第一巻
第一章
・あらゆる行動や研究は全て《善》を希求している。
・そしてある行動は何らかの目的の従属的な活動であることがある
・従属的なものより、棟梁的な営みの方がより、望ましいものである。
では、「5ちゃんねる」の書きこみは「何か善きもの」を目指しているであろうか?
これは後の章に明らかにされるテーゼ「あらゆる活動の究極的な目的は幸福である」とすると、私の書きこみも、何かその事によって幸福と言う状態(ヘクシス)を生み出そうとしていると言って良い。
私は哲学を愛好しており、書物から知識を得ることも好きだ。アリストテレスの哲学書を読むことは私にとって快をもたらしているし、その論旨を解明することに楽しさを感じている。
すなわち私は5ちゃんねる哲学板に書き込むことを通して幸せを感じていると言えるだろうか。それとも、アリストテレスの哲学書を読み込むことは何かの手段であろうか。
第1巻
第2章
・我々の行動の全てを規定する究極目的である最高善とは何なのかが把握されなくてはならない。
・それは「政治」と関わりがあるだろう。
そして政治の究極目的は「人間と言うものの善」であり、それは国家(ポリス)の善である。
第3章
(省略)
最高善とは何を指しているのか?
スピノザのように生命活動を促進するものを善と呼ぶのか
或いはカントのように聖書のことを指すのか
第4章
政治上の目標としての善、即ち究極善とは何であろうか?
それは「幸福」である。
(以下の記述は趣旨が判明ではないので省く)
第5章
・3通りの生活形態がある。
@享楽的な生活A政治的な生活B観照的生活
・富や名誉、蓄財に関しても善とは言えない。富はそれ自体が目的になるものではないからである。
5
現時点までの論述からすると、最高善とは国家の善であると考えているようである。
同時に善とは幸福であるとも言っている。
以下は推測であるが、アリストテレスは恐らく、個人が卓越性を発揮し、即ち幸福であることが、ポリスの安定的発展にも繋がると言うような論旨が展開されるのではないかと思われるが、それは現代の評論家のアリストテレス評などを合成した私の個人的な推論である。
第6章
「真理の確立の為には親しきも滅する」「真理も親しき人々も我々にとって愛すべきものではあるが、真理に対してより多く尊敬を払うことこそが敬虔な態度である。」
以下はプラトン学派に対する批判的考察が続く。(例えば、「個々の人間」と「人間そのもの」「個々の善」と「善そのもの」
イディア論者は後者を優先するが果たして「医療そのもの」を知ることが、個々の治療に役立つだろうか?白鳥の白も雪の白も白であることには変わり無いのではないか?)
もし、善のイディアがあるとしても、それは人間にとっての善ではないだろう。しかし、ここで探求しているのは人間に取っての善である。
(ハイデガーが『技術』の本質について研究したことを思い出す。ハイデガーは技術の本質をゲシュテルとしたが、
このような知識を持つことは、技術者の能力の向上と全く関係がない。むしろ技術者と技術に「距離」をもたらすことになる。
健康の本質や善の本質を問うことも同様ではなかろうか)
第7章
・「幸福」(エウダイモニア)こそはあらゆる行為の究極目標と言うべきである。
何故なら、幸福はそれ自体が善きものとして追求され、それ以外のものを必要としないからである。
・人間は本性上市民社会的なものに出来ている。
・では「幸福」とは何か、これは「人間の機能」の何たるかが把握されるときに理解される。人間の機能(特徴)とは「たましいが理(ことわり)に順じ、そして自ら理を有すること」である。
・〜であること(ホテイ)が示されることを端初(アルケー)とする。「端初は全体の半ば」である。
8章
・善は三様に分かれる。外的な善、身体の善、魂の善であり、魂の善が最も優れているとされる。
・また、幸福とは「善き働きにある」と言うことも古来からの見解とも合致する。
・しかし所有と使用、状態(ヘクトス)と活動(エネルギア)の差異は僅少ではなく、卓越性(アレテー)と言う状態は善を結ばない事もあるが、活動はそうではない。そして、人生に置けるうるわしき善の達成者はその卓越性を正しく働かせるものなのである。
・また、幸福の要素として「快適さ」も言われるところであるが、それは魂の善に属する。
人々が好む対象がその人にとって快適である。
・多くの人にとって快適なものが相剋することがあるが、それはこれらが本性的に快適なものではないことに基づく。★1
・うるわしき事柄を好む人は「本性的に快適なもの」が快適であり、卓越性に即した行為がこのようなものである。
・これらの人々はそれ以外に快適さを求めない、何故なら卓越性を働かせることはそれ自体が快適であるからであり、このような、うるわしい行為に悦びを見出だせない人は善き人ではない。
・幸福は最も善く、最もうるわしく、最も快適なものである。
