>>493 郡からの行程で狗邪韓国の前に投馬国が記されていないのはなぜですか
>>494 里数行程は帯方郡から不彌国までの行程を中国人が記録したもの
日数行程は帯方郡から女王の都までの行程を倭人が説明した際の記録(倭人は里を知らないので)
日中の認識一致
>>494 中国史書は先代の史書と当時の記録をもとに後世の文書屋が編纂したものです。
「里数」表記の行程は中国側に残っていた記録であり、
「日数」表記の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録です。
それぞれ表現方法が違うだけであり内容は一緒。
卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ倭人は次のよう答えた
・帯方郡から船で10日南下し、九州に上陸
・更に陸上を1日歩きます
・上陸後、女王の都までは陸路です
・計水行十日陸行1日。
邪馬台国と周辺国:
倭人は距離を里ではなく日数で表現したり、中国が知らなかった投馬国や邪馬台国という
国名が登場したため、中国なりに勝手解釈をしてしまった。
倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、女王国は倭の最も西に位置するものと考えられる。
以下、抜粋
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)
■その他の文献記録
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
>>496 万2千里には末盧国から2千里の行程が必要になりますので短里でも不弥国から1300里(100キロ程)離れた場所であると思います。
>>498 いずれにせよ北部九州一帯だからノープロブレム
>>497 中国は漠然と「倭」という一言で表現してたんだよ
実際には倭人は投馬国だの邪馬台国だのと独自の呼称を持っていた
そういうこと
投馬国の官ミミナリは景行天皇に討伐された山国川上流に居たとされる耳垂のことだろう、つまり投馬国は豊前周辺で、邪馬台国は豊前の南にあると考えられる、山国川を南に水行陸行すれば日田に到着する。日田は天然の要塞で卑弥呼を敵から護るには適した場所である。八女の環濠集落は日田を護る前線基地として機能していたのだろう。
隋書倭国伝に秦王国と書かれているあたりが投馬国になります。小野妹子は裴世清と共に航海の無事に対してのお礼参りとして再度宇佐神宮に訪れたのでしょう。
日田では景行天皇を久津媛という神が出迎えたと豊後国風土記に記されているようだが・・・謎だ。
鉄もろくにない、牛馬もないのに、畿内から九州までを支配できたわけがない。
邪馬壱国までろくに国の数が出てこないのに、遠くてよく分からない国が21も出てくる。
仮に、畿内であったならば、これら21カ国は奈良より東側にあることになる。
極めて不自然。
21カ国は当然九州以東の国と考えるべきである。
そこには畿内も含まれているだろう。
例えば、華奴蘇奴国は大阪だろう。
>>513 畿内説を破綻させたのはキナイコシという畿内説信者一人
畿内説が言うのは邪馬台国じゃなくて邪馬台国のようなもの
>>517の東の倭種の国
纒向は半島系倭種と毛人の国
<魏志倭人伝には陳寿の誤解が多く含まれています。>
中国史書は先代の史書と当時の記録をもとに後世の文書屋が編纂したものです。
「里数」表記の行程は中国側に残っていた記録であり、
「日数」表記の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録です。
それぞれ表現方法が違うだけであり帯方郡から北部九州までの道のりです。
卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ倭人は次のよう答えた
・帯方郡から南に船で20日行けば半島南部の投馬国
・更に南に10日進み北部九州=邪馬台国に上陸します
・上陸後、女王の都までは徒歩です
・合計三十日の道のりです。
この朝貢記録を陳寿は誤解し、南に水行三十日,陸行一月と記した。
卑弥呼時代の倭国たち:
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)
倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、
おのずと女王国は倭の西部に位置することがわかる。
<その他の文献記録>
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
>>519 投馬国は朝鮮半島では何と言う国ですか?
吉野ヶ里遺跡で王の墓が発掘されたし年代次第で卑弥呼でしょ
ヤマト勢力に滅ぼされて卑弥呼の墓もボロボロにされて地元の住人が神社を建てて守ってきたんだろうな
>>523 吉野ヶ里は少し古すぎるだろ。
卑弥呼共立で環濠集落である必要がなくなったのではないか?
>>525 狗奴国との境界が近いから環濠は必要だろうね
【 物 価 】
100文 約2500円 米 1升(1.8㍑)
33文 約825円 小麦 1升(1.8㍑)
16文 約400円 塩 1升(1.8㍑)
100文 約2500円 味噌 大包
12文 約300円 味噌 小包 24 32 48売り有り
60文 約1500円 関東醤油 1升(1.8㍑)
100文 約2500円 下り醤油 1升(1.8㍑)
124文 約3100円 お酢 1升(1.8㍑)
3文 約75円 お酢 1椀
400文 約10000円 味醂 1升(1.8㍑
267文 約6675円 砂糖 1斤(600㌘)
120文 約3000円 黒砂糖 1斤(600㌘)
124文 約3100円 かつお節 1本
8文 約200円 卵 1個
20文 約500円 ゆで玉子 1個
4文 約100円 小松菜 1本
8文 約200円 大根 1本
8文 約200円 人参 1本
14文 約350円 ごぼう 1本
8文 約200円 瓜 1個
40文 約1000円 すいか 1個
10文 約250円 なす 10本
36文 約900円 里芋 1升(1.8㍑)
108文 約2700円 長芋 1本
78文 約1950円 蓮根 1本
45文 約1125円 椎茸 10本
8文 約200円 枝豆 1束
16文 約400円 柚子 1個
12文 約300円 豆腐 1丁
4文 約100円 粒納豆 1束
8文 約200円 叩き納豆(刻み 豆腐野菜付き)
4文 約100円 油揚げ 1枚
8文 約200円 雁もどき 1個
8文 約200円 蒟蒻 1丁
2文 約50円 豆腐田楽 1本
16文 約400円 沢庵大根 1本
10文 約250円 しじみ 1升
20文 約500円 はまぐり 1升
3文 約75円 このしろ 1尾
5文 約125円 いわし 1尾
24文 約600円 さんま 1切身
200文 約5000円 さんま 1尾
12文 約300円 鮭 1切身
250文 約7500円 鮭 1本 1朱
200文 約5000円 まぐろ 1尾
5200文 約13万円 初がつお 1尾
4文 約100円 冷や水 1椀(水 砂糖 白玉)
4文 約100円 麦茶 1杯
16文 約400円 緑茶 1杯
8文 約200円 甘酒 1椀
4文 約100円 串団子 1本
4文 約100円 饅頭 1個
4文 約100円 桜餅 1個
4文 約100円 大福餅 1個
60文 約1500円 ようかん 1本
750文 約22500円 かすてら 1本
60文 約1500円 心太 1杯
16文 約400円 玉子焼き 1個
4文 約100円 焼きいも 1本
12文 約300円 唐辛子 4袋
16文 約400円 かけそば・うどん
32文 約800円 天ぷらそば・うどん
36文 約900円 鴨南蛮そば
8文 約200円 握り寿司 1個(現在の約2倍)
16文 約400円 稲荷寿司 1本(現在の約4倍)
48文 約1200円 押し寿司 1箱
100文 約2500円 ちらし寿司
50文 約1250円 かつお刺身
100文 約2500円 まぐろ刺身
4文 約100円 天ぷら串 1本
24文 約600円 天ぷら定食
16文 約400円 鰻蒲焼串 1本
100文 約2500円 鰻めし 1杯
100文 約2500円 一膳飯(飯 味噌汁 煮魚 漬物)
16文 約400円 どぜう汁 1椀
16文 約400円 くじら汁 1椀
48文 約1200円 どぜう鍋 小鍋(骨抜き)
300文 約7500円 牛鍋 小鍋
12文 約300円 炒鍋 1枚
36文 約900円 茶漬け飯 1杯
580文 約14500円 お茶 1斤(750㌘)
100文 約2500円 弁当 1個
8文 約200円 焼き鳥 1串
8文 約200円 居酒屋酒 1合(地廻り)
20文 約500円 居酒屋酒 1合(下り)
250文 約6250円 上酒 1升(1.8㍑) 1朱
125文 約3125円 中酒 1升(1.8㍑)
80文 約2000円 下酒 1升(1.8㍑)
16文 約400円 刻み煙草 5匁(19.0㌘)
800文 約20000円 長屋家賃 1ヶ月
40文 約1000円 菜種油 1合
20文 約500円 魚油 1合
100文 約2500円 蝋燭 60本
200文 約5000円 百目蝋燭 1本
銀4匁 約8000円 木炭 1俵
108文 約2700円 手ぬぐい 1本
36文 約900円 上扇子 1橋
18文 約450円 中扇子 1橋
600文 約15000円 木綿生地 1反
600文 約15000円 股引き 1対
180文 約4500円 足袋 1足
