くだらない写真ばかりしか見てないんじゃないの。可哀相に。
まず芸術という言葉に含まれるものは時代とともに変化し、
それが今余りにも肥大化している為に写真は芸術であるかなどという
議論自体が成り立たない
生きる事すらアートだと言われる
次に写真としての写真と芸術の道具としての写真がある
アート作品の最終形態として写真が選ばれることが多くなっているが、
それは実際の所、写真にすることで商品としての流通性が増すという
だけのことのように思う
写真としての写真というものを考えると、写真がまず示すべきものは
写真でしかありえない純粋な写真そのものを示すことだと思う
考えてみれば写真はその誕生から今日まで絵画を目指していたとしか思えない
構図、露出、ピント、そのコントロールは全て絵画を目指すために行われている
フォトグラフ、光画だと考えればそれで正しいのかもしれない
しかしそれは光を画材として使った絵画でしかない
写真の固有性としてよく持ち出されることに、撮影者の意図しない偶然性が入り込むということがあるが、
それでは絵画では画家の意図しないものが入り込む余地はないのだろうかと考えると
アクションペインティングなどというものを持ち出すまでもなく、
そもそも絵画は偶然性の塊であると言える
筆や絵の具を完璧に操れる人間などいないからだ
>>1
何が糞なのか長文を期待してたのに
こんな>>1じゃ何もわからないよな。 >写真としての写真というものを考えると、写真がまず示すべきものは
>写真でしかありえない純粋な写真そのものを示すことだと思う
>考えてみれば写真はその誕生から今日まで絵画を目指していたとしか思えない
>構図、露出、ピント、そのコントロールは全て絵画を目指すために行われている
誰かによって用意されたものでなく、自分で用意していないものなのに
魅力的に見えたその光景を、その場で即座に記録出来るところに魅力を感じてたりする
>フォトグラフ、光画だと考えればそれで正しいのかもしれない
>しかしそれは光を画材として使った絵画でしかない
光を画材としてそのまま使える、これで十分なんでないのか?
ぶっちゃけ、光が神様のように感じられるわけで、これに関しては自分でも
驚きな事だったのだが。。
写真が…じゃなくて、どんな写真かで考えたいよね。
おねぇちゃん撮ってズリネタにしか使ってないようなカメコを見て嘆いているのなら、
気持ちはわかるなw
だが、浮世絵なんて作ってる当時は、今でいう漫画のような、ちょっと格下の存在だったけど、
今じゃ立派な芸術扱いだよね。
さらに、当時はズリネタにしか過ぎなかったエロ浮世絵も、芸術として高く取引されている。
漏れらがズリネタに使ってるおねぇちゃん写真も、未来の人の間で、
りっぱな芸術作品として扱われ、高く取引されちゃうかもよw
芸術として写真やってる人よりも報道カメラマンの写真のほうが心にグッと来ることが多い。
当然、被写体自体がそもそも感動的であることが絶対条件だが。
報道屋がイラクで撮った戦場写真>アラーキーの美女ヌード
ってことか?
報道屋がイラクで撮った戦場写真≠アラーキーの美女ヌード
こうだろ?
女神うp写真>>>>>>>>>>>>>>アラーキーの美女ヌード写真
俺の写真の多くには精神的なテーマが無いんだ
だからキレイなだけの写真で終わってるんだな
精神の表現が目的では無いけれど、その分野を勉強しないと「芸術家気取り」で終わってしまう気がする
テーマを持って撮っている人の写真には芸術を感じるね。
自分の知り合いに2人そんなアマカメラマンがいる。
撮影技術もかなり高いものを持っているんだけど、
それ以上に訴え掛ける何かがある。
写真ってその作品の中に占める撮影者が創造した部分がかなり少なくないか?
>>16
ハイアマでテーマをもって撮ってない奴なんているのか?
初心者ですらそういうやついるぞ? 絵画も、絵画であるというだけでは「芸術」にはなりません。
「芸術とは」という定義をしようとしている時点で、>>1には芸術のセンスが無い。
騙る資格無し。 >>22は>>2に対してダロ
2氏じゃないが定義はセンスの問題なのか?
単に無知な発言とおもわれる。
これはデジ板の方で定期的に立つアレだね。
真面目に話しちゃダメ。
>>24
じゃ、>>1は、自分で定義すら出来ないものに対して糞扱いした訳だ。
>>1は知識どころか、知能が足りない訳ですね。
結論:>>1は、芸術どころか、人に物を語る資格すらない。
よって、真面目に話す価値無しには完全同意。
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以上をもちまして、当スレッドは終了いたしました。
ここで言い争ってることは既に、ロラン・バルトとスーザン・ソンタグと多木浩二が書物に著しています。
>>28
言い争ってないよ!ahoが難癖付けているだけ
貴方のように本を読んで思考している人ばかりでないようです。
>>21
風景写真じゃなくてもそうだろ。
建築写真のその建築物は写真家が設計段階から自分で手掛けたわけじゃないし、
動物写真だってその動物の種類は既に太古の昔から存在してたものだ。
良いとか悪いとかじゃなく、写真は写真家自身がクリエートした部分が
少ないというのは事実だろう。 最近のデジカメでは、内部エンジンによって、
ありもしない色をクリエイトしてくれたり、
ありもしないドットをクリエイトして解像度上げてくれたりしてるけどな。
え?そんな機械が作り出したものは芸術じゃないって?
でも芸術を教えてる学校では、芸術を作り出すための機械的手順を教えてるよ。
芸術なんてそんなもんだよ。
同じ手順を踏んで同じものを生み出した場合、人間がやったか機械がやったかで、
芸術だったり芸術でなかったりするというのなら、
芸術は単なる宗教だな。
写真自体は無機的で無感情だ。
写真という名前の「真」とは「それはかつてあった」という「真実」を伝えるのみである。
しかし見る者には感情があるため、写真の中に様々な意味を読み取ろうとしている。
写真を芸術とみなすのも同じことである。
…それが撮影者・被写体の意図と異なるものであっても。
入り口が広すぎ。
絵の様に、下手くそが諦めめるぐらいでないと
絵は車の運転みたいなもんだかな。
反復してやってれば、下手糞でも上手くなる。
逆に、そうやって反復練習して植え込んだ「癖」みたいなものを持って、
芸術性が高いように語られがちな絵の方が、
芸術として怪しい存在にも思えてくる。
写真の場合はというと、芸術を目指そうとすると、嫌でも頭で考えて撮らないといけないからな。
記録(写実的な画面)を求めた結果としての写真を考えれば、アマチュアの家族写真とか行楽写真が最も写真的。
画家などで写真を芸術と認めない人は今でも多いと聞く。
昔は本当に芸術として認められていなかった。
でもいろんな人の努力で最近はずいぶん盛り上がってきた。
あと報道カメラマンで広告写真家を認めてない人も多いようだね。
つーかさ、「これは芸術」って言い張る人と、
それを認める人が一人でもいたら芸術なんじゃね?
誰もが認める芸術なんてありえないしな。
それどころか、逆に万人ウケするようなモノは、芸術性が低いと言えそうだよ。
後世になって芸術として高く評価されるようなモノは、
出てきた当時は邪道として芸術の枠外に追い出されるなんてことは、よくあること。
絵やる奴も写真やる奴も音楽やる奴も
芸術だ芸術じゃないだ なんて あまり考えずにやってる気がする。
ましてや俺らなんて 趣味なんだから楽しけりゃどっちだってよい
海外ならまだしも、国内では写真を美的感覚で捉えようとする積極的な活動が
ほとんどなされてこなかったからねぇ……。今でもメディアに偏重されるばかりだし。
才能(創造力)無いのに芸術家を気取りたい奴が始めるのが写真なんだから、
その中で有名になったところで高が知れてるし。
本当に才能あったら音楽(作曲)、文学、絵画とかやるだろ。
落書きが評価されて
それを書いてる人間が大物になる絵画もどうなんだろ?
文学も似たようなものはあるよね
音楽は芸術じゃないよ
言葉が出てこないけどあれだよあれ
>>44
ネタ書きご苦労さんです。
次はもう少し高度なネタでたのみます。 真の芸術は制約の中でこそ生まれる!
創造出来る領域が限られる写真こそ、芸術を磨くのにもってこいではないか?
>>芸術を磨くのに
磨いた末に到達するのではないか?
美術家としての素質を持ちながら、絵筆とパレットを自在に使いこなすことを
体系的に勉強するチャンスのなかったものにとって、美への渇望を満たしてくれるのはカメラのレンズだけである。
私の美とは俳句や五行詩の世界で写真は其れに等しいものと考えています。
絵画と写真の関係だけでもありませんね。
写真て お手軽にきれいな絵をものすることが出来ちゃうもな 作者の才能とか努力とかあんまり関係ないし
きれいな絵が撮れたとして才能とか努力の評価にならないだろう
小手先技術
きれいな絵?
構図がなってない、まとまりのない、主題が不明な、きれいな絵?
どうみてもくだらない落書きが芸術と評されてることがあるが
なぜそれが芸術か、絵画至上主義の人たちの説明を見たい
パース、フォルム、色、物の存在自体、加工しない写真(プリントデータ)て、作品としては殆どないな。
>>56
どうみても理解できない凡な自分に気づく事は無いのか?
絵の話が出てきたならこの話無しには語れまい。
カメラ オブ スキュラ
苦労の末に登頂した登山家とおんなじ景色をさ、
ヘリか何かに乗っていきなり見たって得る物はまるで薄いんだよ
写真やるなら一生に一度くらい、シャープペンとコピー紙でいいからさ、
林檎1個、描いてみてもいいんじゃないの、6時間くらい、穴が開くほど見てさ
さら〜っと見ただけで撮っちゃうから、さら〜っとしか見れない写真になるんだよ
僕らは手で描く行為が無い分、画家なんかよりよっぽど観察しなきゃいけないんじゃないの
>>61
それは違う。側面的な捕らえ方とおもう。
芸術とデッサンの練習を同列に扱っている。
>>60
21世紀のいま絵画と写真を語るに必要なのだろうか?
>>63
21世紀になったからといって史実はかわらないから安心してw。
むしろ21世紀だからこそカメラの起源を知らない人もいるだろうし、
語らなければならないだろう。 スレ主は売れない貧乏。お前が生きてられるのは、親が健在の間だけww
がんばれよ、自称芸術家せんずりニート君ww藁
ピカソも村上も商売人。
描くと同時に売りつけ上手。
ただし、あっちに走る前に、写真まっつ青の描写技術を持っていることを示しておく必要がある。
街や動物は写真の方が上で
風景や人物は絵画にかなわないような希ガス
・・悪魔でも漏れのなんとなくの思い。
まあ、写真で道1本、ボロ小屋1つ撮っても何にもならんが、東山魁夷が道1本描くと芸術だからな。
ピカソのアビニヨンの娘たちを実写にしたら、エロ写真だろうしw
>>64
だから、何時までも写真と絵画を比較して
ピンボケ芸術論を殻労とするわけだな。
史実を知る事は大切だが決着がついている問題を
グダグダ歪曲して語るのも可笑しいぞ。
要は齧っただけで中身を理解してないから。
>>69
スミスの天国への道なんて「何にもならん」のか?
知識が無いだけだろう、君の見識で全てを括ろうとするな
写真が迷惑だ アートは知識による分類学じゃないからね。そこんとこよろしく。
しかし、無知が騙れど空しいだけだろう。
精神性の高低で分類が可能かもしれんな。
東山魁夷の道を写真で置き換えても下らんし、天国への道を絵画にしても挿絵にしかならない。
そこら辺の違いが理解出来ない精神性だな。
「きっと、写真は絵画と同じレベルのものではない。芸術ではない、という考え方
がどこかにあるのだ。これは写真の発明以来続いている論争だが、私はそんなこ
とには興味はなかった。この手の議論から逃げるため、私は写真は芸術ではない
ときっぱり宣言し、そしてこの宣言をタイトルにした小冊子を出版して、
写真家たちをさんざんあわてさせたり怒らせたりしたこともある。
もっと最近、まだあの意見のままかと聞かれたときには、少しばかり
態度を変えたと答えておいた。
わたしに言わせれば、芸術は写真ではないのである。」(ーマン・レイ)
マン・レイの写真はでも、俺から言わせりゃちょー芸術。ってか
生き方、その全てがもう芸術
数年前にマン・レイのドキュメンタリーをNHKでやってたね、かっこよかった。
番組の最後に当時のインタビューで
生涯あなたを夢中にさせたものはなんですが?という質問にたった一言
「女だよ」
と答えていた。
>80
こういう事、ネタでも書く>1も、自分は芸術家だとか言って
写真撮ってる奴も、マン・レイの言った事、その作品は是非見て欲しいよな。
その上で議論したらこんな釣りスレでもきっと楽しいって思うんだけどな。
金になる写真が良い写真
金にならない写真が悪い写真
写真の場合、撮る人間の能力では無い所が他の芸術と違うところかな
撮影者の能力ではなく、被写体の能力、魅力があってこその世界だから
「生み出されたもの」自体は絵画や音楽とも変わらない、むしろ勝っている
最低とか勝ってるとか言ってる時点で理解できない。
こんな奴が 写真コンクールの入賞歴とか自慢するんだろうな。
芸術にまでランクとか順位を持ち込むのは、人間の本能かな?
>>80
オッペンハイマーのボディーペイントに触発され、学生時代の夏休みに1週間ほど
使っていた倉庫のスタジオで真似をしたことがあるが
最後はお互いインク(水性)塗れになってしまったなあ。
C330Fで撮影した120本は、良い思い出・・・
>>1
そういうことを言ってる奴が人として最低レベル。
論外。
何事もいろんな視点が必要
他人の意見を簡単に論外と一言で片付けてしまう人間に芸術など語る資格もないし、
まともな作品を作る能力も絶対無い
素直に単純労働職につきなさい(^-^)
何か自分に言ってるみたいだなw
そういう事でしょ?
>>1
何事もいろんな視点が必要
他人が芸術作品として出したものを簡単に糞と一言で片付けてしまう人間に芸術など語る資格もないし、
まともな作品を作る能力も絶対無い
素直に単純労働職につきなさい(^-^)
他者(人、大自然)が創り上げてきた様々なモノの前に最後の最後になって
カメラ持った奴が出てきて、それをフィルムに記録しただけで
「芸術作品です」とか言われても納得できないね。
構図決め、トリミングといった一種の編集作業があるとしても。
それが芸術と呼べるなら、
「この機材でこうやって録るとオリジナルよりもシャープでありつつも深みのある音が…」
とか言いながら録音済みのメタルテープ眺めてるオーディオマニアはみんな芸術家だな。
芸術の実体は、そのプロダクツではなくて、作者が表現しようとすること自体なのだよ。
つまり写真から読み取れる、作者の視点やテーマが芸術の本体なのだ。
どっかのお絵かき教室などに通って、芸術の作り方などを教わってきた奴が
お手本通りに作り出してるものの方が、芸術としては疑わしい存在。
写真は芸術だと思うよ
プロの写真とか見ると本当にそう思う
画像に訴えるものってあるんじゃないかな
プロが撮ってるような写真は素人にゃ到底無理だよな。
ただシャッター押しゃ撮れるるレベルじゃない。
芸術かどうかはおいといて、写真は本気でやると難しいよ。
ピカソの絵を見て、よく池沼ヲヤジが言うよな、
幼稚園児でも描けると。
アラーキーのスナップを見て、よくカメヲタが言うよな、
俺でも撮れると。
ほんとにできるの?
チラシの裏って、真っ白ってことか?
つまり、何も撮ってないに等しいってことだな。
…って、貶め過ぎだろwいくらなんでもそれで飯くってんだしw
>>100
君がでくのバーであることは良く分かった。 >>103
でくのバーって何よ? 国道沿いのスナック? orz. >>1
オレもそう思って、スケッチブック片手に海外いったが
ヤハリ! いい写真は、誰でも撮れる可能性がある。下手な鉄砲・・・
芸術で問われるのは、撮る人の精神性と鍛錬の結果。
作る人が芸術を求めた時点で作品は、芸術じゃないし
人の心を動かす写真が即、芸術でもない
The most beautiful thing in the world is the world itself.
