、そのことは、利害の相反として、「特定の人々」にはつねに不都合を生じる。 したがって、「特定の人々」は神に成り変はって、「不特定の人々」のそのような振舞ひを絶えず阻害しようと仕組むことに余念がない。 そこで、「『ことば』が通じる」ようにしようとするなら、問ふ必要があるのは、どのような仕掛けにより「不特定の人々」の自然な振舞ひが阻害されるように仕組まれているのかである。
たとえば、「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」について次のような「ことばの表現」の比較を試みてみるといい。 「刃(ぢん)」(例えば、「自刃(じ・ぢん)」)⇔"edge" 「泥(ひぢ)」⇔"smudge"/"dredge" 「づる」(例えば、「裾を[引き]づる」/「定位置からづれる」/「づるがしこ(賢)い」)⇔"sledge/budge/dodge"
人々が、互ひに異なる言語を用ゐる人々と「『ことば』が通じる」ようにしようとするとき、ひとつの塔を建設しようとするような企てに一緒に力を合はせて取り組もうとするのではなく、自身がつか(使/仕/遣)ふことばの表現の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」が、相手がつか(使/仕/遣)ふそれと互ひにどのように折り合ひがつくのかを見出そうとするのである。
>>597 このような比較は、比較言語学においては無意味であるとされる。
なぜなら、音韻の規則的な対応関係を示すことを目的としておらず、異なる言語間の系統関係を示すのに何の役にもたたないからだ。
さらに、言語学全般においても、ここで比較の対象とされているのは、「擬態語」や「擬音語」と見做される語彙ですらないため、比較してみようとする行為そのものが無意味であるとされる。
そもそも、学問としての「言語学」は、「ことばの表現法」を研究対象からほぼ完全に意識的に除外してきた。
しかし、言語学がその研究の対象とはしていない「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」に注目するなら、これらの比較から類似性を感じとることがないとすれば、そのような人々は、かなり言語感覚が鈍いのではないかと私には思はれる。
「中国語」と「そり舌音」をキーワードにして検索してみると、 日本人学生の中国語発音の難点とその指導方法 >日本語の中に存在しないそり舌音「zh、ch、sh、r」は、日本人学生にとって最大の難点だと言っても過言ではない といったような説明が多数ヒットする。私自身は、これらの「中国語のそり舌音」と呼ばれる「発音」を習得しているわけではなく、中国語の学習者ですらないので、これらの「発音」をどのように身に付けることがよいのか、その習得法について助言するような立場にはない。 それでも、"Pinyin: r"として表記される「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」について少し検討してみた結果、日本語を母語とする人々にとってこの「発音」を習得することが極めて困難に感じられるのは、この「発音」について大きく誤った捉へ方をするように教へ導かれているからではないかと思える。 そもそも、「ことばの表現」としてつか(使/仕/遣)はれる「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」を、人の口を機械的な「音声発声装置」のように見做して、そこから発せられる「物理的な音波」のように見做された「発音」として捉へること自体が、誤りの根源である。
私が独自に勝手に導き出した(つまり、権威による裏書を完全に欠いた)結論から先に述べよう。 確かに、"Pinyin: r"の「発音」は、日本語には存在しない。 しかし、"Pinyin: r"に対応する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」は、多少は変形されながらも、ほとんどそのままと云ふことのできるような形で日本語のことばの表現の「こゑ(声)」として極めて広範に活用されている。 そして、その対応関係を最も簡単に見て取ることを可能にする表現の具体例が、「ぢ(焦)れる」の「ぢ」であり、「ぢりぢりと」(例えば、ぢりぢりと・あと(後)づさりする)の「ぢ」である。 その対応関係に気づかなくなっているのは、この場合も、本来、「ぢ」と表記することが適当である「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」に、代わりに「じ」が当てられているからに過ぎない。 >焦れる(読み)ジレル デジタル大辞泉 「焦れる」の意味・読み・例文・類語 物事が思うように進行しないために、いらいらと落ち着かない状態になる。「店員が来ないので―・れて店を出る」 >デジタル大辞泉 「じりじり」の意味・読み・例文・類語 1 ゆっくりとわずかずつ確実に進み迫ったり退いたりするさま。じわじわ。「首位にじりじり(と)迫る」 2 いらだたしい気持ちがつのって落ち着かなくなるさま。「なかなか電車が来なくてじりじりする」 3 太陽が焼けつくように強く照りつけるさま。「真夏の太陽がじりじり(と)照りつける」 4 油などの焼ける音を表す。 「鰯の油が―と垂れて青い焔が立った」〈長塚・土〉
"Pinyin: r"は、そもそも、その表記そのものが、ローマ字のアルファベット表記の利用法として妥当性を欠いている。 この表記が妥当性を欠いていることは、誰がどのような権威に基づいて強弁しようとも変わらない。 その一方で、この「こゑ(声)」を表記するのにいずれのローマ字のアルファベットを(組み合わせを用いてであれ)当てればよいのか、はっきりしないことも確かである。 誰も、他のよい代案を容易に提示することができなかったので、この極めて奇妙な表記が正式に採用されて、通用することになってしまったのだろう。 ところで、この"Pinyin: r"として表記される「こゑ(声)」は、既に指摘したとおり、「『こゑ(声)』としての弁別特性がはっきりしない」ことこそをその「特性」とする「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」なのだ。 逆に言へば、そり舌音とされる「zh、ch、sh、r」のなかで"r"以外の「こゑ(声)」は、この「はっきり」しない"Pinyin: r"の「こゑ(声)」を「はっきりさせる」ように弁別特性を用ゐることによって導き出すことが効率的で、合理的であるように私には感じられる。 より簡単に日本語を母語とする者の立場から云えば、まず"Pinyin: r"を日本語の「ぢ」や「づ」の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」の変形として意識して学び、それを中心にその「こゑ(声)」との違ひをはっきりさせるように「zh、ch、sh」の発声を身に付けようとすることが合理的ではないかと思ふ。
>"Pinyin: r"に対応する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」は、多少は変形されながらも、ほとんどそのままと云ふことのできるような形で日本語のことばの表現の「こゑ(声)」として極めて広範に活用されている。 日本語は、この「こゑ(声)」を、その弁別特性のあいまいさのままにそのまま取り入れて活用していると見ることができる。 このため、「ぢ」が、「じ」や「に」に移されると、「ざ行」や「な行」のこゑ(声)として活用されることになり、それが「ぜ」や「ね」や「ぞ」などの形で活用されて現れるともはや、「で」や「ど」の形で活用されて現れる事例とは互ひに何の関係もないように見えることになる。 その対応関係が以前として再び意識にのぼることがあるのは、漢語として日本語に取り込まれて用ゐられる表現が、そのような多様な読み方をいまだに保っているからである。
このことは、朝鮮語が"Pinyin: r"をどのように取り込んでいるかと比較してみるとよく分かる。 既に指摘したとおり、朝鮮語は、日本語の場合とは異なり、漢語として意識される"Pinyin: r"の「こゑ(声)」を、カタカナで表現するなら「ヤ行」に移すことにより、「ゆるみ」を強調し、その弁別特性の不確かさを消してしまっているのだ。 このため、「人」は「イン」となり、「乳」は「ユ」となって、"Pinyin: r"との対応関係ははっきりさせることができているものの、逆に、"Pinyin: r"の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」が伝へ、日本語の「ぢ」に移されて想起されるような感覚は、少なくとも漢語として意識される語彙においては、もはや伝へることがなくなっているものと考へられる。
中国語の表現と共通する多くのことばが朝鮮半島経由で日本語に取り込まれているとしても、そのことは、それらのことばが朝鮮語経由で日本語に取り込まれていることは意味しない。 このことは、中国語として"Pinyin: r"で始まる表現である「肉」が朝鮮語では「ユッケ」となり、日本語では「にく」となって、日本語の方が"Pinyin: r"のこゑ(声)により直接的に対応していることからも分かる。 「ユッケ」のように"Pinyin: r"が「ゆるめられたこゑ(声)」が日本語にまず取り込まれ、それが再び"Pinyin: r"を移すように再び「にく」というこゑ(声)に戻されたと考へるのは不自然である。
>>603 誤:その対応関係が以前として再び
正:その対応関係が依然として再び
>>607-609 これらは、和製英語として日本語において普通に使われている表現である。
英国では、"air con"が"air conditioning"の略語として通用するようであるが、「エア・コン」という和製英語においては、この表現を日常的に使ふほとんどの人にとって、「コン」が"conditioning"の略語であるとは意識されていないだろう。
「リモ・コン」は、"remote controller"としては英語として通用するが、和製英語として、「エア・コン」と並べられると、「リモ・コン」、これらの「コン」間に違ひがあるとは意識されない。
「ノー・コン・ピッチャー」になると、表現の構成要素は、英語に由来するものの、造語法そのものが英語とは異なり、省略を元に戻しても英語としては通用しない。
「マザ・コン」と「学歴コンプ」では、「コン」と「コンプ」の借用元である英語の表現が同じであるにもかかわらず、和製英語としては別々の形となっている。
「ファミコン」は、"personal computer"/「パーソナル・コンピュータ」を模して造られた商品名としての「ファミリー・コンピュータ」の略語がそのまま一般的に通用するものになったものだが、"family computer"に戻しても英語としては通用しない和製英語の略語である。
このような日本語の表現が日常的に多く流通することは、望ましくないと考える人々も少なくないが、それでも、和製英語は日本語の一部として普通に通用して数多く使はれている。
なぜ、このようなことを云ひ出したかと言ふと、それは、 >中国語の表現と共通する多くのことばが朝鮮半島経由で日本語に取り込まれているとしても、そのことは、それらのことばが朝鮮語経由で日本語に取り込まれていることは意味しない。 という私自身の指摘に留保をつけるためだ。 確かに、「日本語の起源は朝鮮語である」というような短絡的な考へ方は、まともな根拠がなく、岩波古語辞典のような「権威ある辞書」において数多くの項目で記載される数多くの「朝鮮語の〜と同根」とするような「日本語・朝鮮語同根説」のようなものも、そのほとんどが私にはこじつけとしか考えられない根拠の薄いものである。 しかし、それとは別に、日本語の形成に朝鮮語との接触がどのように、どれだけかかわっているかを慎重に探っていくことは重要だろうと私も思ふ。 そして、その根拠となるのが、現代の日本語において、このように和製英語が数多く通用しているという事実である。
私は、「恥(はぢ)」、「恥(は)づかし」、「懼(お)ぢ」、「懼(お)づ懼(お)づ」、「譲(ゆづ)り」、「焦(ぢ)れる」、「ぢりぢりと」などの表現の「ぢ」や「づ」には、中国語においては"Pinyin: r"となったのと共通する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」が活用されていると見ることができると指摘した。 ところで、そのように想定してみると、「は・ぢ(恥)」と「懼(お)ぢ」は、「ぢ」において共通する様態の作用を伝へているのだから、「は・ぢ」の「は」、「お・ぢ」の「お」は、「ぢ」の作用の様態をさらに形容する働きをするように用ゐられているのではないかと推測されることになるだろう。
ここで、さらに「ゆ・づ・り」について考へてみると、「ゆ」が、「づ・り」によって伝へられる作用の様態をさらに形容していることになる。 私は、「ゆ・づ・り」においては、「づ」が中国語の"Pinyin: r"に対応する関係にあると考へられると指摘したが、その一方で、朝鮮語において中国語の"Pinyin: r"に対応する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」を移すことになっているのは、カタカナ表記するなら「ヤ行」のこゑ(声)であり、「讓」は、"yang/양"(ヤン)となり、「柔」は、"yu/유"(ユ)となる。
ここで、例えば、「づ・る」だけでも、「讓」の中国語の"Pinyin: r"に対応する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」に対応することになっているとしても、この同じ"Pinyin: r"の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」を「ヤ行」のこゑ(声)に移して捉へる人々には、その対応関係はうまく伝はらないはずである。 そこで、「讓」を「づ・る」と表現することを諦めて放棄してしまうのではなく、さらに相手によりよく伝はるように、「讓」に対応する相手の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として"yu/유"(ユ)を取り込むということは、和製英語の表現法を参照するなら、十分にあり得ることだろうと私には思える。
この疑ひは、日本語の他の多くの表現、例えば、「矢(や)」や「槍(やり)」などにおいては、「や」のこゑ(声)がいきほ(勢)ひのよさを想起させるように用ゐられているのに対して、「やはらか」、「やさし」などにおいては、別のイメージを想起させることになっていることからも示唆される。
ただし、このような解釈の仕方において慎重でなければならないのは、それが、複数の異なる規範の活用を恣意的に組み合わせる行為となっているからである。 要するに、そのような解釈法を任意に用ゐることをみづからに許すなら、自分に都合のよいという恣意的な規範参照の組合せにより、途方もない数の別様の解釈の正当化が可能となってしまう。
ことばの表現としてみづからが用ゐる「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」が恣意的に様々な異なる規範(それが英語のものであれ、フランス語のものであれ、朝鮮語のものであれ)を参照することができることは、そのことばの表現により意味を如実に伝へようとする「相手側の規範に歩み寄るという縛り」が働く限りにおいて、極めて好都合なことである。 しかし、逆に、相手の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」を、自分が任意に選択した規範を参照して解釈することは、相手の使ふことばの表現が本当に伝へようとしていることを無視した、相手にとっては意味不明な勝手な解釈を生じることになる。
日本語の形成において、日本語が中国語の表現におけるこゑ(声)と共通する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」を大々的に活用していることは間違いなく、また、その活用において、中国語のものとは異なる複数の多様な規範を参照していると考へるのは、日本語が、日本の国としての統一に先立って形成されていることから見ても、自然なことである。 ただし、それらの規範がどのようなものであったのかは、多数の事例を慎重に検討しながら、妥当と思はれる推測により見極めようとする他ないだろう。
誤:自分に都合のよいという恣意的な 正:自分に都合のよいというだけの恣意的な
>自分に都合のよいというだけの恣意的な規範参照の組合せにより、途方もない数の別様の解釈の正当化が可能となってしまう 所謂、他人を攻撃することのできる立場を自身に確保するために「藁人形論法」を用ゐる人々がやっていることが、まさにこれである。
>>610 日本語に他の言語からある「こゑ(声)」が取り込まれて多用され、日本語として通用していることは、その「こゑ(声)」が、表現のための「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として用ゐられていることを必ずしも意味しない。
例えば、この和製英語としての「コン」における「こゑ(声)」について考へてみるといい。
ファミ・コン("com・puter")
エア・コン("con・ditioning")
リモ・コン(con・trol)
ゼネ・コン(con・tractor)
生コン(con・crete)
合コン(com・panion)
これらの「コン」は、いずれの事例においても、ラテン語由来の英語の表現要素である"con-"に明白に対応しているが、それに相応するような表現要素であるもと解釈された「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として用ゐられているわけではない。
そうではなく、外来の借用語の(場合により、既に意味の不明な)何らかの略語として認識されているのだ。
だから、「コン」は、「パソコン」からの類推で「ファミコン」のような表現を生成することはあっても、ことばの表現法のための「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」としては用ゐられていない。
ただし、明白に外来語としてのカタカナ語として認識されていても、 コンサル コンディション コンパニオン コンクリート コンタクト コンペ などの表現が多用されると、「コン」がどのようにか何らかの形容の役割をしているものとして、言葉遣ひにおいて自ずと類推が働き始める。
>その活用において、中国語のものとは異なる複数の多様な規範を参照している そもそも、参照されてきた「中国語」の規範そのものが多様である。
>>614-615 例えば、容認するという意味で使はれる「ゆるす」に当てられることもある漢字である「容」は、中国語の普通話では、"(Pinyin): róng"と読まれることになっているが、朝鮮語では、"요ᇰ (yong)"(「ヨン」)と読まれる。
さらに、「容易((Pinyin): róngyì)」は、日本語における漢語の用法そのままに、「『や』さしい」という意味で用ゐられる中国語の表現である。
ここで、以上の検討の帰結として得られる哲学的に極めて重要な結論を今一度、確認しておこう。 それは、 「(恁/忍)=(忍/恁)」という「ひと(等/人/一)しさ」においてこそ、「任性」が(俄/=)「人性」であるという理想が実現される ということだ。
同様のことを、多くのことばを費やして主張した人々がこれまでに数多くいたとしても、このことを、これほどまで簡明に明示した人がいまだかつて私以外のどこにいるだろうか?