12文 約300円 草鞋・わらじ
50文 約1250円 下駄 1足
200文 約5000円 番傘 1本
500文 約12500円 蛇の目傘 1本
7文 約175円 ちり紙 1帖
12文 約300円 半紙 20枚
4文 約100円 筆 1本
銀1匁8分 約3600円 算盤 1艇
100文 約2500円 浅草紙 100枚
32文 約800円 浮世絵 1枚
4文 約100円 瓦版 1部
300文 約7500円 新刊本 1冊
16文 約400円 草双紙 1冊
8文 約200円 銭湯 (大人)
6文 約150円 銭湯 (子供)
4文 約100円 銭湯 (幼児)
35文 約875円 熊手 1本
32文 約800円 結髪料 (男)
50文 約1250円 結髪料 (女)
48文 約1200円 あんま 1回
8文 約200円 歯磨き粉 1袋(1~2か月分)
30文 約750円 紅 1塗り
150文 約3750円 化粧水 1箱 江戸の水
124文 約3100円 避妊薬 1回
1分 約25000円 医者 初診料 1000文
70文 約1750円 富山の薬(0.75㌘) 反魂丹
30文 約750円 飛脚 普通便 江戸~大阪
124文 約3100円 飛脚 特急便 江戸~大阪
200文 約5000円 駕籠代 1里
25両 約250万円 馬 1頭
25両 約250万円 日本刀 1本
24文 約600円 大道芸 1芸
2分5匁 約60000円 歌舞伎 桟敷席 2400文
100文 約2500円 歌舞伎 土間席
16文 約400円 歌舞伎 立ち見
32文 約800円 芝居見物 両国
500文 約12500円 勧進相撲 桟敷席1人あたり
130文 約3250円 相撲観戦 土間席1人あたり
28文 約700円 寄席 1回
1分 約25000円 寺子屋 1回 1000文
500文 約12500円 富くじ 1枚 2朱
1000両 約1億円 富くじ 当選
248文 約6200円 宿泊代 1泊2食付き
1両1分 約12.5万円 旅費 江戸~京 5000文
おおよその江戸時代
おおよその相場
江戸時代 前期 中期 後期 幕末
1両 = 4000文 5000文 6000文 10000文
おおよその円換算
五両 50万円 50万円 45万円 60万円 五両判金 1837年~
一両 10万円 10万円 9万円 12万円 一両判金 1601年~
二分 5万円 5万円 4万5000円 6万円 二分金 1818年~
一分 2万5000円 2万5000円 2万2500円 3万円 一分(金) 1601年~ (銀) 1837年~
二朱 1万2500円 1万2500円 1万1250円 1万5000円 二朱(金) 1697~1710年 1832年~ (銀) 1770年~
一朱 6250円 6250円 5625円 7500円 一朱(金) 1824年~ (銀) 1829年~
百文 2500円 2000円 1500円 1200円 天保通宝 1835年~
四文 100円 80円 60円 48円 寛永通宝 四文銭 1768年~
一文 25円 20円 15円 12円 寛永通宝 一文銭 1636年~
金1両= 約 ¥ 100,000 = 4,000文 1文= 約 ¥ 25
銀1匁=1/50 両=80文= 約 ¥ 2,000
銀1分=1/10 匁=8文= 約 ¥ 200
で算出
こないだ昔の中国が作ってた地図見て
北海道が南になってて合点がいった
アレ義務教育でも見せたら
九州説なんか消えるだろ…
>>525 吉野ヶ里遺跡の最盛期が3世紀なんだから、その時代の王の墓が無いわけがないんだよなあ
そして突然終焉を迎えた理由は他国に滅ぼされたのがほぼ確定で、ではどこに滅ぼされたかというとヤマト政権が最も濃厚
>>536 無知乙
それスペースの都合で縦書きの日本地図をコピペしたものだから
>>538 吉野ヶ里に限らず同時期に畿内の環濠集落も無くなっているから関係ないだろうね
とはいえ、卑弥呼が死ぬと同時期に環濠集落が消えてるのだから、やはり卑弥呼は滅ぼされた側と考えるのが妥当
九州出自の物部氏が同族の磐井を攻めたと言うのも何だかなあと思う
>>538 滅ぼされたのではなく、解体して立ち去った。
攻め込まれた痕跡はない。
>>540 卑弥呼共立で環濠集落である必要がなくなったのだよ。
その後、半世紀は戦いが緩やかだった。
狗奴国は不和だったらしいけど。
>>541 どうせ記紀の登場人物は全員が元を辿ると筑紫の生まれだから。
>>543 3世紀なかば狗奴国と戦争状態で環濠集落を潰す必要性がない
共立はそもそも2世紀の話で時期がずれすぎ
共立とは関係がない文脈で環濠集落が不必要になったと解釈するほうが妥当
狗奴国は畿内ヤマトのことで、ヤマトに滅ぼされて不要になったという解釈が自然
なぜ私は、精魂込めて『神武天皇実在論』を上梓したか
https://nakagawayatsuhiro.com/?p=2913 中川八洋、筑波大学名誉教授
那珂は、1888年に「日本上古年代考」、1897年に「上世年紀考」を世に発表した。
日本書紀の神武天皇“即位”が660年遡り過ぎなのを明らかにした著名な論文。
神武天皇のご即位の時期は、ほぼ西暦紀元頃と、那珂は推定した(注5)。これは学術的に最も歴史事実に迫っている
学界はこれを黙殺し、文部省も徹底無視。
学界も文部省も、天皇制廃止に直結する嘘歴史「神武天皇が存在しない」を推進しているのである。
どうやら、1910年代に、この“逆走”推進が始まったようだ。
方法は二正面作戦。正面攻撃は、津田左右吉に露骨な
「神武天皇は実在しない/皇室がでっちあげた小説よろしい物語だ」の大プロパガンダをさせた。
これは、1919年以降、燎原の火のごとく学校や大学で広まった。
背面攻撃は、GRUロスケが支配していた文部省が音頭を取って1940年に
「二千六百年祭」を全国規模で開催し、神武天皇の即位を紀元前660年に戻した(注6)。
那珂通世の学問を全否定したのである。
さらに、伊勢神宮だけでなく、皇室の祖先の高天原も日向三代も真赤な捏造嘘歴史になってしまう。
そこは、前漢鏡だらけの地だからだ。前漢が存在しない時代なら、前漢鏡も存在しない。
三種の神器のトップ神器“前漢鏡(国産)”を初代神武天皇は
神宮に奉戴していたと記述する記紀を編纂したのは現皇室。
が、前漢が存在する前に神武天皇が即位したとすれば、この記紀の記述は真赤な嘘の垂れ流しになる。
仮にも「紀元前660年に神武天皇が即位」とすれば、
この時には前漢も後漢もまだ支那には存在しないから、神武天皇自体も実在しないということが、
瞬時に確定する。
特に、皇室のレーゾンデートルは、前漢鏡を国産化した天照大神の八咫鏡だから、
「神武天皇は即位時に八咫鏡を奉戴した」が、瞬時に真赤な嘘となるからだ。
もう一人の重要な歴史学者が、内藤湖南である。
「邪馬台国は九州にあった」など、戯言ならまだしも、学問なら妄言・暴言に過ぎない。
なぜなら、「邪馬台国」とは、和語“大和の国”の支那国の宛て漢字だから、
「邪馬台国」は「やまとのくに」としか訓めない。
だが、これを「ヤマタイコク」と、日本は学校教育でもトンデモ嘘読みさせる。
天皇制廃止のためなら嘘を擦りこめ!である。
一方、「やまとのくに」と当り前に訓めば、大和朝廷の皇后クラスの女性皇族が
『魏志倭人伝』の「女王=ひめみこ」となる。卑弥呼は「ひめみこ」の宛て漢字だから、
ヒミコと訓むことはできない。
これはまた、大和朝廷が魏帝国(220~65年)と外交関係を持っていたことになり、
大和朝廷が三世紀前半には北部九州をも統治下に置く確固たる統一国家だったことが判明する。
が、この正しい歴史が『魏志倭人伝』によって判明するのは、天皇制廃止勢力にとって、どうしても困る。
なぜなら、「大和朝廷は三世紀後半以降に誕生した」と、
事実を二百五十年ほど遅らせないと、神武天皇から少なくとも第九代開化天皇までを紙上テロルして抹殺する政治的歴史改竄ができなくなるからだ。
「大和朝廷は、邪馬台国の後に出現した」とか
「大和朝廷は、魏帝国が滅んだあと、邪馬台国が東遷した国家」等の政治的創作の嘘歴史にすれば、
皇室の祖先である「神武天皇~開化天皇」は消え、皇室はどこの馬の骨かわからぬ人物から生まれたとなり、その由緒ある皇統史をぶっ壊せる。
これが、天皇制廃止勢力は暴言・妄言の類「邪馬台国(やまとのくに)は九州」を執拗にがなり立て続ける理由である。
現在は、共産党が組織的に指揮し、
暴言・妄言「邪馬台国(やまとのくに)は九州」を、大学だけでなく、
学校教科書の定説にデッチアゲている。これは明治時代から執拗で、
共産党員のハシリ久米邦武や水平社系の喜田貞吉はこの巨頭だった。
今もその悪影響は衰えていない。
江戸末期ですら鹿児島が日本を代表したりしてたんだから3世紀なんか言わずもがな
邪馬台国が日本の最大勢力だったという根拠は何一つない
畿内から九州土器が出ていないのは、畿内が九州から徴税していなかった証拠である。つまり畿内は倭国ではなかった
まあ両方に国があったんでしょ
それでケンカしてたと
3世紀に北部九州が畿内勢力下にあったかどうかが重要点だが、畿内説は畿内系土器の北部九州流入を根拠に畿内勢力下にあったというが、古くは貝の道や銅矛圏銅鐸圏などそれらの同一性で支配関係を定義できるだろうか
否である
>>553
だから、「倭人(阿波勢力)」の進出 だと何度言えばw @阿波 >>555 帥升が「やまと」と言ったとしても、当時のその国の事は全くわからない。
大和との関係もわからない。
想像や妄想するだけ。
単純に栄えた所を当時の言葉でヤマトと言っていたんじゃ?