芸術を精神とか鍛錬とか言ってる奴は、世界中の芸術家から笑いものですよ。
宗教家でも目指したらいい。
絵画って描く技術を持ってるかどうかがまずスタートで
そこが無いと絵は描けないけど
写真は、すでに絵でいう描く技術がカメラをもった時点で誰にでもあたえられる
だから絵と違ってスタートラインが皆一緒、どう被写体を撮るか
センスがかなり問われると思う
芸術の定義がなんなのかよくわからんけど
少なくとも最低の芸術というのはあてはまらないと思う
たしかに、絵の場合は、
芸術度よりも絵の上手さ(つまり鍛錬度)で
評価されがちだな。
何も考えずに、ただ猿のように描いたやつ勝ちの世界ってこった。
写真にもテクニックはある程度は必要と思うけど、
テクニック偏重の流れはどうも気に食わないな。
鉛筆画やボールペン画でも相当訓練がいるけどね。
でも、アノ事件じゃないが、覗いてくれた人との思わぬ会話がはずむよ。
海外ではね。それが楽しいのだが
修練の手間暇を考えると絵とか、彫刻なんかよか楽だよな?
でもそれがイイ。
もっと大切な部分に集中できそうで。
へぇ、まだこんな事言ってる奴いるんだね。レベル低くて笑える。一生日本でそんな事言ってればいい。
井の中の蛙くんw
だな。
芸術に「レベル」なんて言葉使ってる時点で、
知能のレベルの低さが伺えるなw
芸術に枠なんて設ける時点でおかしい。好きでやるなら良いやん。自分は絵も写真も、それぞれ面白い部分があって好きですよ。どっちが偉いとかいう問題じゃないっす。
>>118
芸術のレベルは、芸術論中に良く出ることですよ。
>>119
枠を設けなければ言葉で括る事が出来ませんね。 >>116
>もっと大切な部分に集中できそうで。
本当にそうなんですが技術・機材偏重になりがちな世界でも
ありますね。此れを乗り越えると良いのですが足踏み+模倣モドキ
写真に短絡的に行き着く事が多く困難を極めますねw。
外からの刺激と自己ファイアーウォールのバランスでしょうか? 所謂ヲタクと、プロと、ウチらみたいな単なる気晴らしの趣味でやってる人間とでは、価値観が違うんやろけどね。理解したくないならせんで良いから、ほっとけ。
120さん、型にハメると言い替えた方が良いっすかね。言葉のアヤなんざ自分はどうでも良いタチなんですんません。
ま、芸術活動もせずに、芸術論で飯を食ってるような連中は、
自分でセンスが無いのが分ってるから、
その道を選んだんだしなw
実際、芸術家達からすると、勝手に言わせとけ的な存在。
下手糞な油絵よりは下手糞な写真の方がまだ見れるよ。
>>125
ろくな目を持ってないか、
ろくな物しか見たことないか…
頭の弱い発言してて恥ずかしくないのかな? >>126
芸術として掲げられているものなら
ろくなものしか見ていない事になるかな。
頭の弱い俺自身の感想としてだが。
おまえら字は書けるだろ、でも詩はなかなか書けないだろ。
他人の心に残る詩なんか一生書けないかもよ。
詩でも、いつ書いたか?どんな人が書いたか?によって随分と人が受ける印象が違うね。
もっと言えば、運に近いものもある。
絵だって、音楽だって言えること。
写真も同じさ。
>>130
水準レベルのものをコンスタントに発表できる人をして天才という。
>>131
それは凡人+α。水準レベルじゃ天才とは言いがたい。
天災っつーより、職業写真家ってとこかな。
どっちにしろ、芸術とは違った方向だな。
新しいジャンルを開拓したら天才と言われるかも
それくらいネタは出尽くした感がある
俺は芸術とかよくわからないけれど、
大していい機材使ってないのに
何でこんな写真が撮れるんだろうって疑問に思う人がいる。
その人の写真の大概は見るとドキドキしてくる。
そういう写真が撮れる人が心底羨ましいよ・・・。
若干すれ違いスマソ。
>>135
>大していい機材使ってないのに
>何でこんな写真が撮れるんだろうって疑問に思う人がいる。
これが、またいっぱいいるんだそう言う奴。
まいっちゃうよね。 そりゃそうだろう 解像度や発色が良くてもいい写真
とは言えないものなんだかtらさ 解像度や発色がいいのは単にいい機材ってだけ
じゃあ良い写真ってどんな写真なんだろうな?
撮ってる人間の才能有る無しとか言わないでよう。
才能という言葉は、結構当たってると思うな。
なにも生まれつきとか先天的なもんだとか、大げさな話じゃなくて、
例えば、コツコツと勉強すりゃ、そのうち上手くなるだろう的な感覚の奴には、
永遠に辿り付かないだろう能力という感じかな。
こつこつと勉強すりゃ、そのうち収まりのよい構図で被写界深度のコントロールもうまくなり、
違和感無く見られるよくある写真が撮れるようになる
何をどう撮るか、自分の視点をどう表現するか、独自性の追求が大事になるはず
コツコツは単に技術が上がるってだけの話だな。
芸術性とは全く関係ない。
そう結局は、芸術とは独自性を追求しようとする意気込みだけの問題なんだ。
それさえあれば、どんな下手糞だろうがかまわない。
夏休みの宿題みたいに、コツコツやって終わらせるのを美徳とする、
日本人の特性が邪魔してるっぽいな。
芸術は、実は逆なんだよな。
コツコツやってる内は、まだその領域に踏み出すしていない、
宿題でいえば何も手を着けていないような状態だ。
自分に「ちゃんとやってるんだ」と思わせる、逃げ道だともいえるな。
撮った写真が目的か、
写真を撮る行為を手段とするか、かな。
写真を撮る目的は人それぞれだから、
写真が芸術かという議論は不毛ではなかろうか。
目的による
記録としての写真なら芸術ではない
きれいな風景を撮ったなら芸術に近いかもしれないが、説明写真でもある
芸術としての狙いを持って写せば説得力があるかも
シャッターを押せば写ってしまうのが写真なだけに、より差別化された「芸術」とするのは難しいかも
写真が芸術ということはないが、写真を芸術とすることは可能
狙いを持って自分の視点を写し込めばいい お遊びと言われるか、芸術と評されるか、
それは発表してみればわかる
ついでにもうひとつ ↑で言った「狙い」とは自分の「哲学」
被写体はそのための借り物
「書」を芸術と考えるのと似ているな。
たんなる文字でも書き方によっては芸術になる。
なーんか、最近、撮影旅行に行って思った事がある。
この対象を写真に収めて作品として発表することと、映像としてドキュメンタリーにして発表すること、
どちらがより観る人の目に益するものなのだろうか、と考えてしまった。
自分で勝手に敗北感に苛まされて帰ってきた。
単純に何か物事を伝えるというだけでは写真はやはり映像には勝ち目はないような気がする。
言い古されたスチル対ビデオ論に自爆で嵌ったんだろうが、やはり困難を感じる今日この頃。
上の人が言っている、自分の哲学などを表現するにも果たして写真が適しているのか、疑問に思ってしまったり。。。
だって、俺の目には凄いと思える写真も素人の人にはただの写真にしか見てもらえないけれど、
映画なんかだと映画を見慣れない人も余程の人で無い限り大体の意図は伝わるようだもの。
でも、写真のプリントの美しさが好きで、そこから離れられないんだよなあ。
スチル対ビデオ 別物なんだから両方やってみれば?
ピカソの絵のすごさは眼の肥えた人にしかわからない 大抵の人は高いからすごいんだろうなとしか思ってない
自分の哲学などを表現するにも果たして写真が適しているのか、疑問に思ってしまったり。。。 向いてないだけ
でも、写真のプリントの美しさが好きで、そこから離れられないんだよなあ。←そう思えることをやることが大事
続けるべき 最高の趣味だと思いますよ 悩む必要なし
>>146
そうか、ビデオもやってみればいいだけか。言われてみれば当たり前のことだね。
俺が写真に対して愛着がある分だけ、視野が狭くなっていたのかもしれない。
ありがとう。やる気が湧いてきました。
ただのアマですが、まだまだこの辺りの趣味をウロウロしてやっていってみます。 ソースをいじり倒す人の場合は、PCソフトの良し悪しは出来映えに係わるかも知れない。
写真に腕ほぼ関係ないと言って言い
絵画とはわけが違う
写真に必要なのは素晴らしい光景と出くわすための努力と運
とその場面に適した機材を持っている事
そこで言ってるのは、結局は絵画でいう腕に相当するものだな。
絵画もいくら腕があろうとも、芸術的センスがゼロなら芸術としてはゼロだ。
同じとき、同じ場所に居ても、10人10様になる不思議。
ほぼ関係ない筈の何かの関係かな?
>>149
その光景を素晴らしいと思うか、どのように素晴らしいと思うか、素晴らしいと思った通りに撮れるか。
これらは機材の問題? テクニックはある。
うまい絵を描ける。
だが、さっぱり感動がない。
>>150
絵画や映画作品の構成、楽曲制作にはセンスに相当するものが必要になるだろうね
写真という芸術表現が他と決定的に違うのは、その光景に出くわした者であれば"誰でも撮れる"という事
写真芸術をやらない人との違いは、その瞬間に適性な機材を持っているかどうか?という違いだけ
人間が長い人生の間で自分の眼で見てきた光景の中には、いくらでも感動的な光景や壮絶な光景があるだろう
その場を写真に収めていたらプロの写真家の写真なんて到底及ばないすごい写真になる
ただ、その場でカメラを持っていなかった、取り出せる状況になかった。というだけ
>>152
数(撮影頻度)と運の問題だね。あとは適性な機材
同じ光景っていうと風景の話をしてるんだろうけど(富士山の名所スポット)、
そんなのはその場にいれば誰でも撮れる
10人いたとすれば一番条件のいい時にシャッターが切れた人が一番いい写真になるだけ
腕は99%関係ないね
写真に対して"打ち込める力"だけ
打ち込めばいい写真が撮れる確率は高くなるけど、それはセンスでもなんでもない
上手い絵がかけるっていうのはデッサンの狂いが無いとか、精密な絵が描けるって事なんだろうけど、
そこから必要なのがセンス
写真でいえば、いい光景に出くわす確率が高い人は、センスがあるといえるかも知れないが 生前、岡本太郎が何かの番組で、子供の絵と比較した失礼な取材者に対して
「あんな魂の無い絵と、俺の絵を比較するな」
みたいに憤慨してたのを思い出した。
今思えば、その魂こそが芸術の本体なんだろうな。
凄いな俺。
13秒で読破してレス書いてるみたいだw
>>154 すまんが、写真やって無い人の意見としか思えないぞ?
横山大観は絵より写真の方が凄いって言ってたな。
絵は何度も書きなおせるが、写真はその一瞬その場にいないと撮れないからだって。
ちなみに本人はカメラを何台も持っていたが、一度たりともフィルムは通さなかった。でも手入れするのは好きだったらしい。ほんと変な人だね。
絵描きで食ってる手前、写真趣味ってことにはしにくいからじゃね?
>>154
そのタイミング、カメラの場所で、シャッターボタンを押せる能力。
それこそがセンスだって話だろ。
そのタイミング、キーの場所で、鍵盤を叩けるなら、
だれだって名曲が作れるのだから、
作曲家は芸術家ではないと主張するぐらい馬鹿だな。
絵画では静物や風景を描くのが大家で、逆にテーマ主義という言葉が蔑称になっているんだよね。
富士山のご来光の何のと大袈裟なこと言わなくても、普通に街歩いてても切り取り方次第だもんねえ。
破れたポスターがあって、毎日何千人がその前を通り過ぎ、カメラだろうが携帯だろうが、撮れる機材を
持っていたのは果たして何人だったのだろうか?
が、結局その前でシャッターを切ったのは、俺1人だけだったようだ。
>>162は>>154に言ってるんだよ
意味わからないかもしれないけど どう?>>154さんよ
>>160
>「シャッター押す能力」
そんなバカでもチョンでもできる事と、
天才といわれる画家やピアニストと比べてる事が馬鹿げたことだとわかるよね
素晴らしい光景を引き寄せる天運が、写真家としての才能といえなくもないという話
絵画的写真というジャンルも存在するけど
蜷川実花とかみたいの
個人的にあれみたいな作り込んだ写真は好きじゃない
作り込んだ写真なんかより絵画のほうが凄いと思ってる
写真の一番凄いところは風景や人間や動物の自然な営みのリアリティをそのまま写し出せる所にあると思ってる
>>162
俺一人だったとか断言してるけど、一日中そのポスターの前にいたのか?
そうだと仮定すると、その破れたポスターに対して写欲が沸いた人間が君一人だったという事
家に帰って現像してみてもいい絵が撮れたな。と思えるなら、自分は眼の付け所がいいなと思っちゃっていいんじゃない
>>163
写真歴は10年くらいです。絵(25年)で食ってます。すみません >>164
そのワンショットで受賞した俺としては、後は撮ったにしてもスカだったのだろうとしか、
厳密には言いようがないけどな。 いいじゃないですか、絵で食えて。
町中のボロ屋の壁や、結構周知の廃墟とか、道ばたのガラクタとか、そうしたものの写真でも、
撮り方次第でアートになるんですよ。素人が100人寄ってもどうか知りませんけどね。
そうした意味では、描き様で腐った林檎でも芸術になるのと、それほどかけ離れてはいないと、
思うんですがね。
はっきり言って、誰が撮ってもきれいな色でごまかされるような、浅い美しさの写真は嫌いで
すね。
> >「シャッター押す能力」
> そんなバカでもチョンでもできる事と、
> 天才といわれる画家やピアニストと比べてる事が馬鹿げたことだとわかるよね
ああ、たしかにレベルの違いすぎるこの2つを比べるのは馬鹿げてるな。
音楽なんて、規則性と音楽理論の下で、ある程度の制約があるといえる。
芸術の範疇の中では、かなり少なめのチョイスの中から、ある一つを選ぶ能力と言える。
天才と言われて一番儲けていた小室など、音楽学校で覚えた知識と、方緒方論で、
コンピューターも駆使しながら機械的に大量に作曲してただけの話だ。
音楽の天才なんて、そんなレベルさ。
対して、写真はどうだろう?
撮影する対象物なんて、モノの数だけ存在する。
あらゆる分子の組み合わせの分だけパターンがある。
そして、時間帯でも、ものによっては秒単位で幾らでも変化する。
そしてカメラの向き、画角、絞りなどを含めると、
天文学的なパターンのなかから1つを選び出す能力と言えよう。
それが「シャッターを押す能力」の正体だな。
>>164 まじっすかー! もしかして観光地専門の絵描きさん?破れたポスターの人が
言うように、例えば同じ所を通っていても、物になるはずの被写体があるのに素道りするのが
素人で、イメージが沸く被写体を見つけて構図を整えピントの位置・被写界深度を計算
したりして作品にしてしまうのがプロ(センスのいい人)なはずなんですよ 更には例え
目にした風景が大したことなくても、半年後の雨上がりの午後ならすごくいい風景になると
読んでその時期にまた来てみるとか あなたの154での文章では
定年退職して毎日写真撮ってるじいさんは全員プロになってしまいますよ?