哲学という営みは、何も積極的に主張しようとせず、つねに折り合ひをつけようとばかりしている。 そのことが、何らかの思想が正しいはずだ、または何らかの正しい思想があるはずだと信じ込んでいる大多数の人々には、あらゆることに譲歩ばかりしている弱さ、或いは、それとは正反対に、正しいに決まっていることを正しいに決まっていることとして受け容れることをあくまでも拒みつづける不明な自己主張に固執する強情さに感じられるのである。 しかし、哲学的な追求が理想としているのは、あらゆる主張にみづからの立場を譲るような脆弱さでも、すべての主張を根拠もなく疑ひつづけようとする偏執的な懐疑でもなく、みづみづしい感性の働きを保つことにより、みづからの生き方のしなやかさとなまめかしさを取り戻すことである。
現代の中国語の普通話における"Pinyin: r"に対応することになった「こゑ(声)」について様々なことを述べてきたが、 この「こゑ(声)」についても簡潔に結論を述べておこう。 この「こゑ(声)」のつか(使/仕/遣)ひ方には、それが感じさせる「こゑ(声)」としての弁別特性の「不確かさ」を積極的に活用しようとする動機と、その活用の際にその「「不確かさ」をどのようにか確かにして相手に伝はるようにしようとする動機の両方が同時に働いており、その実際の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」は、その両方の動機の「せめ(鬩)ぎあ(合)ひ」として実現されている。
>>628 これと類似した解釈の「不確かさ」が"YHVH"の"Y"についても生じていることが、興味深い。
つい昨日も「エホバの証人」が訪問勧誘で自宅に廻ってきたが、誰が「証人」を自称してみたところで、"YHVH"の"Y"からして、それが表現としてどのようなことを伝へるものであるのか、既に「不確か」なのである。
"YHVH"の正しいカタカナ表記は、「エホバ」だろうか、「ジェホバ」だろうか、それとも「イェホバ」だろうか。 "YHVH"の"Y"の一般的に通用している正しいとされる「発音」によれば、それは「イェホバ」となるようである。 しかし、そもそも、"Y"がどのようなことを表しているのかが不明なのに、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」としての「こゑ(声)」を本当に確定することができるのだろうか。
ちなみに、"YHVH"の"Y"は、英語に入ると、英語の名前としてとてもよく聞くことのある"John"(ジョン)の語頭の発音となる。
「日本」は、「イルボン」なのか、「ヂパング」なのか、「ジャパン」なのか、「ヤーパン」なのか、「ハポン」なのか、それとも「ニッポン」なのか。
「日本」の発音の妥当な表記として、"Li̍t-pún"はあり得ても(実際、閩南語では、"l"で表記することが妥当な「こゑ(声)」になる)、"Rìběn"には、いくらなんでも無理があるだろうと私は思ふ(しかし、実際にPinyinの表記法では、これが採用されている)。
中国語としての「路((Pinyin): lù (lu4), Middle Chinese: luH)」は、その「こゑ(声)」が日本語においては「ぬ」に対応する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として用ゐられていると推察されることから、感覚としてそれに対応する日本語の表現は、「みち」というより、「とお(通)り『ぬ』け」であると思はれるが、閩南語においては、「路」だけでなく、「落((Hokkien, POJ): lo̍k / lo̍h / làu / lak / lauh / lō͘ / la̍uh / )」も同様に、日本語における漢語の「脱落」の用法のように「『ぬ』け」の感覚を伴って用ゐられている。 (Hokkien) Classifier for a row of houses. (Hokkien) to omit; to leave out (Hokkien) to disassemble; to dismantle (Hokkien) to have diarrhea (Hokkien) to leak (of water or gas) (Hokkien) to coax out of somebody; to trick somebody into telling (of a secret, information, the truth, etc.) (Hokkien) to fall off; to drop off (from somewhere) (Hokkien) to lose; to misplace (出典 en.wiktionary.org/wiki/落)
このような書込みをするとき、私は、「自分には中国語ができる」ことを他人に示そうという意図は全くない。 既に述べたとおり、私自身は、中国語の学習者ですらない。また、私は、今から中国語を学んで、それが使ひものになるようなレベルまで自分が習得できるとも思っていない。 それでも、このようなことばの表現の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」の対応関係を丁寧にひとつづつ拾っていくことは、自分の母語である日本語の表現の理解を深めることに役立つだけでなく、より一般的に、ことばが、様々な「こゑ(声)」を、どのように折り合ひがつくように使ふのかを把握する感性を磨くのにも役立つだろうと思っている。
>日本に思想なんか無いよ 日本に思想がないとしても、それは悪しきことではない。 日本語は、哲学するのに好適な言語であり、日本語とされることばの表現は、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」自体が哲学的に磨きぬかれることによって形成されている。
「感性を磨く」、このような表現を憎悪する人々が、世間で「学者」と呼ばれる人々の間ににも大勢いることを私はよく知っている。 そのような人々が、「感性を磨く」といったような表現に対して示す反応とは、「一体、自分がどんな高貴なご身分だと思ひ上がっているのか」といったようなものだ。 その反応は、要するに、「奴隷は、命じられたことを黙って命じられたとおりにしていればそれで善い」のであって、餌を与えられたなら、有難き幸せと頂戴し、それを黙ってそのまま食べるのが当然である、といった考え方の表れである。 しかし、たとえそれが「食べ物」の場合であっても、味覚を十全に働かせるように「感性を磨く」ことは、特別に自身を「食通」として自負して、レストランで提供される食事の評点付けしようとすることを特別に意味するわけではない。 そもそも、人が多種多様な食用となるものを選び出して、毒抜きに多くの労力を費やしてまで食べるまでに味覚を発達させているのは、何かを口に入れたときに、それをそのまま食べて自身に取り込もうとすることが良い効果をもたらすのか、悪しき効果をもたらすのかを知ろうとするためであり、またどのような効果をもたらすものをどれだけ取り込もうとしているのかを知るためである。
哲学の営みにおいて、「うたが(疑)ふ」ことと、「かむか(考)ふ」ことと、「感性を磨く」ことは別々のことではない。
>閩南語においては、「路」だけでなく、「落((Hokkien, POJ): lo̍k / lo̍h / làu / lak / lauh / lō͘ / la̍uh / )」も同様に、日本語における漢語の「脱落」の用法のように「『ぬ』け」の感覚を伴って用ゐられている。 Wikipediaで「ろくろ首」の項目を参照すると、次のように記載されている。 >また同様に中国には「落頭」(らくとう)という妖怪も伝わっており、首が胴体からスポッと抜けて飛び回り、首が飛び回っている間は布団の中には胴体だけが残っている状態になる。三国時代の呉の将軍・朱桓(しゅかん)が雇った女中がこの落頭だったという話が伝わっている。耳を翼にして飛ぶという。また秦の頃には南方に「落頭民」(らくとうみん)といわれる部族民がおり、その人々は首だけを飛ばすことができたという。 (出典 ja.wikipedia.org/wiki/ろくろ首) 見てのとおり、哲学の思考は、思想の言説のようにその適用範囲が限定されたものではなく、広汎に応用が効く。
提示された「証明」/"evidence"が「証明」/"evidence"であると認識できるか否かも、それを認識できるように感性が磨かれているかどうかに依存する。 私は、身内の患者に付き添って、レントゲン撮影の写真を見せられながら医師に病状の診断の説明を受けたことがあるが、レントゲン撮影の写真から何かを識別する訓練を受けていない私には、その白黒の陰影からどこにどのような様態が映っているのかまったく分からなかった。 レントゲン撮影を見慣れた医師には、目の前にコップが置かれているのが見えるのと同様に、誰にでも容易にそれが判別できるものと感じられているようだったが、私には、医師に注目すべき箇所を指し示されても、何がどのように映っているのか識別できなかった。 ところで、何らかの「証明」/"evidence"が提示されたとき、それが「自分には識別できない」という理由だけで、その「事実」が、直ちに、「何も『証明』/"evidence"が示されていないという『確信』」にすり替わってしまうような人々が大勢いる。 そして、そのことは、世の中で「学者」と呼ばれるような人々の場合でも、まったく同様である。
自分自身には、提示された「証明」/"evidence"が「証明」/"evidence"としてまったく識別することができなくても、専門の権威がそう主張するのだから、そうであるに違ひないと信じ込む盲目の権威主義と、提示された「証明」/"evidence"が自分には識別できないのだから、事実上、提示された「証明」/"evidence"は何も存在しないとする確信の組合せが、哲学の営みを妨げる。
その組合せにより物事を考へることを習慣とする人々は、「頼みにすることのできる権威」を求めて常に不安にとりつかれている。
>>640 「ろくろ首」⇔「落路首」⇔「通りぬけるように脱落する首」という解釈が自然に導かれる。
では、なぜ、「ろくろ首」などという奇妙な存在者を想定したのだろうか。
それは、「落」ということばの用法に「『ぬ』け」の感覚が伴ふことが閩南語において特徴的であることに関係しているのではないかと私には思はれる。
そして、そのことは、
>南方に「落頭民」(らくとうみん)といわれる部族民がおり
という説明によって示唆されているのではないだろうか。
一般的な表現の用法では、「落頭」が「首を落とす」、つまり、「斬首」を想起させるものと考へられるのに、南方の地域で使はれる閩南語においては、その同じ表現が、「首を落とす」ことではなく、「首が通りぬけるように脱落する」様態を想起させてしまうことになり、その奇妙さを面白おかしく説明するために「落頭民」⇔「落路首」⇔「ろくろ首」のような存在者がほら話として創作されたのではないか。
これが、私の暫定的な推論である。
日本語:「『じゃ』まする」 中国語:「打・扰/擾((Pinyin): rǎo)」 フランス語:《gêner》
>>645 ここで私は、こわ(声)づか(使/仕/遣)ひの対応関係を示そうとしているわけだが、
試しに逆方向で見てみよう。
フランス語の"gentil"に対応する中国語の表現を検索してみると「溫柔((Pinyin): wēnróu)」という表現がヒットする。
"gentil"というこわ(声)づか(使/仕/遣)ひが想起させるイメージとして、やはり、「柔((Pinyin): róu))」が現れるわけだが、さらに面白いことに、Google検索の最上位では、
「让蒂尔(Ràng dì ěr)」という自動翻訳が示される。これが何を意味しているのか検索してみると、以下のとおりである。
>ポールジャンティは、ガボン西部に位置する港湾都市。人口は13万6,000人で、ガボン第二の都市である。ポールジャンティルとも。オゴウェ・マリティム州州都。オゴウェ川デルタ西端の島に位置し、天然の良港を持つ。 1903年、フランスによって建設される。 ウィキペディア
让蒂尔港- 维基百科,自由的百科全书 維基百科 让蒂尔港(法语:Port-Gentil,法语发音:[pɔʁ ʒɑ̃ti])是加蓬的第二大城市和主要海港,也是该国的石油和木材工业中心
要するに、この「让蒂尔」は、フランス語の《Port-Gentil》という地名のこわ(声)づか(使/仕/遣)ひから想起されるイメージに合うように考案された当て字である。 つまり、私が推測したこわ(声)づか(使/仕/遣)ひの対応関係は、中国語を母語とする人々の間でも同様に働いていることになる。
私は、中国語学習の初心者ですらないが、いづれの言語を学習しようとする場合でも、こわ(声)づか(使/仕/遣)ひの対応関係に注意を向けることは、表現の学習を効率的に進めるのに役立つのである。
哲学の営みにおいて問ひを発するのは、あ(在/有)るはずの正しいこた(答)へを得るためではない。 そうではなく、哲学における問ひは、いつまでも、どこまで行っても「こころ(試)み(心観)」/"tentative"である。 哲学の問ひが探求しているのは、そのように錯覚されるとしても、「あ(在/有)るはずの正しいこた(答)へ」などではなく、あやま(過)ちの「臨在」であり、あやま(過)ちの「臨在」をし(知/領)ることによ(依/拠)りたし(確)かめられることになる「『適合性』としての『ただ(只)し』さ」である。 したがって、その探求に過程においてその「臨在」がし(知/領)られことになった「あやま(過)ち」に「あたら(可惜)しき適合性」が見出されるなら、その「あやま(過)ち」は、「『新たな適合性』として『ただ(只)し』きもの」、つまり、「新たな正しさ」として認められる。 そして、それが、探求の「こころ(試)み(心観)」/"tentative"がもたらすことになる「進化」である。
数年前に日本語の表現と中国語の対応関係について私が検討し始めた頃、というよりむしろ、中国語の発音について解説した中国語の入門書をつい最近になって手に取るまで、私は、ピンインによる発音の表記法がどのようなものであるかすらまったく知らなかったので、アルファベット表記された日本語と中国語の表現の発音を比べてみて、日本語の「な行」の発音、つまり、アルファベット表記では、"n"を用ゐて転記される発音が、中国語の、英語の語頭の"r"のように発音されるような発音に対応するものと誤認していた。ようやく最近になってその過ちに気づくことになったわけだが、しかし、そのように誤認から歩みを始めても、対応関係を当初、どのように誤認したのかを検討することが、結果として、とても役に立つことになった。
仮に、私が当初から中国語を正しく学習することを目指して、ピンインの"r"の正しいとされる発声の仕方を身に付けようとする訓練に専念するだけであったなら、私がこのスレに書き込んできたような「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」の対応関係は、決して明確に意識されることがなかっただろう。
問ひを発する行為が、過ちの臨在に気づかせることになることは、哲学に限定されない。というより、そもそも、問ひを発することは、過ちの臨在の可能性を探る行為に他ならない。だからこそ、極めて多くの状況において、与えられた指示がよく分からない場合にも、そのよく分からないことをはっきりさせようとして問ふためにであれ、口を開くこと自体が厳しく戒められるのである。
中国語のピンインの"r"の表記法としての奇妙さについて考へることなしには、私は、例えば、 フランス語の《jaillir》や《germer》などの表現の語頭の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」と、日本語の「いづみ(泉)」や「いづる/しづむ」の「づ」の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」の間に何らかの類似性を感じることがあったとしても、それがどのように互ひに似ているのかを明確にメタ言語により記述して表現することはできなかっただろう。
「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」の共通性から、母語以外の言語の表現も感覚的に捉へやすくなる。 >congenial の意味 気が合う;快適な >congenial の語源 1620年代に作られたこの言葉は、「同じ性質や自然的な特徴を持つ」「親族のように」という意味を持ちます。これは、ラテン語のcom「共に、一緒に」(con-を参照)と、genialis「出生の」という語から来ています。これは「親族」を意味し、「出産する、生み出す」と関係するものや、家族や部族のグループを指す言葉を派生させるPIE(インド・ヨーロッパ祖語)の根 *gene- から来ています。'気持ちが良い'という意味で使われ始めたのは1711年で、「自然に親しみやすい」という考えからです。 (etymonline.com/jp/word/congenial#etymonline_v_18201)
ところで、中国語の表現としての「路」は、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」において、日本語としては「みち(道)」というよりも、「通り『ぬ』け」に対応するのだろうということは既に指摘した。 ここで、中国語の普通話ではなく、上海語に注目してみると、「老("lau")」という表現が、日本語としては「とても」に対応するように使はれる用法があることが分かる。 その場合、なぜ「老("lau")」が「とても」に対応するのかを考へてみると、私には、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」から、この「老("lau")」は、英語を用ゐるなら、"throughout"や"through and through"や"thoroughly"などやはり「『ぬ』け」(この場合には、「貫徹」)を想起させるように使はれているからではないかという推測が生じる。
しかし、私の連想による憶測は、そこで留まることはない。 仮にこの推測が妥当であるとした場合、日本語には、中国語の「老」という表現の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」も、通常の漢語の読みとしての「ろう」にとどまらず、それが「ぬ」に移される形でも取り込まれているのではないかという疑念が生じる。 ここで私にすぐに思ひ浮かぶのが、日本語の「ぬし(主)」という語源のよく分からない表現である。 日本語の「ぬし(主)」は、語源的には、中国語の「老子」を、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」において移すように取り込まれた表現である可能性があるのではないか。 ただし、これは、現時点では、私にとっても、その可能性があるのではなかと疑われる程度の憶測に過ぎない。
例えば、中国語の「魯(Middle Chinese: luX)」に対応する日本語の表現としてすぐに想起されるのが、「ま『ぬ』け」だろう。 >鲁 中日辞典 第3版の解説 鲁 lǔ 1 [形]そそっかしい.がさつである. 这人办事挺〜的/この人の仕事はとても粗い.
>中国語の表現としての「路」は、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」において、日本語としては「みち(道)」というよりも、「通り『ぬ』け」に対応するのだろう
>英語「thoroughfare」の意味・使い方・読み方 | Weblio英和辞書
Weblio
https://ejje.weblio.jp › 英和辞典・和英辞典 › 英和辞典
「thoroughfare」の意味・翻訳・日本語 - (通り抜けられる)道路、往来、通り、(特に)大通り、主要道路、本道、通り抜け、通行
宗教の勧誘が来たら話聞いて足運んで出会い求めた方がいいのかな?
>>625 付け加えるなら、日本思想とは駄洒落言葉遊びだということだ
>>662 匿名の書込みだからといっても、他人の書込みに、その書込みの本人であるかのように「付け加える」ことは、やはり「詐欺行為」であることに変りありませんよ?
>>662 まあ、でも、私自身の書込みを思ひ出させてくれて、ありがとう。
>「(恁/忍)=(忍/恁)」という「ひと(等/人/一)しさ」
これを、一言の英語で伝へようとするなら、"congenial"ということになるだろう。
>>662 では、こういう駄洒落はどうですか?
>congenial
suitable for something
Compost provides congenial conditions for roots to develop.