例えば高千穂で2ヶ所あるのもこれも単純に高い所にあると言っただけで
隋書では文字が「邪摩堆」と改められ語尾が「タイ」であることが強調されている
248年から150年の間中国の史書に倭国が出て来ない空白の4世紀と言われるが、邪馬台国がヤマト王権ならまったく中国に人を派遣しないなんてあり得るだろうか
それまで数年おきに派遣していたにも関わらずである
中国が混乱して帯方郡も消滅したからなどという畿内説派もいるが、帯方郡が消滅したのは313年
晋が八王の乱で混乱するのは291年、北部の支配権を失ったのは316年
晋が三国時代を終わらせ、291年まではむしろ三国時代より安定していたはずである
なのにその間も邪馬台国はまったく人を派遣していない
なぜなのか
それは滅ぼされたという以外考えられない
ヤマド、ヤマダ、ヤマダイ
必ず臺は濁音になる
屋間処といった意味だろう
川地と対になる
不弥国からの行程で推察するとこんな感じ
>>565
6世紀から7世紀頃に、漢字を読み書きできる能力を持った人が増え始めた倭国(阿波)の役人が、
中国の文献にある「邪馬臺」「邪馬堆」をヤマトと読み、
同じく「倭」もヤマトと呼び習わしたのだろう。 @阿波 魏志倭人伝より150年古い後漢書東夷伝では、狗奴国は東に海を渡ったところとある
これを根拠にすると邪馬台国は九州、狗奴国がヤマト王権という図式がそのまま成立する
どう考えても邪馬台国は九州で、狗奴国ヤマトに滅ぼされたと解釈するほうが記紀などの記述のされ方をみても妥当
卑弥呼を捜すには女王国に見合う集落遺跡を捜すのが一番の早道だ。
これだけで、畿内も九州も消える。 わははははは @阿波
>>568 後漢書は魏志倭人伝にの後に編纂された史書だ
無知にも程がある
>>676
卑弥呼を捜すには女王国に見合う集落遺跡を捜すのが一番の早道だ。
これだけで、畿内も九州も消える。 わははははは @阿波 会稽東治の場所は東冶とは別の場所です
こうやって考えてみると、「阿波」に多く存在する縄文・弥生・古墳~と続く複合集落遺跡って
非常に稀有な存在であることが分かる。 @阿波
AIに聞いてみたら、魏の時代の会稽東治は、現在の浙江省紹興市上虞区になるそうだ
>>575
そんなこと、どうでもよろしいがな。
会稽東治がどうあれ、漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易していたのは、
倭国(阿波)の国々以外に無いんだから。 わははははは @阿波 「会稽の東治」とは、中国の古代史書『史記』や『漢書』に登場する、春秋時代から戦国時代にかけての中国の地方行政制度の一つで、会稽郡(現在の中国浙江省紹興市南部地域)の東側に位置する地域を管轄する制度のことを指します。
この地域は、会稽山脈が東西に走り、東側は山地や海岸、西側は平野地帯になっており、東西の気候や地形によって、産業や文化が異なっていました。そのため、会稽郡においても、東側と西側に分け、それぞれの地域を東治と西治として、別々に統治することが行われていたとされています。
会稽の東治においては、郡治から遠く離れた山間部や海岸部にある村落を支配することが求められ、現地の有力者や豪族を任命して、その地域の治安維持や税の徴収、土地や水利などの管理を行わせることが一般的でした。また、地域ごとに適した制度を導入し、東側の地域の特徴を生かして、漁業や海運を重視する政策を行うことが行われていたとされています。
以上AIの回答です
計其道里 當在会稽東治之東
陳寿の洞察は鋭かった
会稽のほぼ東に九州はあった
>>545 環濠集落の解体にしても、絶対年代の信頼性は確立されていない。
狗奴国との対立はあったとしても、基本的には卑弥呼の半世紀に及ぶ治世は、前後の時代よりも戦乱は少なかったと見るべきだ。
卑弥呼の共立によりもたらされた平和が環濠集落の解体につながったと考えるのは自然。
>>550 その通り。
そして福岡からは西日本全域からの産物を集めたと思われる土器の集積がある。
>>582
>西日本全域からの産物を集めたと思われる土器
土器に産物を入れて運んだと言いたいのか? @阿波 陳寿の計算とはこんな感じだったのではないだろうか
>>584 陳寿は記録の切れっぱししか見た事はないんだよ
それを繋ぎ合わせて文書化しただけ
>>583 入れ物だけ運んでどうするんだよ。
もちろんそれ以外のものも運んだだろうけど、それは跡が残らない。
残って検証できるのは土器だよ。
あと鉄などは九州が独占していたしね。
>>585 郡から東南の九州までが1万里、郡から西に並行移動した場所から東南に1万里の場所が会稽と一致したのと思うよ。
>>586
>入れ物だけ運んでどうするんだよ。
こわれやすくて重い土器は、ほとんど運搬容器としては利用しない。
現地で土器を作っただけ。 @阿波 野菜でも魚でも漬物で運ぶだろ。
土器に入れて運ぶのがベスト。
米は俵で運んだだろうが、形が残らないから見つからない。
実際に土器が移動している。
空で重い土器だけ運んだのか?
その方がバカみたいだろ。
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江→尾張→伊勢→纏向
↓
宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内
【筑紫の海神族・天孫族による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ
東冶だと夏少康の子とは無縁の地だね
三国志は晋で成立
晋の皇室は司馬
その始祖的存在が司馬懿
彼の業績の一つが公孫氏征伐とそれに伴う東夷の朝貢
従ってきた倭国が遠いほど、大国であるほど、呉の背後をつける南方にあるほど彼の功績は高くなる
呉の近くの大きな国が司馬懿のおかげで魏に与しましたと言いたい
だから会稽東冶を厳密に考えても意味がない
と言ってる人がいた
>>593 東冶の東に日本があるとした場合、実際よりも中国に近づいてしまう事になって遠方感が無くなる気がします
260年の揚州の領郡地図だけど東冶は会稽郡には入っていませんね、会稽東部は杭州湾に面しています。
三国志完成は280年ごろ、その20年前から会稽の東冶は存在していないのです。
不弥国から畿内に向かった場合、日本海ルート瀬戸内ルートは共に概ね東に進む事になります。進行方向から日が上り、夕陽を背にして漕ぎ続けるわけですから、ずっと右手が南になるのです。この状況を魏使が南に水行と間違えるはずはないでしょう。これを持ってしても畿内説はありえないのです。
>>590
>実際に土器が移動している。
その比率は極僅か。 極まれに容器として運んだんだろう。
こわれやすくて重い土器は、ほとんど運搬容器としては利用しない。
大半は、現地で土器を作っただけ。 @阿波 >>581 年代の信頼性がないなんて言うなら、土器の流入を根拠に3世紀後半には九州北部は畿内の支配下にあったなどと主張することもできなくなり、何も言えなくなる
現時点分かっている情報前提で推測すべき
吉野ヶ里は3世紀後半に環濠が埋められ、捨てられたとされているのだから、それを前提にすると共立とは別の理由で埋められたとする方が妥当
>>599
>それを前提にすると共立とは別の理由で埋められたとする方が妥当
「埋められた」のではなく、弥生の大洪水で埋まったのが真実。 @阿波 >>596 史書は対象とする年代の地名で書くんだよ。
実際に書かれた年代にどうであったかは関係ない。
>>599 そうだよ。
そんなこと言えないんだよ。
ちなみに私も九州説だから。
卑弥呼共立が九州北部における出来事であったからこそ、そのエリア内でも重要な国邑であったはずの吉野ヶ里の興亡は邪馬台国の歴史と密接に関係していたはず。
>>601
同様に、
中国史書の距離表示は、編纂した時代の縮尺で、直線距離を示しているってこと。
直線距離でないのであれば、記載する意味がない。 @阿波 >>602 年代は不正確とするなら共立で環濠が消えたと主張することも無理
つまり、おまえとこれ以上話すことはない
以上
土器の年代推定も炭素年代も絶対ではない。
それぞれに誤差がかなりあるのに、なぜそんな簡単な科学的事実を認めないのか。
畿内説も九州説も、文系はアホばかりだな。
後に年代が訂正されるとしても、今詳細に年代が出てるわけだから、それ前提で推測するのは妥当だろ
最近INTCAL20で再較正されたみたいに今後も変わるかもしれないから何も言えないなんて意見を求めてるならこんな話題に首を突っ込むなという話
>>601 魏志倭人伝では会稽東治は夏少康の子の話の流れで書かれているが、その時代の東冶は夏少康の子とは無縁の地、東治は会稽山付近で港のある場所とするのが正しいだろう
会稽東治 の東は、江蘇省下相県の真東。
帯方郡(沙里院市)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波
>>606 何もいうなとは言わないが、数年単位で推定できるかのように思っているなら誤解だよ。
少なくとも半世紀くらいは誤差があると思わないと。
>>609 誰が数年単位で推定できるなんて言及してるんだ
吉野ヶ里遺跡の環濠が消えるのは3世紀後半という前提で語っているわけだが
鉄器ないパリピ狗奴国(河内)をボコるのを
尾張篭絡するまで慎重に待ってたんだな越
上だけ始末して労働力はほしいしな
女王国より以北には一大卒が置かれたとある
刺史の如しという
刺史は郡国を監察し政績を奏報する官
伊都国に治すということは伊都国は検察される側
女王国ではない
女王国は伊都国の南にある
つまり(狭義の)女王国とは奴国である
二万戸という人口
斯馬国以下の二十一国の最後に重複して記されている点からも
卑弥呼は奴国にいた可能性はある
問題は奴国がどこかだ
>>612 女王の都する所は邪馬臺國だよ
原文無視乙
邪馬台国、邪馬国の邪馬というのは阿蘇山だろうし
蘇奴国、対蘇国、華奴蘇奴国というのも阿蘇山に関係するんでしょうね
阿蘇も磯城も飛鳥も出雲も伊勢も日向も筑紫も大津も吉野も纏向も吉備も、記紀以降の後付け地名。
記紀に固有の「国名」など有る訳がない。
「好字二字令」は元明天皇の御世、和銅6年(713年)5月に発せられた勅令である。
その後付け地名に踊らされている、三流学者や郷土史家ども。 わははははは @阿波
日本のシャーマンとして有名なのは宇佐神宮の神託ですが、巫女を輩出した辛島氏のルーツを辿ると五十猛命ースサノオに行き着くのです。