ま、高いレベルで考えての154の文章かもしれませんが、伝わらない文章では
あるようですね
絵描きなら解るだろう
写真も絵も情報量を極端に少なくして、象徴化して紙に定着させるものだよ
複数の芸術家が同じ対象物に接したなら、それぞれの感性がフル稼働して
まったく違った絵(写真)になる
俺は写真を撮ることは、その被写体を深く知る事だと思ってる
ヨコレスだが。
MIDIにキーボードと鼻歌マイクつけると、音楽の天才は結構出てくるかもよ。
音楽って、脳内をいかに取り出すかにかなりの労力が必要だったわけだから。
ただ、あんまり複雑なクラッシック風作っても、全然売れないだろうからね。
>>164
写真撮影という行為一般(シャッターを押す)と、天才といわれる画家、音楽家を比較すれば、
天才が勝つのはあたりまえだろ。
くだらない絵を描いてるアマチュアとか、
自己満足で終わってるバンドマンも含めて考えたらどうなるのか。
天才といわれる写真家と、画家、音楽を比較するとどうなるのか、
意見を聞きたいです。
ちなみに僕の結論は比較に意味が無い、です。 比較の味噌は法論の存在だな。
音楽の場合は、鼻歌みたいに脳内だけで作り出されてると思われてるようだが、
実際のところ、現代では方法論がかなり確立されてて、
あんまりクリエイティヴな作業ではなくなってしまっている。
逆に写真の場合、確かに方法論は無いな。
いや、あることはあるのだろうが、
それは芸術とは逆の方向を向いた、
「縛り」のようなものばかりだ。
(例えば、日の丸写真とか)
方法論がなく、かつボタンさえ押せれば誰でも完成物を得られるという簡便性だからこそ、
写真は、純粋に芸術的センスの勝負になるのだろうな。
>音楽の場合は、鼻歌みたいに脳内だけで作り出されてると思われてるようだが、
>実際のところ、現代では方法論がかなり確立されてて、
機能和声ぶっ壊すのが趣味ですが、何か?
いわゆるオートアレンジャーの類いが、楽想をあらわすのに屁の役にもたたないことを、
つくづく思い知る今日この頃です。
音は1音残らず指定しなければ気が済まない、が、写真は意外とおおざっぱだったりする。
が、ざっぱな写真ばかりとも言えないか。
厳密に設計した構図の中の何箇所もで露出を検討し、数枚をPC上で組み合わせることもあるか。
その場でコラージュなんてって、春と秋に同じ場所で撮った写真を組み合わせ、不思議な雰囲気
だが、まったく合成の痕跡残さないようなのも作ったな、そういえば。
撮り方、手法なんてのは、結果(作品)を創り出すための手段だものな。
ホントは画描きたかったんだなあ、めんどくさいから写真なのかも
目的が写真で達成されるなら、それでいいんじゃね?
芸術の場合は特に、手段が目的化しがちだからよくないんだよな。
本当にセンスある奴は、178氏みたいな発想になるはずなんだよ。
このスレが釣りだと分かっていても、敢えて挑んでみる。
よくいう、写真でいう複製感って言葉を「焼き増しできるから価値が無い」っていうふうに
思っている人いたりする気がする。
だから絵は一点物だから良いのであって、写真でも限定されたオリジナルプリントなら価値があるとかいう
骨董商的芸術観。
芸術 = 美術+工芸+デザイン = 手の凝った手芸品や民芸品+希少価値
だったら 絵 > 写真 だと思うし、そういう意味なら写真って最低レベルってことになる。
でもそういうんじゃじゃなくて、写真をやるっていうのは、
リアルな事実やら物体やらの断片を集めて、何かの精神なり思想なり面白い発見や感覚を抽象化
して見せたいっていう趣きなんだよね。
でも、そういうんだったら生け花や彫刻や博物館みたいに実物持ってきた方がインパクトあるんだけど。
でもデカイとかクサイものとかそこにひっついて取れないものとか持って来れないものあるし。
ほんとに物持ってきてたら際限ないし。そういうのを採取するのに写真は便利といえる。
写真って、嘘でもやらせでも、その物体やら構造が、レンズの前に光を反射したり発光したりして、
そこに存在してるっていうふうに、生理的に感じてしまうところが面白いんだと思う。
どんなに写実的な絵でも、絵だって分かると、そういう感じしない。
それは質感というよりか、もっと現実感とか存在感とか既成感、そんな言葉ないか、でもそんなみたいなもの。
たぶん実物を型どった複製やみたいな方法だと知っている場合に、それを感じるんだんと思う。
たとえば、魚拓から感じるものは写真が持っているものと同じ。それってたぶん複製感ってやつだと。
つまり 写真=魚拓
人形やらオブジェやら、自ら作ったものを写真に撮ってる人って、
作り物に、写真が持つそういう複製感みたいなものを重ねて錯覚を引き起こそうって趣きなんだと思う。
まあ、そういうふうに、そこいら眼前に存在している物を写実的にさらりと切り取って、
眺めたり味わったりするっていう意味では、写真は俳句みたいなもんだと思うナ。
別の考え。
写真の技術的な制約や特徴から来る枠っていうものに、もっとストイックになれば、
レタッチしない、トリミングしない、究極、露出やレンズも場所も被写体すら変えない。
枠が厳密に固定されている程、相対的に中での変化ははっきり見えて見せたいものが分かりやすいし。
時間の存在を表現するための、定点観測なんて方法はいかにも写真らしいし、
他の方法では表現しづらいもののひとつだと思う。
ほかにも、水滴のストロボ写真や、ND400の滝や海面なんかは、技術的には「時間」という方法で撮影した物でも、
写真から感じる物は、時間じゃなくて、自分の知らない、目に見えないたくさんの瞬間が存在しているような
不思議な存在感だったり、時間を飛び越えてつながっている空間を見つけたような不思議な感覚だったり。
写真が芸術としてどうかは知らないけど、他人の脳内の図柄や音波なんかよりも、
カメラでなければ採取できないものが欲しいから写真なわけです。
魚拓ってよく知らんけど、随分とまた作者の表現を持ち込める余地があるもんだったんですね。
面白そうだな。
俺も魚拓でアートとか、
アバンギャルドで名を上げてみっかな。
>>181
もうちょっと、自分の考えがまとまってから発表しましょう。
あと、「趣」は誤用でしょうね。
書き賃という意味で、100点満点で30点くらい。 >>186いや漏れは181が言いたい事良くわかるし
多少抽象的な書き方だが共感する。
どの道、具体的な言葉で言い表せることではないと思うし
特に「写真が持つそういう複製感みたいなもの」っていう
件は前後の文章とともによく納得させられた
写真やる人が漠然と感じてる事を上手く言葉でまとめてくれたと思う
>181の文章が冗長で錯綜していて読みにくい、だから書き直せ、と感じたひとは
写真を言葉で置き換えるさいには必要な長さと複雑さがあるのだという事実を受け入れることからやり直してみたほうがいい。
歴史が写真よりも浅く、写真以上の評価をされる芸術って何かある?
書いてることは正しいけど書いてる場所が2ちゃん。よくある。
書いている内容を批判しているわけではない。
記名で書く勇気はなく、かといって沈黙する勇気もない。その中途半端さをだ。
あなたが書いていることは勇気がないひとには書けないことだ。
しかしそこにあるのは果たして勇気なのか、あるいは記憶喪失。
デジカメ板見てるとね、こんなスレ定期的に立つよ。
写真が趣味になり切れなくて、本末転倒なこと言う奴。
今だったらこんなの。
「RAWで撮影ってwwwプロ気取りっすかwww」
「お前らが好きなのは写真じゃなくてデジカメだろ?」
時間つぶしに話すのならいいけど、芸術に順位があるって時点で???
>>186は、「自分の考え」に力点があるんですよ。
>>181って「挑んでみ」た割りに、内容はきわめて保守的ですよね。
まとめ方が上手いかといえば、全くそうでなし。
感覚をまとめてくれたと有難がった人はただの無知、不勉強。 >>194
187だが無知で不勉強は自覚してる
194からみたら181如きでありがたがるのはバカに見えるのかもしれんが
人にはそれぞれ技量や能力に差があるのは知っているだろう?
漏れにとってはありがたい内容だったんだよ。
しかも漏れは評論家でもなければ批評家でもない。
人の事を批判・否定して気持ちよくなるヤツでもないと思ってるよ。
ただの写真好きだよ。
>>194は写真や芸術のことがよく解かっている様だから
ちょっとその片鱗を見せてくれよ
保守的でない斬新な説を漏れも聞いて是非勉強したい。
ほんとにそう思ってるんだよ あえていおう。
写真が複製的なのは、写真を芸術化するためのハンデであると。
つまり、複製になってしまうという不可避な原理を乗り越えて、いかに芸術を完成させるか。
これが写真芸術なのだし、ハンデ克服にはかなりの芸術センスを要する。
逆に、それっぽくみえる手法を駆使して、誰でもサクサクと芸術でございってな存在の、
絵や音楽など、芸術的センスは不要の世界。
「写真は芸術」って言ってる奴は
「録音は芸術」って言ってるのと変わらないと思うぞ、俺は。
今までに芸術家と呼ばれた録音家wなんていたか?
音楽業界には優れたスタジオエンジニアたちがいるが、
彼らはあくまで職人だし、本人も職人であることを誇りに思ってるだろう。
それは「写真は芸術か?」という設問を投げかけた>>1に文句言えよ。
例えば「録音は芸術か?」っていう馬鹿なタイトルでスレが立ったとして、
「音という自然現象を記録する行為が芸術な訳がない」
「いや、音を芸術まで持っていく作業自体が芸術なのだ」
の2つの視点が存在してしまうのは、あたりまえだ。
写真だって同じだ。
写真それ自体はただ自然現象の記録方法に過ぎない。
結論をいうと、
「音楽は芸術か?」という問いを投げかけたいのに
「音は芸術か?」でスレを立てるぐらい、
言葉の使い方を間違えてるわけだ。
だから、馬鹿はスレを立てんなっつってんだよ。 写真は芸術だと思うな・・・だってホントに感動するものを
何度も見たことあるもの・・・だから芸術なんじゃないか?
写真という言葉は録音的な要素も音楽的な要素もどちらも含んでるんですよ。多分。
デジカメが普及した今では、前者には画像という言葉のほうが適切だと思うけど。
奇ッ怪な造形作って、それを写真に撮る。
このとき、その写真が芸術なのか、それとも、その被写体が芸術で、写真は単なる記録メディアなのか?
音=単なる自然現象
芸術に聞こえる音=音楽
ってのと同じだ。
写真=単なる記録
芸術に見える写真=芸術写真
だから、写真が芸術かとか、文盲な>>1の
意味のない命題に付き合ってんじゃねぇっつーの
>>203 かつてじゃなくて今現在著名な芸術家で、オブジェを作ってそれを撮って
オブジェは即廃棄 で、写真だけを発表するというスタイルの芸術家いなかったっけ?
203は物凄く有名な写真論の中での言葉だよ
というか知らないと恥ずかしいというレベル
「しかし」
これは有名な論文にあった言葉だよ
というか知らないと恥ずかしいレベル
コピーできるのはアートとは呼べない
せいぜいポップレベル
じゃ、絵画を含め殆どはアートじゃないな。
アートと呼べるのは、ガード横のスプレー落書きぐらいかな・・・
>>209
結論は、このようなスレはヤッカミ半分で立つので相手にしないこと。
まず、1の内容をよく読んで判断すること。 このスレとか見ると本当に本を読まない人って結構いるんだな、と思う。
21世紀は、本だけじゃだめだ。
そんな古典的かつ保守的な発想では、
芸術活動は無理だな。
芸術を語る資格すらない。
そういう芸術は常に斬新なものだというあんまりにも典型的で保守的な考え方っていいの…
世紀で物事を区別してるし…
じゃ、最先端先鋭芸術と称して、アンチアバンギャルド派でも立ち上げるか?
そういう哲学的な提起もまた、芸術活動じゃなかろうかw
考えもしないで感性だ!って言ってる奴見ると本当にイライラする。
評価されてる人は言葉もまた豊かなものだよ。
誰にでも『作品』って言い張る事が出来る写真だからこそ
誰にでも「表現」できる写真だからこそ
写真は「芸術」なのかもしれない
敷居が低いのは確かだな
絵は描くのに時間かかるがカメラはただシャッター押せば撮れるの多いしね
バカチョ●とか言う言葉があるくらいだから
関係ないけどなんでこの板過疎ってるの?デジカメ板は賑やかなのに
パンクが音楽として最低レベルと言ってるのと変わらん
寂しい人生だなw
☆
http://evelynrose.xxxxxxxx.jp/
↑ キモイな自閉症か・・・
まさに生きてることがオナニー同然。
脳内麻薬、奇形思考者。
病院いけよ世の中のゴミ、生存価値なし。
キモオタカメラマンのズリネタにされるためだけの人生。
極度の成長障害児。
結局は黙々と独りで無意味なブログでオナッているのだが。。。
紙と鉛筆さえあればよい。
授業中ですら活動できる時と場所すら選ばなさ度。
つまり絵の方が敷居が低い。
俺は絵もやるけど、コレは芸術だと思えるレベルには、
誰でもいずれ到達すると思っている。
要は数さえ書けば誰でも到達するものだと思う。
だが写真で芸術は難しい。
これはセンスが必要だと言い切ってもいい。
基本的にここに書き込んでいる人の殆どが
芸術とは、何かと理解してない基礎力不足な人なんだね。
センス無し君は、いつまでもそうやって基礎学習に励んで
実践から逃げてりゃいいのさ♪
>>240
基礎なくして応用もなし
基本が出来てないから何時までもピンボケなんだろ
いい加減に気付けよ センス無し君キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!
今日はどんな駄作を量産しましたか?
見たいのでうpきぼんぬ。
あっ、今はピント合わせの練習に励んでるレベルなんで、作品にはまだ遠いんでしたっけ?
これは失礼w
>>244
センスが無いと素晴らしい写真が出来ないのか?
オマエ ほんとに写真が見えてないな。 >>245
芸術が見えてないな。
そんなものは、過去芸術だったものの焼き直し作業に過ぎない。
昔の版画の複製技術を継承してるのと、レベルは変わらん。
このことが示すように、写真撮ってる連中のやってることは、
芸術などという高尚なものなわけがなく、
単なる景色の複写作業に過ぎないのだよ。
景色の複写、できるものならやってみろwwwwwwwww
>>247
>>このことが示すように
何を示しているんですか?脈絡が訳わかりません。
出来れば建設的に書き込んでください。
それと芸術って何が高尚なのでしょうか?
私には、よく耳にする言葉の羅列にしか感じませんが。。。内容なし >>247
センス無し君の発言を例に取って、写真を芸術でないなどという結論を出すなど、
思慮不足なこと甚だしいわ。
包丁もって暴れる一握りの基地外の存在を例に、
包丁は人殺しの道具だと結論づける・・・てぐらいに
愚かな発想だ。
>>247
それ、いわゆる「マニュアル君」みたいな奴のことか?
そういう奴って、現場で「首切り」とか「串刺し」とか発言しながら、
もう目にピント合わせることだけ考えてシャッター押してるんだよなw
つか、ああいうのって、写真のセンス云々とか以前に、
人間としてのセンスに問題があるな。
たぶん何やっても人の真似事なんだろう。
なんか微妙に話が違う方向に行ってるようだが、
芸術には自発的想像力が必須だってことは伝わったようだ。
たとえ絵画だろうなんだろうが、既に芸術として認められた先人の産物を
模倣してみる的なものは、一切芸術活動と呼べないことが、
これで理解していただけるだろうか。
あまつさえ写真などは、単に気に入った風景を見てただシャッターを押してるだけ。
絵画を鑑賞する活動と、レベルはさほど変わらん。
絵画鑑賞マニアが芸術家を自称するってか?
な?お笑いだろ?写真なんてこの程度なんだよ。
>>252
頭がショートしている?大丈夫か?
前半部分は、誰にでも理解できる初歩的な自己表現の解釈で
どこにでも書いているような内容・・・普通で何の変哲もなく・・認める。
しかし、後半部分が子供じみた考察なんだね。
>>あまつさえ写真などは、単に気に入った風景を見てただシャッターを押してるだけ。
これを絵画・俳句・陶芸・彫刻・・・に変えて作文して御覧なさいよ。
全部当てはまるよね。wwwww
>>写真なんてこの程度なんだよ。
絵画・俳句・陶芸・彫刻・・・なんてこの程度なんだよ。になっちゃうね。可笑しな話www
頭悪そうだから書くけれどね。この場合の話は、自己表現の形態の優劣じゃなくてね
自己表現の中で何が芸術となり得るかの基準を勉強する事が先だと思うよ。
今の君の発想なら、写真屋から100枚写真を取ってきて芸術じゃないか芸術なのか・・・
話している幼稚な発想でしかないからね。
例えば・・・アーバスの写真、ウエストンの写真・・・・を見て芸術じゃない点を指摘できるかい? >>253
ネタで書くなら解るがw
真剣に書いているなら、無知と勉強不足からくる発想か元々、救いようがない馬鹿
としか思えないな。 なんだか著名人とか詳しいことは分からんが、
写真の屁理屈を磨くより、撮ってセンスを磨け!
