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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://2chb.net/r/history/1636274892/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
(承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図
矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代)
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
(承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末〜239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
(承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀)
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
明らかに「道里」が日数表記されている実例である。
ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
◆FAQ 78-2
(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有コ。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40) ◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
と調査機関は公式発表している。
事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
大型建物群配置図
同空撮
建物B空撮
Dより西を望む
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.ところで倭国の気候風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせる印象操作。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
【邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸】
>>75の模式図だyo!【倭人伝の「東冶≒女王之所都」プロパガンダ】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓(出雲・吉備=墳丘祭祀)
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜〜〜〜〜▲┃(大和・東海=銅鐸祭祀)
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜〜去女王(之所都)4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
┃〜〜┗━━女王国島━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド…幻)
↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1ヶ月)
┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自帯方郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻).〜│★【(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東】(魏晋のプロパガンダ…嘘)
┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜…本当」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年…大げさ」 「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ
@265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹操の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
Bおそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。
こうして陳寿は仕方なく、形状●(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ刷り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)
そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、果てしない水掛け論が継続中w
▶●もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
●もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)
祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。
「殉葬者奴婢百人」は、曹魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声)
前スレ
>>997 うてな遺跡は弥生後期の環濠と竪穴住居くらいしか出てない
ヤマト政権は中国南方政権と付き合ってきたが
隋唐という北方政権が中国統一した時、
今まで「漢字の正統な読み方」だと
思っていた南方式の読み方が
「中国南方独特の読み方だった」と気付き、
今までのは「呉音」と呼ぶようになり、
隋唐の音を「漢音」と呼ぶようになったという
ということはヤマト政権は南北朝以前の
北方政権の魏晋とは付き合いがないらしい
魏晋と付き合いがあるなら北方式の音が
最初から正統の読み方と理解されていたはずだ
卑弥呼がもらった? 曹操墓出土と同型の鏡、なぜ大分に...
卑弥呼の鏡「可能性高い」大分・日田で出土の鉄鏡〜中国・曹操高陵の発掘責任者が見解
「三国志の英雄」として知られる曹操(155〜220年)の墓「曹操高陵」を発掘調査した中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌(ハン・イヒン)氏が、大分県日田市のダンワラ古墳出土と伝わる国重要文化財「金銀錯嵌・珠龍文・鉄鏡(きんぎんさくがん・しゅりゅうもん・てっきょう)」を、
邪馬台国の女王・卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」の一枚である可能性が高いとする見解を明らかにした。
潘氏は、九州国立博物館でダンワラ古墳出土鉄鏡を確認した上で「金錯や銀錯が施される鏡は王宮関係に限られる。この鏡は国宝級の貴重なものであり、公式なルートで日本に伝わったと考えられる」と述べた。
「魏志倭人伝」は、景初3(239)年に卑弥呼の使いが魏の皇帝から「銅鏡百枚」を下賜されたと記している。
ダンワラ古墳の鏡は鉄製だが、潘氏は「倭人伝が『銅鏡』と表現したのは、鏡の総称として用いたのだろう。そこに鉄鏡が含まれても不自然ではない」と解説した。「魏の側からすれば、最高品質の鉄鏡を贈ることで、倭に工芸技術の高さを示そうとしたのだろう」と推測する。
>>79 >今まで「漢字の正統な読み方」だと
>思っていた南方式の読み方が
>「中国南方独特の読み方だった」と気付き、
ちゃうちゃう
北方民族の侵略で中国人が南へ逃げた
だから呉音が古来の読み方由来で漢音が異民族訛りだ
>>76 >>80 奴国(志賀島の金印)・不弥国(日田の鉄鏡)・投馬国(串間の玉壁)すべてがピタリと符合!
宮崎県串間市で出土したとされる円盤状の器「玉璧(ぎょくへき)」。
古代中国で権威の象徴とされた品が、どのような経緯で串間の地にもたらされたのか。
直径33・3センチ、重さ1・6キロの円盤状。「軟玉」と呼ばれる鉱石でできており、真ん中に穴が開いている。
動植物がモチーフの文様が施され、ほぼ同じ大きさ・文様構成のものが、中国南部の「南越王墓」から出土しており、紀元前2世紀ごろに中国で作製されたものと推定されるという。
>>81 隋唐は鮮卑の影響があると言われてるが
隋唐以前に鮮卑が作った北方王朝の北魏の
鮮卑語禁止政策が受け継がれて
隋唐ではほとんど鮮卑語が使われなかったという
それなら漢字の読み方も基本的には
北方漢民族の物のままやろ
>>82 漢(農耕)民族王朝西晋が北方(騎馬)民族の侵略を受けて、肥沃なかつての呉の建業に亡命して東晋になり、洛陽は騎馬民族に占領され、南北朝時代が始まった。
>>990 女王国東渡海千里複有国皆倭種
侏儒国在其南(足摺付近)です。
短里を否定するのに、検証もしない。
史料事実や史料実態に拠って否定される大和説
>>999 つまり、「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態によって、第一に否定される大和説。
>>83 「女王之所都は(帯方郡から12,000里の)東冶の東の海の上」という印象操作(プロパガンダ)のために、
「帯方郡→不弥国ルート(里数表記)」の後に、さらに「帯方郡→東冶ルート」を「投馬国→邪馬台国ルート(日数表記)」として木に竹を接ぎ、中国大陸沿岸部の水行日数を付け足したんだよ(中国の読者向け)
>>76 帯方郡(不弥国)
↓「南水行二十日」
建業(投馬国島=宮崎県都万)
↓「南水行十日」
東治(邪馬台国島≧奄美大島)
↓「南陸行一月」=580q(1日19q)
東冶(女王之所都)=12,000里 ←陳寿の言いたいこと「計其道里 當在会稽東冶之東」
倭国は「山島を以って国邑をなす」列島(複数の島々)だから、それに合わせて、
まず、帯方郡(不弥国)→建業(投馬国島=宮崎都万)は「陸行」ではなく「水行」、
次に、建業(投馬国島)→東治(邪馬台国島≧奄美大島)も「陸行」ではなく「水行」、
最後に邪馬台国島(東治→東冶580q)の上は「陸行一月」、という描写にした
キウスにお勧めします
1.投稿する人は裏どりしてから
2.その投稿に疑問を抱く人は調査してから、、
>>89 帯方郡【末盧・伊都・奴国(女王之所都)不弥の4カ国島】
↓「南水行二十日」〜〜〜〜〜〜
建業【投馬国島】宮崎・都万
↓「南水行十日」〜
東治┌▲奄美大島┐〜
↓〜│邪馬台国島│↓「南陸行一月」580q(≒19q×30日)
東冶│女王之所都│←「その道里を計るに、まさに会稽東冶(呉越国境&12,000里)の東にあるべし=陳寿の嘘」
↓〜│「狗奴国」│〜〜〜
↓〜│其余傍之国│〜〜〜
↓〜│遠絶・不可│〜〜〜
↓〜└─┐得詳┌┘〜〜〜
儋耳朱崖└─幻┘←「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
>>91 たしかに陳寿は、邪馬台国を投馬国の北(自女王国以北其戸数道里可得略載)と南(水行十日陸行一月)に2つあるように書いてるが、正確な位置も書いてくれているのである!
それが「其南有狗奴国」。逆に言えば本当の邪馬台国七万戸は、狗奴国の北に隣接しているということ。
ところで、末盧国も伊都国も奴国も不弥国も北部九州沿岸で、筑紫平野はエアポケットのように触れられていない(つまりそこにあることをボカして「会稽東冶之東」と書いている)。
>>136 そして狗奴国の位置は、菊地平野(狗古智卑狗)+熊本平野+八代平野以外に比定できないので、自動的に筑紫平野が邪馬台国となるのである!
>>92 >となると、行程は使えない
邪馬台国の解明に行程を使おうと知るから袋小路で溝にはまるんだよ
袋小路で溝にはまるというより、
自分だけが絶対的に正しいという学問拒絶一人一作り話になってしまう
>>78 所謂、うてな遺跡(台遺跡)は、水の不便な大地の上にある。
弥生後期の環濠と竪穴住居くらいしか出てないが、あそこは単なる見張り台のなごり。
本拠地の国衙は、台地下の臺集落にあった。今の「臺郵便局」のあたりで、明治初までは砦村と呼ばれていた。
>>96 つまり考古学的根拠が何もない
にも拘らず他所で出た考古遺物は我が物のように使う
>>97 よそ者のオレが熊本の発掘をできるわけはないから、他人様の成果を大いに参考にさせてもらってるわけだが、
臺集落のすぐ北西が方保田東原遺跡で、弥生末期の鉄とか庄内式土器を出土する巨大遺跡。
また、臺集落の南東には、此れも同じく弥生末の鉄製品を多数出土した西弥護免遺跡が有る。
さらに阿蘇高森にも、其の手の出土物を伴う超貴重な幅・津留集落遺跡が有る。
此処には北を差し示す石柱も出土しており、北斗七星を信仰していた様子がうかがえる。
>>98 >弥生末期の鉄とか庄内式土器を出土する巨大遺跡
つまり余所者の入植地
>>98 北部九州沿岸と交流が緊密であるような資料が無い
>>76 「女王国【東】渡海千里 複有国 皆倭種、又有 侏儒国 在【其南】人長三四尺 去女王(之所都)四千里」
現代語訳「本州(女王国東渡海千里複有国皆倭種)の南にある四国(侏儒国)が、女王(の都するところ)からは4千里離れている」
ということは、四国(侏儒国)の【北西】4千里の場所に女王之所都があるということ。
つまり、女王国は北部九州ということです。
古畑任三郎でしたw
>>76 楽するな、
もう
わかったから毎度同じやつはりつけな
>>89 >>91 えっ!?「不弥国→投馬国→邪馬台国ルート(嘘)」って倭国内の水行日数じゃないの??
中国の読者に解り易くするために、中国大陸沿岸の水行日数で代替描写して「(女王之所都)その道里を計るにまさに会稽東冶の東にあるべし」って嘘を書いたわけ??
これじゃ投馬国の南(会稽東冶之東=嘘)と北(奴国2回書きで念押し=本当)の2箇所に邪馬台国・女王之所都があることになるよ!
道理で九州内にも本州にも、どこにも比定できないわけだ…むりやり日本地図に当てはめようと、九章算術や十倍報告習慣とか持ち出して引っ込みがつかなくなったヌレ主、奥山氏、狗古智卑狗(菊地彦)の熊本北部説を唱えざるをえなくなった宮崎康平さん、森村伊作が、気の毒すぎる… orz
>>107 テンプレを読んだことはないけど、目にすることに飽きたw
畿内説では
淡路島やら出雲は
投馬国なのか、邪馬台国のか????
卑弥呼は北部九州、壹與は畿内
もう俺の結論は答え出てますよw
おお、久しぶりに投稿規制解除となったw
また書けるぜーw by天才
>>106 >間違いです。
こんなふうに全く反論せず
なんの指摘もできす
ただ拒絶するのが反論になるとカンチガイしてるから
永遠に畿内説に歯が立たないんだよね
>>86 そうだとすれば増々問題やろ
なにせヤマト政権は隋唐の漢字の読み方を
「漢音」と呼んでる
それが鮮卑流の漢字の読みだというなら
ヤマト政権はそんな音を
「伝統的な漢代の発音」と考えてることになる
鮮卑が中国に流入する以前の
魏晋時代の漢字も読んだことがないことになる
>>89 魏志倭人伝は、「東冶」ではなく、「東治」であるから、
始めから嘘つき騙しをしており、バツね。
>>89 魏志倭人伝は、「東冶」ではなく、「東治」であるから、
始めから嘘つき騙しをしており、バツね。
>>91 魏志倭人伝は、「東冶」ではなく、「東治」であるから、
始めから嘘つき騙しをしており、バツね。
・4世紀以前に中国に行ったことがない
・中国北方の漢字の読み方を知らない
・北九州の地方自治体を地元で
伝統的に呼ばれてる「奴国」と呼ばない
・「銅鏡を中国から貰った」と語ったことがない
やっぱりヤマト政権は邪馬台国時代の知識が
欠如してるようにしか見えない
邪馬台国は畿内にあったとしても、
それはヤマト政権ではないだろうな
>>76 >>77 卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、(其南有)狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は≫狗奴国の位置≪であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種【〇九州説…「海A」関門海峡「国B」本州、✕畿内説…「海A」鈴鹿山脈「国B」北海道】
−其南有狗奴国 不属女王【〇九州説…熊本もしくは薩摩、✕畿内説…仲良し東海+河内彦(大阪)←支離滅裂】
畿内説はいずれも当てはまらない上、「(東)渡海複有国皆倭種」と「狗奴国(南⤴東)」が共に「東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能(倭地に牛馬なし)。
消去法により、九州説が正しい。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
>>113 こんなふうに、大和説者らは、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國(≒女王国)は九州」などの、
史料事実や史料実態に全く反論せず なんの指摘もできす
ただ拒絶するのが反論になるとカンチガイしてるから
永遠に九州説に歯が立たないんだよね
>>119 すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国王・卑弥弓呼の末裔。鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&推古…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津宮へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)
>>99
>つまり余所者の入植地
その余所者が、「倭人(阿波勢力)」。 @阿波 >>121 筑紫邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。用明の妹・推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津宮に東遷。
ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津宮→飛鳥浄御原宮→藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら「記紀伝承地」に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。
>>114 遣唐使が持ち帰った発音だから漢代の発音とは考えてないだろ
>>123 ダイワとしか読めない大倭(大和)を(オオ)ヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、「畿内」をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津宮に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を50年繰り上げて生まれた「畿内」説、ならびに古墳時代「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
記紀(後付け地名=ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と土器編年の年代繰り上げ操作による牽強付会に過ぎず、どこまで史実歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである(今年は皇紀2681年w)。
>>101 身長3、4尺の侏儒国など無い
正気かおまえ?
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲して、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津宮に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした〔記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」聖徳太子(以和為貴)へ〕。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北朝二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)
-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの棺は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。
>>99 >>つまり余所者の入植地
なかなか博識で、カンも鋭いではないか!
さよう以下に引用した如く、この時期には漢王朝の流れを引く漢民族が、ハガネ鉄や絹織物などの新技術を携えて、
多数渡来した。その漢民族の人々が倭地〜倭種地を征服して、新たに古墳人を形成していったらしい。
その最初期の大入植地が肥後熊本で、倭人伝に云う邪馬台国だったと思われる。
事実、臺集落の北西にはハガネ鉄を出す方保田東原あり、南接には蚕飼(五海)という集落もある。
日本人の「完成」は古墳時代だった? (金沢大・鳥取大など国際研究チーム)
(朝日新聞デジタル 2021/09/18 03:00)
■DNAを分析、「古墳人」のルーツに新説
日本人のルーツは、これまでは土着の縄文人とその後に大陸から渡来した弥生人の混血説が有力だったが、
金沢市で見つかった約1500年前の古墳時代の人骨のDNA解析から、縄文人や弥生人には見つからないのに、
現代日本人は持っている東アジア漢族特有の遺伝的な特徴が見つかった。
つまり、古墳時代になって大陸から漢民族の渡来が進んだことで、新たに「古墳人」が登場し、
現代人につながる祖日本人集団が形成されたことを示唆している。
■大陸から漢民族が大挙移住、新技術持って次々に?
大陸からの大規模な渡来人の移住は、約3千年前の弥生時代にさかのぼる。
弥生人は、中国東北部の遼河流域と北東アジアに多く見られる遺伝的な特徴を示し、
縄文人と混血していることも確認できた。
■古墳人誕生、そして大和民族から日本人へ
一方、古墳人は、弥生人は持っていないが、東アジアの漢族に多く見られる特徴を持ち、
現代日本人と遺伝的な特徴がほぼ一致することも判明した。これらのことから、
大陸漢民族などの集団が次々に渡来し、土木や織物などの新技術を伝えて古墳時代を築き、大和民族を経て、現代の日本人につながっていったとみている。
>>93 >>101 女王国の記述であることが確実な部分を総合すると、
−(末盧国、伊都国、奴国、不弥国を挙げ)このように、「女王国より北の国々はその戸数と道里をほぼ記載することができるが、その他の周辺の国は、遠くへだたり、詳しく知りえない」
それら(女王国より北にある国々)を挙げると、斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・弥奴国・好古都国・不呼国・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・奴国で、ここで女王国の境界が尽きる。
−そして女王国の南に狗奴国があり、男子を王とし卑弥弓呼という名前で、長官に狗古智卑狗がいる。この国は女王国に服従していない。
つまり女王国は、筑紫平野しかないということです。
古畑田任三郎でしたw
>>131 其餘旁國が筑紫平野より北にあるなら遠くへだたってないだろ
>>132 其余傍之国遠絶(不可得詳)とは、(倭女王国=九州島内の)狗奴国より南にある国々(鹿児島)
女王国東渡海千里複有国は本州、又有侏儒国在其南 去女王四千里は四国
>>137 ごちゃごちゃして何書いてるのかよくわからん
>>75 要するに魏志倭人伝の行程が間違ってるということね
邪馬台国が福岡平野+筑紫平野の根拠は無しと
>>140 幻の邪馬台国島女王之所都(東冶の東)と現実の邪馬台国女王之所都(玄界灘と菊池郡に南北挟まれた筑紫平野のどこか)の2つあるってことやよ!
>>134 >>倭人は漢民族ではない
その通り、倭人は倭人、漢民族は漢民族だ。
ただその後、渡来の入植者である漢民族が膨張拡大する中で、
祀ろわぬ者たちは、東夷・アズマエビスとして討伐の対象となり、
従う者たちとの間には、当然の如く漢×倭の混血民が増加して、漢民族の遺伝子が広まっていった。
その新人類を金沢大学は古墳人と名付け、
この人々が銅鏡文化と銅鐸文化の融合の印として、
前方(銅鐸をねかせた形)+後円(銅鏡の形)の古墳を広めていったと解説している。
>>134
>倭人は漢民族ではない
「倭人(阿波勢力)」だ。 @阿波 >>142
>その新人類を金沢大学は古墳人と名付け
その「古墳人」とは、「阿波から進出して行った、「倭人(阿波勢力)」のこと。 @阿波 >>142 金沢大学が分析した弥生人は西北九州の2体だけ
古墳人は金沢市で発掘された3体だけ
西北九州弥生人は低身長で他地域の弥生人とは異種な集団
>>145 筑紫平野だとしたら、吉野ヶ里(背振山南麓)、甘木朝倉(英彦山西麓)、日田(英彦山南麓)、どれだと思う?
>>147 ヨコ
筑紫平野全体で七万戸なら、「居処宮室楼観城柵厳設」吉野ヶ里(千戸)でも良いんじゃないか?
>>111 >もう俺の結論は答え出てますよw
理由がまだ出てませんよw
結局、倭王権が北部九州(漢委奴国王)から大和に移ったことは確かなわけだから、時期の違いなんだよ
畿内説…卑弥呼で政権交代
九州説…台与もしくは神武が東遷
九州王朝説…天智が東遷
阿波説…阿波が東遷(40q)w
>>152
>阿波説…阿波が東遷(40q)w
阿波説…吉野川北岸の阿波市から鳴門市まで東征
最低最悪の沼地、大和盆地へなぞ、だれも行きたくもないわい。 @阿波 >>146 >金沢大学が分析した弥生人は西北九州の2体だけ
>古墳人は金沢市で発掘された3体だけ
サンプル数が少ないのに、金沢大学がけっこう断定的な結論をのべているのには、理由がありそうだ。
おそらく、現代日本人については、相当大規模なDNAデータが集積されており、
多くの日本人が、実はこの記事でいう漢民族特有のDNAを有していることが判明しているからではないか・・。
そう考えると納得がいく。
つまり、畿内説を強力に主張する奥山も、DNA的には渡来の漢民族の流れをくむ者である確率が極めて高いということだ。
>>155 漢民族特有のDNAというのはどこに書いてある?
>>146 要するに魏志倭人伝の行程は、ほぼ正しいということね
邪馬壹國女王之所都が福岡平野中程+筑紫平野及びその周辺丘陵地である、という事であり、
大和説や阿波説や奄美沖縄説や台湾説の確率は非常に少ないと。
>>141 >幻の邪馬台国島女王之所都(東冶の東)と現実の邪馬台国女王之所都(玄界灘と菊池郡に南北挟まれた筑紫平野のどこか)の2つあるってことやよ!
邪馬台国とか東冶とかの、魏志倭人伝に存在もしなかった嘘つき騙し文言を使った男は、
それだけで史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの詐欺師であるからバツであり、
現実の邪馬壹國女王之所都は福岡平野中央部〜筑紫平野及びその周辺丘陵地であり、
卑弥呼共立の倭國や倭地は、大体狗邪韓國〜南九州の投馬國の範囲になり、
その中の女王國には、南筑後〜肥後付近の狗奴國や、東渡海の倭種らを省く、
という事だな。
>>147 >筑紫平野だとしたら、吉野ヶ里(背振山南麓)、甘木朝倉(英彦山西麓)、日田(英彦山南麓)、どれだと思う?
吉野ヶ里は、おそらく(二万戸の早良平野を中心とした)奴國から分国であり、
其餘旁國遠絕の最後に書かれた奴國。
甘木朝倉は、おそらく7万戸の邪馬壹國の中の一地域。
日田は、おそらく(北にある青の洞門?や耶馬渓や英彦山の)山地帯の邪馬國であり、
姫氏の卑弥呼の出身地の可能性がある。
>>152 >結局、倭王権が北部九州(漢委奴国王)から大和に移ったことは確かなわけだから、時期の違いなんだよ
畿内説…卑弥呼で政権交代
いや、大和は、
九州倭國からの「東征毛人五十五國」で征服された別種倭種の大倭職の旧小国。
>九州説…台与もしくは神武が東遷
台与なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
壹與は東征した記録が全くないから、バツ。
>九州王朝説…天智が東遷
天智は、元々、(九州倭國の別種の大和王権の)ヲホド継体の反乱で、
九州倭國の執政に参加出来た大和王家の人物であり、
白村江で大敗して亡国の運命に晒された九州倭國を大和日本国が併合吸収継承して、
701年の大宝元年の建元で大和日本国が列島の盟主になる道を開いた。
>阿波説…阿波が東遷(40q)w
阿波は、元は出雲王朝の(部の一つである)忌部であったが、
卑弥呼が下賜した鏡片が出土しているから、
九州倭國の(伊都国系の天孫族の阿毎氏系の東征軍ではなく)、
卑弥呼直属の東征軍に拠って支配されて出雲の支配下ではなくなり、
出雲祭祀伝統を倭國内に守り伝える役割を果たした。
>>154 >倭國之極南界の倭奴国は倭王権ではない
倭奴國王は、金印の漢委奴國王であるように、
怡土の地(阿毎氏の伊都国と奴國の地)の「委奴」國の王であり、
呉王夫差の遺民の姫氏系図では、一部が火の国山門から委奴の地に移って、
漢委奴國王や倭國王帥升の遣使に関与した説明もあり、
その後大野に移って、そこで卑弥呼の名前が出ているから、
結局、委奴國は倭國王権であり、
「倭國之極南界」は、「倭國これ南界を極むるや(印綬を以ってす)」という意味である。
>>152
>阿波説…阿波が東遷(40q)w
阿波説…吉野川北岸の阿波市から鳴門市まで東征
最低最悪の沼地、大和盆地へなぞ、だれも行きたくもないわい。
そんな最低最悪の沼地、大和盆地へ、好き好んで行きたがるアホ畿内説・アホ九州説・アホ九州王朝説。 @阿波 >>152 遅くとも飛鳥時代までには確実に、倭王権が北部九州(弥生銀座)→大和に、東遷(政権交代)していたことは確かだから、時期の問題とすると、
−弥生時代終末期(古墳時代の開始)
畿内説…卑弥呼で政権交代
九州説…台与もしくは神武が東遷
−飛鳥時代
九州王朝説…天智が東遷
阿波説…阿波が東遷(40q)プッ!