・しかしながら、幸福にも外的な善が必要な面もある。富や友や政治的な力がなければ出来ない行為もあるし、
生まれのよさや容姿の美や孤独だったり、子供が居なかったりする人はあまり幸福ではあり得ないのであって、
ある人々が卓越性をもって幸福とするのに対して、ある人々が「幸運」(エウテュキア)を幸福と同一視するのもここに由来する。
ごめんごめん。
アリストテレスを研究しているうちにギリシア初期哲学の方に興味が移ってしまい、そちらの参考文献の方を読んでいました。
その分解釈や評価も重層的になったかと思います。
さて、『ニコマコス倫理学』の内容のおおよその所はつかんだので、ここで、
「アリストテレスの『ニコマコス倫理学』は現代においても、現代人にとっても有用であるか?」と言う論点から考えて行きたい。
この問題を考えるに当たって、まず、アリストテレスはニコマコス倫理学を誰に向けて書いたかであるが、ギリシア人に代表される自由市民に対して、しかもこれは教育学の書として書かれたと考えられている。
当時の自由市民と現代人とでは、置かれた社会的な立場が違うと言うこともあるだろう。
自由市民は軍事に携わる事が多かったから、美徳を論じるにあたって「勇気」と言う徳目を強調していると思うが、
現代の市民生活に置いて、勇気を試されるシチュエーションと言うものは、全く無い訳ではないが、アリストテレスが生きた時代のものとは意味合いが少し違うだろう。
勿論、勇気を出して会社に契約交渉するとか、組織のパワハラに立ち向かうとか勇気が試される場面が無いわけではないので、そのまま使える面もある。
ゲシュテルの問題
現代社会の特徴として、ゲシュテル(総駆り立て体制)の支配と言うことがあると思う。
マルクス的に言えば資本主義であるが、高度に組織化されたゲシュテルの中で、そもそも人間的な美徳を発揮したり、
観想的生活を送ることが可能なのか?この辺りはハイデガーの『存在と時間』などの論点でもあるだろう。
よきひとのよしといいしよしのよくみよよきひとよくみ。
あしとわろさのあしひきのあしたかのあしにあしにそうろう。
八十八%は公務員試験にいるけどな。合格ラインに人多すぎな賭け事さ。
科挙の方がいい制度だけど試験も将来約束されてる。自慢思い出しもたまになら。
ニコマコス倫理学のエッセンスを述べると、美を選択の基準にせよと言うことでもある。
美しく飾り、美しく話し、美しく生きる。
しかし、美しい行動が自然にできるかどうかは「ヘクシス」(性状)にかかっている。
徳の高い人は自然に美しい行動が取れるし、下劣は人は自然に下劣な行動を取ってしまう。
インド哲学の「カルマ」の教えに近い洞察がある。
では徳の高い人になるにはどうするか。
たった今その瞬間から繰り返し、中庸に叶った「善き」行為を為すことである。
正しいことと善いことは違う。
ハイデガーなどは「真理と正しさは違う」と言うことを強調する。
正しさとは個人の見かけ上の正しさでありアレーティア(存在の真理)とは質的に違うと言うことを言っているが、アリストテレスの善もこのような構造を持つ。
形式的な正しさを主張しても自分や周りが不幸になったとしたら、それは事実かもしれないが、真実ではなく、善でも無い。
正しいことと善いことは違う。
ハイデガーなどは「真理と正しさは違う」と言うことを強調する。
正しさとは個人の見かけ上の正しさでありアレーティア(存在の真理)とは質的に違うと言うことを言っているが、アリストテレスの善もこのような構造を持つ。
形式的な正しさを主張しても自分や周りが不幸になったとしたら、それは事実かもしれないが、真実ではなく、善でも無い。
結局、「徳が大事なのは分かったじゃあどうやったら有徳な人間になれるのか」と言う問題が出てくるだろう。
これに対して、ルターや親鸞は「信仰あるのみ」と説くだろうが、アリストテレスは実践あるのみと言うだろう。
上品は徳なのか?
上品と下品の中庸があるのではないか?
上品は本来は徳とされて来たが、作為的で高慢さの象徴のように言われることもある。
特に民主社会では上品さは目の敵にされ、下品の方が徳であるかのように言われることがある。
ダウンタウンの番組などでは、下品が徳である。下品とはある意味では正直さや親しみ易さの象徴(徳)なのである。
しかし、臆病者の間では臆病が徳になるだろうか?容貌が劣るものの間では不細工が徳になるだろうか?
確かに美人過ぎて虐められるとかグループで浮くと言うことがあるが、美人は美人だし、勇敢なものは勇敢であり、臆病者はどこにいても臆病である。徳はやはり絶対的な価値がある。
とは言え、臆病者ばかりの国では、少しばかり気概があれば英雄と言われる事もあるだろうが、
西田幾多郎の『善の研究』を読んだが、アリストテレスを読んでからこれを読むと、難解と言われるこの本も西洋哲学を専攻した学生の読書感想文程度の内容にも感じられる。
それくらい「古典を読む」と言うことは大事なのだ。