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記事投稿日:2018/11/19 11:00 最終更新日:2018/11/19 11:00
「最終的に温存手術を選ばず全摘の決断をしたのは、理屈ではなく体の中でがんがものすごい速さで育っていくのを感じたからです」
エネルギッシュに報道の現場を飛び回っていたある日、右胸にしこりを見つけた。社会人2年目の春だった。絶望に打ちひしがれながらも、家族や医師、同僚に支えられて、日本テレビ報道局社会部記者の鈴木美穂さん(35)は、
徐々に前を向けるように。闘病を経験している記者として、がんとともにありながらも、希望の持てる生き方を伝えたいと模索してきた。いま夫という家族を得て、鈴木さんは新たなチャレンジに歩みだそうとしている――。
’06年4月、鈴木さんは日本テレビに入社。面接時からドキュメンタリー志望と伝えていた彼女だったが、希望どおり、報道局へと配属された。
入社1年目のAD時代から、自らネタを見つけては企画書を提出して、ニュース番組内での放送を実現。さらに1年後には、若手の皇室担当としてベテラン記者に交じり夜討ち朝駆けで、ハードながら充実した日々を送っていた。右胸のしこりに気づいたのは、そんな24歳の春だった。’08年5月2日、乳がんと検査結果を告げられる。
「結婚も、出産もしないまま、私は死ぬのか。健康優良児で、親族にも一人もがんはいませんでしたから、『なんで私なの?』と、かつてないほどひどく混乱しました」
女性の11人に1人がかかるといわれる乳がん。鈴木さんのがんは進行が早く、当時は再発リスクも高いといわれていた。“HER2陽性”タイプだった。「死にたくない」という一心で、最良と思える治療を求めて、病院をまわった。
そんななか出会ったのが、取材で懇意になった医師が紹介してくれた国際医療福祉大学三田病院・乳腺センター長の吉本賢隆先生(70・現よしもとブレストクリニック院長)だった。
「がんになって最もつらかったのは、未来が見えないことでした。私の未来の可能性を一緒に考えてくれた吉本先生に主治医になってもらおうと決めました」
5月21日、右乳房の全摘出手術を行った結果、ステージ3の乳がんで、リンパへの転移も判明。抗がん剤治療が始まり、副作用で全身の脱毛が始まる。この苦境を支えたのが、24時間交代で付き添ってくれた家族であり、要所で治療の様子を撮影してくれた職場の仲間だった。
「先輩ディレクターの『美穂はいつか自分の体験を伝えたくなるときがくるから』という提案がきっかけで、ときには家族もカメラを回してくれました。私自身、『がんになった自分だからできることがある』と信じていたというより、正直、当時はそうでも思わないと気力を維持できなかった」
ちょうどHER2陽性タイプに効果のある分子標的薬が開発されたことも味方した。放射線など「治療のフルコース」を経て、8カ月の休職後、職場復帰を果たす。仕事に復帰することで不安が少しまぎれてはいたが、同じ悩みを語り合える場が欲しかった。
「当時は、報道でもがん患者にはモザイクをかけるような時代。特に若いがん患者の情報は少なかったんです。同じ体験をした人たちに会いたいと思いました」
’09年夏、仲間を集めて、35歳以下の若年性がん患者の団体「STAND UP!!」を立ち上げた。がん告知から5年目を迎えた’13年には、ヨガなどがん患者のためのワークショップを主催する「Cue!」をスタートさせて講演なども行い、海外のがん関連の会議にも積極的に参加。
「完治まで10年といわれる乳がんですから、5年目は“折り返し”のイメージ。講演では『励まされました』という人がいて頑張ろうと思うんですが、同時に自分の体験を思い出してつらくなり、落ち込むということの繰り返しでした」
しかし、国内外の患者らとの交流のなかで、少しずつ前向きな気持ちが大きくなっていく。
「患者が、がんになった直後から立ち寄れて、欲しい情報も得られる常設の場が必要だと、より痛感するようになりました。日本では、治療法はもちろん仕事や恋愛、結婚、出産などの悩みを吐き出したり共有できる場所がなかったんです」
そして思った。「だったら、自分で作ろう!」と。