>>164
>阿波説…阿波が東遷(40q)w
阿波説…吉野川北岸の阿波市から鳴門市まで東征
最低最悪の沼地、大和盆地へなぞ、だれも行きたくもないわい。
そんな最低最悪の沼地、大和盆地へ、好き好んで行きたがるアホ畿内説・アホ九州説・アホ九州王朝説。 @阿波 神武東征の舞台は阿波国内であり、 九州からの東征などではない。
神武軍が吉野川北岸の阿波市(西)から鳴門市(東)へ攻め下ったのが神武東征。
東征の参謀役となった速吸の門(はやすいのなと 鳴門海峡のこと)の大人・宇豆彦が、
「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られている。
その背後の山が、宇豆彦の葬場である西山谷2号墳(円墳 出土品 圭頭形鉄鏃、
やりがんな、鉄剣、鉄斧、斜線上方作銘獣帯鏡、鉄槍など)。
西山谷2号墳は 標高74mの尾根上、南北径20m、東西径18m・高さ2mの円墳で、
中央に南北方向の結晶片岩石積の竪穴式石室がある。
竪穴式石室は全長4.72m、北幅1.05m、南幅0.83m、 墓壙は南北6.5m、東西4.8mで全体が結晶片岩で覆われている。
石室には粘土でつくられた棺台があり、刳抜式木棺があったと考えられている。
石室の床には水銀朱が塗られていて、特に北側が多量だった。
棺内北側から鉄鏃、ヤリガンナ、鉄剣、鉄斧、鉄片、青銅鏡など多くの副葬品が出土、棺外からは鉄槍や土器が出土した。
3世紀半ばの築造と推定されている。 @阿波
神武を佐けた霊剣・建布都神は、戦闘の地、吉野川北岸阿波市の「建布都神社」で祀られている。
「建布都神」の陵墓は「阿波市 伊笠山」山頂。
一方、長髄彦の本貫地は徳島県板野郡板野町川端で、
周辺には、「東中富」「西中富」「富の谷」「富の谷口」「富の谷川」など
中臣の地名が多く残る遺跡の密集地である。
長髄彦と神武軍との戦いの場は、この東隣の鳴門市萩原地域。
ここは言わずと知れた、萩原墳丘墓群がある所。
長髄彦は、この地で神武軍との戦いに敗れたのである。 @阿波
阿波町の長峰一帯は、「饒速日命」の支配地であったとみられる。
「阿波」には「にぎはやひ」の「はやひ」が変化して「林(はやし)郷、郷司(はらし、ごうし)」谷となった伝承が残る。
そして、周辺には「饒速日命」に因んだという古代からの「林」が西林・東林として今もなお残っている。
また「饒速日命」は「古事記」の神武東征条で、伊那佐の山の歌のあと、
神武のもとに天降ってきて天津瑞(みしるし)を献ったとある。
郷司谷のすぐ下流(東)に伊沢(旧 伊那佐和(いなさわ))、伊沢谷川(伊那佐和谷川)があり、
その上流が歌の中の「伊那佐の山」にあたると伝わる。
さらに神武天皇が即位後の国見で「昔、饒速日命がこの国に降ったとき、そらみつやまとの国と名付けたと曰う」とあるが、
郷司谷のすぐ上流(西)が「そら地方、みつ地方のやまと」にあたる美馬郡なのである。 @阿波
このように饒速日命伝承が残る「長峰」は阿讃山脈から南に伸びる七つの舌状丘陵が櫛状に連続する地形。
西から数えて二つ目の丘が弥生中期後半を中心とする高床式建物や竪穴住居等二十数棟が発見された「西長峰遺跡」。
まさに、饒速日命の伝承が生まれる条件は備っている。 @阿波
>>156 >>130 の記事抄
「古墳時代の人骨のDNA解析から、、、特有の遺伝的な特徴が見つかった。」
「これらのことから、大陸漢民族などの集団が次々に渡来し、土木や織物などの新技術を伝えて古墳時代を築き、、、」
持って回った書き方をしているが、
上の2文章を要約すれば、「漢民族特有のDNA」となる。
>>170 「大陸漢民族などの集団」→「漢民族特有」
典型的な詐欺だよ
>>164
なんの痕跡も無いのに、妄想だけは一人前のアホ畿内説・アホ九州説・アホ九州王朝説。 @阿波 >>149 倭人伝の記述通りの「楼観、城柵、厳設(鉤型に折れた入口)」3点セット出揃っちゃってるからね
ああいう集落(国邑)が「女王之所都」筑紫平野の南北高台に点々と並んでいたんだろう
さぞかし壮観だったろうな
>>171 金沢チームが言っているのは、旧来の縄文人や弥生人とは違う新しいDNAの大量流入が有ったということだ。
そうすると、弥生末に大量に渡来した主力は、漢王朝が開発独占していたハガネ鉄や養蚕の技術を持ち、
帯方郡に保護支援された漢民族であり、倭人伝は暗にそのことを云っているわけだ。
もちろん、漢民族以外の使用人や奴婢の種族も一定数が随伴していたであろう。
其のことは、記紀中の高天原から降ってきた神々の顔ぶれを見れば想像がつく。
>>173 >さぞかし壮観だったろうな
吉野ヶ里以外、ひとつも見つからないのは何故?
>>174
>その新人類を金沢大学は古墳人と名付け
その「古墳人」とは、「阿波から進出して行った、「倭人(阿波勢力)」のこと。 @阿波 >>173 「以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、伝辞出入。居處、宮室、楼観、城柵、厳設、常有人持兵守衞」
現代語訳
奴婢千人が仕え、ただ一人の男子が給仕や連絡のために出入りしている。
女王が居る所は、宮室楼観城柵が厳重に設けられ、兵器を持った人が常時守衛に当たっている。
まだ断定はできませんが、とりあえず吉野ヶ里遺跡(推定人口5,500人)はピッタリあてはまります。
古畑任三郎でしたw
佐賀市教育委員会は、大和町川上の七ヶ瀬遺跡で弥生時代後期(1〜2世紀)の集団墓地251基が見つかり、中国製の青銅鏡4面が出土したと発表した。
うち1面は鉄刀、勾玉と共に埋葬されており、「三種の神器」がセットで出土したのは佐賀県内では初めて。佐賀平野の中央部から西部にかけて有力な首長が存在したとみている。
鏡4面が一度に見つかったのは、二塚山遺跡(神埼郡吉野ヶ里町、三養基郡上峰町)と同数で、佐賀県内最多となった。
鏡は前漢製と後漢製で直径9.5p〜17p。いずれも意図的に割られた状態だった。同じデザインの鏡は佐賀県内の他の遺跡からも見つかっている。
蛇や亀をあしらった後漢鏡「流雲文縁方格規矩禽獣鏡」(直径14cm)は木棺墓の近くから出土した。
素環頭鉄刀、鉄製短剣、翡翠の勾玉も見つかり、副葬品の充実ぶりから集落内で最も地位が高い首長の墓と見られるという。
県立佐賀コロニー跡地の工業団地造成工事を進める中で遺構が見つかり、2019年9月〜2021年3月に発掘調査を実施した。
弥生後期としては大規模な墓群で、墓域は長さ61m×幅25m。墓道を軸に、甕棺、石棺墓など251基が並んでいることが確認されており、さらに広がる可能性もあるという。
佐賀女子短大・名誉教授の高島忠平さん(81)は「1〜2世紀のクニの王権を示す発見。吉野ケ里遺跡の西に隣接して“佐賀のクニ”が姿を現した点も興味深い」と話し、邪馬台国が3世紀に束ねた30のクニの一つである可能性があるとみる。
弥生時代小さい集落が点在してたんだろうけど
それらを束ねるもっと大きな集団があったかどうかだけどおそらくあったでしょう
そうじゃなきゃ漢委奴国王の金印はくれないだろうし
邪馬台国って宮崎市じゃねーの?墓に関しては纒向遺跡よりは文献的には生目古墳群の方があってるし会稽東治の東にあってるし
>>177 宮室に「楼観や城柵が厳重に」設けられてナイト!w
宮室に猪よけの柵だけじゃダメだよw
九州なら北部でしょう
南部と言ってる人は不弥国から水行陸行を根拠にしてるんだろうがあれは繋がってないと思うわ
>>183
北部だろうが南部だろうが、九州に「邪馬臺国」たる集落遺跡群がない。 「邪馬臺国」の資格なし! @阿波 >>185
結局倭人伝どおりは、「阿波」だけ。 @阿波 >>91 玄界灘沿岸の不弥国の南に海はないということは、倭国内の行程じゃないってこと
中国大陸沿岸の行程をムリヤリ倭国に転用して「投馬国島」や「会稽東冶の東」に邪馬台国島「女王之所都」というパラレルワールド(夢まぼろし)を創ったわけ
>>104 実際の邪馬台国七万戸は(玄界灘沿岸諸国と狗奴国に挟まれた)筑紫平野で、女王国は筑紫邪馬台国を「扇の要」として、長崎の島原半島から平戸島、佐賀、福岡、大分別府までの北部九州の東西に広がる大連合、
其南有狗奴国は「狗古智卑狗(菊池郡)」の熊本(天草諸島含む)、投馬(都万)国五万戸は宮崎に比定すれば一応、東西南北が整合する
さらに「女王国東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」とも完全に整合する
グーグルマップで確認よろ
>>183 九州なら北部・・、といっても、これまでの説では実質福岡県内の範囲だ。
一方、倭人伝冒頭の「倭はもと100余国」とは、漢倭奴国王が朝貢したころのことを云っているのであろうが、
その漢倭奴国王は、南界を極めたる故を以て金印を拝したのであるから、
これは九州島全体が100余国であったと解するのが適切である。
そして、その100余国が、今は30国に整理統合されている・・、と読むべきであろう。
ちなみに、江戸時代の九州諸藩は約30藩であった。倭人伝の30国がその原型であったと思われる。
>>187 魏志倭人伝を素直に読めば多少おかしな所はあっても大体そんな感じだと思う
ただ東の倭種の国てのは陳寿が理解出来てないだけで元の資料は全部倭国だと思うけどね
>>187 あのさ、それ、三国志の渡邊義浩先生(古代中国史・頑迷な畿内説)に教えてあげなよ。
>>188 100カ国→30カ国に減った理由は、倭国大乱がとりあえず考えられそう。
福岡県内を指してるよね
陳寿はその辺だと思ったんだろう
>>190 >100カ国→30カ国に減った理由は、倭国大乱がとりあえず考えられそう。
その通り、
新たに強力な武器を擁して渡来台頭してきた国(帯方郡系列の国=女王国系列の国)が乱を起こした結果、
旧来の弱小国を併呑して30国に整理統合された、と云ことではないかな。
>>192 大きな集落が廃れたから飢饉でしょ
養えなくなった
>>187 >玄界灘沿岸の不弥国の南に海はないということは、倭国内の行程じゃないってことアベル前に、
俗に不彌国と比定されている宇美町は、博多の隣の山間部の行きどまりの小さな町さ。
ゴタクを並べる前に、道を間違ったことに気付くべき。
末盧国東南500里は佐賀平野なんだよ。その佐賀平野の南には、広大な有明海の景観が広がっている・・、
>>194 で、不弥国から南水行二十日投馬国、さらに南水行十日陸行一月邪馬台国、其南有狗奴国はどこに比定?
>>195 >不弥国から南水行二十日投馬国、
>南水行十日陸行一月邪馬台国、
そもそもこの読み方が不用意・安直だな。もう一度しっかり語順を読み直せ。
>其南有狗奴国はどこに比定?
此れも読み方が安直だ、
「(女王の境界の)其の南有狗奴国」だから、女王国に密接しているとは限らない。
狗奴国という文字及び現場九州の地理からして、熊本県中部の山岳地帯と球磨川に遮られた南の球磨郡(現・人吉市)が適切だろうな。
球磨平野は、奈良平野と同じだけの広さがある大国だ。
>>196
>球磨平野は、奈良平野と同じだけの広さがある大国だ。
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い九州や畿内に、「広い平野」などあっても無用の長物! わははははは @阿波 >>196 素直に読めば不弥国から南水行二十日投馬国
南水行十日陸行一月邪馬台国になるよ
読み直せじゃなくておまえがどう考えてるか言えよ
>>174 「縄文人は独自の祖先成分をもっているのに対し,弥生時代には北東アジアを起源とする集団,
さらに古墳時代には東アジアの集団が日本列島に渡り混血していった。
そして,本州における現代日本人集団を調べると,
古墳時代に形成された3つの祖先から成る三重構造を維持していることが分かった。」
https://www.kanazawa-u.ac.jp/rd/96414 漢民族特有のDNAではない
(200の続き)(Google 翻訳)
「古墳文化の最も顕著な考古学的特徴は、エリートを鍵穴型の塚に埋める習慣であり、
その大きさは階層的な階級と政治力を反映しています(1)。
この研究で配列決定された3人の古墳個体はそれらの古墳に埋葬されていませんでした(注S1を参照)。
これは彼らが下位の人々であったことを示唆しています。
彼らのゲノムは、東アジアの祖先が過半数を占める人々の日本への到着と弥生人との混合を記録しています(図5および図S17)。」
「YayoiとKofunの集団の遺伝的祖先の時間的および地域的変動を追跡し、
ここで提案された日本の集団の三者構造の包括的なビューを提供するには、
追加の古代ゲノムデータが必要になります。」
https://www.science.org/doi/10.1126/sciadv.abh2419 これらのデータは
長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡(弥生時代末期)2個体
石川県金沢市の岩出横穴墓(古墳時代終末期)3個体
弥生時代、古墳時代を代表する集団ではない
>>202
>弥生時代、古墳時代を代表する集団ではない
弥生時代、古墳時代を代表する集団は、「倭人(阿波勢力)」。 @阿波 >>198 オッ、伊作先生を知っているのか、良い子だぜベイビー
ただ、道順を少し変更している。
伊作先生は、佐賀平野を川船でクリーク伝いに熊本へ向かったが、
オレは佐賀平野山寄りの古代街道を東へ向かい、佐賀大和町の川上を伊都国、
其の東100里の吉野ケ里を不彌国に比定しなおした。
ついでに、邪馬台国の国衙は山鹿市/菊池市境界の臺村だが、
女王の鬼道の都は、上陸してから2000里約150qの阿蘇高千穂だ。
>>187 こんな感じ?
なぜかリンク貼れないので、コピぺして、/ boの間の空白を消去してみて
i.imgur.com/ boCZvL8.png
>>200 >さらに古墳時代には東アジアの集団が日本列島に渡り混血していった。
まあ、たしかに「東アジアの集団が・・」と書いてあるだけだが、
それだけでは、前出の北東アジア集団との遺伝的区別がはっきりしない。両者の区別をしっかり書いてもらいたいものだ。
ただ、古墳時代ころに大量渡来した有力種族と言えば、限定される。
>>206 古墳時代末期って、渡来人たくさん活躍してた時代やんか
>>104 そう。倭人伝を読むと、女王国は投馬国の北に、邪馬台国は南に、両方にあるように書かれていることが判る。
では、どちらが本当かと言うと、まず会稽東冶は沖縄と台湾の中間の緯度だから南(邪馬台国)が嘘で、投馬国の北が本当ということになる。
>>91 しかも、不弥国の南に海はないから、倭国内の描写ではないことが判る。
つまり、陳寿の蛇足「不弥国→投馬国→邪馬台国ルート(嘘)」によって、
邪馬台国女王之所都が投馬国(宮崎)の北にある北部九州説はバツ!と大和説から散々責め立てられ、つい妥協した北部九州説の人々が、熊本北部説に日和ってしまったと考えられる。
誤説をまとめると、
(そのまま九州島内に圧縮比定してしまった)
−邪馬台国と狗奴国(さらには熊襲)との混同…熊本説(白鳥庫吉・宮崎康平・森村伊作)
(東冶を東治の誤写であるとして北上させ、さらに「末盧国→伊都国→奴国→不弥国ルート」が実際には東南ではなく東北であることを奇貨として「南→東」90度捻じ曲げた)
−邪馬台国とヤマト王権の遡上混同…畿内説
>>208 >(東冶を東治の誤写であるとして北上させ、
それ、誤説
明らかに間違ってることを指摘されても知らん顔なのは九州説の特徴だよな
>>209 そうかそうか、伊作先生が嫌いだったのか
ま、そりゃそうだろな、意見が合わなかったんだからな。
でもな、好き嫌いで決めるのは好ましくない。真実を見極める目こそ大事なのだよ。見誤れば、粗大ゴミになるからな。
>>204 >オレは佐賀平野山寄りの古代街道を東へ向かい、佐賀大和町の川上を伊都国、
>其の東100里の吉野ケ里を不彌国に比定しなおした。
がんばってくださいw
>>77 殉葬のないホケノ山や(吉備特殊器台)箸墓・西殿塚は、邪馬台国の遺跡ではないと思う人?
不弥国から何故大きく距離がとぶと思えるのか
そこまでの500里100里100里はいったい何なんだ
しかも女王国より北側の国は戸数や道里を記載できると言ってるからそれだけしかないのよ
>>212 >でもな、好き嫌いで決めるのは好ましくない。真実を見極める目こそ大事なのだよ。
好き嫌いじゃなくて、伊作は議論で負けるたび直接会って拳骨で決めようととか絡んだり、ダブハンで自分を賛美したりするから嫌われ者だったよ
荒らしもよくやったし
>>214 十倍報告習慣なら卑弥呼の冢は実際には径十歩(14m)だったということ
箸墓(全長280m)はないな
まさに墓穴を掘った畿内説w
>>219 >十倍報告習慣なら卑弥呼の冢は実際には径十歩(14m)だったということ
>箸墓(全長280m)はないな
>まさに墓穴を掘った畿内説w
キウス独自の捏造説だから墓穴にならないよ
明らかに間違ってることを指摘されると強引に捻じ曲げるのが畿内説の特徴だよな
>>216 >不弥国から何故大きく距離がとぶと思えるのか
>そこまでの500里100里100里はいったい何なんだ
1国1距離で守尾一貫してるだろ?
国が小さければ接近してて当たり前
10倍も20倍も大きい国なら国どうし遠くて当然
なんで、そんな自然なことも九州説の人は理解出来ないんだろう
もしかして、ばか?
>>222 >明らかに間違ってることを指摘されると強引に捻じ曲げるのが畿内説の特徴だよな
そんなこと、したって証拠は?
証拠もない中傷ばかりになるのが破れ去った九州説の特徴だな
>>218 そうか、そりゃ困ったろうな。
ただそれというのも、多くの人々が佐賀ルートを信用してくれないのが、とても残念だったからだろうな。
>>216 その通り、
行程記事の締めくくりとして「自郡至女王国萬二千余里」と明記されている。
つまり倭に上陸してからは二千里だ、これを動かすことはできないだろう。
とすれば、おのずからおよその位置範囲は限定される。
>>223 本気でそう思ってるのか?
記載されてる国なんて小さい集落だよ
ただし投馬国邪馬台国だけは別
>>225 俺は陳寿の認識が間違ってるんだと思ってるけどな
>>205 おお、サンクス!だいたいこんな感じだと思う
>>225 そんなチマチマ足し算してたから、今まで誰も陳寿の嘘に気が付かなかったんだよ
>>91 もっと大きく、帯方郡から会稽東冶(女王之所都)まで12,000里あるって総括してるんだよ
>>226 >記載されてる国なんて小さい集落だよ
>ただし投馬国邪馬台国だけは別
だから、そこから急に距離が大きく飛ぶのは当然だろ?
なんで理解できないのか不思議
不弥国までは邪馬台国への行程になんの関係もないんだから無視すれば良いんだよ
だから帯方郡から投馬国は水行20日、投馬国から邪馬台国は水行10日と陸行1月
じゃあ投馬国と邪馬台国は何処なんだって話し
>>231 >不弥国までは邪馬台国への行程になんの関係もないんだから無視すれば良いんだよ
そんなもんが書かれてるという発想が正常と思えない
行程の読み方を自由に変造しちゃったら、もう九州説の自殺だと思う
どっちにしろ会稽以南まで届くことになってるんだから北部九州説はありえない
行程論頼って行程論に殺されたのが九州説だ
>>91 >>75 陳寿が描いた「不弥国→投馬国→邪馬台国」行程は、奄美大島をう〜んと南に伸ばして架空の邪馬台国島を「東冶(帯方郡から12,000里)之東」の何もない海上(沖縄の南と台湾の北の中間)に創ったんだよ
しかも、実際の邪馬台国は(北を玄界灘沿岸諸国の末盧・伊都・奴・不弥、南を狗奴国に挟まれた)筑紫平野にあるっていうことを「其南有狗奴国(中略)長官狗古智卑狗」って書いて、フォローしてある
さらに「女王国東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国(四国)在其南。去女王(之所都)四千里」で女王国は九州島だということも間違えないように書いてくれている
つまり「果たしてお前たちの頭で、解るかな?w」っていう陳寿の挑戦なんだよw
>>235 陳寿に忠実だという大義名分を捨てたら
九州説って終わりだと思う
勝手に「南→東」に替えた畿内説は、学問じゃなくてオレオレ詐欺だと思うw
>>237 勝手じゃないさ
それは結論だもの
理由の方を勝手にいじる九州説は詐欺だけど
交戦中の狗奴国をどこにも比定できない我田引水の畿内説w
其八(247)年王キが帯方郡太守に着任。
卑弥呼が倭の載斯烏越等を派遣して帯方郡に至り、狗奴国の男王、卑弥弓呼と戦争状態であることを報告。
魏の使者張政が倭国に派遣されて難升米に詔書、黄幢を授けて文書で告げて諭す。
張政が倭国に着いたときには卑弥呼は死んでいて、男王が立ったがまとまらず、卑弥呼の宗女十三歳の壱与を王とすると国中が安定。
張政たちは文書を解り易く具体的に壱与に教え諭す。
壱与は大夫の率善中郎将、掖邪拘ら20人を派遣して、張政ら帯方郡に帰るのを送らせる。
倭の役人の掖邪拘ら20人は洛陽に行き
男女の奴隷三十人と真珠5000個とヒスイの勾玉2個と模様が布20枚を献上
>>240 >都合により十倍は詭弁
都合により十倍とか、誰がしたの?
指摘のない批判は反論でも批判でもない
>>185 結局倭人伝どおりなら、大和説も阿波説も無理
>>239 >交戦中の狗奴国をどこにも比定できない我田引水の畿内説w
比定されてますが?
架空の畿内説を罵っても馬鹿っぽいだけ
>>242 >結局倭人伝どおりなら、大和説も阿波説も無理
理由を一言も言えない九州説が馬鹿っぽい
>>243 仲良し東海(伊勢尾張)と河内(大阪)彦?w
>>239 >張政が倭国に着いたときには卑弥呼は死んでいて、
それ、倭人伝には書いてない
>>244 「南→東」にすり替えた時点で、学問じゃなくてオレオレ詐欺w
阿波と大和説は50歩100歩w
>>245 そんな主張を誰がしたの?
架空の畿内説を批判するのは馬鹿っぽい
九州説って馬鹿っぽい
>>247 >「南→東」にすり替えた時点で、
すり替えたって証拠は?
証拠を出せない主張は学問ではない
>>224 結局倭人伝どおりであり、大和説は全く無理
>>233 行程の読み方を自由に変造しちゃったら、もう大和説の自殺だと思う
>>250 >結局倭人伝どおりであり、大和説は全く無理
理由は?
まったく理由がないの?
>>236 同時代の魏の役人らの、
実地での見聞計測の記録が中心である陳寿の魏志倭人伝に、
出来るだけ忠実であるべきだ、という大義名分を捨てたら
大和説者らって終わりだと思う
>>251 里数から日数に変わってるのにそこに何にも疑問を持たないのは不思議だわ
>>238 同時代の魏のらのらの実地の見聞計測の記録が殆どである魏志倭人伝、
という理由の方を勝手にいじる大和説者らは、
詐欺だけど
>>241 どういった場合に十倍にするのか答えられる?
>>254 >里数から日数に変わってるのにそこに何にも疑問を持たないのは不思議だわ
なぜ不思議?
ぜんぜん珍しくないのに
>>205 良い線だ
斯馬国が長崎平戸島 邪馬国が大分の耶麻渓になってるのも洒落てるw
>>205 スゴイ、GJ!
これなら「女王国投馬国連合vs狗奴国熊襲連合」の対立構造が想定できるな
斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国も、発音さえ判れば、そのうち比定できるようになるかも!
>>258 以前にも指摘してるが、二郡遂滅韓」の戦果報告とかを「破賊文書」って書いてある
倭国内の話と関係ないから
想像豊かなのはわかりますが勘違いですよ。
>>262 「南→東」にすり替えた似非学問、オレオレ詐欺(畿内説)の御臨終も近いなw
>>258 わかりますか?賊を破った戦果報告です。倭国は賊ではありません。
原文](三国志 魏書 國淵伝)
破賊文書、舊以一為十、及淵上首級、如其實數。
[書き下し文]
賊を破る文書は、舊(ふる)く一を以て十と為す、及淵首級を上るに、その実数の如くす。
当時の大阪と奈良は川で繋がってたようだけど
それだとずっと水行になるんじゃないか。
縄文時代の終わりには沼地か。
でも生駒山の麓辺りまでは行けたはずだし、
そこから1月掛かる山かね。
>>263 キウスは知能がとても低いので
テンプレにはっきりそう書いてあっても
全く理解できないで妄言を続けている
>>265 じゃあ、意地悪して径十歩と揶揄したのだな。テンプレ直すだけの話じゃん。
面白い恋人騒動って北海道にとってマイナスだったと思う。
ぐんまちゃんにあやかってネタで群馬県言い張るネタで
提携したほうが良かった。
その辺り群馬県はゴロピカリあるしわかってるよね。
話がわかる奴だ。
>>271
テンプレの、FAQの質問もあなたが作ったのでしょ。Aに破賊文書とはこれ如何に?