てことでFAなのかな?
>>247 は不幸にも周りにセンス無いお方しか
いらっしゃらないようで、このような偏った
結論にしか至らないのだということもFAw
>>256
写真とってセンスが磨けるなら苦労はしない。カメラと写真に慣れるだけじゃないのか。
ましてや、闇雲にとり続ける事ほど愚かしいものはないと思う。
思考・・撮影・・思考・・の繰り返しじゃないのか?
それが無いと前に進めなくは、ないのか・・・・
>>256
君の考えなら、>>247 >>252 の思考レベルで否定されるだろう・・・
自分の撮影する行為を客観で見つめる事をお勧めする。
決して無駄じゃないぞ
無駄と思えるのは、君に経験がないからに過ぎない お前ら、軽いな。何がとまでは言わんが、色んな意味で軽いよ。
何ひとつ響かない芸術論を列挙するだけで、芸術家気取りか?
一度、本物の芸術家ってのも見てみるのもいいかもな。
オーラっつーのかな。黙して語らず。だが確信を持って人の心を動かしてくる。
何も言わないのに「お前ら参ったか!」って声が聞こえてくるんだよ。
ま、そんなのがネットにゴロゴロ転がってる世の中も可笑しな話だし、
器が違う人たちは、習い事感覚で自己実現ってことにしとくのもアリかな。
ま、俺もこんなサイトに書き込んでる時点で何の説得力もないけどな。
>>259
まあ、そうかもしれんが・・・・
>>何ひとつ響かない芸術論を列挙するだけで、芸術家気取りか?
響くものなのかなあ?この類は、自らが導き出すしかない事柄なわけで
分で書いても伝わりにくいものだろうな。
沢山のアーティストを知っているが饒舌な人も多いし、オーラなんて全く無い
そこいらのジジイな人も居るね。百人百様なわけで簡単に括れる物でないことは、
確かでしょうな。
まして器が違うのは、大きさじゃなく自分が如何に器を磨くのかなので真摯に取
り組めば到達できることだってあるわけだ。
なにも、特別視する必要もないし、自然体で接する感じで良いんじゃないのかな。
そんな意味で貴方の芸術観は、歪んでいるように思える。 昔、黒○明監督が「雲の形が気に入らない」と
言って、役者さんを一ヶ月待たせた。という
逸話を残すような(土○拳)みたいな人の写真なら
芸術と言えるんじゃないかな?
ソレダ!
それがクリエイターの本質ってもんだ。
俺の周りにいる、ウダツの上がらない似非芸術家どもに、
なにが足りないのか?お陰でモヤモヤが吹き飛んだ。
芸術家ってのは結局、必然的にある種の基地外ってことだな。
お行儀よくコツコツ努力してるようなサラリーマンタイプや
そこいらに居るようなオッサンが仕事で生み出したようなものは、
かつて誰か基地外が産み出した産物の模倣に過ぎないってことだな。
俺は写真だけじゃなくて音楽のHIPHOPもやっているわけだが
明らかに「趣味は写真」と言ったほうがウケがいい
どうせHIPHOPは芸術じゃないとか言われるのがオチ
>>264
どれだけ表現する物と自身が向き合えるかだね。 レンズの前の被写体が撮影され、記録されるものと諸君らは考えているようだが、実はそればかりではない。
撮影者の企図や願望、つまりきみの人間的存在が被写体の映像に先んじて潜像として記録されるのだ。
このことは写真ばかりでなく、他の芸術行為やさらに人間の生存行動全てにも言えることである。例えば赤ん坊の第一声もそうだし、草むらに残された糞など見ても表現者の存在は自明のことであろう。
君たちも糞のような写真を漫然と垂れ流すことよりも、被写体に重ねて投影するに値する自己を磨き、知性を高めることが先決ではないかと老婆心ながら思うのだ。
言いたいことはわかるけれど、知性の高さと芸術性の高さは必ずしも比例するとは限らない。
人間性が高くて教養が深くたって教科書通りの写真しか撮れない人なんてゴマンといる。
皮肉なことにね。
そんなこと言うけど芸術性が高く知性に欠けた写真ってある?
ないと思うけどなぁ。
同時に、自己を被写体に投影するような写真って、今時芸術としてはなんの
意味もないでしょ。おそろしく古くさい発想だよ。それじゃだめだな、と
気が付くところで知性が働くわけだよね。
>>269
知性と関係ない芸術というのもあるわな。
>>270
>>自己を被写体に投影するような写真って、
>>今時芸術としてはなんの意味もないでしょ。
といわれても、その発想と根拠を示していただけないと何とも賛同できかねるよ。
自己が出ないのなら、自己表現でもないわけだからね。芸術にならないわけだよね。
それじゃだめと気付く事が知性じゃなくて芸術に迎合する行為なんじゃないの 芸術って単なる自己表現ではないでしょ?
その思い込みはかなーり古いと言うか小学校的な芸術の定義だよ。
写真を介した芸術について言うならば、カメラっていう機械を介して
あるイメージを得るジャンルである以上、自己っていうものをいったん
切断した上でイメージに向き合うってことがまずはあるでしょう。そう
いう構造的な把握が知性の機能の一例で、そんな確固たる自己なんて
実はないんじゃないかという疑いなしに自己投影なんて言っても、
それは芸術とはまるで関係ないことだよ。
「知性と関係ない芸術」っていうけど、本当にそんなものある?
知性がなにかを芸術として発見するってことはあるけどね。
>>272
>>芸術って単なる自己表現ではないでしょ?
単なる自己表現じゃなくて自己表現の一つの分野だよね。
>>カメラっていう機械を介してあるイメージを得る
自己のイメージを機械を通して得るものなだけで自己を切断なんて
する必要なんて無い。
>>構造的な把握が知性の機能の一例で
これは、他の表現と同じで表現手段の練習・習得であり、知性とは、
関係ないものですね。
>>自己っていうものをいったん切断した上でイメージに向き合うって
>>ことがまずはあるでしょう。
習得不足というか自由に技術を操れないから、そんなことになるだけでしょう。
あるいは、自己との葛藤に事を言っているとしても・・・鍛錬の期間中ってとこでしょう。
>>そんな確固たる自己なんて実はないんじゃないかという疑い・・・
確固たる自己を表現にこめられないのなら、芸術とは、いえないでしょうね。
>>「知性と関係ない芸術」っていうけど、本当にそんなものある?
表現の伝達方法は、各種あるけれど根にあるものは人類の共有感覚
でこの類の信号なら、知性がひつようとされないで伝わるのではないかな。
例えば知性や手法・理論で行われたピクトリアリズムを芸術という人は今は
皆無だろうけど同時代に街並みを画家の素材のために撮り続けたアッジェは
知性のかけらも無い単純な人間と言われているが彼の写真は広く芸術と
認められているね。
272が言ってることはもう一つよくわからんけど、日本の写真家で言えば
森山大道とか杉本博司とか、わりと評価されてい人って確かにそんなアプローチ
かもしれない。
俺の眼から見ても273はずいぶん古くさいこと言ってるような気がする。
土門拳ぐらいまでならそういう言い方したかもなぁって感じ。
>>274
古臭いと言われてイマイチ意味が解らないんだけど・・・・・
具体的に教えてもらえませんですかね。
確かに事柄毎に時代と共に変化する事は認識していますが
芸術の基本は不変なはずだと思う。
アッジェは同時代には芸術と認められなかったわけですよね。それだけでも芸術の
基本は不変とは言えないって証拠じゃないですか?
アッジェが知性のかけらもない単純な人間なんて誰が言ったんでしょうか。
そうは思わないんですけど。むしろアッジェは272さんの言い方で言えば
「自己っていうものをいったん切断」することを意識して撮ってるんじゃないですかね。
だから後世評価されているのではないかと。
>>276
>>「自己っていうものをいったん切断」
これは、否定しているわけじゃありません。以下のように書いてます。
>>習得不足というか自由に技術を操れないから、そんなことになるだけでしょう。
>>あるいは、自己との葛藤に事を言っているとしても・・・鍛錬の期間中ってとこでしょう。
切断という言葉が馴染みませんが培ってきた技量等を一旦、打破して構築する意味
だと受け取っていますが私が鍛錬の期間中と書いたのは、打破から始まる事を
意味しているからです。
>>アッジェが知性のかけらもない単純な人間なんて誰が言ったんでしょうか。
マンレイが書いてます。
>>アッジェは同時代には芸術と認められなかったわけですよね。
確かに死後アボットにより、アメリカで有名になりましたが生前にフランス国内
の雑誌に紹介され一部のグループでの評価は、高かったようです。
私は死後、時代が流れ受け入れられたと解釈するより、アッジェの写真を
人が知るようになり驚きと共に受け入れられたと解釈するほうが正しいと考えます。
人の感覚は、人類で共有している物で更に細分化すると国家、民族・・・・
そして、宗教・文化の中で育んで来たものもあります。
私が書いた基本部分とは、人類共有の感覚の上に成り立つ部分であり、
宗教・文化・習慣等の細部は時代と共に変化・遷移している・・・・・
わが国でも性器描写の時代変化を見れば判ることですよね。
知性の解釈について・・・・・・
芸術は、子供や痴愚に作る事が出来ないと考えます。
もし、知性と書いた意味の中でこれらの事が含まれる
大きな意味を持つのなら・・・・・
私も知性が必要に同意します。
ただ、一般的に頭が言い悪い程度であるなら同意しかねます。
このあたりのすりあわせが必要でしょうね。
>>「自己っていうものをいったん切断」することを意識して撮ってる
私の切断の解釈は上に書いた通りですがもう一つ、表面的な切断・・・
つまり、<意図を出さない>についての考えを書きます。
アッジェの写真を初めて見たときに感じたことは、何故あのような客観的で
意図を交えない写真が撮影できるのかと強く感じました。
これを切断の意味に含めるのなら、私の書いたことが言葉上で誤解され
ているのですがアッジェは、この部分に自己の写真観・表現が表されてい
て決して意図を切断して撮影していると言える物ではないと考えています。
シャッターを切るからには、最低限の意図が存在しますし、フィレーミング
にも意図が介在します。アッジェ写真は、セレクト、プリント時の意図
が無いのでその分だけ希薄になるのですが写真には、彼の視線の
存在を意識させるに十分な彼の言葉が含まれているのではありませんか?
これは、切断という言葉より、自己抑制とか制御の言葉が適していると
思います。 あえて饒舌にしていない・・・・・寡黙だから彼の世界は大きく
広がるのですけれどね。
アッジェの写真をマンレイが評価しなかったことは「人類共有の感覚」とやらを
疑うに足る事例ではないでしょうかね?その「人類共有の感覚」なんかすこしも
芸術には必要じゃないと私個人は思いますが。
写真は、ある程度機械に身を任せつつ、結局のところ完全にコントロールすること
など出来ない現実を相手に、その不自由さのうちでなんらかのイメージとして定着
する、そういうメディアだということを私は言わんとしているわけです。
それは芸術=自己の表出と言うプリミティブな観念とはまるで違うことでしょう。
自己の意図で写真が定着するイメージをコントロールしきれないことは、技量の不足
というよりは、メディア自体の本質的な特性だと積極的に捉える必要があります。
それは単なる特性で、絵の具というメディアに特有の癖があるということと同様で、
絵の具にだって描くことの出来ないものはあるように、写真特有の不自由さに寄り添う
ならば、自己表現=写真っていう考え方はものの見方をさらに狭めてしまうでしょう。
>>274,276
認識は共有されていると思いますよ。ほぼ同意です。 >>280
どうも文章が理解できにくいですね。願わくば整理して分かりやすく
書いて欲しいです。読解に結構な時間をようしました。
>>アッジェの写真をマンレイが評価しなかったことは
誰もが知っている内容と思い例を出したに過ぎませんが・・・・
マンレイは、評価してましたよ。だから、彼の雑誌に掲載した
のです。事実関係は、ネットで調べることが出来ます確認して
ください。
>>「人類共有の感覚」なんかすこしも芸術には必要じゃない
美学や芸術学の基礎的な部分なんですよ。
例えば・・・黄金分割ってありますが何ででしょうか?
あるいは、少々古いですが写真言語論の言語とは何でしょうか?
共有感覚の上に成り立つもので伝達に必要不可欠なものですよね。
>>写真は、ある程度機械に身を任せつつ
・・・・・・・引用 略・・・・・・・・・
>>体の本質的な特性だと積極的に捉え・・・
書き換えます。
写真画像は物理的特性の枠から出ることが出来ないので意図通りに
表現できない。
芸術=自己表現という基本的な構成要素とは、異なる事になります。
写真の表現に物理的な制約がある事は、受け入れなければなりません。
この制約は写真だけに限らず様々な表現手段においても何らかの形で
存在するものです。
この部分は当たり前といいますか抗っても受け入れなければいけ
ない部分です。ただ、芸術=自己表現・・・・の下りですが・・・・
「何物にも制約されない自由な表現への足枷」とかと仰りたいので
しょうか?
>>写真特有の不自由さに寄り添うならば、自己表現=写真っていう考
>>え方はものの見方をさらに狭めてしまうでしょう。
この引用全体の意味が理解できません。
部分的に「自己表現=写真」は、間違いですね。
読解不足かもしれませんが貴方が書いていることは、写真の表現に
対する制約と表現への対処でしかなく芸術論まで踏み込んでいない
ように受け取ります。
マンレイはアッジェにシュールレアリリスト的な部分を見たにすぎません。アッジェに
シュールレアリストを見るのは可能ですが、それをもってアッジェを評価したと言い切る
のは少し言い過ぎではないですか?アボットはむしろ身をもってアッジェのやろうとした
ことを引き受けようとしました。
黄金分割なんて芸術とまるで関係ないですよ。かつてそういう技法がしばしば使われたし、
それを今使うことにも問題ないですけど、黄金分割に従うことが芸術の本質と関係あるとは
少しも思いません。黄金分割は平面イメージに秩序を与えることに有効ですが、秩序自体は
芸術的価値を高めも低めもしません。少しだけ見通しを良くするだけです。
>芸術=自己表現・・・・の下りですが・・・・
>「何物にも制約されない自由な表現への足枷」とかと仰りたいので
>しょうか?
いえいえ、表現するということが自己表現という意味だとするなら、芸術はそんなことば
かりしているわけではないわけです。
単に写真的現実を提示するだけでも写真は芸術としての存在意義があります。
例えば現代的な写真家としてグルスキーの名を挙げることが出来ますが、
http://images.google.co.jp/images?q=GURSKY
彼がやっていることはそういうことでしょう。写真というメディアの特質が特権的に把握
し提示することができるあるリアリティーが提示されています。写真に出来ないことを
受け入れつつ、しかし写真に出来ることを突き詰めることで、世界のある一断面が有無を
言わさず提示されています。同じイメージを例えば絵画で描いてもあまり意味はない。
写真だからこそ意味があるわけです。アッジェの場合も多かれ少なかれそうでしょう?