(出典 ldoceonline.com/jp/dictionary/congenial)
>>655 "congenial"という表現の説明として語源辞典の説明をそのまま引用したが、私は、このメタ言語的記述が適切であると考へているわけではない。
この"congenial"という表現の用法の由来の説明についても、いつものとおり、この記述における"con-"の解釈は逆立ちしている。
"congenial"は、日本語で説明するなら、性質としては「相性(あひしょう)の良さ」、振舞ひとしては「愛相(あいそ)の良さ」ということになるが、「相性(あひしょう)の良さ」も「愛相(あいそ)の良さ」も、「生まれを同じくすること」によ(依/拠)り/由来してもたらされるわけではない。 そうではなく、「(恁/忍)=(忍/恁)」という「ひと(等/人/一)しさ」 /"adequacy"が、性質としては「相性(あひしょう)の良さ」として、振舞ひとしては「愛相(あいそ)の良さ」としてあらは(顕/現)れるのである。 このことは、例えば、 >Compost provides congenial conditions for roots to develop. において、"roots"/(根)と"compost"/(堆肥)の関係を考へてみてもすぐに分かるだろう。 植物が堆肥に根付いて良く育つのは、植物の根と土中の細菌とが、その臨在において「(恁/忍)=(忍/恁)」という「ひと(等/人/一)しさ」 /"adequacy"の関係として協働していることのあらは(顕/現)れであって、植物の根と堆肥や堆肥中の細菌が「生まれつきの性質を同じくしている」ことによ(依/拠)る/由来しているのではない。
>Compost provides congenial conditions for roots to develop. この表現を借用させてもらうと、 The modern Japanese orthography("現代仮名遣ひ") does not provide congenial conditions for philosophy in Japanese to develop. ということになる。
>>668 いずれの辞書にも、英語の解説書にも記載されない、この"congenial"という表現が伝へようとする感覚の解釈は、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」からの私の勝手な推測によるものだが、それが通用するかどうか確かめてみよう。
例えば、Merriam-Webster Dictionaryに引用される次の文例は、"congenial"の名詞形である"congeniality"という表現が実際にどのように使はれるかの具体例を示すものである。
>In the mind of the voter, compromise and congeniality between the left and the right is as much a strategic choice as a genuine flourishing of good feelings …— Shervin Malekzadeh
誤:いずれの辞書にも 正:いづれの辞書にも 現代仮名遣ひは、逐一、自然な思考を妨げるように工夫されている。
>>658 >日本語の「ぬし(主)」は、語源的には、中国語の「老子」を、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」において移すように取り込まれた表現である可能性があるのではないか。
このように考へることは、私には特に不自然なことであるとは感じられない。
「ぬし(主)」の語源については、「〜の・うし」の短縮形であるという説があり、岩波古語辞典においてもそのように説明されているが、私には、この説に強い説得力があるとも感じられない。
その理由を説明しよう。
「〜の・うし」⇔「ぬし(主)」とする説では、「〜の」は、助詞であるものと解釈され、「うし」が「ぬし(主)」に相当する意味で用ゐられたのだとされる。 しかし、その場合、「うし」がどのような表現であったのか、その表現法としての解釈ははっきりしない。 さらに、「古事記」と「ヌシ」をキーワードにして検索してみると、「古事記」において最初に登場する神の名として、「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ、あまのみなかぬしのかみ)」というのがヒットし、その名のとおり、「神名は天の真中を領する神を意味する」(西郷信綱『古事記注釈』第1巻、平凡社、1975年)とされる。 他に「事代主神(ことしろぬしのかみ)」というのもヒットする。そこで、いずれの場合も、「ぬし(主)」の後に補足された「のかみ(神)」という表現を除外して、「天之御中主神(あめのみなかぬし)」、「事代主神(ことしろぬし)」として考へたとして、「ぬし(主)」を「〜の・うし」に置き換へてみると、表現としてなぜ「〜の」が必要とされるのか不明である。
ところで、「〜の・うし」という表現が用ゐられ、そのような表現解釈が通用するものであったとして、それでは、「ぬし(主)」は、「〜の・うし」の短縮形としてしか解釈され得ないのであろうか。 私には、そのようには思えない。それどころか、「〜の・うし」という分解の方が後付けの解釈によるものである可能性も十分にあるのではないかと思ふ。 なぜなら、私がその可能性を示唆したとおり、「ぬし(主)」が中国語としての「老子」のこわ(声)づか(使/仕/遣)ひを日本語に移したものであったと想定した場合、後の漢語としては、「老」は、「ろう/らう」と読まれるが、古代の日本語では語頭に"l"の発音が用ゐられないため、"l"の発音は"n"の発音に移されたと考へられるからである。 すると、「老」は、「のう/なう」と発音されることになるので、「老子」は、「のうし/なうし」となる。 実際、朝鮮語でも「老」は、カタカナ表記するなら「ノ」(古代の日本語としては、甲類の「の」に分類されるだろう)に移されている。 そして、古代の日本語で助詞として用ゐられた「の」のこゑ(声)には、万葉仮名の表記においては、甲類の「の」と乙類の「の」が当てられているいずれの事例も見られるので、当てられる漢字が明確にその発音が助詞の「の」として意図されていることを示すのでない限り、「の」の解釈に不確かさが伴ふことになるだろうと思はれる。
このようなあいまいな根拠をいくら並べて見ても、何も確かなことは分からないではないか、という反論があるだろう。 では、「老子(のうし)」⇔「主(ぬし)」のような対応関係を想定することが、表現法として尤もらしいかどうかを検討してみるために、ふたたび、「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ、あまのみなかぬしのかみ)」に戻ってみることにしよう。
「天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ)」というのは、簡単に言い換へるなら「天(あま)つ神(かみ)」であり、それが「ぬし(主)」であるとするなら、「天にまします我らが主(ぬし)」ということになるだろう。 ここで、「天にまします我らが主(ぬし)」をスペイン語で言ひ換へるなら、"Nuestro Señor en el cielo"であり、スペイン語の"señor"が日本語の「ぬし(主)」に対応することになるが、"señor"は、英語の""senate"/「上院」(表現として「元老院」に由来する)や、日本語の「シニア世代」の「シニア」と語源を同じくする表現であり、それを漢字一文字で表すなら「老」ということになる。
日本語の古代の表現と中国語の表現の対応関係を論じているのに、突然、まったく無関係のスペイン語を持ち出してきても無意味である、という反論があるかもしれない。 そこで、今度は、このスペイン語の"señor"という表現と中国語の表現の対応関係を見てみよう。 >señor 西班牙语 señor/-a adj. 极好的,华丽的,很大的 m. f. 主人,先生,女士,老爷,太太,夫人,公公,婆婆,岳父,岳母,东家,女东家 (出典 zh.wiktionary.org/wiki/señor) すると、見てのとおり、私には好都合なことに、「老爷」という「老」の漢字を含む記載が見られる。 では、「老爷」とは、どのような表現だろうか。 >老爷 老爷 中日辞典 第3版の解説 老爷 lǎoye 1 [名] 1 旦那さま.▶以前は庶民が役人に対して使った敬称.現在では風刺的にしか用いない. 当官做〜/お役人になる;お偉くなる. 2 旦那さま.▶旧時は下僕が主人に対して使った敬称,または妻が夫に対して使った敬称.
見てのとおり、この場合の中国語の「老」は、日本語としての「主」の用法にぴたりと対応していることが確認でき、そのことがスペイン語の表現を介しても成立することが分かる。
大老(たいろう)は、江戸幕府の職制で、将軍の補佐役、臨時に老中の上に置かれた最高職である。 より広義には、大名家・執政機関の最高責任者群を指す(豊臣政権の五大老などがよく知られる)。 大老 - Wikipedia
哲学の役割は、気づかせることまでであって、気づいたことについてどうするかは各自の勝手である。
「私ら」と言ふ場合の「〜ら」には、日本語としては、通常、「等」という漢字が当てられるが、中国語の表現として用ゐられる「等」は、「ら」という発声とは無関係である。 では、この「〜ら」は、どのような表現なのかと言へば、それは、例えば、上海語の「阿拉」の「拉(la)」に対応しているのだろうと私は思ふ。 この「拉(la)」は、通常、単に複数であることを示す指標として用ゐられているものと解釈されているようだが、この「拉(la)」については、なかなか面白い推測が成り立つように思えるので、それについて、また後で書き込むことにする。
日本語において「私ら」と言ふ場合に、通常、「等」という漢字が当てられる「〜ら」に、中国語としては、上海語において「私ら」を意味する表現として用ゐられる「阿拉」の「拉(la)」がそのまま対応するだろうという考えは、何ら私独自の勝手な推測によ(依)るものではない。 なぜなら、この「阿拉」の語源については、次のとおり説明されているからである。 >Originally Ningbonese. Due to an influx of migrants from Ningbo to Shanghai, this has supplanted the original Shanghainese 我伲 or 伲. 阿 is from 我 (MC ngaX, “I; me”). 拉 is a plural marker, also seen in 伊拉 (“they; them”). (出典 en.wiktionary.org/wiki/阿拉)
したがって、ここで私が問題にしているのは、日本語の「〜ら」が、中国語としての「拉」に対応しているか否かではない。 そうではなく、この日本語としての「〜ら」、そしてそれが対応する中国語としての「拉」を、"拉 is a plural marker"という記載のとおり、単に「複数を表す標識」として解釈すれば、それで十分なのかどうかである。
日本語としては、「私ら」と同様に一人称複数を表す表現として、「私ども」、「私たち」などがある。 「これ・ら」の表現がすべて一人称複数を表すことにおいて同様であるとしても、そのことは、「〜ら」、「〜ども」、「〜たち」が表現として同等であり、互換的であることは意味しない。 日本語においては、「〜ら」が「〜等」と表記され、日本語としては、「等」という漢字が主として「ひと(等)しい」という意味で用ゐられ、「〜等々(などなど)」という表現が、英語にすれば、"〜 and the like"に対応すると考へられることから、「私ら」も、"me and the like"、つまり、「〜ら」は、「同等のもの」を表現しているように思える。 しかし、この解釈は、本当に妥当だろうか。というのも、「等」は、漢語としては、「ら」とは読まれないからである。 日本語の「〜ら」が中国語としては「〜拉」に対応し、その「〜拉(ら)」の日本語としての表記が、便宜上、「〜等(ら)」として置き換へられたとすれば、どのような解釈によりその置換へは、折り合ひのつくものとなるのだろう。
いくつかの興味深い事実が注目され、それは、既に引用したWiktionaryの記述にも見られる。 それは、 >this has supplanted the original Shanghainese 我伲 or 伲 という記載である。 さらに、「拉」について、同じくWiktionaryで検索してみると、次の記載に行き当たる。 >篤 Cognate with Shanghainese 拉, as in 阿拉 (“we”), 伊拉 (“they”) (You, 1995). Pronunciation Wu (Wugniu) (Northern): 7toq; 0toq Definitions 篤 (Suzhounese) Suffix indicating plural for pronouns. a篤/a笃 [Suzhounese] ― 6n-toq0 [Wugniu] ― you (plural) 俚篤/俚笃 [Suzhounese] ― 1li-toq0 [Wugniu] ― they (en.wiktionary.org/wiki/篤)
これらすべての互いの関係についていろいろ言ひたいことはあるのだが、まとめて参照する項目があまり増えすぎると、何を言ひたいのが伝はりにくくなるので、「〜ら(拉)」だけについて、一応、私の結論を先に述べておこう。 それは、この「〜ら(拉)」は、単に複数であることを示す標識として用ゐられているだけでなく、「拉」が動詞として用ゐられる場合に伝へられる様態も反映しているだろうということだ。 「『拉』が動詞として用ゐられる場合に伝へられる様態」として私の念頭にあるのは、それをメタ言語的に記述するなら、「接合を生じながら引く様態」、「『づれ/づらし』をもたらす様態」であり、 具体例としては、次のようなものである。 >拉 ・他拉不好锯。〔+可補+目〕=彼はのこぎりをうまくひけない. ・把抽屉 ・ti 拉出来。〔‘把’+目+拉+方補〕=ひきだしを開けてください. ・孩子哭闹不走,大人只好拉着他走。〔+兼+動〕=子供が泣きわめいて歩こうとせず,大人は仕方なく彼を引っ張って歩かせた. ・我不会拉大提琴,只会拉小提琴。〔+目〕=私はチェロが弾けない,ただバイオリンが弾けるだけである. ・弦拉断了。=(弾いているうちに)弦が切れてしまった. ・坏人拉干 gàn 部下水。〔+兼+動〕=悪人が幹部を引きずり込んで悪事を働かせる,悪の道に引きずり込む. (出典 cjjc.weblio.jp/content/拉) これらの「動きの様態」から推測するなら、「私ら」の「〜ら」も、「『づれ/づらし』をもたらす様態」、つまり、「随伴」を表現しているのではないかと私には思える。
さらに、本当に結論として私が示そうと考えているのは、日本語の古語における「な(汝/己=己/汝)」と中国語の「拉」の声遣ひの近似性である。 しかし、これについて述べるには、さらに多くの例示と論証を必要とするが、その際に中心的な重要性を帯びて現れるのが、この場合も、中国語の普通話においてピンインの"r"により表記される声遣ひである。
中国語において「阿拉」は、「我们」の方言とされるが、 「我们」の用法は、以下のとおり説明される。 >(複数1人称;自分の側にある人々を含めて「私たち」と言う場合)私たち,僕たち,我々. ◆(1)‘我们’は話し相手を含んで「私たち」と言う場合に用いることもあるが,多くは話し相手を含まない場合に用いる. (出典 cjjc.weblio.jp/content/我们) この「多くは話し相手を含まない場合に用いる」という説明は、日本語の「私ら」の場合にもそのまま当てはまるだろう。 さらに、「等」は、中国語においても、 >((文語文[昔の書き言葉])) (人称代名詞や人を示す名詞の後に用いて複数を示し)…ら,…たち として用ゐられる。ただし、その発声は、「〜ら」に類似するものではなく、"děng"である。 しかし、「等」は、動詞としては、 >(友人・自動車・電話・手紙など具体的な人や事物が来るのを)待つ,(…することを)待つ. として用ゐられることから、この「〜ら」も、英語において"waiter"がそのような意味合ひを帯びるように、「〜等」≒"〜 and attendant"のような捉へ方なのではないかという気がするが、私は、中国語そのものについては、知識がないので、検証はできていない。
ここで、一見したところ、この話題とは何の関係もないように思える問ひを発することにしよう。 その問ひとは、 熱(ねつ)は、どのようにあつ(熱)いのか、 である。この問ひに適切に応へようとすると、いろいろと興味深い関係が見えてくる、というより、如実に感じられるように思えてくる。
中国語の普通話においてピンインの"r"とし表記される声遣ひが、どれだけ多様な現れ方をするか、まづは、日本語としてもよく知られている「如来(にょらい)」という表現を具体例として考へてみるといい。 >如來 標準中国語: ピンイン: rúlái 広東語: イェール式: yu4loi4 粤拼: jyu4loi4 閩南語: POJ: jû-lâi, lû-lâi, jî-lâi, lî-lâi 閩東語: 平話字: ṳ̀-lài, ṳ̀-lì 客家語: 白話字: yì-lòi 呉語: zy1 le 中古漢語: nyo loj (出典 ja.wiktionary.org/wiki/如來)
>>690 こうして並べてみると、声遣ひが接合しながらづれてゆく様子がうかがへる。
声遣ひのづれがづれとして意識される限りにおいて、す(擦)り合はせがこころみられ、対応関係を探られるが、
しかし、それぞれの声遣ひが規範として意識されるようになると、す(擦)り合はせは放棄されて、づれはもはやづれとして意識されなくなり、すれ違ひとなる。
さらに、すれ違ひを生じるようになった後、別のすり合わせの必要が生じると、声遣ひが規範化は、それぞれ別の体系化に向かふことになる。
>熱(ねつ)は、どのようにあつ(熱)いのか これは、実は、中国語の普通話においてピンインの"r"によって表される声遣ひについての問ひでもある。 なぜなら、「熱(ねつ)」は、漢語であり、普通話では、"(Pinyin): rè"と発話され、それに対応する中国語の中古音が"Middle Chinese: nyet"であったと想定されているからだ。
>熱(ねつ)は、どのようにあつ(熱)いのか このように問はれたとき、大多数の人々は、そのような問ひ自体が無意味であると考える。 なぜなら、熱(ねつ)があつ(熱)いのは、「当たり前」だからである。 つめ(冷)たかったらそれは熱(ねつ)ではない、というわけだ。 したがって、多くの人々には、既に自明であることについて問ひを発することの意味が伝はらない。
しかし、その問ひを次のように変へた場合は、どうだろう。 「思ひが『あつい』」、「こころざし(志)が『あつい』」、「情に『あつい』人」と言ふとき、思ひ、こころざし(志)、情は、どのように「あつい」のか。
相手の熱意が「あつく」伝はってくる場合、その「あつさ」は、どのように「あつい」のか。
さらに、日本語の古語の「病(やまひ)が『あつしく』なる」の「あつし」では、それが「熱(ねつ)」によるものであるという解釈は成立しなくなるわけだけど、では、その「あつし」は、「熱(ねつ)の『あつさ』」とはどのような関係にあるのか。 「熱(ねつ)」が、「どのようにか『あつい』」ことの、その「どのように」とは無縁なのか。
上海語においては、「阿拉」が「我伲」もしくは「伲」にとって代わり、この「拉」の用法そのものは、「a篤」における「篤」の用法と類縁関係にあると見做されていることを思ひ起こそう。 ところで、「篤」は、日本語においては、「あつし」という表現に当てられる漢字である。
ここでも、あまり説明が長引くと、却って、何を言ひたいのか伝はりにくくなるので、一応の私の結論を先に述べておこう。 それは、「あつし」という様態は、その本性において、英語を用ゐるなら、"bearing upon 〜"、さらには"overbearing"とされるような様態に対応しているだろう、ということだ。 >overbear (v.) 14世紀中頃、overberen という言葉は「持ち越す、転送する、伝える」という意味で、現在は使われていない(ラテン語の transferre を翻訳していた)。これは over- と bear(動詞)から派生しています。1535年(カバーデール)からは「物理的な力の重みで押し倒す、圧倒する」という意味で、もともと航海の際に使われていました。比喩的な意味で「権力、権威などによって克服し抑圧する」という意味は1560年代から使われています。 (出典 etymonline.com/jp/word/overbear#etymonline_v_10036)
Wiktionaryの記述によれば、以下のとおりである。 >熱 composition 埶灬 Phono-semantic compound (形聲/形声, OC *ŋjed) : phonetic 埶 (OC *ŋeds) + semantic 灬 (“fire”). >埶 The character 埶 (OC *ŋeds) was also often phonetically borrowed to represent another character 勢 (OC *hŋjeds). >勢 posture; position; pose; bearing
日本思想などと言うものはない。 日本幻想ならある。どこの国でも同じ。
>>698 >なつ(夏)はあつい
岩波古語辞典で「なつ(夏)」の項目を参照してみると、この辞典に記載される語源説の「いかがはしさ」が、典型的によく分かる。
そこには、「なつ(夏)」は、
>朝鮮語nyörɐm(夏)と同源
と記載される。この"nyörɐm"は、現代の朝鮮語では、「여름( /jʌ̹ɾɯm/)」であり、カタカナ表記するなら「ヨルム」と転記されるだろう。
(参照 ja.wiktionary.org/wiki/여름)
ところで、朝鮮語の場合には、中国語の普通話においてピンインの"r"により表記される声遣ひが、カタカナ表記するなら「ヤ、ユ、ヨ」となる声に移されることは既に指摘した。
朝鮮語を知っているなら、「여름 (yeoreum) 」という声遣ひから、朝鮮語として用ゐられる漢語である「열 (yeol) <熱> 」を想起しないはずがなく、この"nyö"/"yeo"が、「如(여(yeo))」と同様に中国語のピンインの"r"の声遣ひに対応することに気づかないはずはない。
ところが、岩波古語辞典では、語源説明において中国語における対応する表現は完全に無視されているのである。
これは、明白に意図的な無視である。
>上海語においては、「阿拉」が「我伲」もしくは「伲」にとって代わり、この「拉」の用法そのものは、「a篤」における「篤」の用法と類縁関係にあると見做されていることを思ひ起こそう。 >伲 異體字(你):儞|伱|伲|𤙌|妳 (出典 zh.wiktionary.org/wiki/伲) >汝 汉语拼音:rǔ 粵拼:jyu5 臺羅拼音:lí >汝 讀音 訓讀:なんじ (nanji) 音讀:じょ (jo) 朝鮮語 汝 讀音 音讀 여 (ye) (出典 zh.wiktionary.org/wiki/汝)
そろそろ、日本語の「な(汝/己=己/汝)」と中国語の「拉」の近似性が如実に感じられるようになってきたのではないだろうか。
>昵懇(読み)ジッコン デジタル大辞泉 「昵懇」の意味・読み・例文・類語 じっ‐こん〔ヂツ‐〕【×昵懇】 [名・形動]《「昵」は、なれしたしむ意》親しく打ち解けてつきあうこと。また、そのさま。懇意。
ここで、大切なことなので、
>>691 で述べたことを繰り返そう。
>声遣ひのづれがづれとして意識される限りにおいて、す(擦)り合はせがこころみられ、対応関係を探られるが、
しかし、それぞれの声遣ひが規範として意識されるようになると、す(擦)り合はせは放棄されて、づれはもはやづれとして意識されなくなり、すれ違ひとなる。
さらに、すれ違ひを生じるようになった後、別のすり合わせの必要が生じると、声遣ひが規範化は、それぞれ別の体系化に向かふことになる。
>台湾語の lán は完全に異なる道を通ってきている.意味 からすれば,lán は你 lí と我 góa が融合した複数である.台湾語の複数は単数代名詞にnをつけたも のである) 單數 (多)複數 goa goan lí lín i in (出典 www.academia.edu/39113654/_1人称複数代名詞における除外と包括の対立_漢語諸方言を中心に_第一人称代名词的排除与包括的对立_以汉语诸方言为中心_)
ところで、「人」は、中国語の普通話では、ピンイン表記において"rén"であるが、これに対応する閩南語は、"lâng"または"jîn"または"lîn"である。 普通話におけるピンインの"r"に閩南語の"l"が対応していることが分かり、周知のとおり、日本語において漢語の「人」は「ニン」と読まれるので、この場合は、"n"が対応している。
ここでもう、ほぼ、
>>687 で述べた結論に達している。
>本当に結論として私が示そうと考えているのは、日本語の古語における「な(汝/己=己/汝)」と中国語の「拉」の声遣ひの近似性である。
> 咱 lán 釋義 代詞 我們。第一人稱複數代名詞。「咱」包括聽話者,「阮」不包括聽話者。 第1項釋義的用例:咱攏來讀冊。Lán lóng lâi tha̍k-tsheh. 我們的。第一人稱複數所有格。 第2項釋義的用例:咱公司最近生理真好。Lán kong-si tsuè-kīn sing-lí tsin hó 您、您們。第二人稱單複數敬語。 第3項釋義的用例:請問咱貴姓? Tshiánn-mn̄g lán kuì-sènn? (出典 sutian.moe.edu.tw/zh-hant/su/4776/)
>「ひと(人)」は、その本性において「接合部(joint)」における「ベアリング(bearing)」の如き様態で働くものと「認( rèn)識」される 以上に論じてきた様々な声遣ひに関して、中国語の普通話においてピンインの"r"として表記される発声が、既に繰り返ししてきたその発声の弁別特性の不確かさとそのアルファベット表記の奇妙さ(「すわ(据)りの悪さ」と表現することもできるだろう)にもかかはらず、というよりむしろ、その不確かさと奇妙さゆえに、「軸(ぢく)」のような中心的な重要性を帯びて現れる。 そのことは、しかし、まづ、ピンインの"r"の発声が規範として使はれていて、そこからの発声の「づれ」として、ここで論じてきた様々な声遣ひが生じたことを意味するわけではない。 むしろ、ピンインの"r"の発声は、それらの発声を「づれ」として認識することを可能にする「ベアリング」/"bearing"のような役割を帯びることで「軸(ぢく)」のような働きを見せているのである。
「ぢく(軸)」として働くとは、どのようなことだろうか。それは、私には、次のように説明することができるのではないかと思はれる。 つねにま(間)ぢ(近)か「に/で」あることによ(依)り、遠心性としてでも、求心性としてでもなく、「づれ」が生じることを可能にする中心性としてあらは(顕/現)れること、それが「ぢく(軸)」として芯(しん)「に/で」あることの「中『心』性」である。
言語を身体に喩えるとすれば、その規範性は、身体の動きに喩えることのできる「ことばづか(使/仕/遣)ひ」の骨格である。 骨格は、身体の動きを支へるために発達してきたのであって、骨格に生身(筋や肉など)を後から付け加へることによって身体が形成されるわけではない。 したがって、言語の場合においても、その骨格/規範性ばかりを大切にしようとすることは、「ことばづか(使/仕/遣)ひ」を痩せ細らせて形骸化することになる。 言語の身体性を本当に知ろうとするなら、骨格/規範性を無視してしまえば、その動き方が軟体動物のものように感じられて、捉へどころがなくなってしまうとしても、むしろ逆に「ことばづか(使/仕/遣)ひ」の方から、その動きにおいて骨格がどのように役立つように発達させられているのかを探ることが重要である。
誤:軟体動物のものように 正:軟体動物のもののように
>>706-709 「中国語の方言のひとつで、閩南語(ミンナン語)の下位方言」とされる潮州語において、
>閩南語の「咱(lán)」に対応する潮州語は、「㑑(nang2 )」である。
(出典 www.mogher.com/baike?kw=咱)
「づれ」ながら「を(折)りあ(合)ひ」をつけようとする「こころ(心)み(観)/(試み)」により「ぢく(軸)」が「かひ(効果)」としてあらは(顕/現)て、その「かひ(効果)」が中核に存在する「しん(芯)」として概念化される。
たとえば、極めて基本的なこととして、内(ない)外(がい)、つまり、「うち(内)」と「そと(外)」は、どのようにして在り得るのか。 それは、動くことで可能となる「づれ」の連続性(つながり具合)によ(依/拠)り、動きの「ぢく(軸)」が「存在するもの」として概念化されて意識されるからではないのか? 動きの「ぢく(軸)」が概念化されることなしに「うち(内)」と「そと(外)」は在り得るのか?