ーーーーー!
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
ーーーーーー
だから、何度言っているでしょう。一度誰かにテンプレ見てもらった方が良いと、、、 >>272 なんども、テンプレについては訂正なりするよう言ってますが、頑固なんです。奥山さんは。私に限らず、指摘はされてますが、、
>>272は発狂したキウスだな
間違えてるのはキウス一人だけなんだから
>>276 >私に限らず、指摘はされてます
キウスは何にも指摘してません
その証拠に、なんて指摘したか言えません
>>278 話を、そらす。
魏の使いが、倭国と往来した時、魏は韓と戦闘状態でしたか?
よーく考えてください。
>>275 >テンプレの、FAQの質問もあなたが作ったのでしょ。Aに破賊文書とはこれ如何に?
>Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
韓国内の話だから、「Aに破賊文書」で合ってるよな
一体何が問題?
いい加減に何か指摘してよ
>>279 >魏の使いが、倭国と往来した時、魏は韓と戦闘状態でしたか?
戦闘状態でしたが、何か?
>>279 魏の使いが、倭国と往来した時、魏は倭と戦闘状態でしたか?
よーく考えてください。
奥山さん
悪い事は言わない、誰もテンプレを訂正しても非難しないですよ。
三国志記載の歴史の流れを読み取って下さい。三国志の一部分を切り取って全体に落とし込みするのはいけません。
>>276 >なんども、テンプレについては訂正なりするよう言ってますが、
訂正する理由は?
>>285 >奥山さん
>悪い事は言わない、誰もテンプレを訂正しても非難しないですよ。
正しいものを訂正したら1を非難するよ
>>285 テンプレの何が間違っていると言うのか指摘もしないで、訂正しろ訂正しろの連呼じゃわけわからん
まともな事を言えよ
>>93 >>119 末盧国・伊都国・奴国・不弥国(玄界灘沿岸諸国)
邪馬台国(筑紫平野)←↑女王国連合
狗奴国(狗古智卑狗=菊池郡)
実は簡単なことだったんだよw
>>1 畿内説の総論(学説)と持論(自説)と分けてテンプレを作った方が良いですね
畿内説(学説)が誤解されないようにね
>>288 認知症が進んでますよ。
何度も同じこを反論させるのですか!
私は畿内説を否定していません。あなたの歪められた自論に反論してらのです、
九章算術を用いて、日数で示された距離道里に該当したも、学説でなく自論でしょ。お粗末ですが、、
>>290 誤解って、どういうこと?
具体的にお願いします
俺、1じゃないですから
東南陸行もしかりです。
畿内説が首尾一貫して東南は誤認と解いていません。ごく一部の方です。
私が危惧するのは現段階で纏向は王都、箸墓は卑弥呼の墓としようとする方たちです。時期尚早です。
>>291 落ち着いて
あなたは1の何が間違いだと言いたいの?
>>293 まず、貴方が何説かおっしゃってください。
そして1の冒頭から始まりテンプレを全て支持しますか?日本海ルートの方はすべてを支持しないと言ってました。
残念なから、その方はテンプレの瀬戸内レートについて反論しませんでした。日本海ルートに確信を持ってなかったのでしょう。
さてテンプレの冒頭
> 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 <
>>297 いや、他人にわかるように貴方がテンプレへ反論するのが先では?
今のままでは何を言っているのが他人に全くわかりません
>>296 だから、あなたはテンプレが間違いでないからそう言う質問をするのでしょう。
テンプレを読み込んだ上での投稿てわしょ。
>>289 我々は実に1740年もの間、陳寿の蛇足「不弥国→投馬国→邪馬台国」行程日数に振り回されていたのだね。。。
>>300 認知症が進んでます。
だったら、私の指摘に反論する必要は無いですね。
指摘してるから、反論するのでしょう。
指摘でなければ何も反応する必要がない。
自分の、矛盾に気がついてないね。、
キウスの一手づめ見事
キウスが何も指摘してないはまずかったなWw
>>280 其北岸狗邪韓國だから韓国内の話しじゃないよ
>>304
あなたねーあのねー 勝負事じ無いから
将棋が好きなら
藤井さんが最年少四冠です。 >>264 博多 北部九州説も「南→東」にすり替えた
「東南→北東」にすり替えた
書いていない二島の陸行
>>303 >指摘してるから、反論するのでしょう。
何にも指摘してなくたった
訂正しろ訂正しろって煩く言えば
何が言いたいのか聞くんじゃないの?
あなた、頭変なんじゃない?
>>305 >其北岸狗邪韓國だから韓国内の話しじゃないよ
「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」って言えば
韓国内の話だろう
どこからどこまで「七千餘里」なのか考えれば明らかだ
狗奴国王の乱って、
どうみても、武埴安彦命の乱だよなw
>>308 頭が変なのは君。
論破済したとか、シャドウボクシングでもしてたの。よくいえるよ
>テンプレの何が間違っていると言うのか指摘もしないで
つい直近ぐらいわかるでしょ
さてさて、破賊の文書を倭人伝の7千里の解釈に当てはめる事のはおかしいとの指摘にどう答える。おかしい根拠は提示済みです。それさえ、記憶から飛んでますか^_^
>>307 つ
>>93 邪馬台国の場所を唯一絶対に特定できる情報が倭人伝に書いてあるよ!
奥山さん、破賊の文書を引用するなら、
他説も径百歩に引用しますよ。答えは径十歩となっても良いの。
邪馬台国九州説の人は、神武東征伝承に拘っていると思うのだが、
あれは、九州から畿内へ都を移した話とは思わないよw
どちらかというと、神武東征の時も、畿内が日本の中心地であり、
もともと、九州の地方官の家系だった神武一族が
畿内中央政界でクーデターがおこったので、
援軍の一つとして、畿内へ駆けつけた話にしか見えない。
また、もともと、九州の地方官の家系だった神武一族は
その当時に畿内の王家だった一族の分家筋にあたり、
出雲国譲りによって、畿内王朝が日本列島での覇権を確立した後、
神武の曽祖父の邇邇芸命の代に、畿内(高天原)から派遣された家系だったと思われ。
>>315 どうでも良い何一つとして残らない妄想乙ですw
奥山さんこれ正しいと思いますか?
Q:「径百歩」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
あるいは、、、(ここは一応容認とします)
>>312 >さてさて、破賊の文書を倭人伝の7千里の解釈に当てはめる事のはおかしいとの指摘にどう答える。おかしい根拠は提示済みです。
いつ、どこで?
言えないの?
言えないなら指摘じゃないよ
>>317 >奥山さんこれ正しいと思いますか?
俺、奥山じゃないけど正しいと思うから本人はそう書いてるんだろう?
反対意見がないなら、どこにも疑問はないぞ
なんで全く指摘できないの?
俺ら第三者にはまるで意味がわからない
>>299 >今のままでは何を言っているのが他人に全くわかりません
他人にわかるから、私以外の方もテンプレのこの部分を揶揄をしてるのですよ。
径十歩は?メートルだから、〇〇古墳が卑弥呼の墓だとか。みな笑って投稿してますよ。これも記憶から飛んでますか?
奥山さん
あとね
纏向は王都では無い、はしはかは卑弥呼の墓で無いとの指摘は私以外にも多くの方が指摘してますよ。ここは訂正しろとは言いません。現在畿内説として成り立ってますから、、でも何故反論があるかわかりますか?
ヤマトタケルの時代に出雲討伐も行われておるからその出雲の支配者や九州で何度も反乱起こした熊襲(久磨於曽)の支配者らの正体の方が不明なんだけどな(・∀・)
王号として建(タケル)を使っておりそれを貰ってヤマトタケルと名乗ったらしいけ
ヤマトタケルことオウスの命は
オウスもしくはオグスってのがヤマトタケルの本名に当たるわけよな
>>320 >他人にわかるから、私以外の方もテンプレのこの部分を揶揄をしてるのですよ。
この部分って、どの部分?
指摘しないの?
いや、そんな馬鹿って、あんたしかいないから
だってテンプレに書いてない事だもの
あんたも依然として何も指摘しないし
誰にも伝わらないよ
何言ってるかわからない
卑弥呼の時代の邪馬台国が奈良に当たるならその当時の出雲の国はまったく別の国なんだよ(・∀・)
タケルの時代に出雲はヤマトに服属したことにならからな
>>314 夷狄の王の墓を実際よりもはるかに壮大に書くことはない
奥山さん 続けますよ
FAQ58です。万二千里の残余が1300〜2000里だから、九州から桜井市まで魏尺で到達するとも言ってますね、、
この論法は空いた口が塞がりません。
>>314 >奥山さん、破賊の文書を引用するなら、
>他説も径百歩に引用しますよ。
いや、奥山じゃないけど。なんで引用できるの?
>>329 塞がらない理由は?
あくまでも、なんにも指摘しない作戦?
畿内説は、反論もありますが説として成り立っています。
そこに奥山さんのとんでも自説を入れ込むから畿内説が誤解されると言う事です。
>>332 >そこに奥山さんのとんでも自説を入れ込むから畿内説が誤解されると言う事です。
奥山のとんでも自説って、なに?
キウスの珍発明じゃなくって?
>>331 今日はゆっくり休みなさい。暇あれば、他の方のご意見も入れ、テンプレの問題点を投稿しておきますから^_^
ただし、私は二十四時間貼り付くほど暇では無いので、投稿が無くても宜しく^_^
神武東征よりも前、つまり、神武の曽祖父の邇邇芸命の時代に出雲国譲りが行われた。
その時の高天原の主役は、本当に邇邇芸命だったのか?
皇室系図に登場する人物の通称などから推測して、出雲国譲りを達成した高天原の主役は、
皇祖・邇邇芸命ではなくて、古事記の系図でいうところの邇邇芸命の兄である天火明命なのでは?と思う。
なぜなら、天火明命の別名(通称)が、天照国照彦(天津神と国津神の統治者)だから。
つまり、出雲国譲りを実現させることによって、はじめて天津神と国津神の両方を統治した人物。
また、この事実に関する痕跡は、播磨国風土記・旧事本紀にも出てくる。
旧事本紀によると、天火明命は出雲の大国主の娘婿(義理の息子)だったとあり、
播磨国風土記では、火明命は、義理の父(妻の父)である大汝命(大国主の別称)を降伏させた話が出てくる。
>>336 どうしてキウスはそんなに逃げてばっかりいるの?
脳が希薄だから?
要するにキウスは、以前にテンプレに誤字があるー誤字があるーと言い続けてたのと同じ
何が誤字なのかは絶対に指摘しない
中身ナシ
ただ悪口を垂れ流してれば気が済むってことだ
それで評判が落とせれば万々歳なんでしょ
精神が濁ってるんだよ
卑弥呼がヒメミコ。
つまり、崇神天皇の父方の大叔母である倭迹迹日百襲姫命で説明がつく。
卑弥呼が死の直前に戦った狗奴国の男王の卑弥弓呼(ヒミココ=ヒコミコ)とは
孝元天皇の庶子である武埴安彦命のことであろう。
これで、説明がつく。
こういう風に考えると、神武天皇は実在していたら、西暦1世紀ぐらいの人物になる。
更に神武の曽祖父の邇邇芸命は紀元前1世紀から西暦1世紀にかけての人物かもしれない。
>>337 三国志東夷伝倭人の条通称魏志倭人伝の記述によれば
3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ
ところが日本書紀・古事記では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い
「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレヒコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレヒコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく
高天原の名称は、高野山と天野山からきている。
この二つの山間の地域を、高天と呼び、その平原を高天原といった。
つまり、高天原とは、和歌山から奈良県南部にかけての地域が発祥であり、
高天原王朝は畿内の王権である。
そして、高天原王朝は、出雲国譲りで、出雲を降伏させ、日本の大半を支配した後、
日本各地に王家の一族や家臣たちを地方官として派遣した。
その中に、皇室の祖先である邇邇芸命がおり、彼は九州の高千穂へ赴任した。
邇邇芸命は、高天原王朝の初代倭王である天火明命の兄弟であった。
つまり、高天原王家の一族だったので、この九州への覇権を天孫降臨という。
高天原王朝の初代倭王が天火明命である理由は
>>337 を参照。
また、これらのことと邪馬台国の卑弥呼との関連は
>>342 を参照。
そういうことが可能になるのは7世紀以降だろうな
それ以前の歴史がなくなる
卑弥呼が最後に戦った狗奴国王の乱が
倭迹迹日百襲姫命が最後に戦った武埴安彦命の乱だと分かるっていうのは、
他にも証拠が多くある。
魏略によると、狗奴国王の副官は、拘右智卑狗だったとあるが、
これは、武埴安彦命の外戚が河内彦だったことと一致する。
武埴安彦命の生母が河内青玉繋の娘であり、妻も河内彦の家系だったと思われる。
また、狗奴国(西暦3世紀の音韻では、コノ国と呼ぶ)の名前は
武埴安彦命の領国は、現在の京都府の宇治市にあり、
山城国風土記逸文によると、宇治の旧名は「許乃国(このくに)」と呼んだとある。
邪馬台国の卑弥呼との関連は
>>342 を参照。
高天原王朝の初代倭王が天火明命である理由は
>>337 を参照。
高天原の名前の由来は
>>342 を参照。
>>346 俺は畿内説だけどな。一応、言っとくが。。。
邪馬台国の卑弥呼との関連は
>>342 を参照。
狗奴国の男王の正体は
>>347 を参照。
高天原王朝の初代倭王が天火明命である理由は
>>337 を参照。
高天原の名前の由来は
>>342 を参照。
畿内説で圧倒的に有力なのは、箸墓古墳の被葬者が卑弥呼だという説でしょう?
箸墓古墳の被葬者は、倭迹迹日百襲姫命だから、
当然、卑弥呼の正体は彼女になる。
倭迹迹日百襲姫命は、ヤマト王朝で最高権威の巫女であり、皇族もあり、
孝元天皇から崇神天皇の三代の時の最高の巫女(祭祀王?)だった。
となると、魏志倭人伝と日本書紀などの記述から
狗奴国王の乱が、武埴安彦命の乱のことだと分かる。
これは1970年代ぐらいに青木慶一さん?だったかが言った説。
邪馬台国の卑弥呼との関連は
>>342 を参照。
狗奴国の男王の正体は
>>347 を参照。
高天原王朝の初代倭王が天火明命である理由は
>>337 を参照。
高天原の名前の由来は
>>342 を参照。
>>350 狗奴国王は乱ではなくて、後漢代から不屬女王の倭種
狗奴国(このこく)の男王の卑弥弓呼(ひみここ)
=許乃国(このくに)の領主で皇族でもある彦命(ヒコミコ)とは、武埴安彦命。
おそらく、後漢書にある東にいる倭種とは、狗奴国ではない。また、別だと思う。
自分は、熱田社の尾張氏の祖先だと思う。
尾張氏は、天火明命の嫡流の子孫。
卑弥呼共立の切欠になった倭国大乱とは、
天火明命の子孫で嫡流である尾張氏の祖先と
邇邇芸命の子孫である皇室の祖先との倭王継承戦争だと思っている。
結果的に、邇邇芸命の子孫である倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼)が勝利し、
実際の政治は彼女の異母弟の孝元天皇が行った。
ただし、西暦3世紀の時点では、
依然、東国を中心に尾張氏の祖先を支持する勢力も多く、それが女王に従わない倭種と表記された。
ちなみに、狗奴国王の乱は、邇邇芸命の子孫の間での王位継承争い。
孝元天皇の庶子である武埴安彦命が、
孝元天皇の嫡孫である崇神天皇と孝元天皇の異母姉である倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼)
に対して謀反を起こした。
>>355 邪馬台国の卑弥呼との関連は
>>342 を参照。
狗奴国の男王の正体は
>>347 を参照。
高天原王朝の初代倭王が天火明命である理由は
>>337 を参照。
高天原の名前の由来は
>>342 を参照。
>>357 なぜ? 邪馬台国=ヤマト国で、畿内にあったということだろう?
意味が分からない。
それじゃ、貴方が思う畿内説って何よ?
>>357
理解に苦しむ。
>>356のリンク先で
邪馬台国=ヤマト国で、畿内にあた前提で話しているだろう?
>>355 倭人伝では狗奴国は女王国の南
5世紀の後漢書では東の倭種と雖も不屬女王の拘奴國に修正されている
獣偏=犬は北方の民族、南方は虫偏=蛇、西は戈偏=戎、東は夷=弓+大
拘の手部は手の部分や形状,手の動作、句は身を曲げて死者を埋葬する=屈葬
>>360 畿内説の場合は、
王都、つまり邪馬台国は畿内のヤマトで、九州には伊都国に一大率を設置して、
諸国を監視していたという説が有力だと思っていたのだが。。。
つまり、少なくとも、西日本全域を中心とした全国規模の巨大王権。
一方、九州説の場合は、あくまでも、殆ど九州だけ限定の地方政権だという説。
また変なやつらが現れた
こいつらが現れるときは必ず自分に取り都合が悪い推論、理論なんかが出たときに現れる
362
おまえさ、日本の古代の仕組みを知ってるんか?
まったく知らずに自分の知ってる当て推量使ってるわだよ
>>361 どの部分かは忘れたけど、方角に関しては、
正史三国志なんかでも、自分の国である中国の地理に関しても
結構、方角を間違った記述があったはず。
狗奴国の男王が武埴安彦命だった場合、狗奴国の方角について、
中国側が記述するのは困難だったと思う。
理由は、魏略によると、
狗奴国(このこく)の男王は卑弥弓呼(ひみここ=ひこみこ?)、副官は拘右智卑狗(こうちひこ)だとある。
これは、おそらく
許乃国(このくに)の領主の武埴安彦命(たけはにやす・ひこみこ)、副官は彼の外戚の河内彦(かわちひこ)のことだろう。
武埴安彦命の乱では、武埴安彦命側の勢力は、
山城と河内の両方から、大和(邪馬台)を挟み撃ちにしたとある。
この場合、中国は、どのように記述するかだ。
皇族の一人である武埴安彦命を支持する勢力は一つではなく、複数あったと思われ、
中国サイドの記述も難しかったはずである。
そもそも、中国側は自国の地名の方角の誤植もそれなりにあるわけだから。
>>365 日本の古代の仕組みって何よ?
別に推量で言っているのではなく、実際に
魏志倭人伝、魏略、日本書紀、古事記、旧事本紀、風土記の記述などから
推量したのにすぎない。
>>363に補足で
畿内から九州北部に及ぶ首長間ネットワーク
まだ脆弱な相互利益的な協力体制=ヤマト王権の黎明期
大学の試験でも
畿内説と九州説の違いについて述べよとある場合、
畿内説の場合は、少なくとも、西暦3世紀の時点で西日本の広範囲に勢力を広げる
全国規模の王権が誕生していたという解釈にあり、
九州説の場合は、少なくとも、西暦3世紀の時点では、
九州、畿内もそれぞれ別々の王権であり、全国規模の統一王権は無かったという解釈になる。
>>368 ああ、それでいいわ。
確かに九州南部の熊襲とかは、まだ支配に入ってなかったし。
あと、箸墓古墳、纏向遺跡のあたりには、吉備からの遺物も多く見つかるが
倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼)の系譜の周辺を見てみると
彼女の弟には、吉備津彦命という皇族があり、稚武彦命という吉備臣の祖先になった皇族もいる。
また、彼女の伯父には、大吉備諸進命がいる。
つまり、皇族の重要人物が、吉備の統治を任されていたことが分かる。
>>366 武埴安彦命の乱で、帯方郡まで相談に行って黄幢を待ってる暇はないだろう
>>371 >武埴安彦命の乱で、帯方郡まで相談に行って黄幢を待ってる暇はないだろう
その解釈は間違いだと思う。魏は倭国内部の紛争に興味なく、あくまでも、
魏が支配する帯方郡で三韓の反乱があったので、倭軍に援軍を求めたのにすぎない。
つまり、魏は冊封国として、倭国を使おうとしただけである。
しかし、倭軍は来なかったので、倭国に使者を送って聞いてみたら、
倭国内部で狗奴国王の乱があったので、来れなかったと言われただけだと。
詳しくは↓
正始元年(240年)にさらに異動があり、帯方郡の新太守となった弓遵は、
魏の詔書・金印紫綬を配下の梯儁に持たせて卑弥呼のもとへ送った。
ところがこの弓遵は、同6年(245年)に嶺東へ遠征して東濊を討った後、
それまで帯方郡が所管していた辰韓八国を楽浪郡へ編入することになり、
その決定を現地に伝えた際、通訳が誤訳を犯して韓族を激怒させ
郡内の韓族が帯方郡の崎離営を襲った。
これを弓遵と楽浪太守の劉茂が兵を興して討ち、魏軍は韓族を滅亡させたが弓遵は戦死した。
同8年(247年)弓遵から引き継いだ太守・王頎は、
倭の使者から邪馬台国と狗奴国との交戦の報告を受け、
自ら上洛して官の決裁を仰ぐが、魏朝から邪馬台国へ援軍が送られることはなく、
魏の少帝の詔書と黄幢を携えた塞曹掾史(外交官、軍使、軍司令副官など諸説あり)
の張政が派遣されるに留まった。
↑これが真相だ。
>>372 それだと、武埴安彦命の乱が何年間続いてることになるのかな?
>>373 武埴安彦命の乱は、古事記や日本書紀から判断して
割と短期間で終わったと推測していますが、具体的には分かりません。
武埴安彦命の乱では、彼の生母の実家、つまり外戚や妻の実家も一緒になって
大和を攻めているので、
元から、庶流である武埴安彦命と皇室嫡流は仲が悪かったのでしょう。
当然、彼の外戚が裏で糸を引いたのだと思います。
>>374 武埴安彦命の乱は崇~十年九月から十月の間だから
載烏越等を郡に遣わして王頎に相攻撃する状を説いて
張政が黄幢、檄を持ってくる時間はないだろ
>>375 何か問題ある??
張政が来日してみたら、、とっくに狗奴国の男王の乱は鎮圧されていて
卑弥呼も死んでいて、墓が作られていたわけでしょう?
倭国からしたら、
魏が「何故、倭国は援軍を半島へ送ってくれなかったのか?」と言われたので
狗奴国王の乱があったので、それどころではなかったと言い訳に使ったぐらいだと思う。
実際に、武埴安彦命の乱は直ぐに終わったわけだから。
邪馬台国は奈良県の纒向遺跡でほぼ決まりと聞いたが。
>>376
張政が来日する前に、
「遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状」で
「遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之」だから 倭からしたら、狗奴国王の乱だと、自分たちで鎮圧できた。
実際に武埴安彦命の乱は短期間で鎮圧できた。
でも、魏が半島で反乱があって、倭に対して援軍を頼んだので、
倭はそれを断るために、狗奴国王の乱(武埴安彦命の乱)があったことを言ったのだろう。
それで、魏が確かめに張政を倭へ派遣したら、
とっくに狗奴国王の乱は鎮圧されていたし、しかも、倭女王の卑弥呼も既に死んでいて、
墓が作られていた。
この辺の話は、武埴安彦命の乱が短期間で鎮圧され、その直後に、倭迹迹日百襲姫命も死に
彼女の墓が作られていた記述と一致する。
>>379 「遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状」はどこいった?