全体として言いたいことは写真は自己表現じゃないということです。そんなことは写真の
可能性に比べれば小さいことだということです。そしてその可能性の大きさは素朴な芸術
意欲(表現意欲)が知性により止揚されたさきに見えてくるはずです。 >>マンレイはアッジェにシュールレアリリスト的な部分を見たにすぎません。
いいえ、マンレイは古いパリが写っているので雑誌に掲載したと考えられます。
アッジェ写真にシュールな部分が介在する事は考えられないでしょう。
マンレイを含むシュールリアリスト達は彼の写真を評価しています。
マンレイの弟子であるアボットは彼の死後直ぐに友人から彼のネガを買い取り
分散を防ぎました。引き継ぐというより、彼のストレートな写真を評価した
ものです。
>>黄金分割なんて芸術とまるで関係ないですよ。
建設的に考えてください。芸術の伝達手段として人類共有感覚の存在を書いている
のですが共有感覚に基づいた物を例に出しています。
関係がないあるではなく人類共有の感覚が言語と同じように伝達機能がある事を
示す例を挙げています。
>>写真的現実を提示するだけでも写真は芸術としての存在意義があります。
>>例えば現代的な写真家としてグルスキーの名を挙げることが出来ますが
それこそ、元祖がアッジェです。書かれていること自体が当てはまりますよ。
私自身、貴方がお書きになられている事を理解できますし、上のシュールリ
アリスト達もそう感じたのでしょう。踏まえて書いてますし異論ありません。
>>全体として言いたいことは写真は自己表現じゃないということです。
>>そんなことは写真の可能性に比べれば小さいことだということです。
>>そしてその可能性の大きさは素朴な芸術意欲(表現意欲)が知性に
>>より止揚されたさきに見えてくるはずです。
これは、言葉が違いますが理解できます。前にも書きましたが
>>止揚されたさきに見えてくるはずです。
此処からが始まり・・・原点なんです。此処まで来る事は苦労山積
かもしれないけれど一歩踏み出さないと何の意味もない。
此処からが遠い道のりなのですね。
しかし・・・・
>>写真は自己表現じゃないということです。
私は貴方が「自己表現じゃない」という部分を含めて自己表現であると
考えています。
グルスキーの写真は、自己表現でしょう。
>>282
追加 関係ないですが質問します。
書かれている事は実践から得たものですか?
学問から得たものですか?
是非、是非、教えてください。 >>283
あなたは黄金分割をどう使うかご存知ですか?感覚とかの問題じゃないですよ。
黄金比ってのは矩形の内部に向かって余りを残すことなく無限に同じプロポーションを作る
数少ない比率の一つです。いわば1+1=2と同じような幾何学的な問題で、人間の感覚とは
無関係です。1+1=2でなにかを伝達できるか疑問ですが、黄金比がなにかを伝えるのに役に
立つでしょうか。
マンレイは自身が編集に携わっていたアッジェの写真を「シュールレアリスム革命」という
雑誌の表紙に使いました。パリの街頭で群衆が黒ガラス越しに日食を見ている情景で、見方
によってはシュールな写真です。あなたが言う「アッジェ写真にシュールな部分が介在する
事は考えられない」ってのは端的に事実と異なります。
写真を撮っていくなかで少々のことを学ぶのは普通のことでしょう。例えばグルスキーみたい
な写真家がなにをやっているのかは見ればわかることではないかと思いますが、しかしなぜ
彼らがそういうことをしているのか腑に落ちるために私の場合には制作という経験が必要で
した。もはや自己表現なんてどうでも良いことだと今は思います。少なくとも写真においては。
グルスキーはこうした態度をベッヒャーのもとで身に付けたわけですが、ベッヒャー夫妻は
主観性によって対象を毀損しないことを常に言っていました。彼は良い弟子とは言いにくい
かもしれないけど、それでも彼なりにこの姿勢を継いでいて、世界の途方もなさを前にして
写真特有の仮借ない機械的視覚を徹底して行使します。それでも彼の写真に彼の自己表現を
見るならもはや見る側の読み取り方にその解釈は帰せられるべきではないかと思います。 >>285
黄金分割が何から生まれたのか・・・
人間にとって最も安定し、美しい比率といわれています。
これは何故なんでしょうか?
共有の感覚があればこそ存在するのではないですか。
シュールリアリスト革命には数枚の写真が掲載されました。
当時のピクトリアリズム写真と異なった様式でストレートな
写真として評価されたものと考えています。
>>見方によってはシュールな写真です。
私はストレート写真であったからこそ日常を超えた(幻想的)
発見があったが為に評価されてものであると考えています。
>>写真特有の仮借ない機械的視覚を徹底して行使します。それ
>>でも彼の写真に彼の自己表現を見るならもはや見る側の読み取
>>り方にその解釈は帰せられるべきではないかと思います。
プロセスとプロセスを制御しようとする自己との葛藤の過程が
ある限り、それは、自己表現の枠で括られるのではないでしょうか。
>>機械的視覚を徹底して行使・・・
一つの血の通った表現ですよね。 黄金比をなにか神秘的なものと思われているようですが、矩形の面に秩序を与える技法として
有効だという意味以上の思い入れは私には理解できません。逆に秩序を与える技法としては
有効です。同じプロポーションで面を埋め尽くすことが出来て、縦横だけでなく斜めの秩序を
そこに作ることが出来ますからね。それ以上の意味は共有できないあなたの個人的な思い入れ
だと思います。
マンレイに関しては事実を述べていますので、あなたの想像について私はなんとも言えません。
>プロセスとプロセスを制御しようとする自己との葛藤の過程
があればそれは自己表現だとおっしゃるなら、作品にはそんな葛藤よりももっと意味のある問題
があるのではないかと言うほかありません。困難とその克服なんていうしみったれた小さな
ドラマは芸術よりもスポコン漫画かなにかと関係があるのではないでしょうか。アートとしては
作品それ自体が提示するもので勝負するありません。
私としてはやはりあなたの美術の概念がかなり素朴なものではないかと思わざるを得ません。
もうちょっと絶望してみる必要があるのではないでしょうか。出過ぎたことかもしれませんが。
アートとしては作品それ自体が提示するもので勝負する「ほか」ありません。
ですね。このやりとりちょっと誤字多かったかもしれませんが、失礼しました。
>>287
黄金比は何も神秘的とか言っているわけでなく
人間にとって最も安定し、美しい比率とされている
事を人類が受け入れている事実を述べています。
善悪、モラルたくさんあるのじゃありませんか。
アッジェに関しては私は当時の背景・事実を元に
書いています。確かにシュール的な要素・・との
記述も一部で見たことがありますが正しくないと
考えています。
私は葛藤の下りよりも
{>>機械的視覚を徹底して行使・・・
{一つの血の通った表現ですよね。
の意見をお伺いしたいと思っています。
いくら、切捨てても人としての枠を出ること
が出来ないと考えています。
>>アートとしては作品それ自体が提示するもので勝負する
>>「ほか」ありません。
手を離れると一人歩きするので同意します。そう考えています。
だから、自分の表現が底に存在する価値があるのだと思います。
>>美術の概念がかなり素朴なものではないかと
そうかもしれませんが意識的に単純明快化したいと考えています。
前々回の「出発点」からは、全く自由に羽ばたけるのだと考えます。
なので枠を広くしあらゆる表現を受け入れることが出来る幅を持
ちたいと考えています。
>>作品にはそんな葛藤よりももっと意味のある問題
>>があるのではないかと言うほかありません。
それは何なのでしょうか?おそらく、それが貴方の結論なのかと
想像します。
>>もうちょっと絶望してみる必要があるのではないでしょうか
表現に関して足掻いていますが絶望したことは、有りません。
する必要もないかと考えています。それは、評価されたり、売
れることを求めていないからです。もちろん、芸術を求めても
いません。ここに貴方と私の違いがあるのではないですか?
なんかアホらしいけど、一応。
芸術かそうでないかっていう議論ははっきりいって
時代錯誤で作品であるものを芸術じゃないと断定する
方が難しい。何をどうつくってどうみせるかってことなら
どの分野でも同じ。映画も小説も絵画もそう。ただ撮ったり
書いたり描いたりしたものが自然と芸術になるとかじゃなくて
そこにあるもののクオリティによるわけ。で、そのクオリティって
いうのは最終的に作品だけの話でなくオーディエンスとの
関係になってくるわけ。
写真は撮る作業50%、焼きつけ作業50%だからね。
で、あとは構想練ったり、被写体探したり、編集したりいろいろ。
それらのプロセスをすべて写真家自身が踏んでいるものを作品じゃない
とは言えない。そしてそれらを発表してオーディエンスとの
コミュニケーションが生まれたらそれは芸術の域だと言える
んじゃないかな。
もちろん、ただカメラで撮って終わりみたいなことを
やってる人達はいっぱいいる。それらは単に写真なだけで
どれだけ寄せ集めてもそのままでは写真にしかならない。
でも上記のプロセスを踏めばそこに芸術としての可能性が
あることも否めない。
ひとことで言えば写真をみた相手に何か感じさせたり考えさせたり
することができたら芸術なんだよ。もちろん写真であることには
違いないんだけど、それ以上ってこと。そういった外的評価があって
こそ認識されるものなんだよ、芸術って。
いろんな理論は話半分でいいと思うよ。大抵写真撮ったことない、あるいは
先に述べたただ撮って終わりみたいなものしか経験のない人達がいろいろ
述べてるに過ぎないから。バルトもソンタッグもベンヤミンも。
普通の社会人は書類を作って意図とか希望とかなんかそんなものをコミュニケーション
してるけど、それは芸術か?コミュニケ−ションが出来たら芸術なんて薄ら馬鹿なこと
言っても仕方がないなぁと思うからソンターグはあんなこと書いたわけだ。
書類作りみたいなことをやっているにもかかわらず芸術家気取りの人はいっぱいいる。
そんなのは別に他人の迷惑にならないからどうでも良いけど、書類作りみたいなのばっかり
になると世の中見通し悪くてしょうがないからなんとか整理しようとしているんだよ。
>>292
話がずれてるけど誰のこと?サラリーマンに独自性のある創作能力が
あればとっくにそんな仕事やめてるか自分で起業してるかだろ。
その部分での能力があるかないか問わないと例え話にならないぜ? >>292
その「書類製作」だのいう話の例えならさ、、いわゆるブツ撮りみたいな
広告写真とかでさ、ブツ撮りなんかは本来カタログ製作であって観賞用では
ない。いくら芸術性があっても芸術としての対象から外れてる。街の写真館
なんかも同じ。
ただし、それらの中にもおもしろいものはあるからそれらを安易に否定する
ことはできない。評価というのは後からついてくるものだからおもしろいのかも
しれないが、世間が評価してるから自分もっていうかどうかはまた別の話だわな。
ただし通念として認められてるものにはそれなりの存在価値や存在理由があるって
ことだけわかってればいいだろう。 評価されてるからそれは芸術、って論理はまずいんじゃないの?
>>295
いや、世間の常識という意味で知っていた方がいいという範囲の話。
個人的な受け止め方は別モノだろ、当然。酒のつまみにはもってこいだけど。 焼き物の包み紙にすぎなかった浮世絵が後の世に評価されたがゆえに芸術に昇華したようなもんだよね。
誰も評価しなければただの包み紙の模様でおわっていた。
>>296
世間の常識に合わせて受けることを狙い作り上げた作品も芸術な訳なの?
バレル、バレナイ次第なのかな? >>298
それはしらん。「世間の常識」って知識ってことだけど。
美術史をやってれば一応の美術の世界の歴史の流れと有名な作品は
認めた上で議論するするでしょ、個人的な見解はどうであれ。
共通の共有の価値観ってあるわけだよ。 >>297
ようするに西洋の価値観に押されてってことかな。よくある話だけど。
だからか、この国は逆輸入ものって受ける傾向にある感じ。マ−ケティングの
やり方一つで作品の将来が決まったり。
映画で例を挙げれば、北野作品。自分はあれはアジアのギャングスター映画の
流行が欧米であったから発掘されたようなものだと理解してる。90年代は
アメリカ映画産業はバブルだったこともあってか世界中のインディーズ作品の
買い付けが盛んだった。 >>299
また「共通の共有の価値観」が出てきた。
そんなものほんとにあるの?
仮にあるとして、それに抵抗するのが芸術ではないかということが一つ。もう一つはそれを
前提すると芸術について問う必要がなくなるのは確かかもしれないが、今度はその「共通の
共有の価値観」とはなにかって問題が出てくるだけで、議論のすり替えないし先送りにす
ぎない。
結局それを根拠にした議論はきわめて通俗的な問題で、それなら芸術と呼ばれるものが
芸術だとトートロジーでやり過ごした方がまだましだろう。もちろんそれで満足できる人
なら、ということだけど。 >>301
「共通の共有の価値観」は、あるけどないっていうことの表裏一体の
存在じゃないの?だから何も芸術だから生き残るってわけじゃない。
それを支えるものがなければ簡単になくなる。だから芸術の認識が
議論の先送りとかじゃなくてすべてがプロセスだから結果として
継続性があるものがモノをいうっていうかさ。
写真で言えばロバートキャパの作品とかさ、彼を支持する人達が
築き上げてるところにあるわけだよ、芸術性を語れる何かが。彼一人
が生前に行ったことは他の戦争写真家と比べてそう大差なく忘れられて
いくものだったんじゃないかと、本来。でもそこに弟がいて、マグナムが
あって、有名な写真雑誌の編集者達やなんかいろいろ取り巻いていたから
「残されるもの」としての基盤が出来た。彼等がキャパの作品のすばらしさと
写真に対する姿勢を熟知していてそれを支持していることがある意味、芸術の
かたちなんだと思う。
それが「共通の共有の価値観」じゃないの? >>301
「それに抵抗するのが芸術ではないかということが一つ」っていうのは
そのプロセスの一過程というか一辺、一部分だと思う。既存の価値観を
ぶちこわすっていうのはあるしさ、それなりにいい作品には。でも同時に
伝統も継承してるって一面もないときついんじゃないかな、芸術と呼ばれる
には単に白黒はっきりした一面性だけで済まないことだから。
話を日本にするなら、森山大道の出てきたことは海外の写真家の作品の
日本版みたいなことだったわけだよね、彼自身の影響受けた側面から考えると。
でも、それで独自の世界観があったから彼自身のモノが認められたわけだし。
で、後の世代、今でも大道もどきみたいな若手がいたりするけど、それらも
深く掘り下げれば単なるもどきでなかったり、本人がいくら否定しようとただ
そうとしか言えないものだったり、いろいろあるし。でも、それを知ってるのは
当人だけであってまわりにには理解できないこと。そういった状況を打破できれば
個が確立できるところまでくるんだろうね。そうなるかならないか誰にも予想は
つかないからどこかへ導いたり何かを定義づけられるような物差もない。
それが大事なプロセスなんだよ、芸術を語る上で。
何が言いたいのかわからないな。要するにどういうこと?
上の人と別人というか・・・共有の価値観を最初に書いた者です。
価値観の言葉が分かり難いのか・・・・共有の言語とか共有の感覚
とかに読み替えると理解できないのだろうか?
>>抵抗するのが芸術ではないかと
むしろ、通常なら利用する物と思うけど意識して抗うのも利用の範疇かな
>>303
>でも、それを知ってるのは
>当人だけであってまわりにには理解できないこと。そういった状況を打破できれば
>個が確立できるところまでくるんだろうね。
これは違うわけで・・・・周りに理解されなくても己は確立されているわけです。
打破とは、周りからの理解なんだろうけど此れは結果論にしか過ぎない。 皆が写真を同じような世界観を前提として写真を見てる、って基本的にかなり疑わしい
考えではないですか?