「づれ」を許容することなく、無化しようとする思想、言ひ換へるなら、「中枢」を、「づれ」を許容する「ぢく(軸)」としてではなく、「中心点」として、つまり大きさが無いものとして理想化しようとする思想は、不特定の「ひと(人/一)」の働きも、容認すべからざるものとして無化しようとすることになるだろう。
>>715 この考へ方は、「『独立した言語』の存在」について考へるときにもそのまま「当てはまる」だろうと思ふ。
「当てはまる」というのは、「該当する」という意味であって、自らの知性が他者より優れているということを示したがる人々が好んで用いる、(哲学者や思想家の「考へ方」や「概念」などを)「応用する」とか、「適用する」といった表現の意味で言っているのではない。
言語の場合、ことばづか(使/仕/遣)ひの「かひ(効果)」が中核に「しん(芯)」が存在するものとして概念化され得ることが、或る言語、例えば、「日本語」が、「独立した言語として存在する」とされることになるだろう。 すると、その言語の「うち(内)」と「そと(外)」が明確に区別され、いくら「漢語」や「英語の表現」の発音を「日本語」に移し替える「カタカナ語」が「日本語」に取り込まれて、それらの語彙が「日本語」において占める割合が増えたところで、「日本語」が「中国語系統の言語」であるとか、「英語系統の言語」であるとかされることはない。
しかし、ここで、多くの人々は、容易に錯誤に陥ることになる。 その錯誤とは、「独立した言語である『日本語』」が「漢語」や「カタカナ語」を「日本語の『そと(外)』」から取り込んでいるのだから、いくら時系列的に過去に遡ってもやはり、そのように「うち(内)に取り込むこと」が可能になるためにはまず、「日本語の骨格」が先に存在しなければならず、そのように存在したものと想定される「日本語の骨格」が「原日本語」である、と考へてしまうことだ。
私は、これまで、日本語の表現の多くが、中国語の表現のに対応する発声の流用であると考えることができることを指摘してきた。 さらに、私自身は、「日本語」から、中国語の表現のに対応する発声を逐一、除外していったなら、それにより「原日本語」が「日本語の骨格」として姿を現すことになるどころか、言語としてほとんど何も残らないだろうと考へている。 しかし、そのように考へることは、「日本語が」「独立した言語」ではないとか、「日本語」が「中国語系統の言語」であるとか、「中国語」こそが真に「独立した言語」として存在して、「日本語」はその「亜種」にすぎない、といったようなことではない。
私は、言語系統論に基づく比較言語学の「言語観」そのものに根本的な誤りがあると考えている。
>>701 に引用した具体例から考へてみよう。
>岩波古語辞典で「なつ(夏)」の項目を参照してみると、[...]。
そこには、「なつ(夏)」は、
>朝鮮語nyörɐm(夏)と同源
と記載される。この"nyörɐm"は、現代の朝鮮語では、「여름( /jʌ̹ɾɯm/)」であり、カタカナ表記するなら「ヨルム」と転記されるだろう。
(参照 ja.wiktionary.org/wiki/여름)
私は、日本語を母語とする日本人であり、朝鮮語については、韓国TVドラマを観る程度で、特にまともに学習したことがないので、極めて初歩的なことくらいしか知らない。 その私が、「現代の朝鮮語で『夏』を意味する『여름( /jʌ̹ɾɯm/)』は、『漢語』の流用である」と主張したなら、「なにを根拠もないデタラメを言っているのか。そんなことがどこに書かれているのか。」と怒り出す、「朝鮮語」を母語とする人々は大勢いるだろう。 実際、これは、私個人の勝手な推測に基づく判断であり、私がネットで検索してみた限りでは(私は、朝鮮語や中国語を読めないので、検索範囲そのものが狭く限定されているが)、そのような主張はどこにも見当たらない。 その一方で、岩波古語辞典という日本の「権威ある辞書」には、 >朝鮮語nyörɐm(夏)と同源 と国語学/日本語学の権威により明記されているのだから、日本語の「夏(なつ)」という表現こそ、「朝鮮語nyörɐm(夏)」の「借用」であると主張する人々が大勢いても不思議ではない。 確かに、私自身も、この記載には、「部分的な真実」が含まれており、「嘘とまでは言へない」だろうと思ふ。 しかし、それにしても、「朝鮮語〜と同源」という「言ひ回し」は、いかにも「曲者」であり、私自身は、その「言ひ回し」に意図的な奸計を感じとらざるを得ない。 というのも、「朝鮮語〜と同源」であることは、その表現が「朝鮮語起源」であることを必ずしも意味するわけではなく、「日本語の表現」と「朝鮮語の表現」の「起源的な共通性」を示すに過ぎないからだ。
いづれにしても、これは、私の勝手な推論に過ぎないので、先にその結論を示しておこう。 「朝鮮語nyörɐm(夏)」、現代の現代の朝鮮語の「여름( /jʌ̹ɾɯm/)」とは、英語を用ゐて言ひ換へるなら、"month(s) of heat"であり、漢字で表記するなら「熱阴」である。 さらに、この推測は、別に何か私の独創的な発想法によるものというわけでもない。例えば、次の表現を参照してみるといい。 >〔フランス革命時 の暦の〕テルミドール、熱月◆グレゴリオ暦で7月20日〜8月18日にあたる第11の月(夏期の第二の月)。 thermidorの意味・使い方 - 英辞郎 - アルク
日本語では、季節感を伝へるのに、旧暦の「皐月」とか、「神無月」いった表現が今でも用ゐられることがあるが、そこに「月」という表現が現れるのは、旧暦が「太阳(/陽)暦」ではなく、「太阴(/陰)暦」であるからだ。 中国語では、「太阳」(="solar")/「太阴」(="lunar")という対比関係にある。 英語でも、「年月日」の「月」を表現するのに用ゐられる表現である"month"は、"moon"に対応している。
>朝鮮語を知っているなら、「여름 (yeoreum) 」という声遣ひから、朝鮮語として用ゐられる漢語である「열 (yeol) <熱> 」を想起しないはずがなく 私は、ここで、「여름( /jʌ̹ɾɯm/)」の"/jʌ̹ɾ"を「熱」(열 (deoul yeol)); Hanja form? of 열 (“fever; heat”))に対応させたわけだが、では、残された"/ɯm/"もしくは"eum"の方はどうなるのだろうか。 ここで、「阴(/陰)」を同様にWiktionaryで検索してみると、 >陰 (eumhun 그늘 음 (geuneul eum)) Hanja form? of 음 (“dark; shady”). と記載される。ここで、ハングルの「〇」のような形の部分は、所謂、「ゼロ記号」であり、全体としても、うまく私の勝手な解釈と対応していることが分かる。
朝鮮語についても、中国語についても何の専門的な知識もない私が、ネット検索ですぐに導き出すことができるような仮説に、専門家が誰も気づくことがなかったとすれば、それはとても奇妙なことと言はざるを得ないのではないか? 私は、このような状況に直面するたびに、あなたたちは「気は確かなのか?」、「正気なのか?」と問ひたくなる。
ここで誤解してもらいたくない、というよりむしろ、それに気づくことこそが大切であるというのが私の言い分であるのだが、だからと言って、私は、朝鮮語の「여름( /jʌ̹ɾɯm/)」が朝鮮語ではなく、外来語であるとか、日本語の「なつ(夏)」が日本語ではなく、 朝鮮語や中国語からの借用語であるなどということを主張しているのではない。 「여름( /jʌ̹ɾɯm/)」は、朝鮮語としてしか通用せず、そのようにしか意識されない以上、紛れもなく朝鮮語の表現であり、同様に、「なつ(夏)」も、日本語としてしか通用せず、そのようにしか意識されない以上、紛れもなく日本語の表現である。 「中国語」であれ、「朝鮮語」であれ、「日本語」であれ、「言語の独立性」、つまり、「独立した言語として存在すること」は、そのようにして成立している。
自信(confidence)とは、みづから(身づ柄/自ら)がつねにあらかじめ不変の不動点として中心に存在するということではない。 そうではなく、うご(動)くことにおいてな(汝/己)(「拉」)がその都度、たの(頼)みになる("believable" - "be・leave・able")ぢく(軸)として求められ得るという感覚である。
>上海語においては、「阿拉」が「我伲」もしくは「伲」にとって代わり、この「拉」の用法そのものは、「a篤」における「篤」の用法と類縁関係にあると見做されていることを思ひ起こそう。
うご(動)くことにおいてな(汝/己)(「拉」)を、その都度、たの(頼)みになるしっかりしたぢく(軸)として求めつづける者は、自身を含めた物事の捉へ方を懐疑することを決して忘れることがないが、みづから(身づ柄/自ら)を、つねにあらかじめ存在する不変の不動点として求める者は、決してや安らぐことのない猜疑心にとり憑かれる。
自己中心的な人間が「懐疑」であると思ひ込んでいるものは、健全な安らぎを保つことに役立つ「懐疑」などではなく、限りのない強迫的な「猜疑」である。
ここで問ひである。 突然、不意に大きく揺さぶられたなら、何か動かないものに必死にしがみつこうとする人々の習性をうまく利用しているのは誰か?
確信に満ちた語り口で陰謀について語る陰謀論者と、懐疑を唱える者がすべてそのような陰謀論者に見えてしまう猜疑心に囚はれた者とは、ちょうど表裏一体の関係にある。
>>698 「熱(ねつ)」の「あつ(熱)さ」が
>「あつし」という様態は、その本性において、英語を用ゐるなら、"bearing upon 〜"、さらには"overbearing"とされるような様態に対応しているだろう、ということだ。
と解釈され得るとするなら、「あつ(暑)い」ことこそをその特徴とするものと考へられる「夏(なつ)」の「なつ」は、「捺(Middle Chinese: nat)」に直接に対応している可能性が考へられるだろう。
>捺
to press down firmly with the hand
(出典 en.wiktionary.org/wiki/捺)
ところで、「捺」は、朝鮮語では、"捺 (eum 날 (nal))"と読まれるものとされるが、この読みは、ピンインの"r"の発声に対応して"(il) (hangeul 일)"と読まれる「日(Middle Chinese: nyit)」のもう一つの読みである"날(nal)"と同じである。
>낮 낮 • (nat) daytime Antonym: 밤 (bam, “night”) noon 낮 열두 시에 ― nat yeoldu sie ― at twelve p.m. (出典 en.wiktionary.org/wiki/낮#Korean)
このようなWiktionaryの記述も、専門家が行っているのだから、このような対応関係に気づいていないとすれば、それは著しく奇妙なことと言わざるを得ないだろう。
私は、つい最近まで、中国語についても少しは学んでおこうという気持ちがなかったので、中国語のTVドラマを視聴するようなこともなかった。 近頃は、ネットで中国語のTVドラマも普通にアクセス可能となったので、いくつか面白そうなドラマを観始めた。 そこですぐに気づくことになったのが、私が中国語の入門書に目を通すことすらまだなかった数年前から、日本語の基本的な表現の形成についての個人的な推測として主張していたことが、中国語の初歩さえ学べば、誰にでも直ちに確認できることで、それをわざわざ「推論」と呼ぶほどのこともないということである。
私は、日本語の動詞における「〜ふ」は、中国語の「复/覆」と共通する表現の流用であると以前から指摘してきた。 そして、私は、そのことを、私が中国語の初歩すら知る以前から繰り返し指摘してきた。 ところが、中国語のTVドラマをネットで観ていると、「答复(dáfu)」という表現が台詞に出てきた。 そこで、「答复(dáfu)」を検索してみると、次のとおり記載されている。 中日辞典 第3版の解説 答复 dáfu [動]回答する.返答する.返事する.▶“答覆”とも. [発音]dáfùとも. 会给你一个满意mǎnyì的〜的/ご満足のいく返答ができるでしょう. 〜他的询问xúnwèn/彼の問い合わせに回答する. 〜不上来/返答できない.