其六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡假授
「其の六年、詔して倭、難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮授す。」
正始六年(245)、詔して倭の難升米に黄色い軍旗を賜い、
帯方郡に付して仮に授けた。
其八年太守王頎到官 倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和
遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢
拝假難升米 為檄告喩之
「其の八年、太守、王頎が官に到る。倭女王、卑弥呼は狗奴国王、
卑弥弓呼素と和せず、倭、載烏越等を遣わし、郡に詣り、相攻撃する状を説く。
塞曹掾史、張政等を遣わし、因って詔書、黄幢を齎し、
難升米に拝仮し、檄を為(つく)りて之を告諭す。」
正始八年(247)、(弓遵の戦死を受けて)帯方郡太守の王頎が着任した。
倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、
倭の載斯烏越等を派遣して、帯方郡に至り、戦争状態であることを説明した。
(王頎は)塞曹掾史の張政等を派遣し、
張政は詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した。
>>380 正始八年、倭国が魏国に
「狗奴国王の乱があったので援軍に出せなかった」ことを
説明に行ってある間に、
倭国での狗奴国王の乱は短期間で終わっていた。
当時は電話もない時代なんだから、
武埴安彦命の乱(狗奴国王の乱)があった時に、倭国から魏国へ使者を送って、
使者が帯方郡に行ってある間に、
武埴安彦命の乱はとっくに鎮圧されたみたいなことは普通にあるだろう。
>>382 それは、書紀と一致するように倭人伝を改竄している
基本的に、狗奴国王の乱(武埴安彦命の乱)は
外国である魏国の助けなんてなくとも、倭国は鎮圧できたわけだし、
そもそも、自国の内戦に他国の介入を促すほうがおかしいだろう?
あの魏志倭人伝の記述の流れから言って、
西暦245年?に、魏国が「帯方郡で三韓の反乱があり、倭国を外藩国として援軍をよこせ」と催促したのを
倭国は援軍をよこさなかったので、
倭国は断る理由のために「狗奴国王の乱」のことを言い訳に使ったというのが真実だと思う。
それで確かめに、魏は張政を派遣したら、倭国では内乱はとっくに終わっていたと。
キウス
ヨコ 、、 、、、 ^_^ Ww
近畿説 京都説 太平洋ルート
奥山さん あのねー しかり
自論 じゃねーの
>>385
倭人伝には「遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之」
と書かれている さて奥山さん、、過去の指摘を載せてみようと思いましたが、一つづつ同じことを繰り返すのも如何と思い。新しいところで指摘しましょう。次のレスに移ります。
奥山さん 投稿します。
ーーーーーーー
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
ーーーーーーーーーーーー
さて、倭人伝では、「男子は大小無く、皆、黥面文身す。」と記述されております。
あなたの論でいけば、纏向で魏の使いが出会った男子はすべて愛知、岡山県の人達でしょうか?そんな事はありませんよね。Qの回答になって無い事を指摘します。
新しい指摘ゆえ私が間違っているなら素直に引っ込めます。
>>387 それが、まさに
「西暦245年にあった、帯方郡に対する三韓の反乱に
倭国が援軍を送らなかったことに対する言い訳」を
西暦247年に言ったのだろう?倭国の使者が、帯方郡の太守に。。。
それで、魏が張政を倭国へ派遣して、確かめに行ったと。。。
だから、狗奴国王の乱って、とっくに鎮圧されていて、
倭国として全く困っていないのに
西暦245年に帯方郡で三韓の反乱があった時に
魏から倭へ援軍の要請があったのに、
結局、倭は援軍を出さなかったので
西暦247年に、倭は、狗奴国王の乱があったことを言い訳につかった。
(実際は、西暦247年の時点で、とっくに狗奴国王の乱は鎮圧されていたと思われるw)
そうしたら、魏はわざわざ倭の使者に黄幢まで渡して
張政を派遣して、倭国を確かめに行ったとw
追記 Qに男子無大小 皆黥面文身を入れた方がわかりやすいQになると思います。
倭国からしたら、自国の大事な兵士を渡海させて、魏の半島での権益を守るのに使いたくない。
戦争に行けば、当然、戦死者も出るわけだし。
だから、それを断るために、狗奴国王の乱(武埴安彦命の乱)があったことを
言い訳につかった。
そうしたら、魏側は、わざわざ魏の軍旗までを 倭の使者に渡して、
倭へ確かめに使者を派遣したw
当然、だいぶん前に、武埴安彦命の乱(狗奴国王の乱)は終わっていた。
>>350 まず、モモソさんが実在した人物かどうかの検証から始めたらよろしいかと
>>394 日本書紀の記述、モモソ姫命の記述は、
リアルタイムに近い年代に書かれた記述ではなく、
昔、そういうことがあったという伝承を元に書かれたものなので、
確かに真偽のほどは現時点では分からない。
ただし、リアルタイムで書かれた魏志倭人伝の西暦3世紀の当たりの記述が
日本書紀のモモソ姫命が登場するあたりの記述に似ているという説が昔からあって
それで、箸墓古墳が卑弥呼の墓という説が出てきた。
魏志倭人伝によると倭地は周囲5000里
しかし狗邪韓国を「倭地」に含めると
対馬海峡が南に3000里だから
3000里×1里としても周囲6002里になってしまう
倭人伝の「倭地」は九州についてからだろう
九州についてからの東南に陸行600里を
直角二等辺三角形の斜辺とすると
東西成分は約424里
そこにさらに東に100里だから
東西成分は最低でも524里
邪馬台国の南北に国があるのに東西に国がないから
倭地は南北に長いつもりらしい
仮に倭地の周囲5000里を
南北1950里×東西550里とすると
東南陸行600里と東100里で、
その東端くらいまで来て、
倭地の残りは最大でも南に1426里
ところが帯方郡・邪馬台国間の12000里中、
不弥国までで10700里移動してるから
残りは1300里で、しかもそれが全部南の移動だから
邪馬台国は倭地の南端あたりの東岸にあるしかない
そうなると宮崎くらいしか該当する場所がないことになる
>>396 中国の死者は、日本海沿岸経由で邪馬台国に行っている。
中国側の地図なんかでも、後代、
日本列島が南北に長いように記載されている。
これは、おそらく、中国側の使者が畿内に入るのに
日本海沿岸の航路を使ったと思われ、その場合の海流との関連もあるのかもしれない。
>>346 ほんと「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しのオレオレ詐欺師の大和説学者らは、
妄想ばっかだなあ
>>397 そういうことじゃないでしょ
後漢書で北九州にある倭奴国を
「倭国の極南界」としていたように
「朝鮮半島南岸と北九州が倭国」と
中国が認識していたから、
倭国が南北に長いことになっていた
畿内政権時代になり、倭国が東西に長くなっても
後漢時代の認識を引きずってる中国人もいるというだけ
7世紀成立の隋書のように
「倭国は東西に長い」みたいに
記述してあるものもある
しかしそれも6世紀以前の中国史書にはない
(5世紀成立の宋書に
「倭国が『倭国は東西に広い』的なことを言ってきた」という
記述はある)
ということは4、5世紀までは「倭国」
=「中国と交流する日本の地域」は
南北に長い九州に限定されていたと見るべきだろう
3世紀に中国と交流していた邪馬台国は
九州以外あり得ないことになる
ヤマト政権は権威があると思う
それは「日本を初めて統一した政権」だからだと思う
もしヤマト政権以外が日本を統一した後に
ヤマト政権が政権を奪っていたら権威は薄いだろう
そうだとすると畿内説ならば邪馬台国=ヤマト政権になる
しかし>118にある通り、ヤマト政権は
邪馬台国時代の中国との交流の記憶がほぼなく
邪馬台国のように頻繁な交流をしていたようには見えない
やはり邪馬台国は九州なのでは?
>>389 >倭人伝では、「男子は大小無く、皆、黥面文身す。」と記述されております。
あなたの論でいけば、纏向で魏の使いが出会った男子はすべて愛知、岡山県の人達でしょうか?
纏向は愛知と岡山の人達ばかりで問題無し。沼地だから誰も住まなかったから定住したのだ。
以下のような感じかと思う
3世紀 九州邪馬台国が中国と交流してる
畿内ではヤマト政権が台頭してるが、
中国と直接交流にはいたってない
4世紀 畿内ヤマト政権が九州邪馬台国を倒すが
中国への航路・通訳などがいないので
中国と交流できず、「空白の4世紀」になる
5世紀 畿内ヤマト政権が朝鮮諸国と仲良くなり、
朝鮮経由で中国と交流できるようになる
畿内説だと空白の4世紀やヤマト政権が
3世紀以前に中国と交流したことがないことを
説明できない
>>397 日本海航路は衰退してたとテンプレに記述されています。
反論は奥山さんへ
テンプレより抜粋
>寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
なぜ、そんなに九州説の人は
九州説に拘るのか?その理由を知りたい。
神武東征のため?
それとも、邪馬台国=ヤマト国だと、
日本の皇室が中国に朝貢したみたいになってしまうのが嫌なため?
堂々巡りで嫌気がさす。九州説は宗教みたいなもん。
これだけ否定されているのに。
畿内説の場合は、卑弥呼の正体が、皇室のどの人物だということまで分かるけどね。
いや、卑弥呼だけじゃなくて、次の女王の台与だとか、狗奴国の男王とか、
倭の使者の難升米の正体まで分かる。
>>389 そうならむしろ邪馬台国は畿内にないんじゃないか
畿内に黥面土器があまりないなら
「男子はみんな黥面文身する」という感想を
畿内に行った中国使者が持つはずがない
(漢典によると「男子」は古代中国から男全般を指すらしい)
せいぜい畿内と交流のある地域に
黥面文身の習俗があるという程度だろう
日本書記には顔に入れ墨を入れることを
刑罰とする話があるし、畿内ヤマト政権は、
そんな習俗は持ったことがないだろう
>>407 >畿内に黥面土器があまりないなら
>「男子はみんな黥面文身する」という感想を
>畿内に行った中国使者が持つはずがない
んなら北部九州が連座で失格だわ
ばかだねー
>>407 いや、変なこと言い出す人がいるなーと思ったら
ミッドナイト・キウスがまたトチ狂ってたのか
あいつ、マジ馬鹿じゃね?
畿内説の場合、西暦3世紀の時点で、大和(邪馬台)を中心に畿内〜北九州を支配する王権が誕生していた。
九州説の場合、西暦3世紀の時点で、九州、中国地方、畿内など、それぞれが地方がバラバラだった。
よって、畿内説の場合でも、九州の風俗が出てくるのは、まったく有りの話。
だって、その畿内に首都がある王権は、少なくとも北九州まで支配していたから。
なんとしてでも畿内大和に邪馬台国があったことにしたい人々が必死で...w
一晩中ご苦労様ですw
>>411 一晩中苦労してたのはアンチ畿内説のキウス
無駄な苦労だけど
文字使用痕のない王権が魏に使いを送ったりしてたんですか?w
>>412 私は一晩中やってませんよ、私に罵声を浴びせてた人が一晩中。
休みなさいと言ったのですが、、
今は寝てるのかな、新たな指摘
>>173 「以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、伝辞出入。居處、宮室、楼観、城柵、厳設、常有人持兵守衞」
現代語訳
「奴婢千人が仕え、ただ一人の男子が給仕や連絡のために出入りしている。
女王が居る所は、宮室(の周囲)に楼観や城柵が厳重に設けられ、兵器を持った人が常時守衛に当たっている」
まだ断定はできませんが、とりあえず吉野ヶ里遺跡(推定人口5,500人)はピッタリあてはまります。
古畑任三郎でしたw
>>410 >>畿内説の場合、西暦3世紀の時点で、大和(邪馬台)を中心に畿内〜北九州を支配する王権が誕生していた。
大和纒向説のはずが、いつの間にか範囲が広がって、今や畿内説というより、国内説になってしまったな
>>408 「黥面土器の分布と黥面風習の分布が一致する」という
仮定の上での話な
しかしアイヌでは伝統的に黥面の風習があるのに
黥面土器は作っていなかったから一致しない
(そもそもアイヌには人の顔を表現する芸術自体がないぽい)
「じゃあ黥面土器がなくても畿内にも
黥面風習があるかも…」を否定するのが
日本書記で黥面が刑罰になってる話だ
そしてアイヌ・沖縄に入れ墨風習があり、
日本書記でも飼部、鳥養部など動物を扱う職業や
蝦夷に入れ墨風習があるとされてるから
入れ墨は縄文系民族の風習らしい
そうなら弥生時代九州の縄文系民族も
入れ墨の風習はあっただろう
>>1奥山さんへ
再度投稿しておきます。レスが速いの
ーーーーーーー
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
ーーーーーーーーーーーー
さて、倭人伝では、「男子は大小無く、皆、黥面文身す。」と記述されております。
あなたの論でいけば、纏向で魏の使いが出会った男子はすべて愛知、岡山県の人達でしょうか?そんな事はありませんよね。Qの回答になって無い事を指摘します。
新しい指摘ゆえ私が間違っているなら素直に引っ込めます。
>>416 纏向の大型建物の周囲にはイノシシ除けの柵だけの平和な遺跡w
出土したのは、鍬の再利用の木製仮面、桃の種、カエルの骨、各地の土器
>>396 >魏志倭人伝によると倭地は周囲5000里
その前提がバツ。
「參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里」の「可五千餘里」は、
はっきり「參問倭地,絕在海中洲島之上或絕或連周旋」だ、と書いてあるから、
對海國や一大國や、
「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種。又有侏儒國在其南,人長三四尺,去女王四千餘里などの、
、陸上の参問の里数の合計である、と断ってある。
>>397 >中国の死者は、日本海沿岸経由で邪馬台国に行っている。・・・
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるからバツであり、
「日本海沿岸経由」説も「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツ。
>>399 >後漢書で北九州にある倭奴国を「倭国の極南界」としていたように
「朝鮮半島南岸と北九州が倭国」と中国が認識していたから、
倭国が南北に長いことになっていた
いや、「倭國これ南界を極むる也、光武、印綬を以って賜う」という意味。
>畿内政権時代になり、倭国が東西に長くなっても
後漢時代の認識を引きずってる中国人もいるというだけ
いや畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツであり、
倭國の位置はほぼ九州島付近で変わらず、
東は倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」の「大倭職」らの旧小国群があっただけ。
>>415 >私に罵声を浴びせてた人が一晩中
どのひとが?
あなた、何か指摘しました?
一つも見えないんですけど
>>418 >しかしアイヌでは伝統的に黥面の風習があるのに
>黥面土器は作っていなかったから一致しない
はーい
>そうならむしろ邪馬台国は畿内にないんじゃないか
>畿内に黥面土器があまりないなら
>「男子はみんな黥面文身する」という感想を
>畿内に行った中国使者が持つはずがない
が否定されました
>>403 >4世紀 畿内ヤマト政権が九州邪馬台国を倒すが
倒していないからバツ。
大和が「白村江で大敗した九州倭國を併合吸収継承した」のは、
701年の大宝元年の建元から。
>中国への航路・通訳などがいないので 中国と交流できず、「空白の4世紀」になる
4世紀でも九州倭國は、半島諸国と一緒に東晋に遣使を派遣していたから、バツ。
>5世紀 畿内ヤマト政権が朝鮮諸国と仲良くなり、朝鮮経由で中国と交流できるようになる
5世紀の倭の五王らは、九州倭國(東海姫氏國)の王であり、半島の南部の支配権を主張していた。
>畿内説だと空白の4世紀やヤマト政権が
3世紀以前に中国と交流したことがないことを説明できない
これは、賛成。
>>399 >後漢書で北九州にある倭奴国を
>(倭国之極南界也)、つまり「倭国の極南界」としていたように、、、
他史に、宣帝之平公孫氏也 という一節があるが、上と同一の構文である。
これは「宣帝(司馬懿)が公孫氏を平らげるや、すぐさま・・、」と読む。
いつまでも「ごく南界なり‥、」などと、素人丸出しの極道読みでは、本場中国人に鼻の先で笑われる。
>>205 >>416 英彦山西麓の甘木朝倉でも良いが、吉野ヶ里(脊振山南麓)でも良いし、日田(英彦山南麓)の小迫辻原遺跡も悪くないな
>>404 >テンプレより抜粋
>寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、
温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、
潟港の機能低下と相俟って
国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である
梁書に拠れば、梁代まで、出雲の文身國と越の大漢國の存在が記録されているから、
別に大して衰しいないので、バツ。
>>405 >なぜ、そんなに九州説の人は
九州説に拘るのか?その理由を知りたい。・・・
3世紀の同時代の魏の役人らに拠る実地の見聞計測の記録を元にして書かれていて、
高い信頼性と高確率の倭人伝の記録が元になっているから。
>>406 堂々巡りで嫌気がさす。大和説は・・・・皇国史観宗教みたいなもん。
これだけ否定されているのに。
>畿内説の場合は、卑弥呼の正体が、皇室のどの人物だということまで分かるけどね。
いや、卑弥呼だけじゃなくて、次の女王の台与だとか、狗奴国の男王とか、
倭の使者の難升米の正体まで分かる。
いや、はるか後代の古事記や日本書紀などの国内文献は、
九州倭國や卑弥呼などのその王たちの存在や事績を隠蔽盗用造作した半分偽書であり、
信頼性がないし、確率も殆どない。
>>428 5世紀にはヤマト政権が九州を征服したぽいのは
以下のことで明らかやろ
・5世紀成立の宋書倭国伝で「東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國」とあり、日本書記ではヤマト政権の東の人間を「毛人」と呼んでるからこれはヤマト政権ぽく、それが西と海北という九州と朝鮮半島を征服したみたいに言ってる
・5世紀成立の好太王碑で4世紀末に倭が新羅を征服したように書いてあるが、これは日本書記の神功皇后の新羅征服を指してるぽいので日本書記によると同時期には熊襲=九州を征服してるぽい
・5世紀九州の江田船山古墳と5世紀関東の稲荷山古墳で同じ大王の名前を刻んだ鉄剣が出土していて、その大王はヤマト政権ぽい
>>421 いろんな資料を繋ぎ合わせてるから矛盾がでてるだけだろ
そもそも侏儒国など無い
>>408 >>畿内に黥面土器があまりないなら
「男子はみんな黥面文身する」という感想を
畿内に行った中国使者が持つはずがない
>んなら北部九州が連座で失格だわ ばかだね
いや、北部九州には、在地の猿田彦系や、文身國の出雲系海岸漁撈の住民もいたから。
>>419 キウスって妄想ばかりしてるね
>Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
>A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
Aの中身は、黥面土器の分布から見て「黥面文身は九州の習俗で畿内には無い」は間違いって立証する話
>Qの回答になって無い事を指摘します。
Qの回答になってましたね
何も指摘できてない
>新しい指摘ゆえ私が間違っているなら素直に引っ込めます。
意地張らないで素直に引っ込めなさいね
>>410 九州説の場合、西暦3世紀の時点で、北部九州の邪馬壹國女王之所都を中心に、
その東方倭種や地方の市を監督支配する「大倭職が誕生していた。
だから大和の場合、西暦3世紀の時点で、九州倭國の別種分家の旧小国であった。
よって、九州説の場合でも、大和に九州の風俗が出てくるのは、まったく有りの話。
だって、その九州に首都がある王権は、」
少なくとも東海〜南関東付近まで支配していたようだから
近畿が中国と交易がなかったとは考え難いな
魏と交易があった30国って何処よ
>>413 文字使用痕跡のない大和王権が魏に使いを送ったりしてたんですか?
>>314 朝貢外交は、3世紀の大和王権では、やってなかったようだよ
>>444 使用した場所全てに痕跡が残る訳じゃないからな
>>391 倭人伝には、相攻撃状態が続いていることを説明したから
張政が詔書黄幢、檄を持って遣わされたと書いてある
改竄したらいかんな
>>436 >・5世紀成立の宋書倭国伝で「東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國」とあり、
日本書記ではヤマト政権の東の人間を「毛人」と呼んでるからこれはヤマト政権ぽく、
それが西と海北という九州と朝鮮半島を征服したみたいに言ってる
その宋書倭國伝の倭國王らは、(松野氏)姫氏系図の(東海姫氏國)の九州倭國王らであり、
「毛人」は、筑紫にも「猿田彦」らがいたから、列島在地の毛人蝦夷部族の事であり、
大和自体が九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」で出来た別種分家の「大倭」職の旧小国であったから、
バツ。
>・5世紀成立の好太王碑で4世紀末に倭が新羅を征服したように書いてあるが、
これは日本書記の神功皇后の新羅征服を指してるぽいので
日本書記によると同時期には熊襲=九州を征服してるぽい
神功は、仲哀亡き後、九州倭國の一部将として「渡平海北九十五國」の中の、
新羅戦にだけ参戦しただけであったから、ばつ。
>・5世紀九州の江田船山古墳と5世紀関東の稲荷山古墳で同じ大王の名前を刻んだ鉄剣が出土していて、
その大王はヤマト政権ぽい
江田船山古墳の鉄剣は、九州倭國の一部将としての鉄剣であり、
江田船山の鉄剣は、関東在地の「関東の幼大王を左治」したヲワケに与えられた鉄剣であっから、
いずれも「大和の雄略」とは全く関係がなく、バツ。
>>438 大和接は、記紀などのいろんな「半分偽書」を繋ぎ合わせてたり、
曲解捏造の嘘つき騙しをしているから、
矛盾がでてるだけだろ
そもそも侏儒国はあった。
>>450 天下を治めた大王が関東にいたなら
九州王朝が存在しないな
古田が自爆してるよ
>>443 >近畿が中国と交易がなかったとは考え難いな
九州倭國の「東征毛人五十五國」の別種分家の倭種の「大倭」職の旧小国であったから、
中国との直接的な交易は、殆どなかった事になるな。
>魏と交易があった30国って何処?
九州島付近。
>>451 内政問題の仲裁を外国に頼んでるんでしょ
これ当時の卑弥呼の評価ってどうなんだろと思うわ
>>453 >天下を治めた大王が関東にいたなら九州王朝が存在しないな
古田が自爆してるよ
この大和説男(おそらく東大理系博士号自称男)は、
またオレオレ詐欺のアホを晒して、自爆したな。
「関東の大王」は、当然「関東付近を治める大王」という意味であり、
九州倭國とか天下とかを治めるとかは言っていない。
>>455 >内政問題の仲裁を外国に頼んでるんでしょ
仲裁を頼んだとも倭人伝には書いてない
>>457 >「関東の大王」は、当然「関東付近を治める大王」という意味であり、
でも金石文にははっきり「天下を治める」って書いてあるんだから
古田説は破綻した
なむあみだぶつ
>>452 三、四尺の身長の人々が居たってか?
バカかおまえは
>>458 張政がわざわざ帯方郡太守に派遣されて、皇帝旗を持ってきたのはなぜ?w
>>460 少彦名命 で検索!
>>451 >>449 >助けを求めたとは倭人伝には書いてない
その通り、説明しただけだ。
その結果、下っ端の張君が確認ついでに応援旗と紙切れを持ってやってきただけ・・、
>>464 じゃあ何よ?
何しに来ようが張政の勝手だろって事か?
>>464 折角来たんだから、カッコつけて、ガンバッてねーくらい言うだろう。
>>466 倭国が相攻撃状態が続いていると説明したから
張政が詔書黄幢、檄を持って遣わされた
勝手に来たのではない
畿内説は学問じゃくてオレオレ詐欺w
詐欺が上手く行かなくなった途端、キレて罵詈雑言が始まるから、ますます上手く行かない下手なオレオレ詐欺w
>>469 潤色が多い書紀と一致させようとするから
倭国が中国の皇帝をだまくらかしたことにしなければならなくなる
>>468 黄幢(曹魏の皇帝旗)や檄(軍配)って戦争のために使うものだよね?
つまり誰かと戦争していたんだよ。誰かな?w
当時の人は金印貰って喜んでたのか疑問に思うわ
真面目な話し
>>470の罵倒がそれの典型だったりするので笑える
>>474 でも倭人伝には狗奴国と実際に戦争していたとは一言も書いてないんだよ
してると言った記録があるだけ
>>473 倭王からの親書(木簡)や、帯方郡の鉄を売ってもらうための発注書の封泥用だよ。
だから文字使用の痕跡のないどこかの遺跡は魏帝に朝貢した卑弥呼の王都ではありえないわけw
>>476 逆ギレだと決め付けてるだけで根拠無し
逆に
>>470が罵倒オンリーなのは現に存在してる証拠
ゆえに
>>476がみっともない逆ギレだと言うことがわかる
>>477 朝貢しているのに、そんな嘘偽りがバレたら、外交関係はどうなるの?w
だから帯方郡太守が張政を派遣し、台与に告諭したという記録が残ったんだよ。
だ か ら、畿内説は学問じゃなくてオレオレ詐欺なんて言われるんだよw
キウスが連敗した証拠はあるが
何か指摘した証拠がないのと同じだな
>>477 政権内の権力闘争じゃないのかな
だから中国の官位の序列で治めようとしたんでしょ
>>480 どうなるって、朝貢が結局終わりましたけど
>>477 戦争してないのにしてると倭国がホラをこいたと?