過去って一口に言ってもそれをどのように捉えてどのような価値観で見ているかは
人それぞれでしょう。とりわけ写真の場合、一つのイメージとして客体化させている
ところに世界観みたいなものをいったん切断するようなところがあると思うんだよね。
言語とか意味とかいうのは写真を見る側の問題で、写真それ自体の問題じゃないんじゃ
ないかと。
よく言われていることだけど
ミロのビーナスのホルムは多くの人が見て美しいとか・・・・
先ず、そのあたりの認識は確認しておきたい。
>>世界観を前提として
後天的要素が大きくなるほど差が大きくなると考えてます。
世界観なんて宗教が変われば全く違うですね。
>>308
「皆が写真を同じような世界観を前提として写真を見てる、って基本的にかなり疑わしい
考えではないですか? 」
前提にするとかっていうことじゃなくて、築き上げられた土壌/基盤があるってこと。
その上で相撲とるのは勝手だし場外に持ち込んでも結構。新しいルールをつくるなら。
とりあえず無視できない現実があるわけよ。establishmentと言えばいいかな。
それは政治用語だけど、どの分野にも同じように存在する。
何もそれがすべてを支配していて同じようにみたり考えたり感じたりさせるもの
だと100%言えるものじゃないけど。それが美術史なんかだったりする。
自分は博識はいらないと思ってるがすでにあるそういった知識に固まりみたいなものは
避けて通れないという姿勢かな、基本的に。というのは自分以外の人間、つまり他人は
それにどこでどう影響を受けてるかもしれないと思うから。それを理解する上で、ほぼ
無限に知り尽くさねばならないことがあると思う。いらなければ後で捨てればいいだけ。
ただし最初から何も知らないままじゃ行き着くところに限度がある。
>>307
だから宗教や哲学上、人間はそうかもしれないけど、美術史とかではなかなか
その個、というより個性というかそのスタイルを分けてみることがなかったりするじゃん。
っていうのはひとまとめにしようとするから、簡易的に。だからどこまで掘り下げて
モノを言うかにかかってくるでしょ。
極端な例だけど、森山とアラーキーはぜんぜん違うけど同じ日本、同じ新宿という
文化に対して写真を撮ってる同じ世代ってことなら同類にされるってこと。なにも
知らない人はただ二人の日本人のオッサン写真家ってことでしか理解しないかも
しれない。でも、彼等についての研究はいっぱいあるからもうちょっと調べれば
二人の違いがはっきりわかる。もちろん共通の部分もあるけど。
どちらも間違ってないんだよね、薄っぺらい本を読むか、分厚い本を読むかの差で
それだけの違いが生じるってことかな。極端な例だけど。 >>309
フォルムをホルムと間違える奴の芸術論なんか聴けん。 ミロのビーナスを穢らわしいと思うイスラム教徒は普通にいますよ。それが極端な
例だと言うなら、むしろその程度の文化ギャップを超えられない写真って閉じた
狭いものだと言うほかない。こういうとなにか文化相対主義的な響きがしてしまい
ますが。しかしその程度のことが想像付きませんかね。
ミロのビーナスの美しさは、きわめて古典的なものですよね。その古典的な美を
「共通の共有の価値観」と捉えているようですけど、今の芸術ってそうした古典的
な美とはかなり離れたところにあると思いますよ。例えば森山でも前に話に出てた
グルスキーでもやっていることには全然古典的ではないでしょう。いったい彼らの
作品のどこにそれを見いだせますか?そして仮にそれがあったとしても、その作品に
おいてそれはどれほど価値を左右していますか?
古典的な美というのは結局の所西洋美術史の文脈が届く範囲でしか成立しません。
僕らは多かれ少なかれその影響下にあると言えるんでしょうが、それに寄り添ってみた
ところで芸術の領域を狭めこそすれ広げることにはならない。それを土台として
なにかを築こうというのは大変勉強熱心な態度と言えるでしょうが、それに意味が
あるかどうかは疑問です。
>>313
「古典的な美というのは結局の所西洋美術史の文脈が届く範囲でしか成立しません。
僕らは多かれ少なかれその影響下にあると言えるんでしょうが、それに寄り添ってみた
ところで芸術の領域を狭めこそすれ広げることにはならない。それを土台として
なにかを築こうというのは大変勉強熱心な態度と言えるでしょうが、それに意味が
あるかどうかは疑問です。」
歴史を平面的にリニアにみてもどこでも行き着くというかかなりの範囲で交わってると
思うんだけど。仮に西洋史を母体にしてもね。ようはその枝分かれの部分の細かさを
みないと何も本質的なことは語れないというか。
イスラム教文化ってさ、発祥はメソポタミアといわれてるし、そこから西洋への
交流や対立、まあ、文明の衝突/破壊/侵略とでもいうのかな、はずっとあって
今日も継続してるわけだし。キリスト教との間では。それにそれらが癒合された
文化なんていっぱいあるわけで。政治の面で表立って白黒つけられるが生活の中
例えば食べ物でもいいし、工芸でもいい、そういったところでは切っても切れない
関係。陸続きのヨーロッパとアジアは特にそう。トルコとかいってみな。わかると
思うよ、もちろん興味があっていろいろな遺跡とか訪ねてってことだけど。
東洋も同じ。シルクロードで考えてもいいし、仏教あるいはその他の密教の伝来を
元にしてもいい。
で、もっと言うと「古典的な美」ってさ、もっといろいろあると思うんだよね。
その複雑なんてはかりきれるのって感じ。だからそれが現在のアートの美的感覚を
狭めてるんだとしたらものすごく狭い一面しかみてないんじゃないかと思う。
>>313
森山と古典的な美の関係は知らないけど、直接はないかもね。
でも、森山はウイリアム クラインに影響受けてるってことろで
少なくとも西洋美術史にリンクする。しかしやはりクラインも
古典的な美とは直接関係ないと思うから、まあそっから先は
詳しい人に聞いてくれ。 314の癒合は融合ね。わりい。
で、まあなにかっていうと本の知識も大事だけど実体験も大事。
それらの繰り返しでいろいろ学んでいくわけだからさ。それを
やるかやらないか、やめるかやめないかそれはひとそれぞれだし。
ただ、建築とかだったら例えば安藤忠雄の作品のよさを知るには
やはりある程度西洋の遺跡をみてまわって同時に日本建築を知った
上で理解が深まるっていうか。これ俺の話だけど。これってここから
影響受けてんじゃないのっていうのがみえるんだよね、それがわかると
彼の美的感覚がわかるというか、だからデザイン性も含めこうなるのかと
納得する。もちろん本人と確認したわけじゃないから想像の部分でってこと
だけど、その予備知識みたいなものと実体験がなければとピンとこなかった。
芸術を理解するにはこういった作業のくり返しなんじゃないかと。で、もちろん
実際につくってみたりとかさ。ただ、自分は映像やってるんで写真はそういった
ことをやりながら試行錯誤の連続というか常に何か考えてみて悩んでのくり返し。
もちろん、そんなことしなくていい時間もある。それはそれでいい。自身の
目標にする結果につながれば。これを一生やっていくのかなと思ってるけど。
初期の芸術とは自己の内から生み出される感情を表現することであった
才能のあるものはそれを音、言葉、色、形などを用いて表現した
怒りに満ちた荒々しい曲、子を思う母の慈しみを表現した詩、
無の心で彫り上げられた彫刻、悲しみで塗り上げられた絵画
それぞれが自己の内面を具現化したものであった
駄作も量産されただろう
が、作品が金になった時それらは様相を一変した
売れる音、言葉、金になる形、色
自己の表現ではなく、作者達は金になる音の表現、色の組み合わせを模索するようになった
芸術に計算が用いられるようになった
プロが誕生した
芸術家達は自己の感情(個性と呼ばれることが多い)をより強く表現することをよしとする考えから
より評価される表現(美と呼ばれることが多い)を探すことへと変わって行った
自己表現の束縛が解かれると、
必然、今目の前にある美しいものをそのまま描写するという流れが起こった
写実である
写実は詩や彫刻にも起こったが
もっとも盛んであったのは絵画であった
しかし、美を視覚的に探し出すという画家達の行為は
美しい音色を探す音楽家達の行為となんら変わらないのであるが
視覚というわかりやすさ故に流れの読めない旧態の権威によって否定され
大論争を巻き起こすことになる
>>317
は?
思い込み激しいな、なんか。芸術って一般的に貴族階級のたしなみ
だったわけでさ、それが庶民にも広く知られ親しまれたっていう流れ
じゃなくって?一般庶民はろくに読み書きできなかったし、資産なんて
持ってなかった封建時代の話ね。 317続き
写実とは芸術ではなく記録であり
芸術には自己表現が不可欠であるというある意味退化ともいえる主張と
美を切り取り忠実に表現するという考えがぶつかり合った
しかし、絵筆を用いて忠実に描くという技術が高く評価されるようになり
写実も芸術として認められるようになった
そして時代が進み
写真が登場した
より完璧に近い写実の登場である
再び論争が起こった・・・かに見えたが
既に芸術に対する許容度は過去のそれとは桁が違い
すぐに写真は記録から芸術として受け入れられるようになった
絵画と同じく、写真機を用いて写す技術が評価されたのだ
言うまでもないだろうが、初期の写真は誰にでも写せる物ではない
しかし、写真機の進化は凄まじいものであった
写真という芸術にとっての幸福と不幸ともに急加速した
なんか勘違いされてるかもしれないけど、俺は素養が無意味だなんてことは
言ってないよ。練り上げられた文化はいわば作物を作る畑で、耕した方が良い。
だけど、その素養というか教養が通用するコミュニティーに依存して、こういう
のが芸術ですよね、ってな目配せ的コミュニケーションでやってると、芸術に
なるなんてことはまずあり得ない。あるいは「共通の共有の価値観」ってものが
あってそれを深く掘り下げていくだけでそれが芸術になるなんてことも全く信じ
られない。そもそも、現代よりははるかにそんなふうに芸術が成立していたと
言われている西洋古典だってもっとアグレッシブにやってますよ。
ぼんやりした曖昧な話してもしょうがないんで、敢えて枝葉を切り落として断言
するなら、芸術の根拠とか美の根拠が世の中のどこかにある、あるいは共有され
てるというような言い方に対して、そんなことないだろと言っているのです。そ
ういう甘い期待は居心地よいかもしれないけど、芸術とは関係ないよ。
蛇足ですが、写真ってのは本来的に非古典的なメディアだからね。そこも
意識すべきなんじゃないですかね。
浪花節すごいね。もうちょっと美的な文章なら読むかもしれないのに。
>>318
オメーの言ってるのは芸術評論家の話だ
作品を語るほうは安藤忠雄を理解するのには世界の建築を
学ばねばならない
同意だよ
でも作品を作るほうはそうではない
俺の言ってることがわからないなら
勉強不足とは言わないが理解力不足だね >>320
人類学や考古学をやってればある程度わかると思うんだけど、
芸術というか生活道具、様式であったり儀式や習慣だったりする
ところに着眼点をおけば共通されるものはある。
ただし、西洋美術は根本的に自然の模写や造形であるから
それらは共有されていない文化には共有されていない。
ただしその中で賛美されているものは本質的には同じと言えるかも。 >>322
話の途中だが
写真という芸術において
アナログかデジタルかなんて関係ない
写真に限ったことではないが
要は三つだけだ
自己の内面を写真の対象物を通して表現するか
写真の対象物を自己の内面によって表現するか
写真の対象物のもつ内面を表現するか >>321
内面性を写し出す鏡という側面を考えるとそう非古典ではないかも。
理論での意味合いでは議論によってそういった隔たりはなくなるよね。 >>324
自分は建築家じゃないからね。だが、もちろんコンクリート建築の
基礎というかそういったものの知識も持ち合わせないと、とは思ってる。
だからといって実際つくりはしないけど。 >>320
「だけど、その素養というか教養が通用するコミュニティーに依存して、こういう
のが芸術ですよね、ってな目配せ的コミュニケーションでやってると、芸術に
なるなんてことはまずあり得ない。」
それは同意。それに異論はない。それに依存してないから。 >>327
鏡に物質性を発見するというのは非古典的な事態なんですよ。
って、この様子じゃちょっと高踏的すぎるか。でもまぁそういうこと。 >>331
「古典」ってどういう定義。特定の時代や場所を差していってる
んだったらそれを明記してくれ。でないとわからん。
でも、哲学的に古くは古代ギリシャ、20世紀後半にもフランス、
アメリカどちらでもそんな論議はあったわけだ。特に写真では。 >>320
「そもそも、現代よりははるかにそんなふうに芸術が成立していたと
言われている西洋古典だってもっとアグレッシブにやってますよ。 」
ちょっとさかのぼるがこれはについて具体的に例を挙げてくれる?
313
あんたの文章読んでて思ったんだけどあんた自身が
「教養が通用するコミュニティーに依存して」るんじゃないの?
知識の幅や奥ゆかしさにまかせて物事を裁断してる姿勢なんかさ。
その「非古典的」という意味にしてもさ、誰もが同じ文脈を読めると
思ってるようなところ。
それでいて共通/共有のものがないっていうんだからまあわからなくも
ないけど、それはあんたが隔離/孤立してる、あるいはそれらをより
深めてるだけの話じゃないのか?
まぁそう自分を基準としてものを言うなよ。
>>332
古典性と非古典性について正確な正義を知りたければ勉強しなくちゃならんね。
古典主義ってわかる?古典主義の対概念はロマン主義だけど、ロマン主義が否定し
古典主義が称揚した世界観の論理が古典的秩序であり、そこにある特定の性質が
古典性。それ以上は本を読んで。
ピクトリアル写真はもちろん古典、ストレート写真も古典、だけどフランクや
ニューカラーはかなり非古典的傾向が強い、グルスキーなんか完全に古典とは
切れてる。
>>333
古典主義芸術の範疇においても、例えば絵画空間は最終的に透視図法的なパース
ペクティブで統御されるようになっていくわけだけど、これが確立されるルネサ
ンスの過程を見ると相当破壊的に既存の画法を解体していっている。当時一般に
自然だと感じられていた空間の捉えられ方を解体し、全く新しい空間秩序を獲得
していったわけだ。
こういうことはちゃんと畑を耕していくとだいたいわかるようになるわけよ。
あなたが想像している以上にそういう世界は広いと思いますよ。 読むところないね
はてなにいる自称写真研究者もつまんねーよ
あれで院生てw
で?
という感想しか出てこない
私に受け取る能力が無いか
そもそも受け取るべきものが無いか
どっちかねぇ
>>335
古典主義と書いてくれれば最初からわかっただけのことだが。
ただ、何故そのことに写真や他の芸術を照らし合わせて言ってるか
その根拠がわからないから何を定義づけてるのか聞いたんだけどな。
強いて言えばなんで森山を古典主義を照らし合わせたのかがわからん。
だからあんたみたいにそういった現存の価値観にとらわれてるだけで
それ以上のこともそれ以下のことも考えられない/想像できないって
いうのが致命的って言ってるんだよ。わかる?わかんねーだろーな。 >>335
それとあんたのその固定概念が正しい認識を持ってないのは
ピクトリアル写真やストレート写真が古典だというところだ。
そういった安易な振り分けがおかしいってこと。アンセルアダムス
なんて俺にはロマン派にみえるぜ。これは俺だけの視点じゃなく
技術的にみても懐疑的にならざるを得ないところがあるから
むしろ議論が継続することなんだと思うけどな。アカデミックは
アンセルを認めなかったのもその理由。なんせドラマチック仕上げ
の写真だから。現実離れしてるから。わかる?あんな濃い空が
あるかって話よ。あんなドラマ仕立ての瞬間ばかり集めてどうすんの
ってことよ。もちろん国立公園の写真の中にはそうでないのもあるけど。 >>335
もう一点。
「古典主義芸術の範疇においても、例えば絵画空間は最終的に透視図法的なパース
ペクティブで統御されるようになっていくわけだけど、これが確立されるルネサ
ンスの過程を見ると相当破壊的に既存の画法を解体していっている。当時一般に
自然だと感じられていた空間の捉えられ方を解体し、全く新しい空間秩序を獲得
していったわけだ。」
わかった。で、あんたの言い分ではこれが最近の芸術にみれないんだろ?