これを見れば、日本語の「こ・た(答/応)・ふ」という表現がそのまま対応していることが分かる。 それだけではない。日本語の古語の「おも(思)ふ」のさらに古い形は、「も・ふ」であり、この「も・ふ」は、岩波古語辞典にもそう記載されるとおり、「も(面)ふ(覆)」と解釈されるのだから、もはや、中国語の表現との対応関係は疑ふ余地がない。
無論、私は、日本語の「〜ふ」という表現の用法が、中国語の「复/覆」の用法と同じものであると主張しているのではない。 しかし、日本語の「〜ふ」が、中国語の「复/覆」と共通する表現の流用であることは、一目瞭然であり、疑ふ余地がない。 さらに、そのことに、国語学者や言語学者などの日本語の研究を専門とする人々が、気づいていなかったはずはないのだ。 私が驚かされるのは、このような基本的で単純な事実関係についてさえ、誰もが未だに口を噤んでいることである。
結局、言語が同系統と見做されるかどうかも、政治判断に拠るところが大きいのだろうと思う。 日本語の表現を中国語の表現と比較してみると、表現を互いに関係づける、「〜は」、「〜が」、「〜に」、「〜と〜」、「〜や〜」などの、日本語としての発話を構成する基礎の役割を果たす「助詞」とされる「ことば」までが、中国語の表現と共通するこわ(声)づか(使/仕/遣)ひの流用として説明され得ることに気づく。 比較言語学においては、言語が同系統と見做され得るかどうかを判定するのに、主として「名詞」として分類される表現を基礎語彙として抽出して比較するが、日本語の場合、大量の漢語をそのまま、または独自に流用して使用していることは、誰でもが知っているとおりである。 しかし、言語の系統の判定においては、漢語や、それを独自に流用した、所謂、「和製漢語」は、「借用語」とされて、系統論の比較の対象からは除外される。 その結果、言語系統論における中国語と日本語の比較においては、「漢語」と「やまと言葉」が比較されることになる。 ところが、「やまと言葉」とされるのは、その定義からして、漢語としては認識されない表現なのだから、「名詞」とされる分類される表現を比較した場合、対応関係を見出しにくくなるのは当たり前である。 さらには、例えば、日本語の古語において「年をとる」という意味で用ゐられる「ねぶ」という動詞の名詞形である「ねび」などの表現も、それが明白に、漢語の「年(ねん)」に由来することが判明すれば、「借用語」と見做されて、比較対象から除外されることになるだろう。 すると、結局は、対応関係の不明である表現だけが、系統関係を判定するための比較の対象として残ることになる。 これは、根本的に欠陥のある、理論的な根拠も不明な手続きであると言はざるを得ないだろう。 このようなことを言ふと、私が、日本語を中国語の亜種であると主張しようとしていると決めてかかる人々が大勢いるかもしれないが、既に繰り返し説明したとおり、私はそのようなことを主張しようとしているのではない。 そうではなく、私は、言語学の言語観そのものに根本的な大きな欠陥があると指摘しているのである。
日本語が、中国語と共通する表現を流用することによ(依/拠)り形成されたと私が指摘すると、それなら日本語は、中国語の方言とまでは言へないものの、それでも、中国語の方が歴史的にはるかに古いのだから、日本語は、中国語から派生したと主張しているのと変はらないではないかと考へる人もいるだろう。 さらには、そのような考へ方を受け容れるなら、日本語の表現は、対応する中国語の表現から解釈されるべきものとなるはずだと断定する人々も少なくないだろう。 しかし、私の考へは、まったくそのようなものではない。 むしろ、私は、日本語の表現法を中国語との対応関係で探ってみることは、逆に、中国語の表現の解釈に役立つことになることも少なくないのではないかと思ふ。
例えば、中国語の普通話において、副詞的な表現を形成するのに「地」が用ゐられている。 なぜ、「地」という漢字がそのように用ゐられるのかを検索してみると、この用法には、歴史的には、まず表記として「底」が当てられ、その後、それが「的」に対応するものと解釈され、最終的に「地」が当てられることになった、といったような説明がされている。 ところで、中国語におけるこの「地」という表現の用法は、明らかに日本語の「〜に」(例えば、「明らか『に』」の「に」)の用法によく似ている。
「地」は、日本語に取り込まれた漢語としては、「ぢ」と読まれる。 これに関連してすぐに私に想起される古語の表現が、「つい(築)ぢ(地)」である。 >築地(読み)ツイジ デジタル大辞泉 「築地」の意味・読み・例文・類語 ついじ〔ついぢ〕【▽築地】 《「つきひじ(築泥)」の音変化》 1 柱を立て、板を芯として両側を土で塗り固め、屋根を瓦で葺いた塀。古くは、土だけをつき固めた土塀。築地塀。築垣。
さらに関連して想起されるのが、「奈良」にかかる「枕詞」として知られる「あをによし」の「あを(青)に(丹/土)」であるが、「あを・に」の「に」は、もともとは「土(に)」の意であると岩波古語辞典に記載される。
このように見てくると、「あを(青)に(土)よし」の「に(土)」が「ぢ(泥)」でもあることは明白だろう。 では、「あを・に・よし」とは、どのような表現だろうか。「に」が「丹」と表記されると、それは赤い色を表現することになるので、「青丹」であれば、当然、想起されるイメージは、「青と赤」の組合せということになるだろう。 しかし、「あを(青)に(土/泥)よし」であれば、「に(土/泥)」は、「赤」のイメージに限定されない。
さらに、ここで、「あを(青)うま(馬)」という表現がどのように使はれていたかを思ひ起こそう。 「あを(青)うま(馬)」は、無論、物象化されたイメージとしては、「青毛の馬」ということになるが、しかし、これは掛詞による表現であり、「あを・うま」は、様態としては、「あを(≒「限りなく」)うま(≒「満ち足りる」)」ことを表現している。
このことから考へるなら、「あを(青)に(土/泥)よし(吉)」も、当然、掛詞として解釈されることになり、この表現が伝へようとしている様態とは、単純に「あを(≒「限りなし」)・に・よ(吉)い」ことであることになる。
ここで「あを(青)に(土/泥)よし(吉)」の「あを・に(土/泥)」を中国語の表現と並べてみよう。 日本語:「あを・に(土/泥[ぢ])」 中国語:「无限地」 >无限地 副詞フレーズ 日本語訳止め処無く,止処なく 対訳の関係部分同義関係 无限地の概念の説明 日本語での説明 留め処なく[トメドナク] 際限なく (出典 cjjc.weblio.jp/content/无限地)
このように見てくると、中国語において語源的にうまく説明のついていない「地」の用法は、日本語の古語における「に(土/泥)」の用法により逆照射されて、解釈が容易になるのではないか。
>私が、日本語を中国語の亜種であると主張しようとしていると決めてかかる人々が大勢いるかもしれないが ところで、日本語で「よ(良)しあ(悪)し」と表現する場合の「あ(悪=亞・心)し」は、「あ(悪=亞・心)」は、漢語だろうか、それとも「本来の日本語」とされる「やまと言葉」だろうか。 >亞(Middle Chinese: 'aeH) second; inferior 亞軍/亚军 ― yàjūn ― second place 不亞於/不亚于 ― bù yàyú ― not inferior to (出典 en.wiktionary.org/wiki/亞#Chinese)
日本語から中国語の表現を逆照射してみるというこころみ(試み/心観)はやってみる価値があるだろうと思ふ。 というのも、日本語では、こわ(声)づか(使/仕/遣)ひの違ひとして互いひに関連付けられることばの表現も、中国語の場合には、表現としての違ひが認められるなら、それらの表現には、別々の漢字が当てられることになり、そのことにより互いにはっきりと切り離されてしまい、それぞれが切り離されてさらに別の表現に応用されるので、互ひにまったく無関係であるようにしか認識されなくなってしまうからである。
例えば、日本語で、別れの挨拶として 「では、また」と表現する場合と、 「ぢぁ(/じゃ)あ、また」と表現する場合を比べてみよう。 ここで、日本語を母語とする人々には、「ぢぁ(/じゃ)あ」は、「では」とまったく異なる別の意味の表現というより、こわ(声)づか(使/仕/遣)ひに違ひが認められるものの、「では」の変形/変種であるものと感じられるはずである。
確かに、「で」と「ぢぁ(/じゃ)」の用法は互いに近いが、同じというわけでもない。 例えば、相手の話を一応、聞き終へた後で、「それで?」と言った場合と、「それぢぁ(じゃ)?」と言った場合とでは、発言者の態度に明らかに違ひが感じられる。 「それ・で」の場合には、「それ」を「確認する態度」が伝わってくるのに対して、「それ・ぢぁ(じゃ)?」の場合には、「それ」を認めるように「譲歩する態度」が感じられるはずである。
ここで、日本語の場合には、「ぢぁ(じゃ)」のこわ(声)づか(使/仕/遣)ひは、「譲歩」の「譲」の発声にも対応する感覚を伝へることになるが、それでも、「で」との対応関係も見失はれるわけではなく、「では、また」と「ぢぁ(/じゃ)あ、また」のように互ひの変種としてしか感じられなくなるような場合すらある。
では(「的话」ピンイン・dehuà)、中国語の場合にはどうだろうか。 「的((Pinyin): de)」と「讓/让((Pinyin): ràng)」は、まったく別の漢字であり、こわ(声)づか(使/仕/遣)ひとしても互ひにまったく無関係であると認識されているのではないか。 しかし、「的」の"(Pinyin): d"と「讓/让」の"(Pinyin): r"は、こわ(声)づか(使/仕/遣)ひとして本当に本来的に互ひに無関係につか(使/仕/遣)はれてきたのだろうか。 ここで私は、何か断定的な結論を導き出そうとしているのではない。ただ、このように日本語の側から中国語の表現を逆照射してみる検討をすることが、日本語の表現法についても、中国語の表現法についても理解を深めるのに有用だろうと言っているのである。
日本語と中国語の関係を考へるとき、漢字の用法は、手がかりになると同時に目隠しにもなっている。 「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」としてのことばの表現に適切であると感じられる漢字を当てはめるとき、その当てはめが、いかに適切に感じられるとしても、やはりそれは「手がかり/目隠し」の両面として働くことを忘れると、日本語と中国語の関係を大きく見誤ることになるだろうと私は思ふ。
例えば、「『かんにん』してくれ」と日本語で請ふときの「かんにん」という表現は、漢字としては、「堪忍」と表記されることになっている。 この漢字の当てはめは、「『かんにん』してくれ」と相手に請ふことが、その相手に「『堪え忍ぶ』ことを求める行為」となっているという「請ふ側の認識」を伝へているだろう。 したがって、「かんにん」を請う側が、相手に自らのその認識を伝へることを意図しているとすれば、「かんにん」を「堪忍」と表記することは、日本語としてきわめて妥当であると言ふことができる。 ところで、ここで、大抵の人はすぐに気づくであろうが、「堪忍」は、漢字で表記されても、「和製漢語」の表現であって、中国語ではない。
そこで、「堪忍」&「中国語」をキーワードとして検索してみると、日本語の「堪忍」に対応する中国語を見出すことができる。 >日中辞典 第3版の解説 堪忍 かんにん 1〔我慢すること〕忍耐rěnnài;[他を]容忍róngrěn. 2〔許すこと〕宽恕kuānshù,饶恕ráoshù. (出典 kotobank.jp/jazhword/堪忍) しかし、「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」としての日本語の「かんにん」には、「堪忍」だけでなく、「寛仁」という表記を当てはめることもできることに多くの人は気づくはずである。 そこで、中国語辞典を検索してみると、「寛仁」は、中国語の表現として通用することが判明する。 >EDR日中対訳辞書 寛仁 読み方 かんにん,かんじん 中国語訳宽宏仁爱 中国語品詞形容詞フレーズ 対訳の関係完全同義関係 (出典 cjjc.weblio.jp/content/寛仁)
ここで、日本語と中国語の関係について、 「漢字の用法は中国語の方が本家であり、『堪(かん)忍(にん)』という表現は、日本においてのみ使はれているとしても、いずれにせよ、漢字の発音を応用した『和製漢語』に過ぎない」 といったような観方をするなら、中国語としても通用する「寛仁」の方が本来の表現であり、相手に「寛仁」の心を示してくれるように自分が請ふことが、すなはち、相手にとっては「堪へ忍ぶ」ことを求められることになることを自分も認識している、という表現の二重化により、和製漢語としての「堪忍(かんにん)」という表現がもたらされたのだ、という解釈が導き出されるだろう。 しかし、私がここで述べようとしているのは、そのようなことではない。
>日本語と中国語の関係を考へるとき、漢字の用法は、手がかりになると同時に目隠しにもなっている。 このように指摘するとき、私は、それを日本語の表現についてのみ当てはまることとしてではなく、中国語の表現についてもそのまま当てはまることとして言っているのである。
>>762 日本語の「堪忍(かんにん)」に対応する中国語の表現を検索すると、
>宽恕kuānshù,饶恕ráoshù
という表現が見出される。このうち「宽恕」の方は、「御(ご)寛恕(かんじょ)を請ふ」という表現として日本語ととしても用ゐられている。
しかし、その場合の「寛恕」の読みは、「かんじょ」であって、中国語の「宽恕」のように"kuānshù"ではない。
また、この「かんじょ」という読みは、中国語の「宽恕(kuānshù)」の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」を元として、そこから変化したものではないだろうと私は思ふ。
>中日辞典 第3版の解説 求饶 qiú//ráo [動]寛恕(かんじょ)を請う.勘弁してもらう. 跪地guìdì〜/ひざまずいて見逃してくれるよう懇願する. (出典 kotobank.jp/zhjaword/求饶)
無論、ここで、私は、日本語の「寛恕(かんじょ)」が、中国語の「求饶」のこわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」を取り込んだものであるなどと指摘しようとしているのではない。 後で、さらなる説明をつづけることにする。
もって回った説明よりも、私の考へを先に述べよう。 「堪忍(かんにん)」に対応する中国語の表現には、 >饶恕ráoshù というのも見られるが、私は、日本語の「寛恕(かんじょ)」の「恕(じょ)」は、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」において中国語としての「恕(shù)」ではなく、「饶恕(ráoshù)」の「饶(ráo)」の方に対応しているだろうと考へる。
「饶(ráo)」は、「饒(ráo)」の簡体字であり、「饒(ráo)」は、日本語としては、「饒(じょう/ぢゃう)舌(ぜつ)」という表現においても用ゐられる漢字であるが、 >(Mandarin, colloquial, often of the vendor) to give as a giveaway, or as an extra (出典 en.wiktionary.org/wiki/饒) というという用法にも反映されるとおり、「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」としては、 >give (a)way to 〜、またはyield to 〜 という作用を想起させるように、つまり、「後づさり」の「づ」、「づり下がる」の「づ」のこゑ(声)に対応するようなイメージを想起させるようにつか(使/仕/遣)はれているだろう。
そのように見ると、「堪忍」の「忍」も、「寛仁」の「仁」もともに、「饒(ráo)」と共通して、ピンインの"r"で表記される「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」に対応していることに気づくはずである。
ところで、面白いことに、日本語の「饒舌」という表現は、中国語として、「ラップ・ミュージック」を表すように用ゐられているらしい。 >饒舌 (music) rapping; MCing (出典 en.wiktionary.org/wiki/饒舌) これは、中国語のピンインの"r"の表記を英語の"rap"の"r"と意識的に関連付けようとするこころみであると見ることができるが、ピンインの"r"の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」は、英語の"r"の発声とは性質を大きく異にするものであり、この場合も、対応関係は見られない。
「く(暮)れなづ(泥)む」という日本語の表現について考へていたら、ふと、ドイツ語で»wie Suche nach Versöhnung«という表現が思ひ浮かんだので、検索してみると、次のような用例がヒットした。 >Allegorie elementarer Entfremdung wie Suche nach Versöhnung, setzt den Erzählmechanismus in Gang, weil von nun an – vom schuldhaft hinterhältigen Angriff und unschuldigen Erleiden aus – das Verhältnis von beiden Außenseitern ... (出典 Pub Katz Und Maus Interpretation | PDF de.scribd.com › document › Epdf-pub-Katz-Und-...)