張政が倭国に確かめに来たわけでしょ?w
狗奴国との戦争が嘘偽りだったら、外交関係は?W
>>480 畿内説は学者の通説
倭国がホラをこきちらかしていたとか
自然斜面を墓とか言い張ってるのは学者の通説畿内説ではない
>>485 狗奴国と交戦中と報告したのに、張政が倭国に来てそれが嘘だとバレたら、帯方郡が管理する鉄を売ってくれなくなっちゃうね(そのために朝貢したのが水の泡)w
>>488
朝鮮半島の鉄器材料を採りに行っていたのは、「倭人(阿波勢力)」だけ。 @阿波 >>459 >>「関東の大王」は、当然「関東付近を治める大王」という意味であり、
>でも金石文にははっきり「天下を治める」って書いてあるんだから
古田説は破綻した なむあみだぶつ
それ、鉄剣に、
「(真ん中の粘土槨の幼い)大王「寺」が天下を治るを左治した」と書いてあるんであり、
そんな王が列島全体を治めた筈もなく、当然雄略でもなく、
東大理系博士号自称男がまた破綻した。なむあみだぶつ。
>>452 三、四尺の身長の人が見えなかったってか?
バカかおまえは
寺ってのは畿内においても一時は天王の御座所だったからな(・∀・)
寺で即位した天王もおるやろ
近畿では銅鐸作るのが忙しくて鉄なんか要らねえんだよ
>>493
採りに行っただけなのに、末裔ってかww なにを言い出すやらww @阿波 >>441 そう、じゃあ指摘を変えてみます。
ーーーーーーー
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である
倭人伝の鯨面の記述からで、魏の使いが見た纏向に居た男子の兵はみな岡山と愛知から来た人で
、邪馬台国の兵はいない事になる。
こらはおかしいと指摘しておきます。
>>485 原文を良く読め。其の6年には既に黄幢を難升米に拝假することが決まっていた。
ということは、すでに倭国内では、のちに更立つ男王の不穏な動きが有ったということだ。
依って其の8年の狗奴国は付け足しで、やれやれ南の狗奴国もちょっかいを出し始めております・・、という感じだな
其六年 詔賜 倭難升米黄幢 付郡假授
其八年 太守王頎到官)
(倭女王卑弥呼 與狗奴國男王卑弥弓呼 素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状・・・付け足し)
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢拝假難升米 為檄告喩之
卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
復立 卑弥呼宗女壹與 年十三為王 國中遂定
>>499 >倭人伝の鯨面の記述からで、魏の使いが見た纏向に居た男子の兵はみな岡山と愛知から来た人で
>、邪馬台国の兵はいない事になる。
>こらはおかしいと指摘しておきます。
それ、FAQ 24と関係ないから指摘にならないな
Qはこれ
>Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
ほら、無関係
>>500 女王國の紹介の後に境界の南(後漢書では東)の不屬女王の狗奴國が書かれているから
付け足しではない
台与が張政を送らせるときに白珠五千孔(真珠)を献上しているのが
伊勢湾沿岸が女王に従属した結果だろう
>>495 阿波爺ちゃん、九州説はこんな感じ
つ
>>205 阿波説の地図よろしこ!
502の補足
博多湾沿岸では、那珂八幡古墳が築造された博多湾中東部では東海のS字甕が出るが
UA、UB期(3世紀後半)に筑前型庄内甕、布留甕が搬入される外港の西新町ではS字甕は出ない
>>502 なんでも畿内に話を持っていくな。
九州だって真珠とれるぞ
>>502
大句珠も献上しているから、「阿波」も取り込むつもりか? 勘弁してくれよ。 @阿波 >>508 養殖だと長崎、天草だね。
昔は真珠は天然物しかなかったがアコヤガイは畿内以南はほぼ生息してたぞ
>>499 王都の兵が、畿内以外の愛知県や岡山県の人だと何故おかしいかさっぱりわからない
>>509 青大句珠は翡翠、碧玉だろう
阿波で採れるのは庭石
>>512
>青大句珠は翡翠、碧玉だろう
それを勾玉に加工できるのは、「倭人(阿波勢力)」だけ。
「阿波」も取り込むのは勘弁してくれよ。 @阿波 >>510 養殖は明治から
博多湾沿岸は長崎、天草と交流は無い
狗奴国王の乱では、副官に拘右智卑狗(こうちひこ)がいた。
武埴安彦命の乱では、彼の生母の実家の河内彦(かわちひこ)が動いていた。
武埴安彦命の領国の山城と河内彦の領国の河内から
大和を挟み撃ち。
>>516
「倭人(阿波勢力)」以外に加工していない。 @阿波 >>501 お馬鹿さん、
無関係なら、岡山県と愛知県なんで書く必要ないよ。
それこそ、お門違い。単純にQは畿内に鯨面の出土が無い事から畿内説の弱点をついているのだ。、(Q自体、スレ主がつくってるから変に横回しになってる。ズバリ鯨面の出土が無い からバツだろうで良い、)
また、<両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実である>と述べている。
つまり、魏使が見た男子は全て愛知、岡山の人となる。
論理的に破滅しているのがわからないよあですね。
>>518 侏儒国四国は女王国九州の支配を受けていたんだよ!当然でしょ
>>519 の続き、
纏向に居た愛知や岡山の人々は死ぬ時は故郷に帰って死んだのかとの疑義も生ずる。九章算術も理解できないから、論理的な思考はあなたはできないのですよ、
>>1奥山さんに質問しようか!
纏向に居た兵は刺青をしてたのか、してないのかいずれなんだ。男の子や管理職の人は?弟は?
山城国風土記逸文には、京都の宇治のあたりを許乃國(このくに)といったとある。
このあたりは、武埴安彦命の所領があった場所である。
狗奴国(このこく)の男王の卑弥弓呼(ひみここ)とは、武埴安彦命のことである。
>>519 >つまり、魏使が見た男子は全て愛知、岡山の人となる。
>論理的に破滅しているのがわからないよあですね。
これはキウス本人だな
頭の悪さでわかるよ
テンプレの主張は「畿内には黥面の人がいた」だから
キウス独自の主張「全員が黥面だ」を否定してもテンプレの否定にはならない
あなた、論理の基礎が分かってないね
>>522 キウスは九章算術を読んだこともないのだろ?
テンプレにクレームつけても無駄だよ
相変わらず何も指摘できてないじゃないか
身の程を知れよ
畿内説の現学者は始末が悪い、
大型建物を含む4棟が見つかりした。
ハイ卑弥呼の宮殿です。、、、はあー、
箸墓は径百歩です。
ハイ卑弥呼の墓です。、、、、はあー、
炭素年代で、三世紀と判明しました
ハイ邪馬台国の王都です。、、、はあー
勇足も度が過ぎる。
>>531 古墳時代の河内や大和は、九州倭王権の奥津城(王家の谷)と考えれば、「記紀伝承地」に一つも大王宮が出土しないのも納得いくね
>>526 あまりにも図星ついていて、ショックかw?
でも、これらは、ちゃんと文献に残っていることを元に
推測している。
ちなみに、倭の使者である難升米(なしみ)は、
崇神天皇時代の中臣氏の祖先である梨迹臣命(なしとみ・の・ みこと)。
邪馬台国九州説はない。
神武東征の真相は、西暦1世紀ぐらいにあった
畿内本国での内乱に、九州の知事を任された神武一族が援軍として
駆けつけた戦争に過ぎない。
邪馬台国九州説は宗教みたいなもん。
歴史道 Vol.18 (週刊朝日ムック) ムック – 2021/11/6
これを書店で立ち読みしたけど。
一応は、九州説についても取り上げていたけど
一番に念入りに取り上げたのは、纏向遺跡、箸墓古墳など。。。
邪馬台国=大和王権なのか?まで踏み込んだ内容だった。
>>514 だから畿内以南ならどこでも生息してたんだから海さえあれば採れただろ。なぜ伊勢湾にこだわる?
畿内説も九州説もどちらも諸説あるけど
畿内説の場合は、ほぼ纏向説が圧倒的に強く、
その場合、古事記・日本書紀などの日本側の史料と
魏略、正史三国志など中国側の史料の
両方と繋がる。
>>539 当たり前だよ
天武朝が中国の史料を収集した上、国家の総力を挙げて国の歴史を改竄したんだもの
>>529 指摘してるよ。
いつもの君のパターン
意味もなく、罵声、なぜ、理由、根拠、
論破済、、、、
理解できないだけでしょ^_^
二十四時間はりついてゴネゴネで押し通すのはいかがなものかねー
>>542 卑弥呼はモモソ媛ではない、100年ずれている。
年長大で夫はおらず(生涯独身でも寡婦でもいい)、
宮に出入りする一人のエロい男がおり、
モモソ媛の約100年前の女性と言えば一人しかいない。
その人の住んだ場所に径百余歩で隣に大量の奴婢埋葬痕跡がある塚がある。
>>537 そうか、週刊朝日ムックも纒向に未練があるんだな、
今までざんざ儲けさせてもらったからな、マスコミの沙汰も金次第。
>>541 >指摘してるよ。
>いつもの君のパターン
嘘ついてもダメだよ
何も指摘していない
その証拠に
1の書いた文のどこが間違いなのか、キウスは一言も言えないじゃないか
纏向物語 入れ墨編
卑弥呼「全員集合. 今日は魏使が来る日だ。刺青してる男子以外は姿を隠せ」
重鎮「岡山と愛知から来た人しかいないですよ。」
卑弥呼「仕方あるまい」
重鎮「わかりました。岡山と、愛知の方で兵役をさせよう。一部は官職ね。私たちは化粧で誤魔化します」
卑弥呼「兵は要所に邪馬台国の人間も化粧させて入れておくようにね!物騒だから」
重鎮「あっ!纏向まで来る時を忘れてませんか?もうバレてますよ!」
卑弥呼「私は王よ。道中は既に岡山の人に任せてあるよ」
重鎮「流石、女王。やるじゃん」
かくして、魏使は
「男子無大小 皆黥面文身」と報告したとさ。
>>538 天然の真珠の確率は1万個の貝から数粒なので
倭国が献上した5千個を得るためには500万〜5千万個の白玉ができる真珠貝が必要になる
「伊勢の海のあまのしわざのあこやだまとりての後も恋のしげけん」
伊勢の海がアコヤガイの生息地であったことがわかる
>>549
大句珠も献上しているから、「阿波」も取り込むつもりか? 勘弁してくれよ。 @阿波 >>550 そうだったな大阪本社。
で、つまりは朝日の記事も売上次第・・か、
>>553
古墳の石室や葺石も任せとけ! わははははは @阿波 >>555 そういう重たいのを運ぶのが阿波奴婢の仕事
纏向物語 陸行一月編
卑弥呼「全員集合。もうすぐ魏使が難波に着く。なんとしても纏向まで遠いと報告させなくては、、魏が裏切っても遠いと見せかけねば」
重鎮「無理ですよ、三日も有れば来ちゃいますよ」
卑弥呼「私は王よ。一月かかる事にしよう」
重鎮「無理、無理」
卑弥呼「難波に着いたら、接待漬けにさせて、一月とせよ、夜のお供も用意せよ」
重鎮「わかりました。しかしバレますよ」
卑弥呼「私は王よ。魏の使いは接待漬けは報告しない、女も、用意したし」
重鎮「流石、卑弥呼様。かしこまりました。しかし毎度は??」
卑弥呼「私は王よ。なんとかしないと殺す」
重鎮「かしこまりました。女王様」
かくして、魏の使いは陸行一月と報告したとさ。めでたし、めでたし
>>556
>そういう重たいのを運ぶのが阿波奴婢の仕事
重いものを運ぶ技術。 それを加工する技術。 また組み立て、積み上げる技術。 「倭人(阿波勢力)」しか出来ないがな。 わははははは @阿波 >>558 技術者が重労働や事故で死ぬと足りなくなるので
運んだり積み上げたりするのが阿波奴婢の仕事
>>558 だからどうなんだよ?阿波と邪馬台国は関係ないだろう?
>>559
「倭人(阿波勢力)」は、設計・施工監理技術者だ。 労働者はお前ら奈良盆地の土民。 励め! わははははは @阿波 >>560
>だからどうなんだよ?阿波と邪馬台国は関係ないだろう?
古墳に限らず、当時の最高先進文化を持つ「倭人(阿波勢力)」の本拠地「阿波」が「邪馬臺国」。 @阿波 >>561 はいはい、わかったから。
阿波と邪馬台国は関係ないから出てくんな。
>>562 >「阿波」が「邪馬臺国」
で、その後、阿波はどうなって行くのでしょうか?
>>564
白村江の戦で、まさかの大敗したので、8世紀に奈良大和へ避難遷都したんだよ。 とほほだ。 @阿波 >>565 え!?阿波の邪馬臺国は、大和朝廷に連なるのですか?
でも、その説は他スレでぶった切られてましたよ。
>>565 え!?阿波の邪馬臺国は、大和朝廷に連なるのですか?
でも、その説は他スレでぶった切られてましたよ。
九州説の現実逃避のトンデモには呆れる。
本居宣長はバカな説をぶちまけたせいで、日本の古代史は混乱状態だ。
>>567
目が悪いのか? いや、頭も悪いようだ。 わははははは @阿波 >>569 スレ頭から少し読みましたが根拠がないとか。
>>561 ど秘境の阿波は罪を犯した者が奴婢に落とされて流された土地
>>570 失礼な人ですね。ここですよ。あなたの書き込みもありましたよ。
阿波は捏造できる遺跡があってすごいとか。
http://2chb.net/r/history/1636860950/ >>572
>ど秘境の阿波は罪を犯した者が奴婢に落とされて流された土地
古墳を始め、当時の最高先進文化がを持つ「倭人(阿波勢力)」がいる土地だかな。 わははははは @阿波 >>574
>阿波は捏造できる遺跡があってすごいとか。
遺跡を捏造? そりゃまたすごいね。 どうやって遺跡を捏造するんだろうね。 わははははは @阿波 >>575 ここは邪馬台国スレなので倭人(阿波勢力)は関係ないですから他でどうぞ。
必要なのは、倭人(女王国勢力)だけです。
>>577
古墳に限らず、当時の最高先進文化を持つ「倭人(阿波勢力)」の本拠地「阿波」が「邪馬臺国」倭人(女王国勢力)。 @阿波 >>578 倭人(阿波勢力)=倭人(女王国勢力)ですか?
いや、それは無いですよ。
>>574のリンク先でズタボロにされてましたよ。
反論の余地なしって感じで。
>>579
だって、古墳に限らず、当時の最高先進文化を持つ「倭人(阿波勢力)」の本拠地「阿波」が「邪馬臺国」なんだから、どうしようもあるまい。 @阿波 >>579
そのリンク先、開店休業なんだよ。 どうなってんだろうね。 わははははは @阿波 ありゃりゃ、こっちも開店休業か? どうなってんだ? わははははは @阿波
>>583
へぇ〜、やっぱり「阿波」の影響力はさすがだな。 わははははは @阿波 「阿波は鉄器鍛冶王国」
阿波は、遺跡発掘が少ない発掘後進県にも関わらず、
阿波一国だけで現在、阿波各地10か所もの弥生時代鉄器鍛冶炉遺構が出土している。
「加茂東原遺跡」・「拝原東遺跡」・「光勝院寺内遺跡」・「矢野遺跡」・「名東遺跡」
・「庄、蔵元遺跡」・「高川原遺跡」・「鮎喰遺跡」・「加茂宮ノ前遺跡」・「芝遺跡」
このように阿波は、他地域に見られない最高・最新の文化水準を誇り、まさに「邪馬臺国」に相応しいと言える。 @阿波
纏向物語 東→南編
卑弥呼「全員集合。魏の使いが北部九州から東にむかったら邪馬台国の位置が分かってしまうな。攻められたときを想定してなんとかせねば、」
重鎮「王が九州に出向いたらどうですか」
卑弥呼「もう歳だ。そんな体力は無い。なんとかせねば、、、そうだ東を南にすれば良いのだ」
重鎮「そんなの無理」
卑弥呼「私は女王だぞ。北部九州から離れたら東は南になると思い込ませれば良い。来たこともないところだから信じるさ」
重鎮「そんなの、すぐバレますよ」
卑弥呼「直ちに九州と投馬国に使いを出し、九州から離れたら、東は南となると魏の使いに思い込ませろと伝達せよ。」
重鎮「うまくいくかなぁー」
卑弥呼「私を誰と心得る。王であり鬼道も使うのだぞ。大丈夫だ」
重鎮「さすが女王様。纏向についたら念の為、鬼道で東を南に思いこませるとはさすが」、、、
かくして、魏の使いは北部九州以東を南と報告したとさ めでたしめでたし
>>589 いつのこのお馬鹿な小話書いてるのって誰だ?
頭悪そうだな
>>443 魏志倭人伝の邪馬台国+傘下の国で30国
また宋書倭国伝の畿内ヤマト政権ぽい人の話によると
畿内ヤマト政権より西の倭国内に66国もあるから
30国は十分可能やろ
>>93 >>119 末盧国・伊都国・奴国・不弥国(玄界灘沿岸諸国)
邪馬台国女王之所都(筑紫平野)↓
狗奴国(菊池・熊本・八代)投馬国(宮崎平野)
熊襲〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓
東冶の東〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜邪馬台国(陳寿の嘘)
実は簡単なことだったんだよw
>>592 鎮守の嘘以外は賛成。
鎮守の勘違いor世界感、、、鎮守は倭国には行ってないから^_^
方位を間違える可能性と距離を間違える可能性のどちらが高いか。
もちろん距離である。
>>592 畿内説×も足してみたw
末盧国・伊都国・奴国・不弥国(玄界灘沿岸)→投馬国(出雲)→→邪馬台国(大和)狗奴国(東海)…「南⤴東」畿内説×
邪馬台国(筑紫平野)___↓「南水行二十日」(帯方郡→建業)
狗奴国(菊池・熊本・八代)投馬国(宮崎平野)
熊襲(薩摩)〜〜〜〜〜〜〜〜↓「南水行十日」(建業→東治)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓「南陸行一月」(東治→東冶580q)
東冶の東〜〜〜〜〜〜〜〜〜邪馬台国(陳寿の嘘)
>>592 >・・・東冶の東〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜邪馬台国(陳寿の嘘)
実は簡単なことだったんだよw
陳寿が「女王国に位置推定」として書いたのは、
「計其道里,當在會稽東冶之東」であり、「東冶」ではなく、
また「邪馬台国」ではなく「邪馬壹國」であるから、
この九州説者?は、バツ。
>>596 畿内説は「女王国東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国(四国)在其南 去女王(之所都)四千里」がどこにも比定できなくなる
よってオレオレ詐欺決定!w
>>595 我々は実に1740年もの間、陳寿の蛇足「不弥国→投馬国→邪馬台国ルート」に振り回され、
蛇足を安直に「南→東」90度捻じ曲げたオレオレ詐欺・畿内説の似非学問にも振り回されているのだね
なぜ、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだろうか。。。
>>599 箸墓を「卑弥呼の冢」×とするために、@九州北岸の不弥国の南に投馬国に向かう海がないこと、
A末盧→伊都→奴→不弥の里数行程が、実際には東南ではなく北東であることを奇貨として、
「南→東」を正当化したのである!
>>601 倭王武の上表文の西66カ国は、中華思想(東西南北)に基づいた文章表現上の架空の国々であると見て良いだろう
投馬国は、原文には、於投馬国と書かれていたのが
途中で誤植で、投馬国になった。
それで、於投馬国は、当時の漢字の音韻からみて
出雲国だと見たほうが正しい。
>>592 神武東征ルート(宮崎→大分→筑紫→安芸→吉備→難波→熊野→大和)が、なぜ天孫降臨の宮崎(投馬国五万戸)から出発しているのか?
投馬国(宮崎)の官・彌彌(ミミ)とは神武のことかもしれない…
あるいは、神武の高祖父(5代前)・アメノオシホミミ(スサノオとアマテラスの長男で、ニニギの父)では?
倭人伝と記紀の一致点ハッケソ!w
>>606 国の総数が同じなら、東西南北万遍なく割り振って書いた方が自分が中心にいるかのように読めるでしょう?w
>>599 箸墓を「卑弥呼の冢」とするために、某学閥は
@末盧→伊都→奴→不弥の神功皇后記の行程が、実際には東南ではなく北東であることを奇貨として、
「南→東」を正当化したのである!
Aところが、神功皇后が卑弥呼でないことが確定すると、同時に箸墓も卑弥呼の墓でないことになり、一夜にして破綻してしまったのである。
>>601 >66国はどんな国を想像してるんだ?
当然、「東征毛人五十五國」や「渡平海北九十五國」にはならない、
九州島付近の島々群の国々。
>>602 >(大和説者は)箸墓を「卑弥呼の冢」×とするために、
@九州北岸の不弥国の南に投馬国に向かう海がないこと、
A末盧→伊都→奴→不弥の里数行程が、実際には東南ではなく北東であることを奇貨として、
「南→東」を正当化したのである
「九州北岸の不弥国の南に投馬国に向かう海がないこと」を否定し、
「末盧→伊都→奴→不弥の里数行程が、実際には東南ではなく北東であること」を、
否定するんなら、
OK。
>>89 >>91 えっ!?「不弥国→投馬国→邪馬台国ルート(嘘)」って倭国内の水行日数じゃないの??
中国の読者に解り易くするために、中国大陸沿岸の水行日数で代替描写して「(女王之所都)その道里を計るにまさに会稽東冶の東にあるべし」って嘘を書いたわけ??
これじゃ投馬国の南(会稽東冶之東=嘘)と北(奴国2回書きで念押し=本当)の2箇所に邪馬台国・女王之所都があることになるよ!
道理で九州内にも本州にも、どこにも比定できないわけだ…むりやり日本地図に当てはめようと、九章算術や十倍報告習慣とか持ち出して引っ込みがつかなくなったヌレ主、奥山氏、狗古智卑狗(菊地彦)の熊本北部説を唱えざるをえなくなった宮崎康平さん、森村伊作が、気の毒すぎる… orz
>>611 これ書いてるの、キウスか?
頭わるそうだな
>>603 >倭王武の上表文の西66カ国は、
中華思想(東西南北)に基づいた文章表現上の架空の国々であると見て良いだろう
まあ、ないな。
倭王武が、その時に服属せしめていた「西66国」の国数を、
宋の皇帝に、嘘を付く必要がない。
この男も、おそらく、「倭王武の上表文」が自説にとっては都合が悪い、
オレオレ詐欺の大和説男。
そんな細々とした66カ国の中の30か国もの集落が魏と交易してたと言いたいのかな
倭の五王が九州にいて阿毎多利思比狐に繋がったのか、それとも筑紫邪馬台国を吸収して畿内に東遷していたのか?
>>616 倭の五王は大阪に埋まってるだろ、常識的に考えて
墓の存在を忘れてもらっちゃ困る
>>604 >投馬国は、原文には、於投馬国と書かれていたのが途中で誤植で、投馬国になった。
これもバツだな。他の国々の記載でも「於」の文字が見当たらないから、
「誤植」という判断がバツである。
>それで、於投馬国は、当時の漢字の音韻からみて出雲国だと見たほうが正しい。
そうか。この男は「投馬國=出雲」説であり、
(東大理系博士号自称男と同じく)オレオレ詐欺の大和説詐欺師であったのか。
>>603 そうだったら「東西南北全部の国の蛮族を倒したぞ!」でいいだろ
しかし南方面の国を倒したようには言ってない
畿内より南には国がないからだろう
また「東の毛人」「西の衆夷」とは言ってるが
海北=朝鮮に対しては蛮族呼ばわりしていない
ちゃんと縄文系の多い東日本・九州方面のみを
蛮族呼ばわりし、大陸人は文明人扱いしている
むしろ現実の畿内ヤマト政権周辺の情勢を
ちゃんと伝えている
>>615 おそらく誇張されていても千戸しかない
対馬を国扱いしてるんだからな
当時は集落=国程度のものなんだろう
>>617 倭王・阿毎多利思比狐(阿蘇山麓に愛妾600人)はどうなるの?
畿内には推古天皇が甥の厩皇子がいたんだよ。
九州に倭の五王が、畿内に仁徳朝が、二王朝並立していたとしても良いんジャマイカ?
>>621 >倭王・阿毎多利思比狐(阿蘇山麓に愛妾600人)はどうなるの?
冗談になる
今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石棺は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。
>>610 周回遅れ、、残念だがすでに論破されている。
過去レスを読めば
>>626 どうやって?