その例を挙げてくれよ。「共有」の価値観では成り立たないってさ、それを
証明する最近のものを説明してくれ。できれば写真の分野で、スレに沿って。
森山のブレぼけとかマーティン パーのマグナムに沿わない皮肉っぽい作風が
現代的だとかどうとかそんなんじゃなくて。
ドラマチック仕上げ?だからロマン派?そんな乱暴な。
別にあなたを悪いと言ってるわけじゃないんだからそんなカリカリしなくても
良いんじゃないの?まぁステレオタイプにはめ込んで気持ちが良いならしょう
がないね。ちょっと見苦しいけど。
アンセル・アダムスには、なにか真なる姿を写真で捉えたい、そうすれば驚くべき
真実の姿が自ずと写真の上に現れるだろう、そういう姿勢があるでしょ?これが
古典的なのよ。逆にその「ドラマチック仕上げ」ってのはアダムスにとってその
真なる姿を捉えるための手段にすぎない。
一般にロマン主義にはある種のアイロニーが含まれているものですけど、アダムスに
それはないね。結局のところ、アダムスは写真におけるモダニズムの一類型で、
かつ古典的な発想を抱え込んだままだったためにプチブル的な閉塞を逃れ得なかった、
というぐらいが常識的な位置づけじゃないですか?もちろんアダムスはそうした一つ
の典型として究極的だし歴史的な写真家ですけどね。
>>341
落ち着いて文脈フォローしてね。
その部分は>>320の中段を説明した部分だよね。つまり現代よりはるかに安定した
世界観を基礎として芸術が成立していたと言われている西洋古典ですら、ときには
「共通の共有の価値観」ってものを解体しつつ展開しているじゃないか、という話
だ。その上で、現代ではなおさら「共通の共有の価値観」ってものを必須の前提にする
意義が薄れてるんじゃないですか?という話だ。
つまり解体どころか、「共通の共有の価値観」なんて無縁の地点で、ひたすら即物
的な視覚芸術としての写真のポテンシャルを今の写真は追求してるじゃないかと。
森山の場合でいえばいつも、結局ただのペラペラの写真だよ、というように写真を
提示していますね。事故写真の複写なんかベタなやり口だけど、写真ってそういう
もんなんだとやや露悪的に放り投げている。同じネガの使い回しで写真なんかどう
とでも操作できるよと言いたげな時とか、情念写真が延命し続ける日本において
その醒め方はたいしたもんでしょう。最近はただの写真というよりも、ただの森山
の写真、って感じでつまんないですけど。
さて、乗りかかった船なのでつきあってるけど、もうこれぐらいですかね。 >>342
それだけの説明じゃアンセルもカルティエ=ブレッソンも同じグループに
属してしまうと思わないか?全くといって違うスタイルなんだけど。
カルティエ=ブレッソンもジャーナリズムの観点からみれば「なにか真なる
姿を写真で捉えたい、そうすれば驚くべき 真実の姿が自ずと写真の上に
現れるだろう、そういう姿勢」があるし。だからフレームいっぱいでやってた
わけだし。
それと頭の中は両者結構似てたり。プログレッシブという面では思想/理想的な
ことで。
まあ、いいや。ただ、こういう繋がりもあるということ。だから固定概念だけで
かたづかないんだよ。
それと「共通の共有の価値観」うんぬんの話だけど、確かに私的感覚を全面に
出したものが多いとは思う。それは個人で製作するのにそれほどの苦労がないから
だと思うだけど、コストやなんかの面で、ただ「共通の共有の価値観」というか
基礎の部分で歴史的文脈につながってるわな。それを言ってるんだよ。だから
森山があれでも繋がってる。沢田知子があれでも繋がってる。で、そういった
繋がりがあって理解されてる部分がある。と、いうかそうやって支持されてるから
存在するんだと思う。どうだろう?
梅佳代ってコも同じ。私的感覚で一見何もかも無縁のところにあるようにみえて
スナップ写真の根本的な技術、それに被写体との関係など写真の発展の歴史的背景を
考えても充分つながりがあると言える。そりゃ「古典主義」やロマン主義バロックでも
なんでもいいけどそういうのとは表面上違うだけで。
「情念写真が延命し続ける日本」って何?それどっかの評論かなんかでよく言われる
フレーズだよね?でも何を具体的に差してるかわからないので例を挙げてくれる? .i;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;i ;,,_,,;;;;;;;;,,..;_ 、 ,.__..,;_,,,;;;,,;;;;;;;;__,,___ ....;;;;;;;;;;;;;;;;;
:!;;;;;;;;;;;;;;;;;;フ;'"゙゙゙゙゙゙゙゙゙~~ ̄゛ `!i、  ̄´  ̄ .`''‐ i;;;;;;;;;;;;;;;;
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ヽ;;ノ;;;;;;;;;;;;;;; .`''`-ヽ--''゙゙゙ ;; '゙ゝヽ-ノ-‐'゙´ ;.i;;;;;;i.フ;;;;;;l′
゙l;;;;;;;;;;;;`、 ,! : ,、|ll/ ;;;;;;;;r" そんなふうに考えていた時期が
i;;;;;;;;;;;;;;l、 / ;:;: :.゛゛:l ;;;;;;;;./
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ミ;;;;'! .ヽ;;、_;.::__::::;;:: /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;!
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;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ, ゙゙--= ゙̄~゛`''>,,._,..,r;" ,,l゙ :::::::::::: i;;;;;;
.`";'"゙;;;;;;;;;;;;;i、 ヽ_ ゙̄ ̄゛_、 __r::::::::::::::::: ヽ
;;.'ミ;;;;;;;;;:'.、 ゙゙゙゙"'''"~ ‐"":::::::::::::::::::: i
君はたしかに頭がいい、頭がいいひとの文には読みの悦びがある。
だからこそきみみたいな聡明なひとが森山に固執できるのが不思議なんだよ。
森山が写真という言葉を掴んでいる場所がぼくには好きになれないよ
>>313
少し冷静になれば分かると思うけど
イスラムでビーナスへの評価・・・・は、宗教上のものだよね。
>>309 に書いている後半に当てはまらないかな。
其れを理解できないのは奇妙に思うけど
>>ビーナスの事例で現代の芸術とかけ離れている場所で関係ない・・・・
よほど森山が好きなのか知らないが写真古典と森山の関係を書くなら
関係が大有りじゃないのかな。古典から一足飛びで森山作品に昇華
するわけもなく、現在の状況に古典から一歩ずつ歩んで来たわけだよね。
今の作品に至った思想的遷移を追いかければ「見出せる」はずだね。
そんな意味で大きく価値を左右している歴史的な背景が存在すると考える。
抗うのは労力が大きいだけで無駄な気がする。
所詮、幾ら頑張っても人の枠を超えられない。
そんな気がする書き込みがあるね。
>>335
一つの表現形態を見て古い新しいを言われても・・・・
どうも理解、納得できない。
書き込みへの批判より、あなたの考え方を紹介して欲しい。
そうじゃないと一方的すぎだし出す例も自分に合せた写真作品だから
話がかみ合わない。
いまんところ、自分の感じている貴方の考えは・・・・・・
21世紀改訂版 コンポラ写真論に見えるんだけど違うのかな?
少なくとも私は理解する方向で解釈したいと思うので君の理論を
是非、書いてほしい。
例えば世界ってのは、正しいとか正しくないじゃなくて、ただある。どうしようもなく目の
前にあるわけだ。
錯覚とか見間違いとかいうのは、客観的には実際と違うとはいえ、そのように体験されてしまっ
た世界であって、それが錯覚だということはあとから頭で理解できるとしても、そのように
経験されてしまった世界があったということ自体は、正しいとか正しくないと関係なく、ただ
ある。客観的な認識を示されてもそうじゃなかったはずという違和感を覚え、錯覚の方に
リアリティーを感じるということすら珍しくはない。
実際には、世界を客観的に見るということはそう簡単なことではなくて、だらだらと広がった
世界のどこかで、しかもそんな遠くが見えるわけでもない視野でそれぞれが世界ってものを
体験しているにすぎなくて、錯覚とか見間違いってのはなにも特殊なことではなく、むしろ
常態と言っても良いかもしれない。
写真ってのは視覚的なものだから、なにかを見えるようにする。写真は少しも特権的な視野を
持っているわけでなく、人間の目よりも融通の利かないものだから、上のような世界のあり方を
そのまま捉える。よく言われるように写真ってのはその意味で錯覚や見間違えと常に隣り合わせで、
しばしば積極的に事実にバイアスを与えてなにかを見せようとするメディアでもある。でも基本
的に写真は存在しなかったものを写し出しはしないので、それは本当にあったのだろうと信じさ
せる強い説得力がある。
写真は実際ただのペラペラの紙にすぎない。だが、単なる頭に浮かんだイメージとは違って、
具体的なモノであり、それ自体が逆に世界の一部でもある。正しいとか正しくないじゃなくて、
ただある。錯覚なんだけど、それは確かにある。単なるアタマのなかのイメージなら正される
べきなのかもしれないが、実際に目の前にある写真は正されるもなにもそのように見えてしまっ
た世界をそのまま提示してしまう。
最近アントワーヌ・ダガタって人の写真を見たけど、彼はかなりはっきりとそういう写真の
あり方を意識してやってると思う。
http://www.oi-bijutsukan.com/item-0801063.html
フランシス・ベーコンの絵のような感じだけど、ベーコンが結局のところ一つの心的イメージで
あるのに対し、写真でそれが出来てしまっていて驚く。その錯視、例えばある女が狐のように
見えてしまうわけだけど、それは確かにそんな錯視さえも世界の一つの姿じゃないかと思わせる
実感を伴う。やや饒舌すぎて物語化に回収されてしまいそうなのがもったいないけど。
グルスキーは既に一連の話で出ているけど、彼の場合はむしろ超実感的というか、そんなに一度
には受け止めきれないほどの世界のディティールを一気に提示して、世界ってこんなものだろう
というおだやかな日常感覚をくつがえす。しかもそれこそが実はリアルな世界の姿ではないかと
いう圧倒的な説得力を持ち、人間中心主義的な温和な世界観におさまらない現実を提示する。
コンポラ写真は良いリファレンスかもしれない。コンポラは特権的でない普通の写真を淡々と撮っ
ていたわけだ。決定的瞬間になんか真実は存在しないって意識していた人もいたでしょう。ダガタ
にしてもグルスキーにしても(とひとくくりにするにはあまりに対極的な存在だけれど)いわゆる
決定的瞬間ってものは信じてない。コンポラ写真と違うのは写真がそれ自体として持っている
ポテンシャル、つまり世界のある姿、古典的世界観からすれば真実とはほど遠いひとつの姿を、
正しいとか正しくないじゃなくて、ただそういう姿がある(あった)、という事実性において、
提示していることだね。それはものすごく開かれた領域で、これが今のところ写真に見えている
最も遠い地平線だと思う。いったいそこでなにが出来るのかってのはまだ誰にも見極められてい
ないでしょう。
さて、もうビーナスがどうとかいう話はおつきあいしないよ。そんなつまらないことはもはや
写真とは何の関係もないっていう考え方についてはこうして書いたことで自明でしょう。サービス
しすぎたね。 何度か読んでこのように理解しましたが・・・・違いますかね?
過ってピクトリアリズム時代から、ストレート写真に移り変わり、
一応、写真の特性を生かした表現が認められるようになった。
しかし、現代にまで生き残ったピクトリアリズム的な感覚(すご
く広い意味で)を完全に排除する・・・スーパー・ストレート写真
とでも言うのか?を求めていると考えて良いのでしょうか?
>>351
整理の仕方にも人の見方が出るもんだよ。なんでそんなことも分からないのかねえ。 このスレの人がそうだって言うわけじゃないけど、
芸術が理解できないので、知識だけで評論したがる人は居ますよね。
というか、芸術の評論を生業とする人は、逆にそっちじゃないと食っていけない。
>>350
ダガタの写真をストレート写真とは言えないでしょうね。カメラのラディカルな可能性は
真実を捉えるということに限らないし、実際それに奉仕したこともない、逆にそう考える
ことも出来るでしょう。ストレートじゃなくても良いし、極端に言えば見えなかったものが
見えるようになったらそれで良いとも言えるわけんじゃないでしょうか。写真てのは結局
視覚芸術ですからね。
>>351
ガダカの写真展まだやってますよ。行けるなら見たら良い。
http://www.ratholegallery.com/exhibition.html#dagata
ダガタ自身の展覧会紹介読んでみてください。作家自身が似たようなこと言ってますから。
作家は考えることに無頓着で良いなんて変な通念がまかり通るのは日本ぐらいですよ。 そのダガタ展、昨日終わったようだが・・
それにしてもマグナム参加者の写真とはにわかには信じられんね。
あぁそうでしたか、ページ開いておいてちゃんと見てなかった。うかつでした。
まぁプリントのクオリティーがどうとかいう写真じゃないから印刷でもなんとか見られると
思います。さすがにウェッブではヒシヒシ来る感じは伝わらないかも。ただのヨーロッパ
ダーティーエロ系ではないです。
マグナムはマグナムのやるべきことをちゃんとやっても良いような気がしますけど、でも
まぁこういう人材を引っ張り挙げるのは良いことなんでしょう。
>>354
お返事、感謝します。
>>350 は要約が過ぎ簡単に書きすぎたのですが
スーパー・ストレート写真というよりオーバー・ストレート写真
としたほうが良かったかなと思っています。
残念ながら、私は地方在住で興味ある写真展などを見に行くことも出来ませんし
先々週、東京に滞在しながら、仕事に追われ何も見ていません。
仰る考え方が朧げに見えてきました。
似たような考えで大昔の院時代に試行錯誤、暗中模索し喘ぎながら撮影していました。
高齢な教授には理論も作品も受け入れてもらえなかったですね。
ところで貴方が出されたような写真作品ですが新しい流れと捉える事が正しいのでしょう
か?私には従来からの連綿と続く写真思想の遷移で80年代ごろから燻り始めた傾向が
昇華された作品のように思えます。以前、私の芸術観を古いと書かれていた方がいましたが
普通に受け入れることが出来る作品として捉える事が出来るように思います。
自分の作品にたいへんな自信を持たれてるんですね。
ものごとに切断を見ないのは歴史を持たない考え方だと思います。ストレート写真を曖昧に
理解し、上に上げたような写真家を曖昧に理解して、要するにどっちも写真じゃないか、
という程度のことを言われてるのではないかと危惧します。
歴史を持たない、というのは誤解を招くか。歴史感覚を欠いた考え方、としてください。
>>ものごとに切断を見ないのは歴史を持たない考え方だと思います。
社会環境や情勢、時代背景等から同時多発的に生まれてくるものと
考えています。切断ではなく連綿と続くなかでの変化だと思います。
突発を否定するわけでないですがそれも時代背景が影響しますね。
上に上げた写真家を具体的に理解していないことは確かですが
ストレート写真は、そこそこ勉強しましたね。
>>自分の作品にたいへんな自信を持たれてるんですね。
誤解です。お分かりだと思い問題部分を書きませんでした。
貴方の仰る方法や上で紹介されている作家氏の方法論を
純粋に作品作りに実践するなら所謂、作品化する時の歩留まり
率が極めて悪くなるのじゃありませんか??
>>芸術=自己表現という基本的な構成要素とは、異なる事になります。
>>自己表現の束縛が解かれると
自分の経験なら、理念と自己との戦いで喘ぐ事になりました。
上で「絶望」と私へ書かれているのですがこのあたりの経験から
出てきたものなのでしょうか?
そして、それでも人間である以上、「自己表現の束縛」?から、逃げ
ることが出来ません。
もし、それでも実践するなら、自己を騙したり、撮影に目的の方向性へ向く
無作為のように見せかけた作為を必要とする事になりませんかね?
そういう意味で言うなら「人間」でありつづける必要なんかどこにもないでしょう。
写真さえ撮れればあなたが犬だろうがカメラだろうがどうでも良いことです。
「人間」が撮った写真だと思って写真を見る必要もない。ただの画像ですから。
ストレート写真はその意味であまりに人間的だと言っても良いかもしれない。
ストレートに徹するなら「人間」なんか必要なわけないし、邪魔ですらある。
ダガタは人間として写真を撮っているようには思えませんね。彼自身そう言っているで
しょう。歩留まり?さぁどうだか知りませんがちゃんと個展してますからね。
はは、昔、友人が「人間やめますか、それともしゃしんやめますか」と真剣に離していたことを思い出します。
私も貴方も月を周る「かぐや」じゃありません。
人間が写真をとるのですよ。
>>ダガタは人間として写真を撮っているようには思えませんね。
そのようなことは意識として持つことが可能でも実際には不可能なことです。
撮影するのもセレクトするのもプリントするのも人間ですからね。
もちろん、写真の流派の中でその意識を持つ流れがある事に理解できますが
だからといって貴方のような側面的な発想で括られる様なことも無いと思います。
彼の作品も、写真全体も
この問題はを解決するには、実際に絵画と写真の両方を体験して
深く足突っ込んでみるのがよいと思います。自分の体験から出た言葉は重いよ。
個人的にはそこに至る発想を理解できます。
貴方は、こう書いている。
>>それはものすごく開かれた領域で、これが今のところ写真に・・・・
芸術の枠は広く開かれたものであることに同意するのですがその為に
誰にでも理解しうる整合性・理論性が求められることになります。
写真作品には何らかの形で人の存在が不可欠な事実があります。
そして、写真には何らかの意図の存在があります。
ですので開かれた芸術の領域は別の形で存在すると考えます。
>>ダガタは人間として写真を撮っているようには思えませんね。
人として撮影してない意識の存在などお気づきになりませんか?