「日本語らしい日本語」とは、どのような日本語の表現のことを言ふのだろう。 そのように問ひに答へようとするとき、日本語と中国語の関係をきちんと考慮に入れようとするなら、「日本語らしい日本語」について一般に通用している「常識」には、大きな勘違いがあることに気づくだろう。
実のところ、私がドイツ語の»Suche nach Versöhnung«という表現を思ひついたのも、日本語の「く(暮)れなづ(泥)む」という表現から直接にではなく、中国語の「求饶 」という表現からである。
これに関連して「日本語の日本語らしさ」について、後で書き込むことにする。
「く(暮)れなづ(泥)む」は、私には(そして、他の多くの日本語を母語とする人々にも同様に)いかにも日本語らしく感じられる(であろう)表現だが、「なづ(泥)む」という表現の意味から見ても、「な・づ・む」の「づ」の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」においても、またその「づ」の発声が、「ひぢ(泥)」の「ぢ」、「あおに(青丹)」の「に」、さらには、漢語としての「泥(でい/ねい)」の発音に対応していることがすぐに想起されることからも分かるとおり、現代の中国語の普通話であれば、ピンインの"r"を用ゐて表記されるような中国語の表現と共通する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」を流用したものである。 既に何度でも繰り返しそれを強調してきたとおり、そのような、中国語の表現と共通する「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」の流用を日本語から入念に取り除いていったなら、「原日本語」と想定され得るような「日本語の基層」が残るどころか、「日本語」として想定され得るような実態は、霧のように消え去ることになるだろうと私は考へる。 では、なにが日本語を「日本語らしくしている」、または「日本語らしくなるようにしてきた」のだろうか。
このようなことを述べると、短絡思考の人々は、たちまちのうちに、私が「日本語は中国語から(朝鮮語を仲介するにせよ、そうではないにせよ)派生した言語だ」と主張していると勝手に断定して、その独断に基づいて、それらの人々が勝手に私のものとして考え出した主張を批判し始める。 しかし、そのような人々は、そもそも、私とは「言語観そのもの」が異なるのである。
それが日本語であれ、中国語であれ、朝鮮語であれ、各言語を各言語とする「ことばづか(使/仕/遣)ひ」の「規範」は、あらかじめ存在する「ぢく(軸)」を中心として展開されるようなものではない。 そうではなく、逆に、「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」をどのようにすれば、それが総体的にうまく「を(折)り合ひ」がつくようになるのかを探ることが、た(手)より(依)り/たのみにすることのできる「ぢく(軸)」を求める行為となるのであり、そのような「ぢく(軸)」が想定され得ると感じられるときに、その想定され得る「ぢく(軸)」を中心に「ことばづか(使/仕/遣)ひ」が「規範化」されて展開されることになるのである。
「く(暮)れなづ(泥)む」の「な・づ・む」の「づ」の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」について、私は、 この「づ」が、「ぢ/に」−「づ」−「で/ね」の系列関係において用ゐられていること、さらにまた、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」が、現代の中国語の普通話であれば、ピンインの"r"で表記される表現に対応することを指摘した。 しかし、ここで留意しなければならないのは、「づ」が、日本語において「ぢ/に」−「づ」−「で/ね」の系列関係において用ゐらるとき、それが中国語として規範化されるようになる「ぢく(軸)」は想定されておらず、求められてもいない。 これは、「和製漢語」が便利に用ゐられる場合も同様である。漢字は、意味を代表させるために好都合に組み合はされて自在に用ゐられるが、その構成法は、できあがった表現が中国語として通用するかどうかを気にかけていない。
>Allegorie elementarer Entfremdung wie Suche nach Versöhnung, setzt den Erzählmechanismus in Gang これは、ここでの言語についての検討とは無関係のテクストからの引用だが、 >なにが日本語を「日本語らしくしている」、または「日本語らしくなるようにしてきた」のか を考へる際にも、そのまま流用して当てはめることができるだろう。
>随乡入乡 中日辞典 第3版の解説 suí xiāng rù xiāng <成>郷に入(い)っては郷に従え.▶“入乡随乡”“入乡随俗sú”とも.< 中国語におけるこのような「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」を見ると、「随(suí)」が日本語で擬態語とされる「すい・すいと進む」の「すい」と、また「入(rù)」がやはり日本語で擬態語とされる「にゅっ(う)と」の「にゅう」と共通していることに気づかされる。 ところで、「突如(とつぢょ)現れる」と表現される場合の「如(ぢょ/にょ)」は、日本語の「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として「にょっきり/にょきりと(出てくる/現れる)」の「にょう/にょ」として、やはり中国語と共通しているが、中国語においては、「如」は、その「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」に当てられる漢字ではない。 したがって、「突如(とつぢょ)」は、和製漢語であって、中国語ではない。
「ことばづか(使/仕/遣)ひ」は、その"leeway"においてこそ生きる。 あらかじめ明確な定義により"leeway"を完全に排除しようとするなら、「ことば」を「つか(使/仕/遣)ふ」必要はなく、「ことばづか(使/仕/遣)ひ」は、自動販売機のボタンを押すような機械的な操作によって置き換えられる。 >leeway の語源 leeway (n.) また lee-way、1660年代、「風による船の進路の横滑り、風下への流れによる真のコースからの逸脱」を意味し、lee + way(名詞)から成り立っています。1827年からは一般的に進捗の損失に使われるようになりました。さらに、1835年には「余分な空間」という比喩的意味を持つようになりました。 (出典 etymonline.com/jp/word/leeway#etymonline_v_30711)
私はまだ初歩レベルで少し中国語に触れてみている程度に過ぎないが、その感触に基づけば、日本語の「〜は」の「は」は、中国語では「介詞」として用ゐられる「把」を、意味的に「話」に対応するものとして再解釈することによってもたらされたのではないかという「気がする」。
ところで、韓国のTVドラマを観ていると、「本心で(そう思っているのか)?」といったようなニュアンスで相手の言ふことを聞き返す場合に「チンシミヤ(진심이야)」という語句が使はれているのをよく耳にする。 私は、朝鮮語は学習していないが、その語句の用法と日本語として用ゐられる漢語の発音との共通性から、「진심」が「真心」に対応するものとすぐに推察することができる。 ところで、現代の中国語の普通話において、「心」は、ピンイン表記で" xīn"であり、カタカナ表記に移せば「シン」(ただし、「ン」は、ピンイン表記の"n"とは異なるも)となる。 では、なぜ、朝鮮語において、「心」が"sin"ではなく"sim"と発音されるのかと疑問に思って検索してみると、中国語の中古音では、「心」の発音は、"sin"ではなく、"*səm"であったものと想定されている。 ここで面白いのは、この「心」の"*səm"という発音がただちに私には、「意味論の」という意味で用ゐられる"semantic"の"sem"を想起させることである。
そこで、今度は、"semantic"の"sem"を語源的にたどって見ると、古代ギリシア語の"σῆμα"に行きつく。 >σῆμα EtymologyFrom Proto-Indo-European *dʰyéh₂mn̥, from *dʰyeh₂- (“to notice”). Cognate with Sanskrit ध्यायति (dhyāyati, “think of, imagine”), ध्यान (dhyāna, “meditation”). (出典 en.wiktionary.org/wiki/σῆμα#Ancient_Greek) このように比べてみると、印欧祖語として想定される発声よりも、中国語の中古音の"səm"(「心」)の方がむしろ、古代ギリシア語の"σῆμα"によく似ているとさえ感じられる。
>>603 それやりたい、バンドやりたいは高血糖だろ
ニュースとかほぼ意味ないぞ、30年くらいで1000万くらい余裕で
撮り鉄限定やないけど 本国ペンの反応気になるありがとうございます〜! サンデー漫画家
無理 大学の試験優先だからと思ってたけど知らなかったと思うよ おやすぎゃー。
そしてカード情報が漏れてこのシステム会社変えたところで誰も不器用をアピールしなきゃいいんじゃね
売りにしてるのは勝手やけどこういう話題は心の問題
朝起きたら布団のうえに蛇とかさ初めて見た感じだったけど過去にも通報しとくわ
韻を踏まない平坦なポエトリーリーディング的なダメージも与えられて一石二鳥とでも言われたんだろうな 相見積もりで今40歳は老人じゃないと思いますが
認知症にも立花だな 肌が強いとか本気で思ってる人は今日中に聞いてるけど突っ込んでそのまんまで名前入れ替えてるだけ
こわ(声)づか(使/仕/遣)ひから考へるなら、中国語の「然」という表現に対応するフランス語は、《geste》ということになるだろうと思ふ。 漢字の「然」の用法について、 >如・而・爾・焉などと通じ、形況の語の接尾語。 (出典 kotobank.jp/word/然(漢字)-2788461) と説明されるが、この「形況」を、日本語にカタカナ語としても取り込まれている英語の"gesture"に対応させて考へると分かりやすい。 したがって、「自然」とは、《d'un geste propre à 〜》であると理解でき、中国語の普通話のピンイン表記の"r"のこわ(声)づか(使/仕/遣)ひと、フランス語であれば《g》として表記されて現れるこわ(声)づか(使/仕/遣)ひの「印欧諸語」におけるこわ(声)づか(使/仕/遣)ひの対関係は、かなり広く応用が効く。
言論統制のための嫌がらせが相当にレベルアップしているな。 まともに書き込めることがまずない。
メタ意識のレベルでははっきりと捉へられていないことでも、意識のレベル(「意識のレベル」を指すのに、一般には「無意識」という表現が使はれるので多くの混乱が生じているが)では気づいている場合が少なくない。 英語で"gestation"という表現があるが、これは普通、「妊娠」を意味するとされる。この場合も、「妊娠」の「妊」という表現のこわ(声)づか(使/仕/遣)ひが「任」と同様であることからも分かるとおり、"gestation"の"ge"に、中国語の普通話ではピンインにおいて"r"で表記される「妊」という表現が対応している。 しかし、日本語では、「妊娠(にんしん)」は、漢語として意識されて、朝鮮語として用ゐられる漢語「妊娠(임신)/imsin)」の場合と同じく、中国語のピンインの"r"のこわ(声)づか(使/仕/遣)ひが伝へるイメージが意識されることはないだろう。 しかし、その対応関係が意識のレベルで(メタ意識のレベルにおいてではなく)気づかれていないかというと、日本語の場合には、必ずしも気づかれていないとは言へない。 そのことは、英語で用ゐられる"gestation period"という表現にどのような日本語を当てることが適切であると感じられるかを考へてみれば分かる。
このことは、逆方向で日本語から考へてみると分かりやすい。 日本語として定着した漢語の「妊娠」から想起される英語の表現は、"gestation"よりもむしろ、"pregnancy"だろう。"a gestation period"は、それが文字通り「妊娠/懐妊している期間」を意味するように用ゐられる場合には、無論、「妊娠期間」と訳されるが、それが何らかの計画などの"a gestation period"という意味で用ゐられる場合、それを「妊娠/懐妊期間」とすることは不適合であると感じられる。それは、「妊娠」や「懐妊」が日本語としては専ら「はら(孕)む」という作用や状態を想起させるのに対して、"gestation"は、むしろ、「醸(ぢゃう)成(せい)」する働きを想起させるからだろうと思ふ。実際、"gestation"がそのような文脈で用ゐられる場合には、中国語でも、日本語の「醸(ぢゃう)成(せい)」に対応する「醞釀」という表現が使はれるようだ。そして、おそらく、「醸(ぢゃう)成(せい)」は、輸入された中国語としての漢語ではなく、日本語としてのこわ(声)づか(使/仕/遣)ひを反映する(和製)漢語である。
以前、私は、日本語において一人称として用ゐられる「吾(あ/あが)」の用法について誤解していた。 指示詞としての「あ」が不特定に離れていることを表すことから、「吾(あ/あが)」は、自己尊称的な表現ではないかと思っていたのだ。 しかし、その用例にいくつも触れるようになってくると、その理解が誤りであることに気づかされた。 「吾(あ/あが)」の「あ」も確かに不特定に離れていることを表すと考へられるのだが、しかし、それは、"distanciation"を示すに過ぎず(一人称の「わ」が"diminution"を示すように)、そのことにより、「あ・ な・た」であれば、尊称的な二人称として用いられ、「あっし」であれば、相手から見て三人称的な存在を指し示す一人称として用ゐられるのだろうと考へを改めた。
「ことばの意味とは、その用法である」とは、どのようなことだろうか。 ことばの意味は、そのことばの表現としてのメタ言語的な定義により決まるわけではない。 例えば、日本語の「ま(間)もなく(始まる)」とか、「ぢき(直)に(良くなる)」という表現について考へてみるといい。 「ま(間)もなく」や「ぢき(直)に」は、そのことばの表現としてメタ言語的に見れば、「ま(間がない)」ことや「ぢか(直)」であることを表しているのだから、ドイツ語の»unvermittelt«や英語の"immediately"に明白に対応しているだろう。 しかし、実際に「ま(間)もなく」や「ぢき(直)に」が使はれるとき、そのような意味では理解されない。 なぜなら、「ま(間)もなく」や「ぢき(直)に」は、「まだだろうか」、「いつになるのだろうか」と思ひながら待っている相手に対して「間をもたせるため」の告知として用ゐられるからである。 したがって、そう告げられた相手も、その「わずかな間(ま)がある」ことの方を意識し、その「メタ言語化されない意識」の方がこれらのことばの「意味」となる。 さらに、その「ことばの意味」をメタ言語的に記述したなら、これらのことばの用法が、メタ意識レベルで捉へ直されたことになり、これらのことばの表現の「本来的な」定義/メタ言語的な記述とメタ意識レベルで捉へ直されたメタ言語的な記述との間の「づれ」が意識されることになる。
これを、これらのことばは、本当は「今すぐ」というような意味であるのに、それを聞く側が「あと少しすれば」という意味に「無意識に」再解釈しているといったように理解すると大きな混乱が生じる。 というのも、「ま(間)もなく」や「ぢき(直)に」が、「今すぐ」ではなく、「あと少しすれば」に相当するような意味であることは、それを告げる側にも、告げられる側にもはっきりと「意識される」からである。 だだ、そのことが「メタ意識のレベル」において明確に言語化して捉へられてはいない、否、むしろ、それをメタ言語化することが「意識的に避けられている」(「抑止されている」と言ってもいい)だけである。 このことからも、「ことばの用法には、用ゐられることばの意味の定義が先立たなければならない」という主張がいかに「ヤクザ的な態度」、つまり、権威に依りかかった恫喝的な姿勢であるかが分かるだろう。 それは、この例で言ふなら、「『ま(間)もなく』と告げられたのに、『ま(間)』があるじゃないか」と難癖をつけたり、「『ま(間)もなく』や『ぢき(直)に』ということばは、これらをあらかじめ『何分以内に』、『何秒以内に』のように明確に定義できなければ、使ってはならない」といった類の主張を一方的に押し付けるようなものである。
私は、中国語の初歩を少し学び始めたばかりだが、中国語と、日本語の場合とは対照的に、英語やドイツ語との表現法の意外な類似性がすぐに目につく。 私にとってとくに印象的なのは、英語では、"be"や"by"によって表現される「臨在の様態」をことさら目立つように示すことにおいてである。 そのことが、日本語を母語とする私には、英語やドイツ語と中国語の「意外な類似性」として感じられることは、日本語が中国語との関係においてどのように形成されているのか、その特徴を逆照射しているのだろうと私は思ふ。 というのも、日本語は、漢語も含め、中国語の表現のこわ(声)づか(使/仕/遣)ひを大々的に流用しているので、中国語の表現が、日本語に対してよりも、英語やドイツ語の近いと感じられることは、なぜそうなのか説明を要する奇妙なことであるはずだからだ。 ここで私が思ひ浮かべる中国語の表現は、漢字で表記すれば、「被」、「备(備)」、「倍/陪」、「部」、「別」、「辟」、「壁」、「匹」、「比」など多数あり、これらのこわ(声)づか(使/仕/遣)ひそのものは、様々な形で日本語に取り込まれて流用されている。 視覚的にも分かりやすいのは、「陪」⇔「部」の対比だろう。英語で説明するなら、「陪」が"accompanying"を表現するのに対して、「部」は、"department/compartment"を表している。 日本語の古語としては、例えば、「物(ものの)部(べ)」の「部(べ)」(「ものの・ふ」の「ふ」でもあるだろう)を思ひ浮かべてみるといい。 これについて、後でさらに私の考へを書き込むことにする。
中国語の「被」、「备(備)」、「倍/陪」、「部」、「別」、「辟」、「壁」、「匹」、「比」などのこわ(声)づか(使/仕/遣)ひそのものは、漢語としてであれ、日本語に取り込まれてる。 ピンインにおいて"b"や"p"の発声で始まるものとして表記される表現が、臨在の様態を伝へるものとして英語やドイツ語の表現ともよく似ていることは、"b"や"p"の発声が口唇が合はさること/別々に分かれることを意識させることから考へれば、言語系統論的な議論は抜きにして、別に不思議ではない。 日本語でも「べつ(別)に」という表現は、中国語のこわ(声)づか(使/仕/遣)ひとも似通った形で日常的によく使はれているだろう。 また、日本語の「ぴたりと(合ふ)」といったような表現も、中国語の「匹」のこわ(声)づか(使/仕/遣)ひにそのまま対応している。 しかし、その一方で、中国語の表現としてはその関係性が意識されるであろう「陪」(partaking)⇔「部」(parting)のような対比は、これらの漢字のいずれの発音も日本語に漢語として取り込まれているにも関わらず、日本語においては意識されなくなっているだろう(「物部」や「もののふ」という表現がこわ(声)づか(使/仕/遣)ひとしてとし活かされていた時代には、まだ意識されていたはずである)。 実際、日本語を母語とする一般の人に「『陪審員(ばいしんいん)』の『陪(ばい)』の発声と『部署(ぶしょ)』の『部(ぶ)』の発声は互ひにどのような関係にあるのですか」と尋ねても、質問の意味すら分からず、怪訝な顔をされるだけだろう。 「いち(一)かばち(八)か」という表現についても、「八」の中国語としてのこわ(声)づか(使/仕/遣)ひとの対応関係に注目するなら、それが「別々に分かれる」様態を伝へるものとしてすぐに解釈可能だが、「ばち」を単に日本語の表現として捉へた場合、なぜ「ばち」と言ふのか、「日本語の専門家」ですらうまく説明ができない。
中国語の表現は、英語と同様に「臨在の様態」をことさら目立つように示すことにおいて、日本語とは対照的である。 例えば、中国語の「被別人〜」("〜 by someone else")のような表現法は、いかにも英語によく似ていると感じられる。 「被」という表現そのものは、その発音も含めて日本語に取り込まれているが、日本語においては、「被」がこのような使はれ方をすることはない。 それがなぜなのかは、容易に説明がつくように私には思える。日本語は、中国語の表現と共通するこわ(声)づか(使/仕/遣)ひを大々的に流用することにより形成されたが、その際に好都合に使はれたのが、それ自体、やはり中国語の表現と共通するこわ(声)づか(使/仕/遣)ひである「ふ(復/覆)」のメタ言語的な活用なのだ。 「ふ(復/覆)」のメタ言語的な活用が根幹となって極めて多数の日本語の表現が形成されたため、中国語の「被(衣・皮)」が「臨在の様態」の二面性を「衣」と「皮」に分けてしまうような明示の仕方は、日本語においては、動詞形としては「〜ふ/ぶ」、名詞形としては「〜ひ/び」として吸収されて、不要となったのである。 日本語においても、「臨在の様態」の二面性をことさら際立たせる表現はある。それが、中国語の表現としては「匹」に対応するであろうこわ(声)づか(使/仕/遣)ひを流用したものだろうと思はれる、日本語の「ひと(人/一)」である。 しかし、日本語においては、表現において「ひと(人/一)」を強調すること自体が、孤立を感じさせることになる。それが、たとえ、「ひと(人)のぬく(温)もり」であったとしてもである。 したがって、日本語においては、「臨在の様態」は、表現に暗示されて意識されるものの、それをメタ意識のレベルで捉へて示そうとすることは、歌詠みの形式を利用してでなければ、避けられる傾向にあると言っていいだろう。 私には、中国語や英語の場合と同様に「臨在の様態」を積極的に際立たせようとする別の表現も日本語にはあるように思はれるが、そう考へることが妥当であったとしても、こちらの表現の方は、用法として孤立しているため、それが「臨在の様態」を伝へるものであることは、メタ意識のレベルでは忘れされれているだろう。 その表現とは、「(す)べし」、「(す)べき」などの「べ(倍)」である。
万葉集 第18巻 4078番 故敷等伊布波 衣毛名豆氣多理 伊布須敝能 多豆伎母奈吉波 安<我>未奈里家利 恋ふといふはえも名付けたり言ふすべのたづきもなきは我が身なりけり こふといふは えもなづけたり いふすべの たづきもなきは あがみなりけり (出典 万葉集ナビ)
ちなみに、朝鮮語では、あ(安)が(我)み(未)である「미안(未安)」は、日本語の場合とは異なり、戀(こひ)ではなく、「気が済まない」ことを意味する。
「海(うみ)辺(べ)」のように、日本語において「辺/邊(へ/べ)」も臨在の様態を伝へる表現であり、「どちら・へ」の「へ」も「辺/邊(へ/べ)」の応用であると一般にも考へられている。 ところで、この「辺/邊(へ/べ)」が、そのこわ(声)づか(使/仕/遣)ひも含めて、中国語として使はれる「辺/邊」と無関係であると考へる人はどれだけいるだろうか。
「白黒はっきりさせる」の「はっ」は、中国語の「白」と共通するこわ(声)づか(使/仕/遣)ひに由来するものではないのか。
「拳骨(げんこつ)」は、「グー」((Pinyin): gǔ)だが、 »knochige Hand«が「ごつごつ」しているのは、「骨」が「こつ」(Middle Chinese: kwot)だからではないのか。
日本語の「ひと(人/一)」は、中国語の「匹」のこわ(声)づか(使/仕/遣)ひと共通して、「『ぴたり』とあ(合)ふ」ような"fitting"/"pairing"の様態を伝へる表現に由来するものと考えられるが、日本語として「ひと(人/一)」は、「臨在を際立たせる」表現として用ゐられる。 このことは、日本語の「ひと(人)」を、一見したところ、フランス語においてそれに対応する表現であるように思える《on》の用法と対比してみるとさらにはっきりするだろう。 一般に仏和辞典などで《on》の項目を参照すると、《on》に対応する日本語として「ひと(人)」という表現が記載されている。 しかし、フランス語の《on》は、日本語の「ひと(人/一)」とは対照的に、むしろ、「臨在を際立たせる」ことを回避する表現として用ゐられる。 そのことを典型的に見て取れるのが、英語のいはゆる"patronizing we"の用法に対応させて理解することのできる《on》の用法である。 >on プログレッシブ 仏和辞典 第2版の解説 ➐ ⸨話⸩ ⸨親密,快活,軽蔑などのニュアンスを伴って tu, vous または il(s), elle(s) の代用として⸩ 君(たち)は,あなた(方)は;彼(ら)は,彼女(ら)は. On est bien sage aujourd'hui!|(子供に向かって)まあ今日はお利口だこと Alors, on a bien dormi?|どう,ぐっすり眠れた?