これこそ卑弥呼の鬼道の系譜ではなかろうか
>>612 大率が検察したのは、伊都の周辺の諸国だよ。
そしてそれらの国々は伊都を畏怖した。
古代天皇“連続殺人鬼”津田左右吉の記紀“讒謗”学──なぜ私は、精魂込めて『神武天皇実在論』を上梓したか(Ⅲ)
https://nakagawayatsuhiro.com/?p=2934#more-2934
中川八洋、筑波大学名誉教授
中川『神武天皇実在論』は百四年ぶり初の、古代天皇“連続殺人犯”津田左右吉への粉砕攻撃
津田左右吉の“古代天皇《軒並みテロル》嘘歴史“が“赤い巨大機関車”となり
帝国陸軍共産主義“狂徒”派をして、「反共反ソの張作霖爆破(1928年)→5・15クーデタ(1932年)
→国体明徴声明(1935年)→2・26クーデタ(1936年)→『国体の本義』出版(1937年3月)
→大東亜戦争(1937年7月7日~1945年8月15日)→8・14宮城クーデタ」という狂気の大暴走に駆り立てた、と。
中川八洋『神武天皇実在論』は、“日本保守主義の金字塔”昭和天皇『元旦詔書』を補佐して、
津田左右吉『古事記及日本書紀の研究』『神代史の研究』の断罪・粉砕・抹殺に向かって、
日本国民に「突撃せよ! 粉砕せよ!」と指し示す、“古代史歴史学の指揮杖”なのだ。
諸兄には、昭和天皇『元旦詔書』と中川八洋『神武天皇実在論』を両手に、
祖国を皇統護持の“保守主義の精神”で満ち溢れさせるべく、
“悪魔の天皇テロル狂書”津田『古事記及日本書紀の研究』『神代史の研究』を、
剣を抜いて切り刻んで日本から影も形もなく消滅させて頂きたい。
仮にも“悪魔の天皇テロル狂書”津田『古事記及日本書紀の研究』『神代史の研究』が、
日本から葬り去られないとすれば、狂気の赤い革命これからの日本で繰り返され、日本国は滅び、地球から消える。
中川『神武天皇実在論』が、精魂込めて津田左右吉“捏造歴史”に筆誅を加えているのは、
学問における真実探求という学者の良心もさることながら、偉大で高貴なわが皇統の護持に
嘘と狂気の捏造歴史が腐蝕剤的な害毒をもたらす以上、
これを排撃するのは、この日本国に生を受けた日本国民としての世襲の義務だと痛感するからに他ならない。 津田左右吉は一貫して共産主義には否定的であり、戦後の共産主義の流行には批判的であったそうだ。
邪馬台国は黥面文身文化
畿内は早くに漢文化の流入により黥面文身文化を捨てる
記紀にも黥面文身を不可思議に見る神武天皇の嫁の話あり
ヤマト王権は、黥面文身を刑罰としている
つまり邪馬台国はヤマト王権ではない
邪馬台国はヤマト王権とは別の国だったという根拠が多すぎる
日田のゴージャスな鉄鏡は倭国王卑弥呼に相応しい鏡だ
崇神天皇の御世に、悪い病気が盛んに流行して、伝染病にかかった人民は次々に倒れ、今にも、人みな死に絶えてしまいそうになったことがあった。これを見て天皇はひどく嘆き悲しみ、神殿をつくって祈願したが、たまたま神殿の床に眠っていると、夢の中に、オホモノヌシノ大神が現われて、次のように告げた。「今流行している悪い病気というのは、自分のしわざである。しかし、もしも意富多多泥古(オホタタネコ)に命じて、自分を祭らせるならば、神のたたりも収まり、国の中はもとの通り穏やかになるだろう。」
以上古事記より
崇神天皇は大物主を祭る為に箸墓を作ったのではないのか?
大物主が作らせた墓なので夜は神が作ったとも言われるのだろう。
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が出土した日田のダンワラ遺跡は前方後円墳なのかな
畿内説論者に「帯方郡から末盧国まで1万里」に異論のある人はいるのかな?
履中天皇以降は平均在位年数12年前後で実際の在位年数と直線的にフィットするが、履中天皇以前は急激に在位年数が延び、平均60年ほどになる
これはあまりに非現実的すぎ、人数が不正確、寿命が不正確などの理由が考えられるが、おそらく人数はおおよそ正しくて、寿命が無茶苦茶説を推す
平均在位12年で計算した神武天皇の実在時期は西暦200年前後。
中臣氏や物部氏など他の氏族の系譜を1代20年で遡ると、天皇との関係が記紀にある各氏族の推定実在時期と推定天皇実在時期がぴったり重なり合う
記録にある人数もおおよそ正しくて、寿命も現実的に考慮するとやはり卑弥呼が実在した頃に、神武天皇が即位しヤマト王権のはじまりがあると考えていいだろう
大伴氏も西暦500年頃から1代20年で遡ると神武天皇と同時代の道臣命もだいたい西暦200年頃になるね
九州倭国大乱で卑弥呼が共立し、居場所の無くなった日向神武が居場所を求めて畿内に移動というナラティブ
いい加減邪馬台国に天皇絡めるの止めたら
元々関係ねえんだから
その通り!
邪馬台国は九州だから、畿内の天皇は関係ない。
>>1 ★★★猿でもわかる邪馬台国の九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html 伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高い。
しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい歳した大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめようぜ。
岡田英弘が何十年も前に行ってるよね
魏志倭人伝なんか政治的意図をもって書かれたものなんだから
真面目に読むもんじゃない
>>639 この説得力のないバカコピペを繰り返すのは何故?
司馬遼太郎
街道をゆく
中津・宇佐のみち
ダウンロード&関連動画>>


@YouTube 倉本一宏氏の話は面白いね
松本清張記念館シンポジウム「東アジアの
中の邪馬台国一清張邪馬台国論の現在」
ダウンロード&関連動画>>


@YouTube なんだろうね
ここはYouTubeではないだろうに
中国歴史書に登場、最初の日本人「帥升」 弥生時代の吉野ケ里の王か 邪馬台国論争に一石
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/1030781 吉野ヶ里の遺跡は丘の上に有るので洪水で消滅したわけでは無いわな、どこの遺跡のことよ?
吉野ヶ里と並行して糸島もそれ以上に繁栄していたから、帥升が吉野ヶ里ということはあるまい。
吉野ヶ里と糸島は同じ甕棺墓の同族だが、威信財の量で糸島の方が遥かに上。
伊都国が表玄関ならば吉野ヶ里は有明海側の裏玄関だったのかな
>>656
>吉野ヶ里と糸島は同じ甕棺墓の同族だが
甕棺墓で同族? じゃあ、「阿波」も同族か? わははははは @阿波 魏志倭人伝を素直に読めない畿内説は性格も思考回路もひん曲がっているようだ。
九州を支配下に置いていたという図々しいのが畿内説。
証拠が全くありません
魏志倭人伝を素直に読むと邪馬台国は南西諸島海域になるのを理解しない九州説は放射説や短里でひん曲げてお笑いになっているようだ。
>>664 夏后少康の子がいたのは会稽山あたりだから問題ない
>>666 真実をウソと言い張るのがイカサマ畿内説
また九州説のウソがばれた↓
>真実をウソと言い張るのがイカサマ畿内説
仮に末盧国を九州最北端の北九州市付近だとしても、東南に600里、東に百里の場所は中津付近が不弥国となり九州を出ることはない
3世紀、出雲や吉備などを勢力下に置き、北部九州にも急速に影響が出始めたような勢いある勢力が、魏に対して「狗奴国と戦っていて大変」みたいなことを言うだろうか
不自然極まりない
むしろそのような勢力が狗奴国で、九州邪馬台国が魏に助けを求めたと考えるほうが自然
邪馬台国が熊襲と戦っていて、熊襲が狗奴国というのも不自然
3世紀、畿内勢力が急激に勢力を拡大していたことは間違いなく、九州邪馬台国としては畿内勢力との争いのほうが重要だっただろう
邪馬台国こそが熊襲などを統べる共立王で、畿内ヤマト王権が狗奴国と考えるのが妥当
2世紀後半卑弥呼共立により熊襲も邪馬台国にまとまり、居づらくなった日向神武が畿内に居場所を求めて移動し、50年5代かけて急激に力をつけて九州北部を支配したのでは
そもそも記紀の熊襲征伐も九州北部での話
>>677
末盧国(四千戸)(福津市(万津浦)辺り)
↓【東南】陸行500里 (25km)1里50m 福津市→猿田峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15km)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25km)1里250m
不弥国(千家)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(土佐国宿毛・太平洋沿岸一帯)
九州を出て、四国だ。 @阿波 >>678
>魏に対して「狗奴国と戦っていて大変」みたいなことを言うだろうか
言う!
「狗奴国」は「邪馬臺国」に勝るとも劣らない超強大国。
その国力の源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。
碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州・畿内に、「狗奴国」や「邪馬臺国」など興る訳がない。 @阿波 >>679 不弥国から東に水行しているのでアウトだ
築上町は潮干狩りで有名な遠浅の浜なので船を出せたとしても東に向かうしか無いだろうな
築上町から南に水行するには真如寺川を遡るしか無いな
>>686 お絵描きが出来るなら築上町からのルートを書いてみな
今は埋め立てで奥まった位置にあるが、真如寺川の河口から東へを出航すればよいだけのこと。 @阿波
投馬国の官ミミナリは景行天皇に討伐された山国川上流に居たとされる耳垂のことだろう、つまり投馬国は豊前周辺で、邪馬台国は豊前の南にあると考えられる、山国川を南に水行陸行すれば日田に到着する。日田は天然の要塞で卑弥呼を敵から護るには適した場所である。八女の環濠集落は日田を護る前線基地として機能していたのだろう。
むしろ畿内が九州の配下に置かれたと理解した方が合点がいかないか
箸墓は物部さんの故郷の能古島をモチーフに作ったのだろうな
>>691
お前、物部東遷・大物主・日本書紀バカか? わははははは @阿波 >>692 何だ?怯えてるのか?物部東遷って何だね?