どれがあなたの投稿かわからない
・日本書記の年表
200年 神功皇后が新羅と熊襲を服従させた
306年 中国への行き方が分からなかったので
高句麗に教えてもらって行った
・海外史料の年表
399年 新羅が倭に征服された(好太王碑)
413年 高句麗と倭国が中国に貢物を献上した(晋書安帝紀)
つまり日本書記も完全にデタラメではないが
「物事を実際より昔のことにする」という誇張があるみたいだ
海外史料との比較では100-200年は古くされてる
とするとヤマト政権が熊襲=九州人を服従させたのも
新羅征服と同時期の4世紀末だろう
やはり畿内ヤマト政権は3世紀に
九州を征服してはいなかったらしい
仲哀の父・日本武尊の出雲・熊襲退治が史実としたら、ヤマト王権が九州王朝を征服したのは4世紀の中頃かな?
でもそうなると、また倭王・阿毎多利思比狐の問題にぶち当たって、堂々巡り。
その「ヤマト王権」なるものの実態が全く不明で単なるダミーに過ぎないと見る方が妥当な気がするよね
長髄彦とか物部守屋や東国との関係を考えても
>>629 そういう論の立て方すると、先に九州王朝の実在を証明しないと畿内説に対抗できないよ
>>123 九州本家・大和分家という説もあるが、欽明以前の大和は、九州本家の奥津城(王家の谷)だったのだろうか?
それとも明治政府の北海道(本州)開拓庁みたいなものも兼ねていたのだろうか?謎過ぎる...
>>123 天智太宰府(瓦葺き)vs板蓋宮ってそういうこと?!
九州本店と大和支店みたいな関係だったのかも
纏向は崇神の王都としてはありかもしれない。
記紀の伝承地にひとつも大王宮が出ないっていのはたしかに謎。
仁徳期、雄略期の倉庫、葛城襲津彦の高床式建物くらいで王都を感じさせない。
隋の煬帝に無礼な手紙を書いた倭王阿毎多利思比孤(阿蘇山麓に愛人600人)に関しては、隋が嘘を書く理由が全くないし、同時期に飛鳥にいた推古と厩皇子は何者だったのか?
では九州倭国と大和日本国の関係はどういうものだったのか?敵対はしていないようだから、協力関係にあったことはまちがいない。
そして旧唐書の記述から、九州倭国と大和王権が合併したのは唐代(618〜907)であったらしいことが伺える。
その間の大事件と言えば、もう白村江(663)敗戦後の天智東遷しか考えられない。
推古の難波大道とか飛鳥板蓋宮とか、聖徳太子の四天王寺、法隆寺、孝徳の難波宮とか、斉明の「狂心の渠(大運河)」とか大公共工事をしていたから、新しい首都を創ろうとしてのかもしれない。
彼らは欽明の大和分家で、九州本家・阿毎多利思比孤(冠位十二階)の命令であったのかもしれない。
新しくできた首都大和を隋の煬帝の勅使・裴世清に見せつけるためにw
ありもなにも
そこにあるもんだからな
おまえらの妄想でありが決まるもんじゃねえし
>>637
みんな、妄想だけは達者だな。 一切、裏付け根拠は無いがww わははははは @阿波 >>636 そういえば、古墳時代の大王宮が記紀が伝承してる場所にひとつも出ないって、いくらなんでも変だね!
>>637 九州倭王権の継体が大和に新しい首都を造ろうとして、三男欽明を大和飛鳥に派遣したって斬新すぎる発想!!
だとすると、阿毎多利思比孤は継体の長男安閑か次男宣化の子だろうね。
「日出処天子」阿毎多利思比孤は記紀からキレイサッパリ抹消されて、冠位十二階は厩皇子に合成され、大倭を和を以て貴しとなして、大和に変えたと!
全部ピッタリやん!w
九州説がそこまで馬鹿なこと言っててくれると畿内説としちゃ居心地が良いな
>>637 >推古の難波大道とか飛鳥板蓋宮とか、聖徳太子の四天王寺、法隆寺、孝徳の難波宮とか、斉明の「狂心の渠(大運河)」とか大公共工事をしていたから、新しい首都を創ろうとしてのかもしれない。
そういうことかっ!!斬新な発想!
>>621 倭の五王九州王朝と仁徳ヤマト王権の二朝並立説で思い出したのが百済本紀531年
>>640 「日本の天皇、皇太子(長男)、皇子(次男)3人とも薨去」の記述。
これが九州倭王権の継体と安閑・宣化だとすると、阿毎多利思比孤は安閑か宣化どちらかの遺児で、幼くして倭王に即位した可能性があるな
>>605 >神武東征ルート(宮崎→大分→筑紫→安芸→吉備→難波→熊野→大和)が、
なぜ天孫降臨の宮崎(投馬国五万戸)から出発しているのか?・・・
まず「天孫降臨の宮崎」は、
「阿毎氏の大和政権内の伝承」に対する「8世紀の記紀の編者ら」の曲解内容であった。
阿毎氏の天照らの孫のニニギは、能古島から姪浜付近に上陸して、
日向峠の南の「クシフル」に天孫降臨したもの。
「宮崎」は、海彦山彦らが、「西服衆夷六十六國」した中の一つ。
但し、その年次に関しては、神武が「及年四十五歳」において、
「自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘歳」としている。
そして、他の紀年記載では「其年冬十月丁巳朔辛酉。天皇親帥諸皇子舟師東征」などのように、
(歳ではなく)「年」を使っている。
これは、辞書などでの、「歳」は「年」と同じである、という説明とは矛盾しており、
書紀は、(古事記の「日子穗穗手見命者坐高千穗宮伍佰捌拾歲」でも同じであるが)
「歳」と「年」とを使い分けていた、という事である。
そして「一百七十九萬二千四百七十餘歳」や「伍佰捌拾歲」という非常に長い「歳」記録に関しても、
(「年」にも一倍年歴と二倍年歴があったように)「歳」の数え方を再検討する必要がある、
という事である。
>>606 >旧事本紀の国造本紀の国数の
倭王武の上奏文の国数は殆ど同じ
ふーん。
「おい、大王の名前聞かれてるぞ。どうすんだ」
「恐れ多くて口にできないだろ。」
「適当にごまかしとけよ!」
「あ、あの、天下日子です。」
これが真相。
>>608 >箸墓を「卑弥呼の冢」とするために、某学閥は
@末盧→伊都→奴→不弥の神功皇后記の行程が、実際には東南ではなく北東であることを奇貨として、
「南→東」を正当化したのである!
Aところが、神功皇后が卑弥呼でないことが確定すると、同時に箸墓も卑弥呼の墓でないことになり、一夜にして破綻してしまったのである
ふーん。
>>632 お前だけだよわからないのは、知的障害者か、
>>643 まず中国側が嘘を書く理由がないから、絶対的な定点として
−3世紀中頃の筑紫邪馬台国
「其南有狗奴国・狗古智比狗(菊池郡)」「女王国渡海千里複有国(本州)又有侏儒国(四国)在其南」
−7世紀初頭、阿蘇山麓に愛妾600人の邪靡堆「倭王阿毎多利思比孤」があるから、
その間の5世紀「倭の五王」は(少なくとも生前)北部九州を都としていただろうことが判明。
興味深いのが倭の五王「讃」の父と思しき「禰(でい)」応神天皇の宇佐八幡宮で、ここが彼の生前の王宮だったのではないか?
>>651 そういう説を言っている限り畿内説は安泰でありがたいな
>>651 河内の巨大古墳は、北部九州にいた倭の五王の奥津城(王家の谷)だったってことだね(納得)!
エジプトみたいだねw
>>616 >倭の五王が九州にいて阿毎多利思比狐に繋がったのか、
それとも筑紫邪馬台国を吸収して畿内に東遷していたのか
松野氏姫氏系図や、二中歴の年代歴によれば、
倭の五王の倭王武の次の最後の(東海姫氏國の)倭國王哲の時(517年頃)に、
九州倭國では(大和王権と同じ阿毎氏の)磐井に政権が変わり、それを奇禍として、
同じ阿毎氏の(九州倭國の別種の旧小国であった)大和王権が、535年頃に反乱を起こして磐井を倒して、
(書紀に拠れば)糟屋の屯倉や那の津の領地や執政や太宰職を得たようであり、
しかし、九州倭國自体はその後タリシホコが出て天子を称したりしたが、サチヤマの時に白村江で大敗して、
(既に欽明や用明の時に中国に倭國からの独立をして日本國を名乗ろうとした)大和日本國が、
唐の武徳中になって「日本國」号を承認され、
白村江の後の701年の「大宝元年の建元」で、九州倭國を併合吸収継承して、
西日本の盟主になった。
>>654 >松野氏姫氏系図や、二中歴の年代歴によれば、
そんな物とかツガルとか怪しいテキスト使っている限り
九州説は永遠に日陰者だよ
>>634 瓦葺が本店?
磚+瓦は中国の建築
日本は木造茅葺→檜皮葺、板葺
飛鳥寺は瓦葺
今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石棺は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。
>>617 >倭の五王は大阪に埋まってるだろ、常識的に考えて
墓の存在を忘れてもらっちゃ困る
九州倭國では、(聖徳太子伝暦に拠れば)、
317年頃に(糸島半島付近から)「こうやの宮」や久留米付近に遷宮し、
倭の五王らは、久留米付近に都し、阿毎氏の磐井やタリシホコも継続したが、
タリシホコは617年頃に太宰府の地に遷都して、九州倭國は白村江で大敗したのだから、
「大阪」には彼らの墓がある、という根拠はない。
なんで天下分け目の合戦みたいのを想像するかね
例えば九州が北と南で争っててどちらかに援軍を送ったとかそんなんでしょ
熊襲ってのは球磨川から大隅の於曽地方まで大和朝廷に従わなかった連中らのいたとこやぞ
球磨於曽から熊襲
>>628 >・日本書記の年表
200年 神功皇后が新羅と熊襲を服従させた
306年 中国への行き方が分からなかったので 高句麗に教えてもらって行った
・海外史料の年表
399年 新羅が倭に征服された(好太王碑)
413年 高句麗と倭国が中国に貢物を献上した(晋書安帝紀)
フーン、成程。
ヤマトタケルの時代に九州、出雲、関東まで戦線を広げこのときが各地の国造設置の時期と重なる
応神天皇の祖父がヤマトタケル
出雲や熊襲では建(たける)号を王号としていたからこれはそのまま出雲タケル(王)熊襲タケル(王)ってのと同じ
両者同じ王号を使用していらから同じ勢力かもな
>>658
九州の鉄器は、鉄器王国「阿波」からの下賜品。 @阿波 >>631 >そういう論の立て方すると、先に九州王朝の実在を証明しないと畿内説に対抗できないよ
個々の史料事実や、それの信頼性や確率の史料批判に拠った論の立て方をしないと、
大和説者らは、九州王朝説に対抗できないよ
近畿でも九州でもそこが主体となって討伐に向かうってのが考え難いんだよな
近畿から九州の辺境の地に行くか?
逆はもっとあり得んし
671
その九州王朝説ってのが単なる説で証拠ないんだけどな
>>634 >天智太宰府(瓦葺き)vs板蓋宮ってそういうこと?!
九州本店と大和支店みたいな関係だったのかも
ふーん、成程。
>>636 巨大前方後円墳があるのに、古墳時代の大王宮が「記紀の伝承地」どころか、畿内にひとつも出土しない問題はどうなるんだ?
>>671 >個々の史料事実や、それの信頼性や確率の史料批判に拠った論の立て方をしないと、
>大和説者らは、九州王朝説に対抗できないよ
立てているから問題なし
紀元前から九州北部におり海の航海などで活躍した一族もいた
それが安曇野氏
安曇野氏関連の伝承がほとんど九州北部の伝承だ
>>651 >>676 邪馬台国は筑紫で間違いないとして、河内の巨大古墳に眠っているのだろう「倭の五王」は生前本当に河内にいたのか?
1つでも記紀伝承地に大王宮が出れば、みんな納得できるのだが、それも行宮(御用邸)の可能性も否定できない。
>>682 墳丘の上で即位式!今城塚古墳の埴輪で再現されているような
橿原市の神武天皇稜ということになっている誰かわからない貴族の墓の森の
すぐ北側で2400年前の水田跡がみつかった
邪馬台国はあきらめたけど邪馬台国の前身だったということにしたい
橿原市の考古学研究所が面白いこと言い出しそうでwktk
発掘調査で弥生時代の水田跡やひつぎなど発見 奈良 橿原
https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20211115/2000053855.html 橿原考古学研究所は、ことし6月から橿原市四条町で
県立医科大学の新たなキャンパスの建設に先立って発掘調査をしています。
その結果、東西25メートル南北20メートルの範囲で、
いまからおよそ2400年以上前の弥生時代前期のものとみられる
水田の跡とそこで作業をしていたとみられる人びとの足跡が数百個見つかりました。
また、水田跡から北西に300メートルほど離れた場所では、
同じ時期のものとみられる土器のひつぎが2つ見つかりました。
ひつぎは大きいもので高さ70センチ、幅80センチほどの大きさで
子どもが埋葬された可能性があるということです。
これまでの発掘調査で、周辺からは集落を囲う環濠とみられる溝なども見つかっていて、
研究所は稲作をしながら人々が暮らしていた集落があった可能性が高いとみています。
>>684
水田跡といっても、大洪水の土砂で埋まった、惨憺たる有様だ。 @阿波 >>636 …かもしれない、なんて、止めましょう。
史料事実や、
それからの「史料批判や高確率的な推論」という史料実態に拠っての、
帰納的確率的な推論をしましょう。
>>641 「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しなどのような、
大和説がそこまで馬鹿なこと言っててくれると、
九州説としちゃ居心地が良いなあ。
反日有害朝鮮人の九州倭王朝というのは、
朝鮮の部族の将軍が筑紫から東征してヤマト王権を創設したという朝鮮起源工作活動
>>684 >邪馬台国はあきらめたけど邪馬台国の前身だったということにしたい
>橿原市の考古学研究所が面白いこと言い出しそうでwktk
橿考研はそれが仕事ですからw
橿考研や纏向学研究センターは、纏向大型建物を邪馬台国「女王之所都(宮室楼観城柵厳設)」、箸墓を「卑弥呼の冢」と喧伝し国民を上手く洗脳するための組織であり、研究員であるから
>>690 橿原市洗脳考古学研究所、桜井市纏向学洗脳研究センター、と改名すべきだなw
>>691 上手い!
畿内説は「洗脳考古学」。発掘成果をいかに邪馬台国・女王卑弥呼に結び付けるかが学者・研究員の腕の見せ所w
>>693 あんたも洗ったら?
だいぶ汚れてる様だよ
>>651 邪馬台国は筑紫で確定として、
>>679 半島から馬が入ってくる5世紀の「倭の五王」は、九州と大和を行ったり来たりしてたのかな?
>>696 たとえ吉野ヶ里(背振山南麓)でなくても、甘木朝倉(英彦山西麓)や、曹操高陵の同型鉄鏡が出た日田(英彦山南麓)であったとしても、卑弥呼の時代の筑紫平野には、吉野ヶ里遺跡(画像検索!)みたいなピリピリムードの環濠拠点集落(国邑)が南北の舌状台地に点在していたわけで、それが魏志倭人伝の記述にピリピリした記述にピッタリということは、もう筑紫平野のどこかで決まりということだよ
そもそも「其東有狗奴国(伊勢尾張)」国境に戦乱の痕跡がほとんどない大和纏向の大型建物に楼観はないし、城柵じゃなくて猪よけの板塀でしょ?出入口も吉野ヶ里みたいに鉤の字に曲がってないし、門からそのまま出入りできちゃう、平和そのものまったりムード
>>698 物証や文献は文句なしに九州。
畿内説や阿波、出雲説等は記紀頼み。
>>699 そんなこと言ってるうちは畿内説圧勝が揺るがない
吉野ヶ里遺跡と纏向大型建物の写真を比較して欲しいんだけど、城柵なら中から外に弓矢を射掛けることができる。しかし板塀ではムリポw
九州には邪馬台国にふさわしい3世紀半ばの遺跡がない
吉野ヶ里
弥生時代
紀元前4世紀頃には、吉野ヶ里丘陵の中に集落が形成され始め、これが大規模な集落へと発展することになる。
前期には、吉野ヶ里丘陵のところどころに分散して「ムラ」ができ始める。また、南のほうの集落に環濠が出現する。
中期には、吉野ヶ里の丘陵地帯を一周する環濠が出現する。集落が発展していくとともに、防御が厳重になっている。また、墳丘墓や甕棺が多く見られるようになる。大きな墳丘墓になると南北約46メートル、東西約27メートルの長方形に近い墳丘で、高さは4.5メートル以上あったと推定されている。頂上から墓壙を掘って14基以上の甕棺を埋葬しているものもあり、本州の他の地域でも見当たらない。
『後期には、環壕がさらに拡大し、二重になるとともに、建物が巨大化し、3世紀ごろには集落は最盛期を迎える』北内郭と南内郭の2つの内郭ができ、文化の発展が見られる。甕棺の数などから推測しておよそ1,200人、吉野ヶ里を中心とするクニ全体では5,400人くらいの人々が住んでいたと推測される。
海岸線は次第に遠ざかり、この時代には神埼市千代田町や佐賀市諸富町付近にあった。筑後川の河口もまたその付近に移ったと推定され、遺構からは港のようなものがあったと推定されている。[2]吉野ヶ里丘陵は東西両岸を流れる城原川と田手川を通して、この港と交流を持ったと考えられている。
吉野ヶ里墳丘墓のルーツは、朝鮮半島を経由せずに、中国江南もしくは山東半島から北部九州に直接伝わったとする研究がある。
>>173 「以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、伝辞出入。居處、宮室、楼観、城柵、厳設、常有人持兵守衞」
現代語訳
「奴婢千人が仕え、ただ一人の男子が給仕や連絡のために出入りしている。
女王が居る所は、宮室(の周囲)に楼観や城柵が厳重に設けられ、兵器を持った人が常時守衛に当たっている」
まだ断定はできませんが、とりあえず吉野ヶ里遺跡(推定人口5,500人)はピッタリあてはまります。
古畑任三郎でしたw
伊都国は伊都国、奴国は奴国なので邪馬台国ではない
この辺りの3世紀半ばの遺跡はあるけど
伊都国や奴国が邪馬台国だというのは却下ね
吉野ヶ里には生活感がない
北側の甕棺は3世紀半ばではなくもっと古く
防衛のための環濠集落として再開発して兵士を派遣したんだろう
兵士は任期を終えると奴国とかに帰ってそこで生を終えたと終えたと思われる
吉野ヶ里で3世紀半ばの墓が見つかっていないので戦いもなかったかもしれない
吉野ヶ里を含めた背ふり山地南側に東西に横に並ぶ環濠集落群は
最終防衛ラインで菊池川が最前線だろう
佐賀市教育委員会は、大和町川上の七ヶ瀬遺跡で弥生時代後期(1〜2世紀)の集団墓地251基が見つかり、中国製の青銅鏡4面が出土したと発表した。
うち1面は鉄刀、勾玉と共に埋葬されており、「三種の神器」がセットで出土したのは佐賀県内では初めて。佐賀平野の中央部から西部にかけて有力な首長が存在したとみている。
鏡4面が一度に見つかったのは、二塚山遺跡(神埼郡吉野ヶ里町、三養基郡上峰町)と同数で、佐賀県内最多となった。
鏡は前漢製と後漢製で直径9.5p〜17p。いずれも意図的に割られた状態だった。同じデザインの鏡は佐賀県内の他の遺跡からも見つかっている。
蛇や亀をあしらった後漢鏡「流雲文縁方格規矩禽獣鏡」(直径14cm)は木棺墓の近くから出土した。
素環頭鉄刀、鉄製短剣、翡翠の勾玉も見つかり、副葬品の充実ぶりから集落内で最も地位が高い首長の墓と見られるという。
県立佐賀コロニー跡地の工業団地造成工事を進める中で遺構が見つかり、2019年9月〜2021年3月に発掘調査を実施した。
弥生後期としては大規模な墓群で、墓域は長さ61m×幅25m。墓道を軸に、甕棺、石棺墓など251基が並んでいることが確認されており、さらに広がる可能性もあるという。
佐賀女子短大・名誉教授の高島忠平さん(81)は「1〜2世紀のクニの王権を示す発見。吉野ケ里遺跡の西に隣接して“佐賀のクニ”が姿を現した点も興味深い」と話し、邪馬台国が3世紀に束ねた30のクニの一つである可能性があるとみる。
>>702 突然に三世紀に出現した纏向なんて屁
集落や、都市は一過性では無い。
末盧国(唐津)からの方角里数に照らして見れば、
筑紫平野の佐賀郡・彌根郡一帯に下記のトライアングルがピタリ当てはまる、
・佐賀市大和町の川上に伊都国、
・其の東南100里の佐賀市市街地に奴国、
・同じく東100里の吉野ヶ里/目達原に不彌国
筑紫平野の主な環濠集落
http://29.pro.tok2.com/~kyokutan/public/next/b04chikushi_kangou/b04chikushi_kangou.html
http://29.pro.tok2.com/~kyokutan/public/next/b04chikushi_kangou/photo/kangou_bunpu.jpg
吉野ヶ里はこれら環濠集落のひとつでしかない
この15ヶ所の配置から考えると伊都国や奴国を守っているようにみえるし
この防衛ラインより南に邪馬台国があるわけがない
卑弥呼の邪馬台国と争った国が熊本に 九州説に新解釈
https://special.sankei.com/a/life/article/20190902/0001.html 魏志倭人伝によると、狗奴国は女王・卑弥呼が君臨した国々の南に位置し、
卑弥呼とは抗争状態にあったとされる。
考古学者らはその勢力圏の中心が熊本県内にあったとし、
狗奴国の位置から卑弥呼の邪馬台国は福岡県域にあったと主張している。
免田式土器の分布イメージ図。
熊本南部や鹿児島に伊都国に属さない国があって
それが狗奴国の可能性がある
吉野ヶ里は筑後川を挟んでいるとはいえ狗古智卑狗(菊池郡)から丸見えだから、甘木朝倉か、日田だね。曹操高陵と同じ鉄鏡が出ちゃってるんだから。
女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、
その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。
次に斯馬国有り。次に巳百支国有り。次に伊邪国有り。次都支国有り。
次に弥奴国有り。次に好古都国有り。次に不呼国有り。次に姐奴国有り。
次に対蘇国有り。次に蘇奴国有り。次に呼邑国有り。次に華奴蘇奴国有り。
次に鬼国有り。次に為吾国有り。次に鬼奴国有り。次に邪馬国有り。
次に躬臣国有り。次に巴利国有り。次に支惟国有り。次に烏奴国有り。
次に奴國有り。ここは女王の境界尽きる所。その南、狗奴国有り。
この魏志倭人伝の記述から
奴国の南の方には邪馬台国に属する国々と邪馬台国がある
と同時に奴国の南には狗奴国もある
ここの魏志倭人伝の記述の矛盾点から方角を間違えた可能性ね
>>711 サンクス!もう狗奴国=熊本、邪馬台国=筑紫で決まりだね。
このスレ見てて、一時期夢中になった畿内説から再び九州説に乗り換えますた!
もう2度とオレオレ詐欺には引っ掛からないぞ!w
菊池川の方保田東原遺跡は菊池川と支流の方保田の合流地点にあって
東側に溝があったかもで川を利用した環濠集落の可能性がある
菊池川を防衛に利用していたとなると敵は南側にいたということになり
そこには免田式土器の国があった
>>695 >邪馬台国は筑紫で確定として、
半島から馬が入ってくる5世紀の「倭の五王」は、九州と大和を行ったり来たりしてたのかな?
5世紀の姫氏の倭の五王は、殆ど九州倭國にいて、
中国の南朝の宋との国交と、半島での「渡平海北九十五國」に目が向いており、
「東征毛人五十五國」は、伊都国系の阿毎氏らの東征が中心で、
その中に大和の阿毎氏らは、時々「渡平海北九十五國」にも応援していた、
という事なんでしょうね。
>>712 明帝(曹操の孫)から卑弥呼に、特別の寵愛の証として貰ったんだろうね
>>700 「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言で、
国民やマスコミを誤魔化そうとしても、
そんなこと言ってるうちは、九州説圧勝が揺るがない
>>702 「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國(≒女王国)は九州」などの
史料事実や史料実態に拠って、大和説はバツであるし、
大和には、邪馬壹國女王之所都にふさわしい3世紀半ばの遺跡もない
海北95、征西66、征東55 と言う記述からも倭国は中華帝国の極南界(南端)にある国だ自認していたことが伺える。
阿波爺は出てくんな!w
阿波爺のコメント予想
海北(半島南部)95、征西(九州)66、征東(本州)55、思わぬ方向からまた裏付けられてしまったなw @阿波
>>705 >・・・吉野ヶ里で3世紀半ばの墓が見つかっていないので戦いもなかったかもしれない・・・
吉野ケ里には、前方後方墳や前方後円墳もあった筈であり、
それらはいずれも「卑弥呼の冢」にはならず、「殉葬奴婢百余人」にもならず、
玉と鏡の女王である壹與の「天円地方」墓にもならず、その後であり、
那珂八幡などと同じように3世紀後半の半ば(過ぎ?)頃でしょう。
>>722 四国にとっての海北は本州だから阿波説は泡と消える
>>711 この時代は、たくさんの漢民族系の渡来人が押し寄せてきた時代で、
南隣の狗奴国小乱以前には、倭100国の大乱が有って倭国中が相争った。
また、狗奴国の小乱以後は、倭国内で男王が更立って倭30国を巻き込む大騒動に発展し、当時千人が死んだ。
当然国境も揺さぶられて東西南北に移動し、民も逃げ惑って大移動したことだろう。
ちっぽけな一つの隣国であった狗奴国のちょっかいを根拠に、三世紀中葉を占うことはできない。
軽率の至り、倭人伝を良く読め!