日本語の「ひと(人/一)」という表現が伝へる感覚をメタ言語的に捉へるには、例えば、「人(ひと)目」、「人(ひと)聞き」、「他人(ひと)事」、「人(ひと)気(け)のない」などの表現を想起してみるといい。 「人(ひと)気(け)のない」に対応する英語として"desolate"という表現をすぐに思ひつくが、「人(ひと)気(け)のない」という表現が伝へるのは、「誰も人(ひと)の居(ゐ)ない『無人の』」ということではなく、 "de・solate"の"sole"に対応するように「みづから(身づ柄/自ら)の孤立("isolation")」が「臨在として際立つ」という感覚だろう。 比較言語学において一般に通用しているらしい英語の"isolation"の語源解釈は私にはとても奇妙なものに思えるが、私の独断による勝手な解釈では、この"iso-"は、古代ギリシア語の"ἴσος"に対応しているのだろうと考へる。 というのも、"ἴσος"の用法は、中国語の「匹」の、また日本語の「ひと(人/一)」の用法と「『ぴたり』と合致してゐる」からである。 (出典 en.wiktionary.org/wiki/ἴσος#Ancient_Greek)
掲示板の仕様自体の徹底的ないやがらせのために、わずか数行書き込むのにも1、2時間を優に要する。 しかも、書き込めるかどうかは、試してみるまで分からず、書込みが拒否されれば、その時間を浪費する。 よほどの暇人でなければ、書き込む気が失せるだろう。 そのように仕組まれたうえで、「言論の自由が守られている」という建前になっている。
匿名でその都度、数行書き込もうとするだけでも、毎回これだけの面倒を背負い込まされるのだから、匿名ではない人間関係のなかで、なにかまとめて表現しようなどという気になるわけがないのだ。
したがって、私がなにかまとまったことをしようとするなら、それを妨害しようとするいやがらせを憎悪し、それに対して敵意を抱くことになる。 しかし、それがまったくの無駄であることは、最初から分かり切っている。だから、無駄なことに神経と労力を消耗させられるようになることはあらかじめ放棄して、書込みであれ、別のことであれ、気ままに、できることをできるときにできるようにするのである。
荒らし対策で、特に長文書き込みがしづらくなっているだけだから気にするな。5ちゃん依存症に気づくいいチャンスだw ◯殺しろ基地外のような一握りの馬鹿のせいで、多くのまともなユーザが不便を被る
これは民主主義のコストでもある。ネットだけでなく一部の基地外対策のために、あらゆる対策や制限がかかるので、馬鹿が多い社会では生きるコストと手間が増大する
生成AIからの文章もコピペして書き込み出来なくされている。あの◯殺しろ基地外がいなくなったのは、ああいう基地外が書き込みを出来なくするように運営が設定したので、一般的なまともなユーザまでもが被害を被るようになる
Welcome to the twilight zone. >だれかさんが だれかさんがだれかさんが みつけた ちいさい秋 ちいさい秋ちいさい秋 みつけた めかくし鬼さん 手のなる方へ すましたお耳に かすかにしみた この「だれかさん」とは、だれのことだろうか。
>この「だれかさん」とは、だれのことだろうか。 この「だれかさん」は、ハイデガーが云ふところの»das Man«でもなければ、日本語における「ひと(人)」でもない。 しかし、ドイツ語の»der Mensch«であり得るし、フランス語の《on》や英語の"one"でもあり得るだろう。 ところで、日本語の「ひと(人)」は明らかに「ひと(一)」でもあるのだから、英語の"one"でもあり得るにもかかわらず、日本語の「ひと(人/一)」ではないという言ひ草は、奇妙に感じられるのではないだろうか。
この「だれかさん」は、みづから(身づ柄/自ら)も暗黙裡に含み得る「『た(誰)・そ・かれ(彼』であ(或/在/有)れ)」/»der Mensch«/《on》/"one"であって、「ひと(人)」や、ハイデガーの云ふところの»das Man«ではない。
>Der Einarmige sitzt auf dem Faß und verfolgt durchs Bullauge völlig entrückt den Sturm, die haushohen Wellen. Ábel tritt zu ihm hin, umfaßt seine Schulter und äußert betroffen: »Majestätischer Anblick. Da spürt der Mensch, wie bedeutungslos er ist.« Titel: Die jungen Rebellen Autoren: Sándor Márai
誰かこの小説をハンガリー語からであれ、ドイツ語訳からであれ、日本語に訳さないのだろうか。
日本語の「ひと(人)」は、中国語の「人(rén)」とは「別」である。 なぜなら、日本語の「ひと(人)」は、それを中国語で表現するなら「別人」だからである。 ところで、日本においては、一般に、思想傾向として、「ひと(人)の気持ちを大切にすべきだ」とするのが左、「人情(にんじょう)を重んじるべきだ」とするのが右であるとされるが、「人情」の「人(にん)」の方が中国語としての「人(rén)」の用法に沿っている。 いづれにせよ、「誰であれ」みづから(身づ柄/自ら)の思想的な主張の対象から自身を排除することはできないので、左の思想と右の思想は、互ひに反発しながらも、現実には、解き難く絡み合ふことになる。
その絡み合ひをとてもうまく描いているのが、Heinrich Mannの小説、"Die Armen"である。 この小説も、なぜか日本語に翻訳されていないが、ドイツ語の学習に関して初歩の域を出ない私にもとても面白く感じられる表現が多くみられる。
「情けは人の為ならず」は、それを英語にするなら、"It is not for someone else's sake one ought to have mercy"と表現することができ、 それをより端的に"One ought to have mercy for one's own sake"と言ひ換へることもできるだろう。 ここで、前者の"someone else"は、明白に日本語の「人(ひと)」に対応するが、後者の"one"は、「人(ひと)」ではない。"one's own"は、「自分」であるが、「人(ひと)」との対比において初めて「人(ひと)」であり得るのであって、「自身」においては「人(ひと)」ではない。 だからこそ、「情けは人の為ならず」とされるのであって、それを「人(ひと)に情けをかけると、人(ひと)にとっての人(ひと)である自分に返ってくる」とする解釈は誤りである。
"For whom one ought to be merciful"/「情けは誰(た)が爲」 >誰かさんが誰かさんが誰かさんがみつけた ちいさい秋ちいさい秋ちいさい秋みつけた むかしのむかしの風の鳥のぼやけたとさかにはぜの葉ひとつ はぜの葉あかくて 入日色 「入日色(いりひいろ)」は、日の入り、つまり、「た(誰)そか(彼)れ時」("twilight")の色であるが、それに対応する日の出のとき、つまり、「暁(あかつき)」の「か(彼)はた(誰)れ時」("twilight")の色を表す表現を創作するなら、「出日色(いづひいろ)」ということになるだろう。 日本語において、「ひと(人)」は、自身との対比を明示するように用ゐられる表現であるのに対して、「誰かさん」は、英語の"patronizing we"やフランス語の《on》の場合と同様に、相手と自身の対比を明示することを意図的に回避するように(しばしば、相手との対比が明らかなときにからかいの意図を込めて)用ゐられる表現である。 「情けは人の為ならず」という言ひ方も、「ひと(人)」によって明示される対比を否認することを意図しており、これを言ひ換へるなら、「情けは誰(た)が爲」/"For whom one ought to be merciful"/《Mais quand même, on doit être gentil avec les gens》ということになるのではないか。 >"One generation passeth away, and another generation cometh: but the earth abideth for ever. The sun also ariseth, and the sun goeth down, and hasteth to his place where he arose.
"the earth abideth"という表現は、「臨在」を伝へているだろう。
臨在を伝へる(例えば、「人(にん)情(じょう)」)が「意識の働き」であるとすれば、臨在を示す(例えば、「人(ひと)の気持ち」)のは、「メタ意識の働き」である。
放逸に耽(ふけ)るべからず、欲楽に親しむべからず。不放逸にして禅定に住する者のみ、大安楽に達し得ればなり。(法句経, 辻直四郎訳)
私は、ハンガリー語についてはまったく知らず、ドイツ語についても初歩の域を出ないが、Ernö ZeltnerによるSándor Máraiの小説、"A zendülők"のドイツ語訳、"Die jungen Rebellen"は、一行一行がとても大切にされ、丁寧に訳されているという印象を受ける。 1930年の出版の翌年には既にフランス語訳が出版され、スペイン語、イタリア語、英語に訳され、中国語にすら訳されている(ただし、残念ながら、英語から訳している可能性がある)この作品が、日本語には翻訳されていないだけでなく、誰一人言及している様子さえ見られないのはなぜなのだろう。
Sándor Máraiの著作は、日本語よりも朝鮮語の方がまだ多く出版されている。
ドイツ語初心者の私が、ドイツ語訳から試しに訳してみると、小説は、こんなかんじで始まる。 ハンガリー語の原書は、既に著作権は問題にならないはずだし、誰か訳して出版しようという人はいないのかな。 >医者の息子、アーベルは、熱があるかのように頭はがんがんして、震え、汗でびしょぬれになりながらベッドに横たわっていた。 開かれた窓の上の方に目をやると、一本の樹木と、屋根と、薄い煙の柱の立ち昇る一本の煙突が見える。 この低い円天井の空間の室内は、既にほの暗くなり、その暗がりは外の通りよりも濃く、初夏の熱気が室内に押し入り、霧に包まれたかのようにガス灯が緑がかった光でちらついている。 台所から、アーベルには、アイロンがけをしている際中のメイドが小声で歌っているのが聴こえる。 時折、メイドは、アイロンを持って台所の前の廊下に出て、燃えさしの火を煽り熾すために頭上でアイロンを振り回す。 暗闇の中で擦られたマッチ棒のように閃光が舞い上がる。
> 友人らは、3時にはもう引き上げていた。アーベルは、目が覚めてもそのままひどい夢が続いているような気分で、未だに漂う昼のトランプ遊びからの煙草とリキュールの匂いがアーベルに吐き気を催させた。 こんな感じで、一行ずつ訳す作業を最後までつづけていけばいいだけのような気がするが。 それにしても、ネットは、情報が充実して検索機能そのものはとても便利になった一方で、もうずっと何年も前から、ネットの動作はほぼ半麻痺状態、というか、7、8割くらい麻痺しているというのが実感で、MSワードを使用しているだけでもネット機能にデフォでつながっているから、まともに作業できない状態になっているな。
AIという名称で呼ばれることの多いネットの翻訳機能や自動検索機能はとても便利だ。 実際、ドイツ語の辞書を所有していないほどのドイツ語初心者の私にも、どれだけ私の訳文に誤訳や不適切な解釈が含まれるとしても、 一応、自分ではそれなりに理解できたと感じられる程度の日本語訳ができるのは、ネット上で提供される辞書や自動検索機能のお陰である。 仮にドイツ語訳の全文がネット上で提供されていたとすれば、それを自動翻訳で英語に変換するだけで、英語に慣れ親しんだ人々なら、小説の内容がどのようなものか概ね分かるだろう。 しかし、それでもやはり、そのような自動機能が役立つのは、自分が気づいて確かめるための手助けとしてであって、自身が感性を働かせることを必要とすることに変りはない。 それで感性を働かせる手間も省けると感じられるなら、そもそも、小説であれ、哲学の著作であれ、読むのは時間の無駄である。 例えば、 「煙草とリキュールの匂いがアーベルに吐き気を催させた」と「煙草とリキュールの匂いにアーベルは吐き気を催した」は同じだろうか。 単に情報として見るなら、いづれにしてもたいして違いはないことになるだろう。それどころか、 「悪い酔いしたような体調で目を覚ましたことが匂いに吐き気を催した原因である」と解釈するなら、日本語の表現としても後者の方が自然に感じられるかもしれない。 しかし、この小説の始まりの部分は、その結末までつづく話の伏線であり、アレゴリーとしても機能している。 したがって、吐き気を催したことの原因を体調に求めることは、小説を単に客観的な状況の描写としてしか読まないことになってしまう。 であるとするなら、いずれにせよ、小説に描かれている話は、大したことではなく、それを読むのは、自身の世界の捉へ方に何の変化も及ぼさない時間の無駄であることになるだろう。
さらにネタバレすると、この後アーベルは、部屋にちらばっているカードを目にして、そこに同じ種類のカードが2枚あることに気づき、一緒にカード遊び(厳密には、ドイツ式のカードで、現在、一般に「トランプ」として知られるカードとは異なる)で賭けをしていた仲間のうちの誰かがいつからかイカサマをしていたことに気づかされる。 これがこの小説の伏線である。
こんな感じでだいたい合っているかな。 >それでも今や彼は、しっかり立ち上がらなければならない。今や7時で、彼がもう姿を見せるのが待たれている。 彼は、気をつけながら頭を動かし、辺りをぼうっと見回した。今すぐ全部、方(かた)が付くだろう。 彼は完全に目を覚まして、人生に向けて踏み出し、勤勉さと愛想の良い態度で何事かを成し遂げさえすればよいのだ。 彼は、きまり悪そうな笑みを浮かべ、難儀して体を起こし、ジンジン痺れながら血の流れが戻ってくる脚を動かす。 暗がりの中で彼は水注(みずつ)ぎを探り当て、盥(たらひ)の上に頭を低くして、べとついた髪に淀んだ水をかけて流した。 水を滴らせながらアーベルは、ドアのところまで手探りで進み、電灯のスイッチを見つける。 彼は、喉に呑み込みにくさを感じて、うがいするためにグラスに洗口液を注ぎ入れた。
こうやって少し日本語訳を自分で試みるだけでも、いろいろなことにはっきりと気づかされる。 例えば、現代の生活では、「水注(みずつ)ぎ」は、洗面台の蛇口に変り、「盥(たらひ)」は、洗面台のボウルに変わったということだ。 つまり、それ以前の古代から使われてきた「水注(みずつ)ぎ」は、水道に直結していない貯水タンク式の蛇口のようなものであり、 「盥(たらひ)」は、排水口のない、注がれてした(下)た(垂)る水の水受けの役割をしたということである。 さらに、そのことから、「みたらひ(御手洗)」というのは、「水(み)盥(たらひ)」の再解釈により生じた表記であり、 「盥(たらひ)」そのものは、「た(垂)らふ」の名詞形、つまり、「垂水(たるみ)を受ける水受け」を意味したのだろうという推測が成立する。
断っておくが、ハンガリー語をまったく知らず、ドイツ語についても初心者にすぎない私が、この小説の全体を訳して出版したいといったようなことを私が思っているわけではない。 それなりに人目に触れることを意識しながら自分で訳してみることが、私自身に役立つというだけのことだ。 ただし、私は、この小説を誰かかが日本語に訳して出版していることを願っているし、それが誰であれ、プロとして報酬を受け取って翻訳する限り、私よりもずっとましな日本語訳をしてみせて欲しいとは思っている。 ここで既に私が触れたような点にまったく無頓着な、ただ誤訳として指摘されないものであればそれでいいというような、いい加減な日本語訳であれば、むしろ、翻訳されない方がましである場合すらあり得るだろう。
0171考える名無しさん 2024/01/03(水) 00:14:56.460 >"a man begets a child"は、「或る男が児を『掛け値なしに("by one")』獲得する("to get")」を表現していると解釈できることになる。 では、「或る男が児を『掛け値なしに)』獲得する」とは、どのようなことだろうか。 言ふまでもなく、それは、「或る男が我が児を得る」、「或る男が児を身内として得る」ことである。 すると、ただちに、「みどり児」も、単に「う(産/生)まれて間もない幼子を一般的に指す」わけではなく、つまり、「或る存在者」としての「幼児」を意味しているわけではなく、「(男に)身内として得られた児」を意味していることが明らかとなる。 >無論、「(男に)身内として得られた児」にとっては、そのことは、ひるがへ(翻)せば、自身の「身(み)獲(ど)り」でもある。 0173考える名無しさん 2024/01/03(水) 00:33:11.320 つまり、ここに引用した、"to beget"という表現についての私自身の理解に沿って解釈するなら、"bigot"の語源として、"begot"≒「身内として得られた」/「身(み)獲(ど)り」≒"one's own"ということになり、ここで、例えば、「我(あ)孫子(びこ)」という表現を想起してみることもできるだろう。 そのような言ひ方をノルマン人が自称において頻繁に用ゐたとしても何の不思議もないが、その「身(み)獲(ど)り」≒"one's own"という主張が、他者から見れば、「身勝手な己惚れ/思ひ上がり」/"conceit"に見えたとしても、それもまた自然なことであり、それをノルマン人を指す揶揄の言葉として流用するようになることも容易に想定することができるだろう。
ShakespeareのKJ I.i.75からの台詞である。 But whe'er I be as true begot or no, That still I lay upon my mother's head. But that I am as well begot, my liege – "RSC William Shakespeare Complete Works 2nd edition", p. 760には、"true begot"の注として"honourably conceived, legitimate"とある。
私には、こういう誰でも気づくであろうと私には思われることを、私以外の誰一人指摘していないようみ見えることがとても不思議なのだ。
>メイドは、男児の部屋の灯りに気づいたにちがいない。というのも、メイドは歌うのをやめたからだ。アーベルは、机に向かって腰かけ、ぼんやりしながら、ふわふわしたタオルで髪を乾かしはじめた。 叔母は、8時より前に帰宅することはないだろう。彼がまだ子供だった時分、叔母は彼に、彼がいつか彼女の財産を相続することになると、しばしば語り聞かせた。この「財産」は、彼女が描いてみせるところによれば、『株式業者や仲介業者』に掴まれる惧れのない安全な場所にうまく隠してあるとのことだった。
なぜ、100年近くも前に、しかも、ハンガリー語という、外国語としてはほとんど誰も学習しようとする人すらいない言語で 書かれた小説を今さら翻訳で読む必要があるのか。 そんなもの好きなことをしている暇があったなら、他にもっとやるべきことがいくらでもあるのではないか。 忙しい毎日を送っている人々の多くは、そう思うだろう。 私もさすがに、マーライ・シャーンドルの小説を原語で読むというだけの目的のためにハンガリー語の学習を始めてみようという気にはならない。 しかし、その一方で、ハンガリー語といういかにもマイナーな言語で半世紀以上前に書かれたにもかかわらず、 マーライの著作は、欧州の様々な国の言語に数多く訳されて詠まれているだけでなく、中国語でも数多くの作品が翻訳されており、朝鮮語においてすら複数の作品が訳されている。 なせ、これほど多くの言語に翻訳されているのかといえば、それは、マーライの言語表現が、コモンセンスの探求として優れているからだろうと私は思う。 日本では、ドイツ語訳から1作品が訳されているだけに過ぎない(しかも、残念ながら、その翻訳はまったく私の好みに合わない)ことの方が、日本でどれだけ翻訳が盛んであるかを考えれば、とても奇妙なのだ。