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記事投稿日:2018/11/19 11:00 最終更新日:2018/11/19 11:00
「最終的に温存手術を選ばず全摘の決断をしたのは、理屈ではなく体の中でがんがものすごい速さで育っていくのを感じたからです」
エネルギッシュに報道の現場を飛び回っていたある日、右胸にしこりを見つけた。社会人2年目の春だった。絶望に打ちひしがれながらも、家族や医師、同僚に支えられて、日本テレビ報道局社会部記者の鈴木美穂さん(35)は、
徐々に前を向けるように。闘病を経験している記者として、がんとともにありながらも、希望の持てる生き方を伝えたいと模索してきた。いま夫という家族を得て、鈴木さんは新たなチャレンジに歩みだそうとしている――。
’06年4月、鈴木さんは日本テレビに入社。面接時からドキュメンタリー志望と伝えていた彼女だったが、希望どおり、報道局へと配属された。
入社1年目のAD時代から、自らネタを見つけては企画書を提出して、ニュース番組内での放送を実現。さらに1年後には、若手の皇室担当としてベテラン記者に交じり夜討ち朝駆けで、ハードながら充実した日々を送っていた。右胸のしこりに気づいたのは、そんな24歳の春だった。’08年5月2日、乳がんと検査結果を告げられる。
「結婚も、出産もしないまま、私は死ぬのか。健康優良児で、親族にも一人もがんはいませんでしたから、『なんで私なの?』と、かつてないほどひどく混乱しました」
女性の11人に1人がかかるといわれる乳がん。鈴木さんのがんは進行が早く、当時は再発リスクも高いといわれていた。“HER2陽性”タイプだった。「死にたくない」という一心で、最良と思える治療を求めて、病院をまわった。
そんななか出会ったのが、取材で懇意になった医師が紹介してくれた国際医療福祉大学三田病院・乳腺センター長の吉本賢隆先生(70・現よしもとブレストクリニック院長)だった。
「がんになって最もつらかったのは、未来が見えないことでした。私の未来の可能性を一緒に考えてくれた吉本先生に主治医になってもらおうと決めました」
5月21日、右乳房の全摘出手術を行った結果、ステージ3の乳がんで、リンパへの転移も判明。抗がん剤治療が始まり、副作用で全身の脱毛が始まる。この苦境を支えたのが、24時間交代で付き添ってくれた家族であり、要所で治療の様子を撮影してくれた職場の仲間だった。
「先輩ディレクターの『美穂はいつか自分の体験を伝えたくなるときがくるから』という提案がきっかけで、ときには家族もカメラを回してくれました。私自身、『がんになった自分だからできることがある』と信じていたというより、正直、当時はそうでも思わないと気力を維持できなかった」
ちょうどHER2陽性タイプに効果のある分子標的薬が開発されたことも味方した。放射線など「治療のフルコース」を経て、8カ月の休職後、職場復帰を果たす。仕事に復帰することで不安が少しまぎれてはいたが、同じ悩みを語り合える場が欲しかった。
「当時は、報道でもがん患者にはモザイクをかけるような時代。特に若いがん患者の情報は少なかったんです。同じ体験をした人たちに会いたいと思いました」
’09年夏、仲間を集めて、35歳以下の若年性がん患者の団体「STAND UP!!」を立ち上げた。がん告知から5年目を迎えた’13年には、ヨガなどがん患者のためのワークショップを主催する「Cue!」をスタートさせて講演なども行い、海外のがん関連の会議にも積極的に参加。
「完治まで10年といわれる乳がんですから、5年目は“折り返し”のイメージ。講演では『励まされました』という人がいて頑張ろうと思うんですが、同時に自分の体験を思い出してつらくなり、落ち込むということの繰り返しでした」
しかし、国内外の患者らとの交流のなかで、少しずつ前向きな気持ちが大きくなっていく。
「患者が、がんになった直後から立ち寄れて、欲しい情報も得られる常設の場が必要だと、より痛感するようになりました。日本では、治療法はもちろん仕事や恋愛、結婚、出産などの悩みを吐き出したり共有できる場所がなかったんです」
そして思った。「だったら、自分で作ろう!」と。
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