>>720 >大和には、邪馬壹國女王之所都にふさわしい3世紀半ばの遺跡もない
なんか狂ってない?
>>723 そもそも吉野ヶ里は、水に乏しい丘陵地にあるので、戦争に備えた軍事都市だったのだろう。。
民衆の生活の地は丘陵下の水田・畑地帯だ。
彌生から古墳時代以降まで、延々と営みが有った。丘陵上の軍事施設だけで、判断してはいけない。
>>715 免田式土器の分布を根拠にしているが、
そもそも其の編年が出来ておらず、論拠がてんであいまい。
これを根拠にするのであれば、全ての免田式が三世紀前半であったことの証明が必要だ。
>>707 >佐賀女子短大・名誉教授の高島忠平さん(81)は
「1〜2世紀のクニの王権を示す発見。
吉野ケ里遺跡の西に隣接して“佐賀のクニ”が姿を現した点も興味深い」
と話し、邪馬台国が3世紀に束ねた30のクニの一つである可能性があるとみる
成程。高島さんは、割合控え目であり、
ここの佐賀説者や大和説者らに比べて、かなりマトモですねえ。
>>708 >末盧国(唐津)からの方角里数に照らして見れば、
筑紫平野の佐賀郡・彌根郡一帯に下記のトライアングルがピタリ当てはまる
魏使らは、出来るだけ川沿い獣道や山越え峠越えは避けるものであり、
「東南」は、人類や中国人の常識に拠って、「出発時点での出発方向」説明であり、
「皆臨津搜露」の伊都国は、「前原〜糸島水道」付近の比定がベスト。
>>729 >「吉野ケ里遺跡の西に隣接して“佐賀のクニ”が姿を現した点も興味深い」
つまり、東の吉野ヶ里遺跡と西の川上・七が瀬遺跡のセットを“佐賀のクニ”と言ったわけだが、
その間は約10q(約140里)で、
倭人伝の伊都国と不彌国に相当する。しかも川上・七が瀬は唐津の東南500里に当たる。
ま、学者としては、まだ発掘が始まったばかりで、先走ったことは言えないだろう。
>>722
>海北(半島南部)95、征西(九州)66、征東(本州)55、思わぬ方向からまた裏付けられてしまったなw
海北は、中国・山陰・北陸地方だ。 朝鮮半島南部をどこに含めるか迷うところではある。 @阿波 >>734
阿波と讃岐だね。 もっとも、当時は讃岐も「阿波」の領域なんだが。 @阿波 >>205 九州説は、こんな感じかな?
誰かimgrにアップしたげて
長江中流域を起源とする環濠集落は国が誕生する前の稲作開始期の拠点集落形態
近畿地方で発達し、後期には西日本各地で解体される
吉野ヶ里のような空環壕は南モンゴルの雑穀畑作地域が起源
大規模環濠集落のような複合型集落では
近隣から伐採した原木の製材から加工まで集落内で一貫して行う
解体される後期になると遠方の針葉樹が遠方の集落で製材され
集落内では加工だけをするようになる
土器は遠方の技術が使われるようになり地域差がなくなる
>>739 「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國(≒女王國)は九州」などの、
史料事実や、それからの帰納的高確率的な推論の史料実態を否定し、
学問拒絶の大和説学者らの作り話
>>742 竹島は韓国に統治権があると言い張っている反日有害工作活動員
古い時代の大規模環濠集落は近畿にもあるのよ
ただそれらは弥生時代後期には衰退して規模が小さくなる
これは全国的な傾向で天変地異とかで養えなくなったんでしょ
>>715、
>>728 そもそも「土器の分布が国の勢力範囲と一致する」
という見解が間違ってると思う
秀吉の朝鮮攻めで捕まった陶工が
日本で朝鮮風の陶磁器を作ったら
日本は朝鮮の属国になるのか?
卑弥呼はアマテルを手に入れた鹿使いの赤神一派で卑弥弓呼は龍の黒神一派?
>>747 往生際の悪い九州説は二度と学問に戻れないな
朝鮮人陶工を連れてきたのは肥前
秀吉の居城は伏見城
阿蘇山麓に愛妾なんて書いてたの?それぞれ独立した記事ではないの?
江戸時代のアイヌも和人から得た
漆器・鉄器などを珍重していたという
だがそれでもアイヌは和人の属国ではなかった
外国の珍しい器を有り難がる気持ちは
どこでもあるし、だからこそ土器の分布だけでは
せいぜい交易の証拠くらいにしかならん
そして日本史でも大体、器の分布は
交易の証拠程度にしか扱われていないはずだが
なぜか畿内説では弥生時代・古墳時代に限って
支配の証拠と見なす
>>754 筑前型庄内甕は在地の土器制作者による大和型庄内甕の模倣制作
支配体制ではなくて首長間の相互利益ネットワーク
>>755 オメも横着なネラーだな
コメを辿れば、すぐ上の方に出てくる
>>715 だろ、
どうせヤスの子分の大研究・筑前の其のまた子分のパシリあたりだろうけどな。
>>740 「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國(≒女王国)は九州」や「畿内」などの
史料事実や史料実態の曲解否定の嘘吐き騙しの大和説学者らは、
学問的な正義無視のエセ学者ら。
>>710 >急に熊本北部説が足を引っ張りだした九州説w
候補地がいっぱいある事は良い事です。それだけ、弥生期に隆盛を極めた地が九州と言う事でしょう。
>>715 土器の分布と言ったって、
窯元が100年続けば100年作られる。200年続けば200年作られて拡散する。
今、唐津物は全国レベルで流通しているだろう。今、全国が唐津藩の支配下にあるのか? 考えてもみろ!
>>749 往生際の悪い大和説学者らは、二度とまともな人間に戻れず、
また極右ヤクザ暴力団のように、皇国史観人種差別殺戮戦争を引き起こして、
国民の大半を殺してしまう?事になるんだろうな。
>>757 >どうせヤスの子分の大研究・筑前の其のまた子分のパシリあたりだろうけどな。
んじゃ
>>754の
>なぜか畿内説では弥生時代・古墳時代に限って
>支配の証拠と見なす
はデマでいいんだね?
>>762 >テンプレの
>>9くらいで
テンプレのどこに
>支配の証拠と見なす
って要素がある?
また脳キウスの捏造か
>>756 3世紀末の大和型庄内甕は、
九州倭國の東征で出来た「市」の「大倭」職者らによる3世紀前半の筑紫型庄内甕の模倣制作
直接的支配体制ではなくて、首長間の間接的支配の相互利益の「市」ネットワーク
>>760 土師器の窯元が100年続くとか
ほんと、九州説は基本的事項の無知から出来てるね
明らかに高校卒業程度の学力がない
>>763 >>754の
>なぜか畿内説では弥生時代・古墳時代に限って
>支配の証拠と見なす
はデマでいいんだね?
オメは、文章の主人公が誰か、読み取れねえんだな。小学生以下は出入りお断りだ。
>>766 いま話題は、免田式土器だ。
で、免田式土器の窯元はいくつあって、それぞれ何十年/何百年続いたのか?
根拠を示してくれ。
>>768 野焼きの免田式に窯元は無いので0年
証明終わり
>>767 論破されるとん推しって誤魔化すから馬鹿ってするわかるね
>>764 「器の分布が支配の証拠」という前提がないなら
なんで
>>9は畿内系土器が北九州に流入しただけで、
「邪馬台国九州説にとって絶望的である」という結論になるのか?
またなぜ在来系土器が多い糸島地域を
「政治的独立を保証されているようにさえ映る」とするのか?
どっちも器の分布が支配の証拠と見なしてるだろ
北九州→安曇一族、海部氏はこの部下
南九州→熊襲建
卑弥呼の話は安曇一族の話かね?
日本の水軍編成にそのあと組み込まれるでよ
>>769 ほう、免田式は野焼きか
んじゃ、野焼きが狗奴国王の権力・支配力の源泉だというわけだな、良く覚えておこう。
>>760 今は唐津藩というのは無い
全国の器が唐津焼だけになったということもない
>>644の続き
記紀が「歳」と「年」とを、少し違う意味の文字として使い分けていた、
という事が判った結果、
書紀の「一百七十九萬二千四百七十餘歳」と古事記の「伍佰捌拾歲」の「歳」も、
記紀が採用した「二倍年歴」や「一倍年歴」の「年」ではないらしい、という事になり、
「歳」を数える何らかの「祭祀」のような行事があったんだろう、という事になる。
そしてまず、
古事記の「伍佰捌拾歲」は「日子穗穗手見命者坐高千穗宮」の「歳」数としての説明であり、
日子穗穗手見命が(支配者として)高千穗宮に520年も座す事など有り得ない訳で、
せいぜい20年〜40年位(一倍年歴)であり、仮に30年だったとすると、
だから、日子穗穗手見命はその間に「歳」の数える行事を520回した事になり、
「1歳」の日数期間は、30×365(日)÷520≒21.06(日)であるから、
21日に一回位、「歳」の祭祀をおこなったんだろう、という事になる。
そして、だから仮に「座す」が20年であれば、14日に一回位、
「座す」が40年であれば、28日に一回位、
「歳」祭祀を行ったんだろう、という事になる。
だから、14日であれば約半月、28日であれば約1カ月であり、
だから、「歳」の祭祀は、月齢周期の新月と満月毎に行われて数えられた、
という可能性がある事になる。
書紀の神武の「一百七十九萬二千四百七十餘歳」については、改めて検討する。
>>777 だから例外の纏向は何の為に作ったのかって話し
人が生活する為じゃないんでしょ
>>771 >どっちも器の分布が支配の証拠と見なしてるだろ
支配なんて、どこにも書いてないのに、また妄想?
熊本県球磨郡あさぎり町
ふるさと探訪: ふるさとの球磨は「狗奴国」・「クマソ国」(2)
>前回、「ふるさと球磨は狗奴国 熊襲国」と書いた。狗奴国は3世紀の中国の史書「魏志倭人伝」に書かれていて、
邪馬台国と常に対峙していた国、邪馬台国の南にあると書いてある。
邪馬台国が九州北部であれば、その南は、人吉球磨地方を含めた鹿児島県や宮崎西部一帯の九州南部である。
>クマソ国は、古事記には「熊曾」とあり、日本書紀には「熊襲」とあり、
筑前、豊後、肥前、肥後国風土記など8世紀に編纂された「風土記」では「球磨囎唹」とある。
5〜6世紀の大和政権でも、九州南部は「熊襲国」として区分されていた。
お前達の話なんて何も関係ないんだけどな、どこの池沼なんだ?
king(〜氏)みたいな家があるでしょ、
家自体(そういう解釈とか)違うと、知っている人もいるし、
ヤマタイとか何やら(不明)〜よりも、上の家w
中華、漢人。
伊勢遺跡から纏向遺跡は時代がとんでるような気がするんだけど
纏向を卑弥呼の時代と断定していいのか?
間を埋める未発見の遺跡があると思う
日本のテレビで言ったりしている?
テンノウ?何なのか知らないけど、
工場などに行き、仕事をしろと言っているのが、わからないのか?
どこの池沼(〜団体)なんだ?逆のことばかり言ったり、していたり。
なんの工場でも良いけど、あったりするでしょ?
『工場』
そこに行けと言っているのが、わからないのか?
>>785 >纏向を卑弥呼の時代と断定していいのか?
いいけど?
オススメ
1.投稿する人は裏どりしてから
2.その投稿に疑問を抱く人は調査してから、、
>>790 何でもそうだけど可能性があると言ってるだけで確定するようなもんが出てねえじゃん
例えば、北斗の拳とか、
〜そういうコンセプト(だけ)
ほんとーの話()だったの?みたいな・・・。
〜工場みたいなものが、あってという、
謎の聞き取りと同じ、悪く言うと奴隷みたいな・・・とか、
いたりしたのかな?
とうしば(?)に働きに行かされたとか、
誰かの本名?家の近所に住んでいる、〜さん。
戦時中は。栃木だったか、どこかに疎開していた。
その名前()を・・・名乗ったりした?
家の近所に住んでいる、〜さん。
父親も母親も、知っていると言っているし。
例『ガンダム サングラス』
このような人物(家)とか、実際は、かなり、いるという話。
むかーしの何か?みたいな家。
近代の〜ではない。
可能性があるってのは事実じゃないからな
纏向は3世紀半ばには栄えてたような気がする今日この頃くらいにしとけば良いのに
>>791 >何でもそうだけど可能性があると言ってるだけで
「纒向遺跡は、3世紀初頭から4世紀初めにかけて営まれた、極めて大規模な集落跡である」
文化庁断定済み
>>799 極めて大きいと文化庁が断定したといっても、
しょせん「集落の範疇としては極めて大きい」だからなあ・・、王都にはまだまだ、まだまだ、及ばぬ、、
ふーん、
大きさはともかく、文化庁は「集落」と断定したのか。
今頃文化庁、勇み足を悔やんでいるだろうな。 わははははは @阿波
>>799 馬鹿だねー
各都道府県の教育委員会は文化庁の管轄なのだわ。認めるも何も無い。報告を受けるだけ。
「弥生人にとって、阿波はまさにパラダイス」
南四国は、温暖な黒潮流れる太平洋に面し、漁労・航海術が発達、内陸は高温多雨による森林資源に恵まれ、
一方、希少価値の高い鉱物にも恵まれている。
また、吉野川を始めとする、いくつもの大河が流れ、大河流域には、広範に肥沃な土壌の恵みを与えている。
南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」が興るのも当然と言えば当然。 @阿波
>>810 >集落跡が無いのに、、
それは素人の個人的意見
考古学では通用しない
奈良大和へ遷都した大和朝廷は、故郷「阿波」を「常世の国」と崇め懐かしんだ。
>>812 日本の考古学者は学者の底辺と認識されるなww
先生もいろいろ、自動車教習所の指導者も先生だもんなww
優秀なな人は海外の考古学へ傾注。関西の二流私学卒が牛耳る日本の考古学ww
だめだこりゃ👎
高千穂は天降(あまくだ)った所だから、少なくとも宮崎県高千穂のような高い山地ではなく、麓・平地である。
そして、豊かに稲や稗などが稔るところを指す。
高天原=四国山地(神山・木屋平村)
高千穂=大河吉野川中流域(美馬市・阿波市一帯) @阿波
「弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流」 @阿波
弥生時代前期末から中期初頭(2400年〜2300年ほど前)にかけて、
西日本一帯で発生した大洪水により、灌漑水田稲作は壊滅である。
この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、
京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。
その大洪水により、阿波においては弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、
一部で「大柿遺跡」の棚田がみられるが、
縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせる。
弥生時代前期中葉に大規模化した灌漑水田稲作経営は、災害の影響もあって一段落したものと考えられている。
土器の植物種実圧痕観察(レプリカ法)により、弥生時代終了までイネに替わり、
アワ・キビ・ヒエなどが主流であったようだ。
徳島大学大学院 准教授(当時) 中村 豊氏
>>814 考古学に殺された九州説の恨み節
敗者はかわいそうだな
国宝の金印が偽物ではないことがわかった
http://2chb.net/r/news/1637100752/ 江戸時代に「漢委奴國王」金印は再現できない
まず、私が注目したのは印のつまみ部分である蛇鈕です。
蛇のデザインがされているのでこう呼ばれていますが、
実際には、すぐには蛇とはわかりません。
よく見ると、胴体をらせん状に巻き、頭を後ろに向けて振り返っている蛇の姿とわかります。
しかし、それは鈕の上の部分だけで、下の部分は中央に紐通しの穴があるとはいえ、まったく蛇に見えません。
よく見ると、紐通しの穴の前後に膨らみがあり、それは四つ足の動物が膝を折って座っている形に見えます。
さらに、蛇の頭がある方と逆側から、つまり真後ろ側から見てもみると、両側に後ろ足の形が見えるのです。
そこで、これは、膝を折って座っている駱駝の胴体部分だという指摘があります。つまり、もともと駱駝が
デザインされた鈕であったものを、なんらかの理由で、上の部分だけ蛇の形に再加工したのではないかと考えるのです。
調べてみると、駱駝の形の鈕は、後漢時代によく作られていたタイプであることがわかります。
えっ、
文化庁が「纒向遺跡は集落跡」って断定したの!
卑弥呼の王宮じゃなかったのかぁ。。。
>>818 国宝金印(画像検索!)が偽造だったとしたら、あんな後ろを見上げた?変な体勢にするわけないでしょ。
完成していたのは駱駝の頭を切り取って、首の部分をムリヤリ蛇の頭に彫り替え、蛇の目◎模様を散らしたんだよ みつを
>>817 文献でも考古でも人類の常識でも、
議論に殺された大和説学者らの恨み節
敗者はかわいそうだな
>>819 >卑弥呼の王宮じゃなかったのかぁ。。。
卑弥呼の王宮だろ
「本遺跡のような規格性のある建物群は例がなく、当該時期の首長居館の構造を知る上で極めて重要である。また、同時期の居住域や墓域および祭祀遺構、大溝などが広範囲に広がってい
ることも明らかとなった」とさ
理由は解らないが、駱駝は北方民族に、蛇は南方民族に下賜する金印だったらしい。
倭が北東の遼東経由で来ると聞いて駱駝の「漢委奴国王」金印を鋳造してしまったが、倭の使者の南国風の服装を見て、急遽蛇に造り替えたとか。
偽造ならこんな手の込んだことはしないはず。
佐賀市教育委員会は、大和町川上の七ヶ瀬遺跡で弥生時代後期(1〜2世紀)の集団墓地251基が見つかり、中国製の青銅鏡4面が出土したと発表した。
うち1面は鉄刀、勾玉と共に埋葬されており、「三種の神器」がセットで出土したのは佐賀県内では初めて。
佐賀平野の中央部から西部にかけて有力な首長が存在したとみている。
鏡4面が一度に見つかったのは、二塚山遺跡(神埼郡吉野ヶ里町、三養基郡上峰町)と同数で、佐賀県内最多となった。
鏡は前漢製と後漢製で直径9.5p〜17p。いずれも意図的に割られた状態だった。
同じデザインの鏡は佐賀県内の他の遺跡からも見つかっている。
蛇や亀をあしらった後漢鏡「流雲文縁方格規矩禽獣鏡」(直径14cm)は木棺墓の近くから出土した。
素環頭鉄刀、鉄製短剣、翡翠の勾玉も見つかり、副葬品の充実ぶりから集落内で最も地位が高い首長の墓と見られるという。
県立佐賀コロニー跡地の工業団地造成工事を進める中で遺構が見つかり、2019年9月〜2021年3月に発掘調査を実施した。
弥生後期としては大規模な墓群で、墓域は長さ61m×幅25m。
墓道を軸に、甕棺、石棺墓など251基が並んでいることが確認されており、さらに広がる可能性もあるという。
佐賀女子短大・名誉教授の高島忠平さん(81)は、「1〜2世紀のクニの王権を示す発見。吉野ケ里遺跡の西に隣接して
“佐賀のクニ”が姿を現した点も興味深い」と話し、邪馬台国が3世紀に束ねた30のクニの一つである可能性があるとみる。
北部九州説の人は金印が根拠になってるのか
あんなもん根拠にならんと思うがな
「黒谷川郡頭遺跡の調査成果について」 @阿波
遺跡名
黒谷川郡頭遺跡(くろだにがわこうずいせき)
所在地
板野郡板野町大寺字山田畑
主な成果
弥生時代前期(前4〜前3世紀)と後期〜終末期(2世紀〜3世紀)、奈良時代〜平安時代(8世紀〜10世紀)の集落跡を確認した。
弥生時代後期〜終末期の集落跡では、竪穴住居 12 軒や区画溝などを確認した。
黒谷川郡頭遺跡で、これまでに見つかった弥生時代後期〜終末期の竪穴住居は30棟を上回る。
これは県内の同時期の中でも最大クラスの規模である。
今回の調査で発見された竪穴住居で最も大きいものは、長径9.1メートルの規模をもち、平面形態が六角形となる特徴がある。
黒谷川郡頭遺跡 平面形態が六角形の竪穴住居
出土品は土器・石器など十万点を超える。出土品の中には蛇紋岩製の勾玉や水銀朱を精製するのに用いる石臼や石杵が含まれる。
竪穴住居の構造上の特徴(平面形が多角形、炉が「|○」の配置をとる)は、播磨地域に多く見られるものと共通しており、
同地域との濃密な交流を窺わせるとともに、阿波地域において対外交渉の窓口として機能した集落であることが追認された。
https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/news/5023802 >>824 >・・弥生時代後期(1〜2世紀)の集団墓地251基が見つかり・・
>・・邪馬台国が3世紀に束ねた30のクニの一つである可能性があるとみる。
九州説ってどうしてこんなに時系列に無頓着なんだろうね
それで歴史やってるつもりなのかな
>>828 ということは、阿波作り話の丹山は狗奴國に有り
女王国には辰砂はなかったという設定と矛盾する
>>829 ローマは1日にして成らず・・、という言葉がある。
現代にせよ、古代にせよ、都市・王宮・城壁が成立するためのはそれなりの年月が必要であったことは言うまでもない。
1-2世紀に何もなかったところに、にわかに佐賀のクニグニが出現するわけがない。
ま、纒向だけは特例だったらしいが・・、
>>830 放っておいても九州説は自分から恥をかくので安心だ
>>833 文化庁が、「纒向遺跡は集落跡」と断定ww
放っておいても、畿内説は文化庁から恥をかかされるので安心だ
>>831
「壹與」の時代に、「狗奴国」を併合した。 @阿波 >>595 狗奴国(伊勢尾張)との国境に戦乱の痕跡ございませんW
女王国渡海千里複有国、又有侏儒国在其南 去女王四千里はどこに?w
>>834 この人に限らず九州説は
なんで突然そんな結論が出るのかプロセスの部分が欠落してる人が多くて
話がなんだかわからない
自分だけわかってるような顔をして
理由を聞かれると異常に嫌がる
そして、わからないやつは馬鹿だから説明しても無駄〜的な捨て台詞を言って逃げてくパターンが多い
>>845 遺跡から水銀朱関連の遺物が出たら
阿波作り話では卑弥呼時代の遺跡ではなくなる
>>595 >>698 九州説はもう余裕だよw あとは発掘されるのを待つだけw
つまり今のところは何もないので一人一作り話になってしまった
>>846
>阿波作り話では卑弥呼時代の遺跡ではなくなる
なんで?