>>695 放置プレイしようとも考えたけど優しい俺であった。
>>696
反論できないから放置しようとしたのか? わははははは @阿波 >>698
それが精一杯の反論なのか? わははははは @阿波 >>699
なんで軽い手漕ぎの木造船で座礁するんだ? 鋼鉄のでかいタンカーでも想定しているのか? わははははは @阿波 >>691 > 箸墓は物部さんの故郷の能古島をモチーフに作ったのだろうな
>
この視点は面白いな。
イザナギとイザナミが最初に作った国土である淤能碁呂島は能古島のことだという説があるし、それなら九州を起源とするヤマト王権がそれに因んだという考え方もできる。
築上町(旧築城)の南に海はない
>>702 作られた当時は周囲に環濠があったそうなので、どこから見ても海に浮かぶ島のよう見えたと思います
>>705
>築上町(旧築城)の南に海はない
そうか、よかったな。 わははははは @阿波 土の確保して、そこに水が貯まれば人が近づかない。
だと考えるが。
周濠のある古墳は、池と築山で構成される日本庭園へと進化したと思います、枯山水もその流れではないかと。
>>706 あり得る。
弁天様を池の中の島に祭るようなものか。
>>711 弁財天と言えばイチキシマヒメなので島との関わりが深いですね、物部氏と宗像氏の結びつきを連想してしまいます
東大寺大仏殿前の鏡池の島にもイチキシマヒメが祀られていますね
保守主義の哲学‐‐‐中川八洋 筑波大学名誉教授著『神武天皇実在論』を読んで、日本国の正しい歴史を取り戻すために立ち上がろう!
http://blog.livedoor.jp/edmund_burke/archives/19327465.html 筑紫ひむか三代---福岡県糸島市の「伊都国」こそ、“聖なる皇室の起源” ”(13頁)
支那語「邪馬台国」は、「やまとのくに」と訓む。これ以外の訓み方は不可能。
極左「反日」革命勢力は、共産党の“言葉殺しlogocide訓み”「ヤマタイコク」を、今なお、宣伝し続ける。学校教育もそうなっている。 ”(72頁)
内藤湖南の「邪馬台国は大和朝廷」、笠井新也の「卑弥呼は百襲姫」 ”(75頁)
邪や馬ま台との国くにとは、伊都国人の神武天皇が、紀元ゼロ年前後、
伊都国から大和に移動して建国した“大和朝廷の日本国”のこと。それ以外ではない。 ”(98頁)
実在の史実が明瞭な神功皇后を抹殺し神功皇后不在説を捏造宣伝する目的から、
津田左右吉は手練手管の嘘と詭弁を展開した。神功皇后を日本の歴史から抹殺すれば、
同時に仲哀天皇を抹殺できるばかりか、さらに応神天皇を由緒正しい天皇ではなく、
九州のどこかのいかがわしい豪族の出自に貶めることができる。
神武天皇から続く日本の輝く由緒正しき天皇の尊貴・尊厳を、
“日本の天皇の祖は、応神天皇という九州の素性定かではない豪族の出にすぎない”という真っ赤な嘘の皇統譜に摺り替えて貶めるべく
“赤い悪魔”津田左右吉は、“記紀は創作であって史料ではない”との、荒唐無稽な「記紀=小説」説を捏造したのである。 ”(207頁)
大嘘「応神天皇が初代天皇だ!」をプロパガンダすれば、
神武天皇/邇邇にに芸ぎの命みこと/天照大神/「万世一系」をダイナマイトでぶっ飛ばす威力で抹殺できる。
この大嘘を吐くに、応神天皇をご出産された“母”を、事前に処刑しておく必要がある。
“狂信的な天皇制廃止”カルト宗教団体の日本共産党が神功皇后不在論を捏造・大宣伝する理由はこれ。 ”(210頁)
どの豪族かも比定せず、両親も不明な「九州の豪族が初代天皇」など、狂人の戯言 ”(212頁)
『隋書倭国伝』は、「邪馬台国」を「やまと(のくに)」と訓(よ)め、と明記している。
「倭国は、邪摩堆(やまと、大和)に都す。『魏志』のいわゆる邪馬台なる者なり」。つまり、
倭国王とは、第五代・孝昭天皇のこと。 ”(299頁)
日本の古代史家は一丸となって、“狂った大義”天皇制廃止を目がけて、ライフル銃を無差別乱射する。
〔中略〕その行動様式は次の三分野で展開され、無法の刑法犯罪が日常の暴走族や暴力団と同じ。
第一。「神武~開化天皇の九天皇は不在」(津田左右吉)に始まる古代天皇“軒並み抹殺”。
第二。天皇の御陵ごりょう(みささぎ)を「遺跡の古墳」とし、御陵暴き/御陵潰しによる皇室ご祖先“抹殺”。
第三。「弥生時代は無かった→天照大神/日向ひむか三代/神武天皇は不在」で皇室ご祖先“抹殺”
”(342頁)
例えば、仁徳天皇陵=百舌鳥耳原中陵(もものみみはらのなかのみささぎ)という陵を、
共産党支配の古代史学界は平然と「堺市大仙町にある古墳にすぎない」を意味する、
地名を冠した「大仙陵古墳」と改竄した。
しかし宮内庁は、刑法第188条「礼拝所不敬罪」違反が明らかなこの“違法”呼称に対し、刑事告発の義務を果たそうとしない。 ”(344頁)
正語「天皇」「大和朝廷」復権! 共産党語「大王」「ヤマト王権」撲滅! ”(365頁)
神道としての三大弁才天は全て島に祀られていた
天照大神の子供の宗像三女神の中で子供がいないのがイチキシマヒメ。イチキシマヒメが卑弥呼だったのではなかろうか
>>716 当たり前だろ。
弁財天は神仏習合された市杵島姫に他ならないし、全ての弁天様は九州北部の宗像大社の沖ノ島から勧請されたのだから。
弁天様にある島とは、高天原のモデルである聖地、沖ノ島だよ。
高 高貴な、祖先の
天 海人族(アマ)の
原 国邑、城
玄界灘に浮かぶ聖地、沖ノ島が高天原だよ。
海に暮らす倭人の王の名がアマテラス、海を支配する王。
市杵島姫
宗像三女神を祭神とする福岡県の宗像大社では、総社(福岡県宗像市)の辺津宮(へつみや)に祀られている[1]。
大分県の宇佐神宮では、多岐津姫命・多紀理姫命とともに比売神として、二之御殿(3つ並んだ御殿の真ん中)で祀られている[3]。
京都府の石清水八幡宮でも同様に、比咩大神として、左御前に祀られている。
また、京都府の松尾大社では、中津島姫命の別名で、主祭神二柱の一柱として祀られている[4]。
元伊勢として知られる京都府の籠神社では、主祭神である彦火明命と夫婦であるとされ[5]、絵馬になっている。
>>717 なるほど!
素晴らしい。
宗像大社が沖津宮ではなく辺津宮で市杵島姫を祭る理由がよくわからなかったが、辺津宮の神器は八咫の鏡と伝えられるので、平原遺跡の女王と同一人物であったとしてもおかしくはない。
しかも宇佐神宮、籠神社、松尾大社、厳島神社、竹生神社などでも主神かそれに並ぶ立場の姫神。
灯台下暗しでしたね。
卑弥呼のような人物が日本の神道の中でキチンと扱われていないのは不審でしたが、なんのことはない。
天照大神とあわせれば、日本神道の大半は卑弥呼を祭っていることにすらなるわけで。
まあ、個人的には天照大神は男性の可能性が高いと思うので、市杵島姫が卑弥呼というのは実に納得がいく。
しかも八咫の鏡を託された天孫の守護者なので、関わりも十分と。
宗像大社の辺津宮の八咫の鏡は神夏磯姫の関わりかと思っていたのですが、市杵島姫の方が納得がいきます。
>>719 それにしても、畿内だけでなく西日本も東日本も、主な神社の祭神は本当に筑紫と出雲の神だらけですね。
>>722
その筑紫と出雲の神は、「阿波」の神だらけだがな。 @阿波 >>679 50m〜250m 短里って便利だな
十分、近畿圏も入るな
邪馬台国は近畿
卑弥呼は九州へ
>>727
>十分、近畿圏も入るな
直線距離ならな。 @阿波 >>726 大国主は何人も妻問婚しているからな。
出雲大社は恋愛の神様とされているらしいが、それは大国主が何人もの女性と恋愛を成就させたからだとか。
それったどうなの〜
>>729 霊魂となった後もモモソヒメに夜這いしているから相当のやり手ですなw
畿内説は砂上の楼閣でした
纒向1類が2世紀後半の物と言われているから、卑弥呼共立の時にはまだ纏向は大集落にはなっていない、ましてや王都と呼べる様なものではなかっただろう。つまり纏向には卑弥呼の居場所が無かったという事です。畿内説が想い描いた「卑弥呼の宮殿」としての纏向は砂上の楼閣でしかなかったのです。
すずめの戸締りからヒントを得たのだが、海を戸締りしていた一大率とは宗像氏の事だったのではなかろうか、卑弥呼がイチキシマヒメなのであれば当然同族の宗像氏から一大率を任命するでしょうから。
>>733 祟り神ですな、天照大神も伊勢に逃げ出した
>>734 大和大国魂神も天照大神も神威が強いだとか畏れ多いとか理由をつけて崇神天皇に追い出されたんだが。
>>735 また大物主が夢に出てきたのかもしれない
崇神天皇が天照大神と大物主の関係を察して、天照大神を大物主から遠ざけたのだろう
これで見つからない。「良し」としたのが記紀か。
なるほど
国譲りというオブラートに包まれた表現だが、実際は征服され殺されたという事でしょうね、そりゃ祟るだろう。出雲大社の四拍手は大国主の魂を封印しているのだろう。
大国主は高い宮を作らせると、そこに「お隠れになった」ですからね。
亡くなったわけです。
高天原の武力による威嚇に対して、自分一人を犠牲とすることで、出雲が戦場となるのを回避したわけです。
新宿の出雲大社はミニミニサイズ
六本木にも出雲大社があります
それでもちゃんと他より階段が少し長いような気がする。
出雲大社の本殿の階段はめちゃくちゃ長かったらしいからな。
昔の宇佐神宮の百段(実際は99段)
>>751 「蛇堀の池と宇佐の百段」という伝説があるのよ
同じ様な伝説が残る熊野磨崖仏への鬼が一夜で作ったと言われる石段。ここを登った知人の女性はもっとゆっくり時間をかけて作ってくれれば良かったのにと不服そうだった。
>>754 小野妹子は607年に宇佐神宮に参拝しているけどな
>>754 社殿の事か?だが神社の歴史がそんなに浅いわけなかろうw
>>728 あなたが!