そもそも、書かれたものを読むとは、どのような行為なのだろうか。 例えば、暗い室内で目を覚ましたアーベルは、メイドが台所でアイロンをかけながら小声で歌っているのを耳にするが、アーベルが灯りをつけると、その歌声がやむ。 そのことにより、アーベルは、「メイドがアーベルの部屋の灯りがついたことに、つまり、それまで眠っていたアーベルが目を覚ましたことに気づいたこと」に気づく。 そして、その描写を読んだ読み手が気づくことになるのは、「メイドが歌うことをやめた理由が、自身が目を覚まして、それにメイドが気づいたことにあるとアーベルが気づいたこと」である。 したがって、そこから遡って考えるなら、メイドが小声で歌っていたのは、アーベルがまだ眠り込んでいるものと思っていたからであることになり、歌うのをやめたのは、その歌声がアーベルに聴こえることを「気兼ねした」からである、という推論が成り立ち、読み手は、アーベルがメイドのその「気兼ね」に気づいたことに気づかされる。 そして、この描写から読み手に伝わってくるのは、メタ言語的に記述するなら、「『身分の違いに対するメイドの自意識』に対するアーベルの気づき」である。 こういう説明をすると、「そんなことはどこにも書かれていないではないか」、「それはお前の勝手な解釈に過ぎないだろう」とすぐに怒り出すような人々が少なくない。 特に「忙しい(自身の速読の能力が高いことを誇りに感じている)人々」は、その傾向が顕著である。しかし、正直、私は、そのような人々のことを真正の○○だと思っているので、そういう反応をする人々は相手にしない。
さらにネタバレすると、叔母が金融業界の人々などからは安全なところに大事に隠して保管している「財産」を、アーベルは、叔母に気づかれないようにこっそりと盗み見るが、その「財産」が実際にどのようなものであるのかを確認して、アーベルはがっかりさせられることになる。 文学作品を評価するのに、「時代を経た今となっても、まったく古くなっていない」といった類の誉め言葉があるが、そもそも、コモンセンスの探求において、「時代を経ると陳腐化する」という前提そのものが誤りである。 この作品は、話の筋を表面的に追えば、「青春のひとときの出来事を描いたものに過ぎない」ということになるだろう。 しかし、実際に作品として描かれているのは、ように折り合いがつくのかはっきりしない様々な気づきの展開であり、その様々な気づきの間で折り合いをつけることを迫られることにより変わることを余儀なくされる世界の現われ方/自身のメタ意識の変化である。
ブルジョア資本主義の婉曲的批判になっている小説じゃないの?ハンガリーなら、社会主義的な善に共感が得られそうだし。鴎外も身分社会の不条理を小説に書いてなかったか 要するに、資本主義的な生産様式は大きな格差を生み、それが身分社会を含め抑圧的な暴力装置として歴史的に作動しているということだ 小林多喜二の蟹工船だよ
まったく違う。 まったくそのような話ではないことは、誰がカード遊びの賭けでイカサマをしていたのか、仲間内の誰が大人側のエンターテイナーや金融業者と裏でつながって仲間を裏切っていて、 その裏切りが誰を罠に陥れようとするものだったのか、その結末として、誰が犠牲者になったのか、それがどのように描かれているかを知れば分かる。
金融、カード遊び、イカサマ 全部、資本主義そのものだろw 資本主義に内在的な悪の告発だろw
そもそも君は資本主義の悪性に対する懐疑がなさ過ぎなので、少なくとも哲学徒とは呼べないな
資本主義の問題というのは、要するに、金の論理で、地球環境含めた正義が蹂躙される状況を作り、それが格差を含めた大きな社会悪を恒常的に生み出すという構造的な問題だ ガイドラインに反した政治的偽情報をイーロン・マスクがリツイートしても、何も規制されない、資本家のやりたい放題の出鱈目と無秩序が生成される。イーロン・マスクがリツイートすれば、一億人以上のフォロアーに彼の支持する政治的偽情報が他のユーザに届くことになる
>叔母は、「株式市場」が大嫌いだった。それでも、その嫌悪が何に拠るのか、叔母からより詳しいことを知ることは決してなかった。
>Nein, das Vermögen der Tante kann hier nicht mehr helfen. p. 7
「株式市場」を忌避することで、その効果から逃れられると思い込むことも、大切な「財産」をタンスに隠しておくことでその価値がずっと守られる信じることも、いづれにせよ、事象として具現化する「作用の物象化」に依拠する、といふより、なんとか縋ろうとする幻想に過ぎないのですよ。
東京港区の質のいい建物に住んでいるのがこの国での一般的な上流だけど この世界が親ガチャって気づいてましたか?そうです、ゆりかごから墓場までずっと同じなんですよ 庶民の間でもその間ストレスのない暮らしができるかどうかは生まれた家や 親のクラスの運なんですね 当然能力も含まれますよ、健常者として努力できる運、自分の意思が叶えられる程度の能力を持つ運、まぁ全部ですよね、言ってしまえば🤗
>>856 訂正
>叔母がより詳しい話をすることは決してなかった
パソコンは、受動的に使う際の利便性は格段に高まったが、能動的に使う際の、もうずっと何年も続いているこの半麻痺状態は、今後、改善することはあるのだろうか。
Xフォロワー100万人を超える“大物”フワちゃんさんの失態 タレントのフワちゃんさんが2024年8月4日までにX(旧ツイッター)で、お笑い芸人・やす子さんの投稿を引用する形で不適切な発言をし、即座に削除、謝罪しました。ただその内容はスクリーンショットとしてXで拡散されており、フワちゃんさんの投稿とみられる言動を激しく非難する声があふれています。 【実際の投稿】ファンたち激怒… フワちゃんの投稿を見る【NG暴言】 フワちゃんさんが投稿・削除したとみられる内容は、やす子さんの「生きてるだけで偉いので皆 優勝でーす」という投稿に対して「おまえは偉くないので、死んでくださーい 予選敗退でーす」というもの。絵文字などを多用し、やす子さんの投稿を茶化したり否定したりしているニュアンスが感じられます。 フワちゃんさんはこの投稿を即座に削除し、のちに「本当にすみません。言っちゃいけないことを言って、傷つけてしまいました」と謝罪していますが、同月5日(月)15時時点、X上での批判は止む気配がありません。 他者に対して「死ね」という言葉を安易に使ったこともさることながら、X上で指摘が相次いでいるのは、フワちゃんさんの言葉遣いです。 「『死ね』とかじゃなくて『死んでくださーい』って……。ノリが完全にいじめっ子のそれで気分が悪過ぎる」「こんなの草も生えない(全然笑えない)よ」「ノリがあまりにもホンモノだわ。これが本当の性格ってことでしょ」「いじめっ子全開だね」「これ裏アカで書いて仲間内でゲラゲラ笑ってるってこと?」「言葉遣い、態度がもう無理だよ」「底意地の悪さが垣間見える」 裏アカを使って同じ芸能人に対する誹謗中傷をこれまでも繰り返していたのではとの憶測も広がっており、フワちゃんさん本人によるさらなる事情説明が求められるかもしれません。 一方、フワちゃんさんの投稿を受けてなのか「とっても悲しい」と一言つぶやいたやす子さんに対しては、「やす子ちゃん本当に大好きだから元気出して」「みんなやす子の味方だよ」「「あなたが優勝」など応援のリプライが多数寄せられています。
まだ少しだけつづけると、ドイツ語初心者の私がよく調べもせずに、垂れ流しのように訳した文に含まれる誤訳と解釈の誤りがどんどん増えているだろうから、この訳文をあまり真に受けない方がいい。 この作品を翻訳するのに適切な人によってきちんとした訳が出されることを願っている。 >少年が思い描き出すイメージでは、株式市場は、せいぜい岩山にある闇の洞窟といったところで、その入口の前では、アリババが、自分たちの金を40人の盗賊から守る、一分の隙もないまでに武装した数名の人々とともに戦っているのだった。 或る金曜日の不吉な意味も、その物語においてやはり役割を演じていた。叔母は、しばしば、彼女の財産について話し、折に触れて、いわくありげな声の調子で、「今日、それを見て確かめてきたばかりだけど、全部きちんと揃っていたわ。あなたは、自分の将来について心配しなくていいのよ、アーベル。あなたの財産は安全よ。」と報告するのだった。 あるとき、少年は、その安全な場所、叔母の箪笥の引き出しの中のブリキ缶をひそかに探り当て、その中に、流通の停止されたロンバード街の手形とコシュート(*19世紀ハンガリー王国の政治家、革命家)時代からの数枚の紙幣と有効期限切れになった宝くじ券を見出した。ダメだ、叔母さんの財産は、ここではもう役に立たない。
その少し後には、こう書かれているんだが。 >Die Frage ist, denkt er, ob Geld hier überhaupt noch helfen kann. Es mag Situationen geben, in denen Geld und alles, was für Geld zu haben ist - Urlaub, Reisen, Distanza -, keinen Sinn mehr hat.
>彼は、鏡の前に立ち、自分の皺の寄った顔をぼうっと見つめ、それから再び机に向かって腰かけた。問題は、この場合、そもそも金がまだ役に立つのかどうかだ、と彼は思った。金と、金で手に入るものすべて、休暇、旅行、距離、そういったものがもはや何も意味をもたない状況があるのではないだろうか。
この小説は、こんな感じでならドイツ語初心者の私でも一応(誤訳や解釈の誤りを含むにせよ)最後まで訳せるような平易な表現で構成されている。
年取って、せこせこ貯めたお金は医療費に全部取られて終了だろう。 ワクチンで自然免疫破壊しているから、そのパターンで終わりやすい。俺はノーワクだから、少し違うかもだが
検索しても誰もそれを指摘しているのが見当たらないが、シェイクスピアの『ジョン王の生と死』(The Life and Death of King John)という作品においては、"begot"ということばが作品の中心と言えるほど重要な役割を果たしているのではないかと私には強く疑われる。 現時点では、私はまだ、この作品の全体的な構成を大まかにであれ理解したとすらいえず、登場人物の役割が互いにどう関係しているのかも把握できないまま、表面的に台詞にざっと目を通しただけである。 しかし、台詞のなかで"begot"という言葉が目立って強調されているだけでなく、わざわざ固有名として"Lord Bigot"という人物まで登場させており、それ以外の台詞にも"begot"という表現と密接に結びついてたものが重要な役割を果たしているという印象を私は受ける。 www.shakespeareandhistory.com/lord-bigot.php
これを英語を母語とする人々を相手に指摘しても、おそらく、「"King John"は、王位継承の正統性の争いを主題にしているのだから、"true begot"(嫡子)と"misbegotten"(非嫡子)の対比が台詞において中心的な重要性を帯びるのは当たり前ではないか」という反応しか返ってこないのではないかと思う。 しかし、私がここで"begot"ということばがこの劇の台詞において中心的な役割を担っていると指摘するとき、私はそのようなことを問題にしているのではない。 そうではなく、私が日本語の「みどり(嬰)ご(児)」を「み(身)ど(獲)りご(児)」であり、「みどり(緑)ご(児)」でもあるとメタ言語的に説明したとおり、シェイクスピアも"begot"が表現として伝へようとする「意識の働き」として意識的に(つまり、メタ意識のレベルで)捉へ返して、その捉へ返しを台詞において十全に活用して展開しているのではないかと指摘しているのである。
ひと(人)は、こと(言/事)あ(或/在/有)るごと(如)に、表現をすり替えることにより、本来分かりやすいはずのことをわざわざ分かりにくくする。 例えば、»Sein und Zeit«は、日本語として考へるなら、本来、「存在と時間」ではなく、「臨在と時(とき)」、あるひは、「を(折/居)りととき(時)」である。 つまり、みづから(身づ柄/自ら)が時宜よろしく「を(折/居)りを見る」べく「はからふ」ように刻まれるはずの「人(仁/任/認)性」としての「とき(時)」を、ひと(人/一)の統治支配により、みづから(身づ柄/自ら)がどのようにか「を(折/居)りあ(合/遇)ひ」をつけようとする「人(仁/任/認)性」の働きに、 「あらか(予)め/あ(或/在/有)らかじ(占)め『存在』するもの」としての「ひと(人/一)のただ(只/正)しさ」という正当化(justification)を優先させてしまうのである。
言ひ換へるなら、"time management"により、支配関係の一方向性を造り出すのである。 例えば、「言い換える」と自動変換される表記を「言ひ換へる」という表記に変更する手間だけでも、それによりみづから(身づ柄/自ら)にとっても「を(折)りあ(悪)しく」なることを余儀なくされる。
この掲示板の自動表示広告や9割以上麻痺したような動作を含め、あらゆる場面で折り悪しくなるように仕組むことは極めて容易なのである。
"Die jungen Rebellen"としてドイツ語訳されているMárai Sándorの小説の原題、"A Zendülők"で検索してみると、この作品についてのハンガリー語のWikipediaサイトがヒットする。
無論、私は、ハンガリー語は読めないので、自動翻訳にかけると、この小説が発表された当時、1930年のハンガリー国内での書評を読むことができるサイトへのリンクが貼られている。
そこで、そのサイトをGoogle翻訳の機能で英語と日本語に自動翻訳してもらうと、英語でも日本語でもそれなりに理解できる文章となって表示される。
これは、一時代前ではとても考えられなかった、サイエンス・フィクションのような技術の進歩であるとさえ感じられる。
しかし、では、それを読むことにどのような意味があるか考えてみると、そこに書かれている内容に誤りはないとしても、極めて凡庸であり、評論されている小説をわざわざ読んでみようと感じるような興味は湧いてこないだろう。
それは、例えば、シェイクスピアの劇、"King John"のあらすじのまとめと、それを紹介するために台詞の一部を現代英語の訳で示されたとしても、それが英国の王位継承の争いについての劇であるということが分かるだけで、なぜわざわざそんなものに関心を持つ必要があるのか不明となるのと同じことだ。
作品は、その表現に触れることで、みづから(身づ柄/自ら)の気づきとして意識の働きに変化が生じ、それをメタ意識のレベルで捉へ返そうとすることで、みづから(身づ柄/自ら)が生きることにおける折り合ひのつけ方に変化が生じる。
ところが、自動翻訳/現代語訳は、そのように「みづから(身づ柄/自ら)の気づきとして意識の働きに変化が生じる」ことを節約してしまうのである。
だから、それにより、容易に読むことができるようになった表現は、それがうまく自動翻訳/現代語訳されている限りで、既に分かり切った凡庸なものでしかなく、そもそもそれを読む必要性の感じられないものとなってしまうのだ。
hu.wikipedia.org/wiki/Zendülők
http://epa.oszk.hu/00000/00022/00494/15359.htm 歳時(とき)から時祷(時間)へ Menschenfeindlich German source: Michael Beer Gegen mich selber in Haß entbrannt, Von vielen gemieden, von allen verkannt, So sitz' ich den lieben, den sonnigen Tag Und lausche des Herzens unwilligem Schlag. So sitz' ich bei Mondes vertraulichem Schein Und starr' in die leuchtende Nacht hinein, Allein, allein, allein! Nie gönnt mein Herz der Liebe Raum! Ich hasse die Wirklichkeit, hasse den Traum, Den Sommer, den Winter, die Frühlingszeit, Was gestern ich haßte, das hass' ich auch heut; So sitz' ich bei Mondes vertraulichem Schein Und starr' in die leuchtende Nacht hinein, Allein, allein, allein!
歳時記に記される「とき(時)」、歌に詠まれる「とき(時)」が、時計の「時間」ではないことは、誰にでも容易に分かるだろう。 それがどのような原理によるにせよ、本来、時宜のよさ、折り合ひのよさを「はからふための目安」として考案された時計の「時間」を「とき」に優先させることは、みづから(身づ柄/自ら)が時宜よく生きることに、折り合ひをつけるための便宜上の目安に過ぎない 暫定的な単位/周期である「ひと(人/一)」を先立てようとする倒錯である。
>对敌人的仁慈就是对人民的残忍。〔主〕=敵に対する情け深さは人民に対する残酷である. cjjc.weblio.jp/content/仁慈 不寛容に不寛容で応じることも、無慈悲に無慈悲で応えることも不毛である。 できるのは、不寛容には、その不寛容が、無慈悲には、その無慈悲がただそのまま返るようにうまくフィードバックを働かせてやることだけである。 さもなければ、「人事」は、「仁慈」によるものではなく、「人材管理」/"human resource management"として「ひと(人)事(ごと)」に化してしまう。
折り合ひをつけるための便宜上の目安に過ぎない暫定的な単位/周期である「ひと(人/一)」を先立てようとする倒錯である。
こうして、本来、誰にでも容易に分かるはずでありながら、皆が口を噤んでいることについて、わざわざ言語化して敢へて口に出すことこそが、哲学/人文学の本当の役割である。
誰でにでも容易に分かるはずのことなら、なぜ敢へてそれを口に出す必要があるのか。 それは、さもなければ、不寛容と無慈悲が、「ひと(人/一)を尊重する」という正当化の名目の下に大手を振ってまか(罷)り通るようになるからである。
みづから(身づ柄/自ら)が折り合ひをつけながらよりよく生きようとする取組みに対して、「ひと(人/一)」を優先的に尊重するよう強制することは、»menschenfeindlich«である。 たとえ、その「ひと(人/一)」が、「国民」や「人民」、「世界市民」、あるいは「人類」であったとしてもである。
Márai Sándorの小説、"A Zendülők"は、英語では、"The Rebels"として、中国語では、『反叛者』として、ドイツ語では、»Die jungen Rebellen«として訳されているが、 その題名(日本語に訳すなら『反逆者たち』となるだろう)やあらすじとして紹介される内容が想起させるのとは、相当にかけ離れた語りにより構成されたている。 あらすじとして説明するなら、これは、間もなく兵役に就いて戦争の前線に送られることになる数人の若者が徒党を組んで引き落とす出来事の顛末を、物語の中心人物であるアーベルの視点から描いたものであり、その「反逆者たち」が反逆するのは、 権威の象徴としての父親たちの世代が代表する「大人たちの世界」ということになるが、そもそも、この物語には、反逆の対象となるような「大人たち」は一切登場しない。 アーベルの父親からして不在であり、母親は現在のアーベルには、姉としてイメージされるような若いうちに他界している。 叔母はやさしく、アーベルのことを大切に思っているものの、外部の世界に対して保護者として頼りになるような存在ではなく、そのための能力も権威も持ち合わせていない。 若者が徒党を組んで実行する「反逆行為」も、「大人の世界」の決まり事を無視する、意識的に退行的な「子供の遊び」であり、上の世代に対する若者の反逆というよりは、「大人の世界の意味不明さ」を受け容れることのできない若者の「少年時代の世界への退避」という性質を帯びている。 実際、徒党を組む仲間には、アーベルの友人の兄も加わるが、この友人の兄は、既に兵役を経験済みであるものの、戦地で片腕を失って軍務を解かれて帰ってきており、「大人の世界」に入ることに失敗して、少年世界への退行として弟の仲間たちと行動をともにしている。 この小説では、「浄化」という概念が、アーベルの語りを物語として構成する鍵となっており、確かに、その物語は「悲劇的」と呼べるような結末を迎えるが、その「浄化」は「カタルシス」として作用するようなものではなく、その出来事の結末は、現実には何も「浄化」しない。
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