卑弥呼時代は、一時期に過ぎない。
「阿波」の水銀朱は、縄文時代から採り続けている。 顔を洗って出直せ! わははははは @阿波 >>849 縄文時代から採り続けていても阿波作り話では丹山は狗奴國の領域だから
女王国には水銀朱はない
ど秘境のただの石切り場
>>690 畿内説の作り話は、そこが司っているのだね
>>644の続きの
>>776の続き
次は書紀の神武の「一百七十九萬二千四百七十餘歳」の算出の問題。
「及年四十五歳」の時に「自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘歳」としている。
これに関しては、まず書紀は、
「・・・于時,天地之中生一物,狀如葦牙,便化爲神,號國常立尊・・・」としているが、
書紀は「一書曰く・・・」として諸説がある事も示して混乱しているので、
平安期の僧が宋に提出したと思われる資料を新唐書が採用して、
「自言初主號天御中主,至彥瀲,凡三十二世」と書いているのを採用しておく事にし、
次に、「歳」の祭事をしたのは、やはり当初は1日単位であった可能性があるので、
仮に「1日1回」の「歳」祭事だとし、「1世」は50才であったとすると、
365×50×32=584000になり、1792470余の3分の1位になり、
「歳」祭事を1日3回した、つまり朝昼晩だとし、更に神武の「四十五歳」を加えれば
大体「1792470余」歳に近い数字になる事になる。
>>850
あほ! 不仲は「卑彌呼」の時代だけ だと何度言えばw @阿波 >>853 ど秘境阿波が倭国の一部である唯一の根拠が丹山
阿波作り話では丹山を狗奴國の領域にしなければならないので
唯一の根拠すらない
出真珠青、其山有丹(その山々には水銀がある)は倭国全体に掛っている。
それを勝手に四国だけとして我田引水、針小棒大に誇張したのが阿波の作り話
>>842 >>843 今までの発掘は外濠程度、此れから徐々に本丸に向かって掘り進む、
後は結果を待つだけ、九州説は余裕だよ。
>>856
>出真珠青、其山有丹(その山々には水銀がある)は倭国全体に掛っている。
倭国全体に掛っている?としても、辰砂採掘していたのは、「阿波」だけ。 @阿波 >>859
ゴネているのは、お前だけ。 わははははは @阿波 >>858 辰砂採掘跡があるのは阿波の南部
庭石しかない阿波北部は北部九州にとって不要など秘境
>>595 陳寿の蛇足「不弥国→投馬国→邪馬台国ルート(嘘)」を「南→東」に90度捻じ曲げたのが、阿波説・大和説の作り話50歩100歩w
>>781 「政治的独立がない状態=支配されてる」と言っていいだろ?
在来系土器が優勢の糸島地域を
「政治的独立がある」とするなら
非在来系土器が流入する北九州は
「政治的独立がない」=「支配されている」と
テンプレは言ってるし
「畿内ヤマトの「飛び地」」と
ヤマト政権の支配領域のように書いてるだろ
テンプレは
>>2によると
「ヤマト政権=邪馬台国」的な
見解を持ってるみたいだが
それを否定する史書・考古学的証拠の数々を
どう考えてるの?
・日本書記によるとヤマト政権が初めて
中国に行ったのは4世紀で、
邪馬台国の頃には行ってない
・日本書記によるとヤマト政権が、
中国から銅鏡を入手したことはない
・纒向遺跡に明確な中国産品が
出土していない(今の所)
・卑弥呼がヤマト政権の人間なら
ヤマト政権が記憶してるはずだが
該当しそうなのは神功皇后くらいしかない
しかし好太王碑によると神功皇后は4世紀の人ぽい
>>864 >「政治的独立がない状態=支配されてる」と言っていいだろ?
駄目でしょ
統合もあるもの
>>839 この人に限らず、
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者らは、
なんで突然そんな結論が出るのかプロセスの部分が欠落してる人が多くて
話がなんだかわからない
自分だけわかってるような顔をして
理由を聞かれると異常に嫌がる
そして、わからないやつは馬鹿だから説明しても無駄〜的な捨て台詞を言って逃げてくパターンが多い
>>865 >それを否定する史書・考古学的証拠の数々を
ないものと思ってる
>・日本書記によるとヤマト政権が初めて
> 中国に行ったのは4世紀で、
と日本書紀には書いてない
>・日本書記によるとヤマト政権が、
> 中国から銅鏡を入手したことはない
神様からもらったことにしちゃったからね
伝説なんてそんなもの
>・纒向遺跡に明確な中国産品が
> 出土していない(今の所)
もう魏鏡が出てますが
>・卑弥呼がヤマト政権の人間なら
> ヤマト政権が記憶してるはずだが
> 該当しそうなのは神功皇后くらいしかない
いれば十分
>しかし好太王碑によると神功皇后は4世紀の人ぽい
好太王碑に神功皇后は出てこない
>>861 うん、唐津北東の福岡県内は山陰気候区だから、豪雨続きで内堀まで埋まって玉砕全滅したらしい。
その点、東南の佐賀平野・熊本平野は南向きの温暖好地形で、お天気良好、見通しも良好・・、
そだよ神功皇后は完全に4世紀の人物
その子供の応神天皇が4世紀後半だからな
孫の仁徳天皇が崩御したのが西暦420年ころだぞ
仁徳天皇の古墳造営時期と完全に合致するんだよ時期的にな
>>873 仁徳天皇=オオササギが古墳から創作された王かもしれないんだがね
渡来人らは
応神天皇の時代に秦氏
仁徳天皇の時代に東漢氏
雄略天皇の時代に西漢氏
継体天皇の時代に今来漢人
天武天皇の時代に百済王氏や高麗王氏
らが日本に渡来したんだよ
>>876 そうやってコミュ障になるから九州説は一人一説なんだよね
論が無いの
関関同立の偏差値レベルの畿内説の考古学。
推しの強さだけで纏向は王都はイカン。
>>878 だから、そういう悪口しか言えないのが九州説敗者の証明だよ
だから言っているだろう、
とある漫画で言うと、例えると、ずっと中国(中華〜、渡来人)のターンみたいなことを言っている人もいた。
例『ずっとオレのターン』
日本に、いたりするでしょ、むかーしの渡来人
(とある時代から、ほとんど日本人と同じ、日本人?)とか、どういう事なんだろう。
あったでしょ?
〜近代の戦争でも同じ、どういう事だと思う?
気づいている人は気づいている、
一般人(?ではない)みたいな家のほうが・・・何かの家、上のほうの家。
日本の話。
日本テンノウとか、
(中華、中国の何か)〜のために戦ったりしていたという論ばかり。
自称何やら〜、
いろいろと取り入れ、本や書を調べたりして、後付けみたいな話ではなく、
ほんとーの渡来人(中国〜)がいて、その家、人物のために戦ったりしていた。
なんで知っている人達がいるんだろう。
何やらの盾(壁)みたいな論とか、そのために戦ったりしていた。
>>879 だから、
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
そういう史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
悪口しか言えないのが、
大和説学者らの敗者の証明だよ
例『中華思想』
日本の〜(神話?)みたいな画像も出て来るでしょ、
正確には中華思想(中国とか・・そういう人物や家)の下の家。
日本の神話とか、中華思想で言うと、何やらの地(説明があるでしょ)みたいな系統。
以前(てきとーに)書いたような。
例『諸蕃』
この系統のほうが・・・、ほんとーは。
てきとー(なんとなく)に書いたような気がするんだけど、
なぜか・・・、あっている?
テンノウ(皇別)とか、後付け。
『諸蕃』
この系統のほうが、先、最初にあった。
記憶喪失、それとも隠された能力があったのか・・・、
何なのかは、よくわからないけど、
以前、てきとー(なんとなく)に書いていた。
>>879 考古学自体、今の生活になんら貢献してない。
馬鹿学者かやる学問。
素人とどっこいどっこいの知能。
違うのはゼニを、もらってるかどうかだけ。
その点、古田は偉い教師の生業を持ちながら、考古学の二刀流。
>>879 考古学自体、今の生活になんら貢献してない。
馬鹿学者かやる学問。
素人とどっこいどっこいの知能。
違うのはゼニを、もらってるかどうかだけ。
その点、古田は偉い教師の生業を持ちながら、考古学の二刀流。
>>899 待機中です。
>>1奥山さんの回答待ち
纏向にいた兵その他の男子はみな刺青をいれてたかどうかの質問の回答待ち。
>>901 常駐してんだな
お前は奥山にハブられてるよ
ばかすぎるからだ
>>901の追加
>北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった
これへ移りたいのだが、、前述の回答待ちです。
>>903 待ってないで行けば?
でも質問ばかりで相変わらず反論ないんだね
回答義務のない質問を奥山が無視してるとキウスが静かなら、ずっと放置がオヌヌメでつ
適当ほざいて事実捻じ曲げてるのおまえらやの
憶測のみ垂れ流しでそれで事実化ささようとしとるわけか?
>>901です。
倭人伝では兵も含めて男子は
皆刺青を入れてたのでしょう。
それを岡山見とか愛知県とか言うテンプレがおかしいと思うから、投稿してるのです。
>>904 なら、奥山さんが、何処で、根拠は、証拠はと言うのは無視で良いですね。
しかし、それを示さないと論破したとか言うから今までお相手していましたよ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
VS
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
VS
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられる
はっきり言えば個人名出してる奴は鬱陶しい
好きに書けば良いんだよ
少しは阿波の相手もしてやれよ
推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
VS
日数で表記された距離は「道里」に該当する
推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
VS
日数で表記された距離は「道里」に該当する
ヤマトの源は朝鮮人だって言ってるようなもんだな
奈良に国内最古級の人工池 古墳時代に渡来人が祭祀か
https://news.yahoo.co.jp/articles/1e76193839f1a43024b477ae95ff56e803430938 古墳時代の5世紀中ごろの築造とみられ、石組みの人工池として国内最古級。
朝鮮半島と関わる建物が確認され、祭祀(さいし)に関連する遺物も出土した。
町教委は「渡来系の人々が池を造り、祭祀を行った可能性がある」としている。
天皇の家来 東北菅野 百済菅野ではない
川崎コリアタウンで頭がおかしくなった
朝鮮人のまねをして自分も百済王の子孫だと騙る
松傾のスレ
http://2chb.net/r/history/1547752030/ >>870 でも4世紀以前に中国に行った記述がない上に
中国への行き方が分からなかったんだから
「初めて」と見なしていいやろ
> 好太王碑に神功皇后は出てこない
厳密に言えばそうだが
倭が新羅を征服したことが書かれている
神功皇后が新羅を征服したのだから
それは神功皇后のことのはずだ
>>1 奥山さん
1、魏使の往来の時、日本海航路は機能低下してたの?してなかったの?
2.陸行一月は距離に該当するの?しないの? 行程には該当しますが。
テンプレの(日数で表記された距離)ってなんだかわからないな
>>909 >なら、奥山さんが、何処で、根拠は、証拠はと言うのは無視で良いですね。
それ、奥山が言ったのか?
末盧國からの方向だけど、東南が北東の間違いとして、
北東陸行は成り立つのかな?だれかも投稿していたようですが。
私的には、東南が間違いなら陸行も間違いとしないと成り立たないと思いますが、、
北東陸行は論じられないと受け止めまてよろしいでしょうかね
北東を東南と誤認したと主張して、南も誤認と持って行きたい気持ちは、わからないでも無いですが、、、残念でした。
さて、スレ主への質問の回答待ちですね。
!纏向に居た男子は皆刺青をしていたか、いないか?
!魏使の往来の時、日本海航路は機能低下していたのか、していないのか?
!陸行一月は距離に該当するか、しないのか?行程には該当するが。
>>929は、誰に言ってるんだ?
コミュ障の人なのかな
東南を北東にするなら、
帯方東南大海の中も、帯方北東大海の中に、
従郡至倭南乍東乍も、従郡至倭東乍北乍になってしまうのだが、いずれ全文読み換えるつもりなんだろな、、。
>>916 日数で表記された距離は「道里」ではなく、「道日(行道日数)」に該当すると思うんだがね
>>935 教えて
行動日数て何?
滞在日も含めて良いの?
倭人伝に記述の無い滞在日数はどうして出すの?
水行しかり
>>935 >日数で表記された距離は、「道里」ではなく、
「道日(行道日数)」に該当すると思うんだがね
成程。
>>935 だよな。歩いていた日数で正解と思う。
難波から纏向まで40キロとして、
一月だと1日1キロちょっと、そんなばかな
>>934 キウスが、あらぬ妄想してるな
医者が必要だ
>>937 >行動日数て何?
おいおい、一字ちがうと意味はまるきり違ってくるんだぞ。
行動(何かを成すために動き回る)ではない。「行道」だから、その道を行くために要する日数だ。
難波から纒向まで40qなら行道日数はせいぜい7日だろな。
倭人伝では、倭国上陸から女王之都まで大荷物を担いで1月だから、150q〜200qくらいだったのだろう。
末盧国を唐津と断定してるから方角がおかしくなるんじゃ?今の名護屋あたりだと東南で糸島に到着できそうだけどね
>>981 当時は道も整備されてないだろうからもっと距離短いかもしれんね。
>>941 7日って、、、え〜
勝手に行動日数を、決めちゃうのはやめたら。
畿内説の学者もびっくりだよ。
>>942 名護屋に入港するためには、潮(離岸流)の加減で、いったん唐津沖まで来て、
そこから方向を西へ転じて海岸沿いに名護屋浦へ向かわざるを得ない。
唐津港の目の前をかすめるんだから、そこで上陸するほうが何倍も手間が省けるんだよ。
>>605 もしかしたら記紀は、神武東征が、狗奴国を降伏させた台与の命令ではなく、張政(魏帝)の命令だったことを隠そうとしているのかも。
倭人伝
その8(AD247)年、王頎(おうき)が帯方郡の太守となった。倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼と昔から不和で、載斯烏越らを遣わして帯方郡に行き、互いに攻擊しあう状態を説明した。
そこで王頎(おうき)は塞曹掾史張政らを遣わして、詔書・黃幢を齎し、難升米に授けて、檄(ふれぶみ)を作り、これを告喻(告げ諭す)した。
張政が倭に到着した時、卑弥呼が死んだので大いに塚をつくった。径は百歩あまり、殉死した奴婢は百人あまり。男王を立てたが、国中が服さず、互いに誅殺し合い、千人あまりが殺された。
その後、卑弥呼の宗女で13歳の台与を立てて王とすると、国中が従った。
政(張政)らは檄(ふれぶみ)の内容を13歳の台与に解り易く、具体的に説明した。女王・台与は大夫の善中郎将・掖邪狗ら20人を遣わし、政(張政)らが還るのを送らせた。
彼らはそのまま台(洛陽)まで行き、男女生口30人、白珠5000孔、青大勾珠2枚、異文雑錦20匹を皇帝陛下(3代目曹芳)に献上した。
倭人伝には「女王国東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国(四国)在其南。去女王(之所都)四千里」とあるから、王頎(おうき)が渡した檄(ふれぶみ)の内容とは、
「朕の忠実な僕である親魏倭王・卑弥呼よ、本州や四国を第2第3の狗奴国としないために、今のうちに武勇に優れた将軍を立て、急ぎ征服しておきなさい(魏の皇帝曹芳より)」
>>944 そうかそうか、びっくりさせてゴメンゴメン
でもまあ、40qなら、1日でもないし1月でもなかろう。
中を執って7日と言ったまで、これなら当たらずと言えども、遠からず・・、だろ。
>>949 この例のように不確定要素が多い場合は、ちょっきり1/2とかでなく、
1日ー2日ー4日ー8日ー16日ー32日ー・・、という具合に、倍々でかんがえるほうがよい。
つまり中を執るといっても、7〜8日とするほうが、外れがすくなくなるんだよ。
>>951 倭人伝の場合、女王までの陸行は1月になってるから、本来1月、2月、3月、、、と、月単位で数えるべき長距離。
難波から纒向までは40qしかないから、1月を超える日数は不自然で、数日と考えるべきなのだよ。
これに対して水行は、10日、20日と、10日区切りになっているから、
四捨五入して10日、又は20日、の日数だったと考えるべきさ。こういうのを「概数の取り扱い」という。
>>89 >>91 えっ!?「不弥国→投馬国→邪馬台国ルート(嘘)」って倭国内の水行日数じゃないの??
中国の読者に解り易くするために、中国大陸沿岸の水行日数で代替描写して「(女王之所都)その道里を計るにまさに会稽東冶の東にあるべし」って嘘を書いたわけ??
これじゃ投馬国の南(会稽東冶之東=嘘)と北(奴国2回書きで念押し=本当)の2箇所に邪馬台国・女王之所都があることになるよ!
道理で九州内にも本州にも、どこにも比定できないわけだ…むりやり日本地図に当てはめようと、九章算術や十倍報告習慣とか持ち出して引っ込みがつかなくなったヌレ主、奥山氏、狗古智卑狗(菊地彦)の熊本北部説を唱えざるをえなくなった宮崎康平さん、森村伊作が、気の毒すぎる… orz
>>704 それが邪馬壹国にあるとは
判断できるないけど。
250年にあったのは魏が半島南部に攻めてきて韓王を殺した事件やが???
日本が半島に攻め込むのは西暦300年以降
それが三韓征伐
ここより始まるのが半島伽耶連合
>>955 そんな記録どこにあるんか知らんが、250年直前くらいに魏が韓国に壊滅的打撃を与えたのは史料事実
考古学的にも、その頃にそういう史実があった可能性が高いことは確認されてる
>>946 ああ、それかもしれない、記紀が日本の古代史を、遡上歪曲してることは間違いない(BC660年に神武が樫原神宮で即位)
神武東征・ヤマト王権樹立・日本建国が魏帝(曹丕→曹叡→)曹芳の命令だっただなんて、ちょっと言えないもの
>>958 九州王朝(漢委奴国王・帥升・卑弥呼・台与・讃珍興斎武・阿毎多利思比孤の合計10人)そのものを消さなきゃねw
そおそお
天皇の寿命をやたら引き伸ばして権威付けみたいのやってることは話にならねえけどな
ほんとにこれがデタラメ
>>946 生口を献上するってことは、もう属国もいいところだもんね
>>127 実年代=古事記の没年補正(卑弥呼=魏志倭人伝、※神功=日本書紀)+漢(○農耕×騎馬)民族皇帝への朝貢記録
◆奴国@博多【後漢の冊封を受けて外交デビュー→大陸や半島との貿易本格化】
漢委奴国王(情報なし)…57年(光武帝、金印下賜=鉄輸入開始!)
帥升(情報なし)…107年(安帝に謁見。生口160人を献上=鉄輸入急増→タウポ山大噴火→大飢饉(黄巾の乱)発生→倭国大乱へ)
◆邪馬台国@筑紫【狗奴国と戦争→水銀朱と引き換えに帯方郡の鉄の独占輸入権=親魏倭王】
卑弥呼(〜247年)…238年/240年/243年/245年
台与(235年〜?)…247年
◆伊都国@博多(崇神朝)…【国内統一→半島派兵(新羅攻撃)開始→任那日本府設置(鉄資源独自確保)】
10祟神(〜318年)…266年(西晋武帝へ「倭女王」と誤記)、四道将軍派遣270年頃。
11垂仁(情報なし)…330年頃没。伊勢神宮創建(紀伊半島の水銀鉱床独占)。
12景行(情報なし)…343年頃没。日本武尊の東征335年頃。 大臣・武内宿禰
13成務(〜355年)…国造/県主設置(国内統一完成)
14仲哀(〜362年)…新羅征伐(関門海峡開削=北朝/高句麗艦隊の瀬戸内海侵入リスク)に反対、神罰で崩御(暗殺)
神功(※〜389年)…「旨」(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→372年百済・近肖古王より贈呈)
◆邪馬台国@筑紫(応神朝)…【半島派兵(高句麗戦争&百済支援)本格化→大将軍位を求めて南朝(東晋/宋/斉/梁)に朝貢】
15応神(〜394年)…「禰(でい)」
16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年)
17履中(〜432年)…「倭国王」(430年)┐
18反正(〜437年)…「珍」(438年)…「弟、珍立つ!」
19允恭(〜454年)…「済」(443年/451年)
20安康(情報なし)…「興」(460年/462年)
21雄略(〜489年)…「武」@(477年/478年)「獲加多支鹵大王」…辛亥(471)年銘稲荷山鉄剣+江田船山鉄剣
22清寧(情報なし)/23顕宗(情報なし)/24仁賢(情報なし)
25武烈(情報なし)…「武」A(502年)
◆狗奴国@阿蘇(継体朝)…【倭王磐井暗殺→阿毎多利思比孤・天智太宰府→欽明皇子を本州の飛鳥へ分家→現在の天皇家へ】
26継体(〜527年)…「男弟王」癸未(503)年銘人物画像鏡(隅田八幡宮)
>>605 >>960 つまり、記紀が消したのはいわゆる九州王朝なんだよ。
台与の東征将軍だった神武(投馬国王)の系図で、万世一系ということにしたわけだ。
実際に滅亡したのは九州王朝のほうとしか思えないから
どこかですり替えが起こってるな
もしくは神輿だけ残して中身がそっくり入れ替わったか
>>127 古墳時代の大和は九州王朝の奥津城(霊園王家の谷)だった。
継体の九州本家から三男・欽明が派遣されて飛鳥分家ができた。
そこへ白村江の戦で完敗した九州本家(長男安閑・次男宣化→阿毎多利思比孤系統)の天智が、飛鳥分家に避難してきて統合された、というのが実態。
天智は統合されたようには見えない
持統天皇以外一族郎党皆殺しにされたように見える
>>967 つまり天智までの九州王朝は滅ぼされたわけではなく、天武の大和分家と壬申の乱で統合され、記紀で消されたわけだね
神輿だけ残したんだろうな
後継ぎが全員25歳くらいで亡くなってるのも不自然だしね
>>969 >>121 そういうこと
壬申の乱で天武(大海人皇子)の大和分家に吸収された天智(大友皇子)の九州王家は、その後、光仁・桓武の代で復活し、平城京から長岡京を経て平安京へ遷都し現在に至るのである!
つまり現在の天皇家は九州本家というわけ。
新スレ立てました。
http://2chb.net/r/history/1637209591/l50 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
系図上は確かにその通りだけど
それにしては九州系のご先祖や月読命などの旧来の神様の扱いがひどすぎるよね
九州が本家ダーとか妄想ばっかりしてるうち、九州説どんどん左前
>>971 気付いたら、太宰府はヤマト王権の出先官庁ということにされてたってこと?
天智天皇が気付いた時は
朝倉や木の丸殿に我居れば 名乗りをしつつ行くは誰が子ぞ
って感じだったんでしょ
>>974 「大和が本家ダー」とか妄想ばっかりしてるうち、
大和説はどんどん左前
中国風の瓦葺きの太宰府と和風の飛鳥板蓋宮、まさに九州本家と大和分家の象徴だね
>>698 つまり甘木朝倉でも、日田でも、吉野ヶ里遺跡(画像検索!)と同じような環濠集落(居処宮室楼観城柵厳設)と見て間違いないね!!
卑弥呼の王宮のイメージが浮かんできた!
そう、宮室の周囲に楼観もなく、平地にただの板塀を突き刺してるだけの平和遺跡・纏向なんかじゃないってこと
>>980 >平地にただの板塀を突き刺してるだけの平和遺跡・纏向
何も物騒な遺跡を欲しがることはないんだ、
畿内大和は古代からの平和都市で、仏教をも尊んだのが売り物で良い。立派なことだ。
>>982
畿内にも九州にも無い。 在るのは、「阿波」。 @阿波 水行より早く着く陸行1月の場所なんか日本に無いんだよ
だから九州から大阪まで陸行1月
>>984 では、箸墓は誰の墓で、纏向は誰の都市だったんだろう?
>>985
>だから九州から大阪まで陸行1月
関門海峡なんかも陸行なのか? @阿波 >>986
「倭人(阿波勢力)」の墓で、「倭人(阿波勢力)」の「古墳造営前線基地」。 @阿波 吉野ヶ里遺跡の終焉と前方後方墳
南内郭では、弥生時代最終末期に新段階の環濠が埋没し、
丘陵上からは竪穴住居などの集落に関する遺構は激減する。
古墳時代初頭の集落は吉野ヶ里丘陵西側斜面付近に移るが、その数はわずかである。
南内郭付近の集落と入れ替わるように丘陵上には前方後方墳4基が相次いで築造される。
これらの前方後方墳は、墳丘及び主体部が削平され、周溝しか残っていないが、
周溝出土の土器から北から南に向け順次築造されたことが判明している。
前方後方墳のうち、最も南に位置するST568墳は、全長約40mで九州最大規模の前方後方墳である。
九州の前方後方墳は、前方後円墳に比べ、その数が非常に少ないにも関わらず、
吉野ヶ里遺跡に4基集中することは、極めて異例である。
吉野ヶ里遺跡の性格を考えるうえで興味深い。
>>987 帯方郡から投馬国(狗邪韓国)が水行20日、投馬国から九州が水行10日
九州から大阪が陸行1月
邪馬台国がヤマト国で倭国だと考えればこんな感じでしょう
倭国は東南の大海の中にあるんだから
>>989は、
特別史跡 吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼市・吉野ヶ里町)
細川金也 / HOSOKAWA KINYA
佐賀県立博物館・美術館 学芸員
https://www.isan-no-sekai.jp/report/5498 殉葬のないホケノ山や(吉備特殊器台)箸墓・西殿塚は、邪馬台国の遺跡ではないと思う人?
関西の反日有害朝鮮起源北部九州作り話は
どうしても九州の考古知識がまるっきり無い、興味が無いのは仕方ないが
一人一作り話九州のお爺さんは
3世紀前半、畿内と密接な交流があり、当時九州最大の前方後円墳を築造する博多湾沿岸と
有明海北部沿岸との違いを知っていなければならない
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