あなたが有名な邪馬台国阿波説の「@阿波」さんですね!
応援してます!頑張ってください!
俺も邪馬台国安房説を支持してます!
魏人伝の通りに行ったら安房としか考えようがありませんからね!
畿内説論者は愚か者ですよね!
邪馬台国は房総にあり!!
これが最終結論!!!
邪馬台国阿波説は宗教。よく「信じてます」って口にする。学問ではない。
宇佐神宮は短い期間だが安徳天皇と平家が居した場所なので城としての機能は充分だったのだろうと思う
宇佐神宮卑弥呼の墓説なんてまったく気にしてもなかったけど、人工ではないが円墳にも見え、しかも石棺や甕棺が見つかったなんて話もあるのか
発掘しろや
宇佐神宮、出雲大社、弥彦神社と日本海側の有力国に鎮座する3つの神社が揃って2拝4拍1排なのも意味深
ヤマト王権が滅ぼした有力国の王を祀った場合は2拝4拍1拝なのかもね
>>766 面白い視点だが、ヤマト王権が滅ぼしたというのは根拠が薄いな。
出雲を征服したのは筑紫だし。
正確には高天原なのたろうが、すぐに天孫が筑紫で即位したから、事実上は出雲を倒したのは筑紫。
宇佐、出雲、弥彦なら、単に筑紫と出雲と越の三国の最上位の宮だけ拝礼の方法が特殊なのではないか?
>>766 ある本によると、拝礼のしかたが違うのは、大和の意向。
対抗した関係者が祭られてるらしい。
書いた人の説と言うのかもしれんけど。
>>769 少なくとも宇佐は対抗していないだろ。
記紀でも神武を厚くもてなしたりしている。
応神以降はむしろ直系の皇祖だろうし。
神話が日本史とか失笑
考古学的裏付けがあるならまだしも
歴史学も考古学もいかに良い物語を作るかを競ってるだけで学問じゃ無い
文系が馬鹿にされるのも当然だ
当時をシミュレーションするにはそれなりの頭が必要だからな
卑弥呼共立の2世紀の纏向は未開の地、纏向は邪馬台国では無い
>>781 横からだが、そのレスには根拠が提示してあるのにお前が読めてないだけじゃないか?
畿内説は、土器流入が支配の根拠であるという説に立脚した非常に脆い土台の上に成り立っている
もちろん、土器流入が支配の根拠にはなり得ない
しかもその論法に乗っても伊都国は独立勢力のままだし。
畿内説は文盲だろ。
まあ、そもそも魏志倭人伝も読めてないから畿内説なんてやっているんだろうけど。
畿内説って卑弥呼の時代の土器が出たって事だけだろ、九州だとその時代には西新土器がある
>>790 畿内説の成分の90%は箸墓の年代で出来ています。
>>791 その表現だと消防署の方から来ました詐欺と同類
正しくは、畿内説の成分の90%は箸墓古墳の周濠で拾った土器の年代で出来ています。
>>792 その周濠から出てきた土器も、古墳と関係なくのちの土地の開墾時に出てきた古い土器を捨てた物だとしたら年代は狂ってくるな
>>793 畿内説学者はそういう事を想定出来ないほど低能だから
ちなみに箸墓の周濠からは布留1と馬具も発見されている
>>796 そっちの方が箸墓の本当の年代かもしれないね
弥生時代の勾玉って奈良からは出ていないのな
台与が貢いだ青大句珠は平原遺跡から出土した勾玉と同等の物だったのでは無いのだろうか
人類学的にジャップのゲノムは紀元前3000年頃の遼寧省の遼河文明人のものだと判明している
縄文人はアイヌの先祖でありジャップは遼寧省から韓半島を経由して日本列島に移住したんだ
遼寧省が農耕に適していた上古に夏家店下層文化が栄えていた
しかし気候変動で農耕ができなくなり遼河人は南方へ移住していった
殷王朝は彼らの王朝だったという説も強い
夏家店下層文化人が使っていた言語が古日本語だった
彼らは農耕が不可能になって故地を捨てて韓半島に移動した
そしてそこで山東から江南にかけての稲作農耕を取り入れた
今のジャポニカ米はその子孫だ
そして古日本語話者の一部は北九州にまで生活範囲を広げていった
これが弥生時代の始まりだ
遼河が乾燥して干上がった後も一部は移動せずに残った人がいた
残った人たちは近隣の狩猟採集民と協力し半農半牧の生活を取り入れてその地に適応した
これが夏家店上層文化人で古韓民族の起源となる
春秋戦国時代の燕が遼寧に勢力を伸ばしていった結果、古韓民族は韓半島へ民族移動をして先住の古日本語族を駆逐した
三韓の土器は夏家店上層文化の粘土帯土器の系譜にある
そしてジャップの弥生土器は三韓に駆逐される前の松菊里文化人の土器が元になっていて、これは夏家店下層文化の一つの偏堡文化の土器に連なる
ジャップの起源は西遼河人であり縄文人ではない
邪馬台国は奈良県であり中国の属国として朝貢をしていた
これが真の歴史だ
>>802 ほう、ハノい
実にブタチックでハノい
で、弥生土器の元とおまえがウソブく、その三韓に駆逐される前の松菊里文化人が
入植した証拠の先松菊里式土器遺構や欣岩里式土器遺構はどこ?どこ?どこ?どこ?
で、弥生土器の元は沿海州南部のシニ・ガイ文化の刻目突帯文土器なんだが、
同期する朝鮮半島の刻目突帯文土器遺構はどこ?どこ?どこ?どこ?
早く言ってみろよ視界に入るとウンコ臭がしてくる南支那短顔ブタ広鼻 突顎 巨大タラコ唇チンクピーノ(嘲笑
史書を自分たちの都合に合わせて、安易に原文改定するのが畿内説
九州は熊襲や隼人らの野蛮人が住む島
大和王朝は野蛮人を遠征で征伐した
邪馬台国が大和王朝の元ならありえない話だね
>>813 九州は文化の先進地だよ、稲作に鉄に絹。
奈良盆地は100年以上の後進地。
朝鮮手法を取り入れて歴史改変を望む畿内説
文献記録も遺跡も九州を指しているにも関わらず
美味しそうなものでもあるのか?
住民は貫頭衣を着て裸足、顔には刺青。
魏に生口を差し出して、印鑑や鏡を貰ってる。
魏とのお付き合いが欲しいのかね?
7万戸は九州ではありえないなどと畿内派は主張するが、平城京でさえ10万人程度
邪馬台国7万戸なんてあり得るだろうか
距離も戸数も相当盛ってるだけだろう
最低でも大和王権は邪馬台国の関連勢力。北魏や神聖ローマ帝国のように先代勢力の残党と結び付かないと国号の継承はありえん。
倭国(阿波)が、8世紀に奈良大和へ避難疎開遷都して、大和朝廷(日本国)の発起。 @阿波
阿波が、8世紀に奈良大和から左遷されて、四国(死国)の発起。 @阿波
なんで白村江の戦いで負けてしまったのだろう?
ただ単に兵力物資のせいなのだろうか?
倭国大乱が畿内から北九州まで西日本一帯の戦乱であれば、倭国大乱期に漢鏡出土が畿内に集中するような独走状態なのに共立して卑弥呼を立てるなんてことをするだろうか
そんな飛び抜けた力のある国が共立なんてするわけがない
倭国大乱期に鏡の出土が激減する九州こそが倭国大乱の舞台で、共立されたのが九州邪馬台国の卑弥呼とするのが妥当
その後倭国大乱で衰退した九州を尻目に畿内が力をつけ、265年以降九州邪馬台国を滅ぼしたのだろう
>>829
>そんな飛び抜けた力のある国が共立なんてするわけがない
その通り! 吉野川流域の国々は、独自に鉄器を作れる強国が乱立していた。 @阿波 >>831 へえ、その中で、ソロモン=シバが國を開いたのか・・・
なるほどな
>>764 宇佐神宮と太宰府天満宮が一直線で繋がってるのは何か関係ありますか
糸島-太宰府-宇佐神宮-奈良 は直線で繋げられます
糸島-宇佐の延長線上は奈良ではありませんね
当時の地図は不正確で、奈良は糸島-宇佐の延長線上だった可能性がある。
正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拝暇倭王 并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 荅謝詔恩
この時魏使から鏡を貰っているが銅鏡とは書いていないので鉄鏡の可能性がある。魏から貰った鏡は100枚の銅鏡と1枚以上の銅鏡では無い鏡の可能性が高い
>>838 魏の王からの贈り物ではないなら、リストに載って無いだろう。
>>839 景初二年の朝貢の時に100枚の銅鏡を貰い、これとは別に正始元年に魏使から鏡を貰っています
この正始元年の鏡は銅鏡とは書かれていないのです
魏から貰った鏡は
景初二年に銅鏡百枚
正始元年には鏡(銅鏡とは書かれていない)
魏は景初二年に百枚の鏡を授けているわけで、正始元年に同等の銅鏡を倭国に授けても卑弥呼はあまり喜ばないだろうと察し金銀錯嵌珠龍文鉄鏡をお土産にした可能性は高いと思う
朝貢した理由はわかっていない。
50年頃から、なぜ朝貢したんだろう。
そりゃ、鍛冶素材を手に入れるために朝貢したのさ。 それ以外にあるか? @阿波
景初元年(237)燕で公孫淵が独立して燕王を名乗ったのでお祝いの使者を出した可能性
>>848
ちょうどそれぐらいから鉄器王国「阿波」では鍛冶を始めているので、
その朝貢も鍛冶素材を手に入れるためさ。 @阿波 >>848
BC300年ごろの燕な。 ちょうどそれぐらいから鉄器王国「阿波」では鍛冶を始めているので、
その朝貢も鍛冶素材を手に入れるためさ。 @阿波 >>844 銅鏡は東の倭種の国で売れるからと、大倭に頼まれたんだろう
詔書に"これらの総てを汝の国中の人に示し、我が国が汝をいとおしんでいることを周知すればよろしい。"とある。
訳文なので正しいとして。
この理由
>>856 「親魏倭王」の印も貰ってるが、鏡が悪い状態で見つかってるから、印はもう無いかも。
>>858 鉄は錆びるけど、金は錆びないから、鋳潰して無ければ残ってる可能性はある。
>>860 相当注意深く警備しておかないと盗掘されるぞ
吉野ヶ里謎のエリア古墳は径百歩。
>>863 魏志倭人伝に書いてあるのは土を持った「冢」だ
古墳じゃなくて「冢」な
丘でもいい
>>865 吉野ヶ里の王墓だとしたら期待できるよね
>大麻で30の国を何十年もまとめられるはずがない
大麻で30の国を何十年もまとめたなどとだれもおもっていないよ。 わははははは @阿波
吉野ヶ里でとうとう卑弥呼の墓発見か
■魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の居住区の様子
『宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛』
宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に武器を持った人が守衛している。
[佐賀県]高貴な人が住んでいたと思われる警備厳重かつ頑丈な建物
吉野ヶ里の大型建物と人
吉野ヶ里周辺建物と人
■畿内説にとって唯一の頼みの綱
[奈良県]古墳完成までの遺族向け宿泊所と思われる無防備で貧弱な平屋物件
纒向の大型建物
纏向の大型建物の柱と人
>>869 定番
吉野ヶ里 卑弥呼が居た所
纏向遺跡 邪馬台国の一部
>>869
吉野ヶ里遺跡一つで、夢を見られるお気軽さん。 わははははは @阿波 >>859 最近はないだろうが、工事現場で遺跡が見つかると骨董屋に売れそうな物をとり、その後に連絡する。
かなり前に工事関係者から聞いた。
元々、墓にあったかどうかも不明
>>873 残念。
蓋を取るとキョンシーが飛び出る
>871
考古学的証拠を無視するひょうでは未来はないな。
ああ、泡に未来も何もないか。
>>876
「阿波」の考古学的証拠を無視するのは、お前ら。 @阿波 TwitterやYouTubeを見てみるとネトウヨ芸人はみな九州説だな
口を揃えて韓国ヘイトをばら撒くレイシスト
統一教会や安倍信者や日本会議や暇アノンの教義なのか?
ネトウヨに残酷な歴史的真実を告げよう
人類学的にジャップのゲノムは紀元前3000年頃の遼寧省の遼河文明人のものだと判明している
縄文人はアイヌの先祖でありジャップは遼寧省から韓半島を経由して日本列島に移住したんだ
遼寧省が農耕に適していた上古に夏家店下層文化が栄えていた
しかし気候変動で農耕ができなくなり遼河人は南方へ移住していった
殷王朝は彼らの王朝だったという説も強い
夏家店下層文化人が使っていた言語が古日本語だった
彼らは農耕が不可能になって故地を捨てて韓半島に移動した
そしてそこで山東から江南にかけての稲作農耕を取り入れた
今のジャポニカ米はその子孫だ
そして古日本語話者の一部は北九州にまで生活範囲を広げていった
これが弥生時代の始まりだ
遼河が乾燥して干上がった後も一部は移動せずに残った人がいた
残った人たちは近隣の狩猟採集民と協力し半農半牧の生活を取り入れてその地に適応した
これが夏家店上層文化人で古韓民族の起源となる
春秋戦国時代の燕が遼寧に勢力を伸ばしていった結果、古韓民族は韓半島へ民族移動をして先住の古日本語族を駆逐した
三韓の土器は夏家店上層文化の粘土帯土器の系譜にある
そしてジャップの弥生土器は三韓に駆逐される前の松菊里文化人の土器が元になっていて、これは夏家店下層文化の一つの偏堡文化の土器に連なる
ジャップの起源は西遼河人であり縄文人ではない
邪馬台国は奈良県であり中国の属国として朝貢をしていた
これが真の歴史だ
漢・魏と誼を通じ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易していたのは、
倭国(阿波)の国々以外には無い。 わははははは @阿波
>>1 ★★★猿でもわかる邪馬台国の九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html 伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高い。
しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい歳した大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめようぜ。
>>880 今はおとなしく吉野ヶ里に注視する時ですよ
中国の歴史書がもう邪馬台国の所在地を記して、日本から物的証拠も出ている。
・後漢書
「その大倭王は邪馬台国に居する」
・隋書 倭国
「その国境は東西五月行、南北三月行にして、それぞれ海に至る。地勢は東高く、西は下。邪靡堆に都する。すなわち、魏志いうところの邪馬臺なる者なり」
倭国🟰邪馬臺
・旧唐書 倭国
「倭国はいにしえの倭奴国のことである。」
倭国=倭奴国
・新唐書 日本
「日本は古の倭奴国である」
日本=倭奴国
・宋史 日本国
「日本国は本倭奴国也」
日本国=本倭奴国
=を繋ぎ合わせると
【倭国🟰邪馬臺=倭奴国=本倭奴国也】
今の中国の歴史書(正史)は
【倭国は邪馬壹(邪馬台国)で昔の倭奴国ですよ】
と正式に言ってる。
金印(漢委奴国王印)は福岡県から出てる。
歴史書も物的証拠ももうあるんだよ。
これが吉野ヶ里遺跡と関係があるとは言ってない。
>>884 ミラクル曲解で現実逃避しか出来ない哀れな畿内説w
この畿内説さん、引きこもり無職だそうです(知人情報)
886:日本@名無史さん:[sage]:2023/05/31(水) 14:12:08.25
現実から相手にされた事がない九州説
ただただ恥の上塗りを重ねるだけの畿内説
888:日本@名無史さん:[sage]:2023/05/31(水) 14:41:17.20
罵倒しようと九州説が妄想な事実は覆らない
吉野ヶ里に径百歩の古墳が出たね、また一つ畿内説の拠り所が消滅した瞬間でした。
水行は別ルートなのかもしれないね、水行ルートを書くことによって倭国の大きさがイメージ出来るから
吉野ヶ里への別ルートはこんな感じだろうね、水色の矢印が水行の行程
上陸して海で遊んでから再上陸して引き返す邪馬台国九州ギャグ
>>896 古墳(こふん)とは
原義・第1義としては、「古い墓」「古人の墓」を意味する。
「邪馬臺国」とは、独自に自在に鉄器を作れる国々(集落)の集合体国家。
つまり、大河「四国三郎吉野川」流域集落国家群。 @阿波
上陸して草むらをかき分けて進んでから、また船出する畿内説は頭おかしい。
女王国への里程の半分も行かないのに女王への貢物の封泥を破って中身を確認したことになるのもおかしい。
阿波さんいる?
前方後円墳の起源は四国って話あったよね? 年代的にはいつくらい?
極端にいうと別に縄文時代に四国民が思いついて作っていてもいいよね? 各地に広がるのが後でも?
四国にある最古のは何年くらい?
宇佐神宮のルーツと思われる米神山
「前方後円墳の成立に大きな影響を与えたことを示す「萩原2号墓」
築造は弥生時代終末期の2世紀末~3世紀初頭で、
邪馬台国の女王、卑弥呼が活躍した時期に一致する。 @阿波
ちまり、「卑彌呼」の時代にはまだ「前方後円墳」は誕生していない。 @阿波
つまり、「卑彌呼」の時代にはまだ「前方後円墳」は誕生していない。 @阿波
前方後円墳は甕棺墓を巨大化したもの
もうこれを
>>1に記載しておけよ
よ う こ そ 邪 馬 臺 国 へ
翰苑(第30巻のみ大宰府天満宮に残る:唐の張楚金の編纂)
が引用している「廣志」に、邪馬台国の場所が記されている。
邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。←博多湾の情景か?
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国。又南、至る邪馬嘉(臺)国。
中国の史書において、連続した行程の場合は「又~至る」と記述される
※伊都国:福岡県糸島市,福岡市西区あたり
■アクセス
伊都国の南 徒歩すぐ
知能が一定ラインを超えると東遷説に目覚める事ができる。
吉野ヶ里の石棺から見つかるのは、おそらく人骨と考えられる。
古いがゆえ、誰の骨か分からず、弥生人の骨の名がつくだろう。
私の大予言
卑弥呼の宗女・壹與、宗女って宗像族の女って意味かもしれんね(妄想)
お前らトンデモどもに言っておくが、そもそも石組み・石積み技術は、
太古より「倭人(阿波勢力)」、特に四国山地(忌部の郷)青石積みが発祥なのである。
今回の吉野ケ里遺跡の石棺も「倭人(阿波勢力)」によるものだとよく分かる。 @阿波
阿波が何か書いてもあぼーんなので読むことはないのである
>>933
そう言いながら、気になって仕方ない訳だな。 わははははは @阿波 お前らトンデモどもに言っておくが、そもそも石組み・石積み技術は、
太古より「倭人(阿波勢力)」、特に四国山地(忌部の郷)青石積みが発祥なのである。
今回の吉野ケ里遺跡の石棺も「倭人(阿波勢力)」によるものだとよく分かる。 @阿波
移転前の日吉神社境内に置かれていた石棺の蓋らしき平な石、神社建設時に出てきた物なのかな
佐賀県教委、石棺デターって騒いじゃったけど、実はフタだけだったんと違うか?
>>940
間違いなくお前は佐賀県教委よりアホだ。 @阿波 奈良は馬具をちゃんと調査しろ
もし同じ時代ならそっちも日本史ひっくり返るだろ
あとちゃんと年代測定して本当に後世のものと分かったとしてもそれはそれで大発見だろ
邪馬台国に都合が悪いからなかったことにってほんとたち悪いわ
535:日本@名無史さん:[sage]:2023/06/06(火) 09:53:17.74
もう訴えられそうな勢いだなw
畿内説の主張は霊感商法詐欺に抵触するのでは?
①箸墓古墳の年代は卑弥呼の墓にピッタリなのだ!
実際には周濠から出土した土器の炭化した付着物の年代測定であり、古墳の年代ではありません。
同じ周濠から4世紀の土器や馬具も出土していますし。
②纒向の大型建物は卑弥呼の宮殿なのだ!
これも建物とは無関係な遺構で発見された桃の種の年代をもとにしており、関連性も確認できません。
そもそも建物自体も魏志倭人伝に描かれた宮殿の様相とはまるで仕様が違います。
日吉神社は戦国時代は城だったので築城の時に出てきた石棺だったかもしれんね
>>947 蓋が割れていたのは盗掘があった証拠かも知れませんね、しかも線刻が1枚だけ裏返しだし
>>937 佐賀ポータルの説明
「実際、この日吉神社の鎮座する丘の頂上から、特別な墓が見つかっています。
埋葬されていたのは40から50歳の女性で、甕棺からは銅鏡、両腕に南海産貝殻性腕輪36点、絹の布片、朱などが発見されています。
この墓は巫女の墓と思われ、弥生時代中期後半くらいのものだとか。」
もうむちゃくちゃ
対馬と壱岐島までで1000里の距離は分かってるのだから、70kmがだいたい1000里と解釈していいだろう
何が12000里が5200キロだよ
本当に酷い。1里70メートルで、12000里は840キロ。畿内には到底届かない
帯方郡から12,000里 魏晋里は約435mですので、12,000里は5,200kmになり、帯方郡から直線距離だと赤道付近に達してしまいます。
https://note.com/duke315/n/n85bc7a63aea7 和種の国が伊豆諸島wwwww
対馬まで1000里、壱岐島まで1000里の距離感と全く違いませんかね
やっぱ駄目だわ畿内派は
東に海があり、渡海1000里で倭種の国
https://note.com/duke315/n/n85bc7a63aea7 邪馬台国は、5200キロ前後なので
パプアニューギニアから
マリアナ諸島のあたりと考えられる。
>>954 神社の参道を掘った時に出てきたのじゃないのかな
つまりもう中身は先に発掘済み?
何代か複数の巫女がいた?
>>937 見つかった石蓋の解明に繋がる貴重な写真だね。
>>950 朱も石蓋も巫女も全然珍しいものじゃないんじゃん
期待度がどんどん下がってくな
邪馬台国は九州、ヤマト王権は纒向から始まる、というのが濃厚になってきたな
あとはヤマト王権の勢力が
①邪馬台国の東遷か
②邪馬台国以外の九州勢力の東遷か
③畿内土着勢力か
ということか
卑弥呼から壹與までの間に遷都の記録なし。
つまり邪馬台国と畿内ヤマト王権は並行する別の王朝。
>>961 纒向から九州の痕跡が全く無いんだからまとまった集団が移動するような東遷は絶対にない
>>963 それはあなたの感想でしょ
纏向学研究の第一人者はこう言っている
>古代史最大の謎として江戸時代から続く邪馬台国(やまたいこく)の所在地論争。「女王・卑弥呼(ひみこ)は、北部九州や吉備(岡山)を中心とした勢力によって擁立され、奈良・纒向(まきむく)遺跡を首都として国を治めた」との説が打ち出された。有力候補地の纒向遺跡(奈良県桜井市)などを調査してきた寺沢薫・桜井市纒向学研究センター所長が、県内で行われた講演会で披露した。「卑弥呼は纒向にいたとしか考えられない」としながらも、九州勢力の関与を指摘。「畿内VS九州」という二者択一ではない、新たな見解に注目が集まる。(産経新聞2021/10/20)
>>964
>「卑弥呼は纒向にいたとしか考えられない」
アホの寺沢薫だからww @阿波 >>963 岡山経由だから土器は岡山の土器に入れ替わっているだろう
>>964 そりゃ畿内派はそういうしかないでしょ
九州の影響がないなんて行ったら成立しないんだから
しかし纏向は九州の影響がないと判断するしか無いよ
>>968
>しかし纏向は九州の影響がないと判断するしか無いよ
「阿波」の影響だからな。 @阿波 纒向の建物Cは平原遺跡にあった八咫の鏡を収めるための倉だというから、影響がないわけではない。
土器だけ見れば九州の土器が出ないが、畿内は祭器が丸ごと筑紫のものに置き換わっていく。
九州勢力は安芸や吉備に何年も滞在してから奈良盆地を征服したのだから九州の土器をいつまでも持ち歩いているはすがない
弥生時代畿内の出雲影響下の青銅器祭祀・銅鐸祭祀が纒向出現とともにドラスティックに置き換わった事実が重要
>>940 石棺のうちのり長さ180センチまでは調べてるぞ
古墳の石棺思い浮かべると蓋見ただけでも原始的な感じする
カタカナのキが書いてあったよな
現代人の落書きだろ
四国のどっかで、埋葬した後、中を破壊して、また入り口を塞いだ古墳があった。
最新
352 名前:新規スレ立て人募集 社説+の募集スレまで[] 投稿日:2023/06/08(木) 20:40:17.83 ID:eIyLJcuZ0
卑弥呼の墓? 箸墓古墳を素粒子「ミューオン」で調査(2020/1/9)
https://www.sankei.com/article/20200109-TTULALNZJBJXTMQXN35Z46OUTE/ あれから2年半
何の音沙汰も無し
362 名前返信:新規スレ立て人募集 社説+の募集スレまで[] 投稿日:2023/06/08(木) 20:46:13.52 ID:eIyLJcuZ0
>>352に関するコメントをお借りします
基礎自体が前方後円墳だったと追認した以上の発表はない。継続中の発表もない。一定の調査成果はあった事になる。
京大院生に聞いた。
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欧米のように自然科学に属し「科学的検証、整合性、因果関係から事実であろう事を求める」学問ではない。
多くは文学部史学科に属する創作の世界。
科学的検証は拒否する。
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推測では明らかに魏志倭人伝に載る邪馬壹国ではない科学的検証得られた為と思う。誤差利用して4世紀から3世紀に変えた経緯ある。
宮内庁は箸墓をミューオン検査するとへぼいのがバレると考え安倍晋三が動いて調査を潰したのではないかと疑っている
奴らは愛国者のふりをしているがただの権威主義者で自国の文化への理解がない
オレはジャップは差別するから嫌いだが箸墓の中身は世界に恥じない凄いものがあると考えている
先祖の墓を掘り返すのが嫌という気持ちは人情として分かるからこれは非難しない
ミューオン調査くらいはしてもよかろう
別にジャップのナショナリズムに傷をつけるようなものは無いと思うがな
>>972 まあ畿内勢力が九州を制圧したなら九州式のものを儀式に使ったりしないよな
更に三種の神器とか君が代とか北部九州発祥のものを根幹に置いてるのは
北部九州の族長がどっかで分家化して東遷したと考えるのが自然ではある
そして纒向辺りには本来の畿内の人達が平和的に関東まで交易してたが北部九州勢に制圧された
これなら弥生時代には九州で、古墳時代では関西で鉄の武器が増える理由が説明できる
志賀島の倭王を讃える山誉め祭りの神楽
禰宜二良(櫓を執る)
君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけのむすまで
あれはやあれこそは我君のめしのみふねかや
うつつらがせ身骸に命千歳とゆう花こそ咲いたり
沖の御津の汐早にはえたらん釣尾にくわざらん
鯛は沖のむれんだいほや
別当一良
志賀の浜長きを見れば幾世経ぬらん
香椎路に向いたるあの吹上の浜千代に八千代まで
今宵夜半につき給う御船こそ、たが御船なりけるよ
あれはやあれこそは安曇の君のめしたまう御船になりけるよ
ゆるかよゆるか 汐早のゆるか 磯良が崎に鯛つるおきな
出てくる地名はほぼ博多湾沿岸のものである。
そして倭王の名は安曇の君ということもわかる。
日本書紀に、7世紀に白村江の大敗で
博多から近江大津に遷都したのがわかるからな。
その後に天武天皇がクーデターして
九州系から畿内系に政権交代だ。
もっとも、系図ではその後に
九州系に戻った様子もあるけど。
人類学的にジャップのゲノムは紀元前3000年頃の遼寧省の遼河文明人のものだと判明している
縄文人はアイヌの先祖でありジャップは遼寧省から韓半島を経由して日本列島に移住したんだ
遼寧省が農耕に適していた上古に夏家店下層文化が栄えていた
しかし気候変動で農耕ができなくなり遼河人は南方へ移住していった
殷王朝は彼らの王朝だったという説も強い
夏家店下層文化人が使っていた言語が古日本語だった
彼らは農耕が不可能になって故地を捨てて韓半島に移動した
そしてそこで山東から江南にかけての稲作農耕を取り入れた
今のジャポニカ米はその子孫だ
そして古日本語話者の一部は北九州にまで生活範囲を広げていった
これが弥生時代の始まりだ
遼河が乾燥して干上がった後も一部は移動せずに残った人がいた
残った人たちは近隣の狩猟採集民と協力し半農半牧の生活を取り入れてその地に適応した
これが夏家店上層文化人で古韓民族の起源となる
春秋戦国時代の燕が遼寧に勢力を伸ばしていった結果、古韓民族は韓半島へ民族移動をして先住の古日本語族を駆逐した
三韓の土器は夏家店上層文化の粘土帯土器の系譜にある
そしてジャップの弥生土器は三韓に駆逐される前の松菊里文化人の土器が元になっていて、これは夏家店下層文化の一つの偏堡文化の土器に連なる
ジャップの起源は西遼河人であり縄文人ではない
邪馬台国は奈良県であり中国の属国として朝貢をしていた
これが真の歴史だ
今日の佐賀は晴れ。来週は火水が雨がないのでこの3日で土を取り除き卑弥呼の骨を掘り出すことになる
糸島の志摩怡土が邪馬台国と転じた?
邪馬はシマと発音しますね志摩怡土でシマト
邪馬はGoogle翻訳するとXié mǎでヤマではありませんね
ヤマトの名称の起源が欲しくて、邪馬台国畿内説が存在するのかな?
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lud20250130161529ca
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