私には大きな大きな自己矛盾を秘めている未完成な論理にしか
見えません。
>>365
絵画は全く別な表現形態のもので写真と一切関係しないと
言えるほど離れています。それは過去の歴史が物語っていますね。
自分は写真の体験で得た言葉で十分であると思います。 >>365
というか21世紀に未だ前々世紀の考えを持つ人がいることに
驚異を覚えるわけです。 あなたが人間的である限りは人間的な写真しか撮れないだろうし、あるいは撮った写真が結局
人間であることにあぐらをかいた写真にとどまるのも無理はないわけです。ここで言う人間
についてはずいぶん面倒な議論が30年ほど前に盛んに行われていたのですが、たぶんそういう
ことにあなたは興味を持てなかったのでしょうね。それはそれなりにきちんとした論理なんで
すけど。
写真に論理が必要である理由をきちんと論理だって説明できますか?別に普遍的な論理など
下敷きにしなくとも写真は写真だし、そういう写真に撃たちまうこともあるんですよ。
そういうことを受け入れがたい人がいてもしょうがありませんが、事実として世の中はその
ようにして回っていることをあなたが否定してもあんまり意味ないと思います。
ところであなたと私の会話はある切断面を具体化しているように私には思われます。
「絵画は全く別な表現形態のもので写真と一切関係しない」というのと同じようにね。
私はカメラ初心者なので質問させてください。
最近デジタル写真がブームなんですが、デジタル写真って芸術でしょうか?
これだけ毎年新しい映画が出来て来ていますが、心に残る映画シーンって皆無です。
昔の名作映画ってワンシーンが心に残っていませんか?
写真は芸術だと思います。
ただしデジタル写真は芸術ではありません。
最近尊敬していた写真家の作品展に行ってきましたが、すべてデジタルカメラで撮影した写真だったので正直がっかりしました。
ただ綺麗なだけの写真でした。
写真に限らず、絵画、彫刻、建築といった造形物も、音楽といった
無形の文化にも、あらゆるものに芸術性はあります。どれに強く惹かれるかは
個人の嗜好の問題でしょう。世界的画家の有名な絵にがっかりさせられることが
あれば、名も知らぬ個展の日常スナップに心奪われ、強いインスピレーションを
得ることが往々にしてあります。もちろん、アナログであるかデジタルであるかは
関係ありません。デジタルにがっかりする人もいれば、わけ隔てなく芸術性を
見出す人もいます。
>>370
「初心者なので」というエクスキューズで自分だけは守りながら写真家や映画への攻撃は行う。
これは非常にまずい態度だと思います。
反論されたら「初心者なので分かりません」と言うつもりですか?出直してきなさい。
自分はゼラチンシルバープリントが大好きですが、あなたのような態度の人と仲良くは出来ません。 >>369
そうですか?私は貴方の言うことに理解を示してきました。
共有する部分は多いんじゃないでしょうか。
唯一、私が指摘したことは理論までいかない矛盾点です。
人が撮影するのに人間の存在を否定する可笑しな点です。
この点に対する貴方の解釈は残念ながらありません。
ただそれだけの違いでしょう。
>>面倒な議論が30年ほど前に盛んに行われていたのですが
これ前にも書きましたが貴方の考えも30年前に存在してましたよ。
至る過程のひとつとしてですね。
例えば・・・・表裏の物として以下のような考えもあります。
湧き出る自己表現を写真化するには写真の物理的な特性が邪魔に
なる。カメラ・写真の枠を超えた自己の精神性だけの世界を写真で
表わしたい・・・・・・・・
これ、程度が低くなりますが対極に位置するものになりますわな。
此れも過程のひとつの考え方なんでしょう。
>>写真に論理が必要である理由をきちんと論理だって説明できますか?
これ今までの貴方の書き込みと矛盾してきていませんか?
それはともかく簡単な理由で説明できます。
信じていた撮影者が自ら矛盾を導き出すまでの無駄な時間でしょう。
>>普遍的な論理など下敷きにしなくとも写真は写真だし
ならば芸術など語らなくていいのじゃないですか。
30年前といえばバリバリで勉強してた頃なんですが面倒な議論とされる
物をネットなり、書籍等ありましたらご紹介ください。
まぁ人間がどうとかいう話についてここでマトモに展開するのはさすがにスレ違いで
しょう。ミシェル・フーコーとか彼の影響を受けた美術がらみの人たちの本でも何冊か
読んでみれば良いと思いますけど。まぁバリバリ勉強してみてください。
生物学的なヒトと主体としての人間を混同するのは、生物学的な男とジェンダーとしての
男性性を混同するのと同じぐらい、旧弊な考え方です。
根本的なところを迂回して枝葉を理解しようとしても無理があります。私はその部分に
ついてある程度、というかここで出来る範囲で丁寧に書いてきたつもりです。
うっせーな、スレタイよく見ろよ。最初から糞スレだってわかってんだろ。
のこのこやってきやがって自己満も糞もねーだろ。糞スレにたかる蠅はみな糞だよ。
っつーことでご両人、どうぞ。
ん、なにこれ?ID同じって同じIPってこと?やべー。つまんねーことしちまった。
ん、何?上のは無視していいのかな。
自己満もOK
作品作るのも、議論するのも大いによし。
写真が芸術じゃなくてもよし、
前に出てきた映画って芸術になるのか?
それとも日本語とスワヒリ語ぐらい違うものなのか?
みんな自己満でおおいにもりあがろう
同僚がこのスレ見てたみたいです。こっぱずかしい。
>>349の最初の方に錯覚とか見間違いとか書いた話がピンとこないから、無矛盾な作品なんて
ありそうもない話をさも当然のようにいえるんでしょう。日本語だって非論理的な部分が少なか
らずあるけど、でもそれで結構意味は通じる。スワヒリ語もそうだし、写真もそうだし、
映画もそうでしょう。
でも辻褄なんか合わなくたってそれに撃たれる時は撃たれる。撃たれてしまったことを理屈で
否定しようとするのはそういう「撃たれ」におびえるからではないかと思います。作家ってのは
それでもあるまとまりがあるものとしてハッタリで押し切る仮面だったりすることもあるわけで。
日本の作家では杉本博司ってそういう作家ですね。海撮ったところでそれがなんだよ、というの
を押し切るフェティッシュとシニシズム、という具合。結局のところ作品に力があるからなんと
なく納得しちゃうわけで。 ああ、撃たれにおびえるってよくあるね。それまでの自分とは異質のものを
どうしようもなく感覚的に受け入れてしまっている状態って、混乱状態だから。
最近は変化を好まず自分に都合のいいのばかり選んで見てるなあ。
そうなると正に自己満だな。
ひとこと
才能があれば世間がほうっておかないから
心配しなくて大丈夫
マイフレンド
>>376
ルターコントロールは慎重にしようっと・・・
ところで今日は飲み会で千鳥足になってしまいダメみたい。
なるほどフーコーなんですか・・・・枠の外から客観視するような
スタンディングポイントを写真芸術論にすげ替えた感じなのですか。
それで上の切断の意味が少し分かりました。
明日夜にでも書斎から本を引っ張り出して見ます。でも前回は言葉が難解で
途中で嫌になりました。
>>根本的なところを迂回して枝葉を理解しようとしても無理があります
まあそう思います。ただ、貴方の根本部分と私の根本部分は大きく異なるわけで
実践から導き出す私と絵画や哲学・思想から考察する行為とは出発点が
違いますよね。失礼ながらすげ替えた写真論も流行り廃りの類に属すると思います。
私が上で書いた本流の中の流派のひとつにしかならないことを推測します。
言い換えれば同じ写真でも求めるものが違う別世界、分野の話になるのかもしれません。
私は写真表現が楽しいから続けているし足掻いてもいる。貴方の言う方法論で楽しさを見
出すことが恐らく私・・・多くの写真家が出来ないのじゃないでしょうか。
>>1に面白い長文を期待して開いたのにとんだ期待はずれだ。
写真関連板にはこういうスレが定期的に立つね、以前も見たことがあるw
(長文の議論レスはうわすべりしていそうで読んでないんだけどw、)
1の論理によれば
三流漫画家によるエロマンガや、ヲタ向け萌えキャラアニメなんかも写真以上の芸術になるね。
絵師が手で一から描いているんだからね。街の似顔絵師もだね。
あゆの歌だって一から作ったんだから芸術だね。
手軽、誰でもとっつきやすい、裾野が広いから芸術ではないと言うのなら
小説、詩歌、俳句や短歌なんかもそうだね。
カメラどころか「最低限日本語を知っていること」「紙と鉛筆」ぐらいあれば出来る。
今は日本は識字率ほぼ100%だし、名人級でなくても、俳句や短歌を趣味としてたしなむ人も多い。
複製できるから芸術でない?リトグラフは?浮世絵など版画は?映画は?
すばらしい文学や楽譜だって複製できていろんな人がそれを広く味わえるよ。
(どうでもいいが、写真や映像技術がなかったら、世界中でリアルモナリザ見られる人なんて一握りだよねw)
芸術には知性が必要?裸の大将なんて人もいたなぁw
それに学校的偏差値でいえば劣等生の部類の芸術家なんて古今東西多数いるでしょ。
写真はいい被写体を探し出して、その前でカメラという機械を構えてフィルムにおさめる作業に過ぎない?
シャッターを押すに際してフォトグラファーの意思がもちろんそこに働いているに決まっているじゃない。
1の論理は、きれいそうな被写体を用意しておけば、誰もがノーファインダーでカメラを振り回しながら
100回シャッターを切れば、1枚くらいいいものがあるだろうから芸術じゃない、って言いたいんだよね?
自分は、以前銀行かどこかで待っている時、オヤジ向け週刊誌の後ろのほうのページで
立木のポートレート見て、見入ってしまったことがある
市井の、どこにでもいそうなケーキ屋か何かのおっさんが笑っている顔、モノクロで。それだけ。
すごくいい写真で見入ってしまった
あれを1がノーファインダーで100回撮っても絶対に無理だと思うw
そしてあの普通のおっさんを被写体に選んだのも立木の「フォトグラファーとしての才能」なわけでしょ。
1じゃ気がつきようもないと思う。
きれいな景色や被写体を必死になって探していそう。
そうじゃなくて、見ている側に向かって何かがわっとあふれ出してくるのがいい写真かも知れない。
土門拳なんかの写真も、カメラさえ持っていれば誰でも撮れるとは思えないのだが1にはできそうだなw
文士や絵師が何気ない日常から素晴らしい作品を作るのと同じで、
写真家にも常に素晴らしい景色や素敵な被写体が必要なわけじゃないの。
感動的な人生のひとコマさえあれば誰だって…その時カメラがなかっただけ、というなら、
誰でもその人生のひとコマを素晴らしい私小説にし得るじゃないw
録音技術と一緒?
録音技術ヲタは、録音する内容まで自分で作ったりはしていないでしょうw
>>あなたが人間的である限りは人間的な写真しか撮れないだろうし、あるいは撮った写真が結局
>>人間であることにあぐらをかいた写真にとどまるのも無理はないわけです。
このあぐらをかく行為の権力は人間に存在することになるのでしょうか?
フーコーは、・・・・自己の身体と欲望に忠実になる・・・・
人々が自己を放棄しないこと、自己の欲望を断念しないことにある。
わずかながらでも自己と社会を変えていくことである。
と書いています。 作者の意図→自己表現はあぐらをかいた写真ではなく
自己に忠実になる行為や自己を放棄しないことを意味しているので
上の文は、フーコー的なら、おかしな解釈になるのでしょうね。
上の引用で少し違う解釈を行い「権力を芸術と置き換え」すると如何でしょう。
「あなたが芸術を求める限り、芸術迎合写真しか撮れない、あるいは芸術にあぐらをかいた
写真にとどまるのも無理がない・・・・・・・」
私、これには、大賛成なんですね。権力としての芸術、芸術の特性から、自己表現の
自己表現の最高のものとも思えない。
あなたの言う広い世界が広がるのは、この解釈のほうが広がるように思います。
訂正します。
>>私、これには、大賛成なんですね。権力としての芸術、芸術の特性から、自己表現の
>>自己表現の最高のものとも思えない。
>>あなたの言う広い世界が広がるのは、この解釈のほうが広がるように思います。
私、この解釈なら賛同します。
芸術は自己表現の至高に位置するとも思えない。また、求めることは権力への迎合になる。
貴方が書く、世界が広がるは、このような解釈の下にあるべきものではないでしょうか。
>>387
>>芸術は自己表現の至高に位置するとも思えない。
なんでそうなるの?目指すなら芸術じゃん
フーコー斜め読みしても駄目ですよ。自己の身体と欲望に「忠実」とはフーコーは
言っていないでしょう。生存の美学の議論はまだ早い。もっと初期のものを読まないと
引いていただいた言葉に符合する話は出てこないでしょう。そこには「人間」ってのは
古典時代特有の特殊な概念にすぎず、遅かれ早かれ打ち寄せる波に洗われついには消え
去ってしまうだろう、と言っているはずです。
芸術は確かに権力を持ちますが基本的には知です。知と力の関係についてもまたフーコーは
いろいろ言っていますが、まぁそれは今は関係ない。写真ってのは人間的なもの、つまり自
己表現だというのは特殊な観念で、自己表現をするような人間ってのもまた特殊な観念だ、
ということなんです。これは私だけが言ってることじゃないですよ。例えば一時期記念写真
について森山や中平がなにか言っていましたけど、彼らはその時点でそのことについてはっ
きり意識していましたね。別に目新しい話ではないのです。
話を遮るようだけど
ムズカシイ話は抜きにして
前出のように芸術って、表現したい! というものを、何らかの形に表すことではないの?
写真にそれが表れていれば、写真だって一種の芸術といえるだろうけどね。
実際、精神にグングン伝わってくるような写真は存在するし、写真は芸術としてダメとか、表現方法による芸術の階級なんて無いと思う。
あなた達のような、凡人には理解しがたい難しい概念を理解している人ばかりが、芸術作品を鑑賞するわけではないし、
芸術家だって、多くの人に作品を見てもらって、自分が表現したことを多くの人に伝えたいから、.創作するのだろうに。
>>370 「ただ綺麗なだけの写真」 がつまらないのには同意。
フーコーの本を新たに入手・・・「90分で解るフーコー」・・・www
それでも難解だ! 90分じゃなくて月単位に時間をかけて解読する予定。
解らないのは・・・・
>写真ってのは人間的なもの、つまり自
>己表現だというのは特殊な観念で、自己表現をするような人間ってのもまた特殊な観念だ、
>ということなんです。これは私だけが言ってることじゃないですよ。
詩でも歌でも日常の会話の中にでも自己表現があると思います。
何故に特殊な存在なのかわからない・・・
写真も映像も慣れれば友人の誰が撮ったものなのか分かるようになるけど
そんな初歩的なことも自己表現になるのじゃないですかね?
堂々巡りになりそうな気がするんだけど、>>292みたいなのを芸術とは
言わないってのは一応了解できるんですよね。
特殊といったのは、そういうことでない「表現」ってのは芸術の形態として
特殊ってことです。何か他人に表現したい、そのことで作品が芸術になる、
ってのは一つの考え方だけど、芸術って必ずしもそういうもんではない、
そういう意味で特殊だということです。私の知っている作家はまずこんな
楽天的なことは考えていません。むしろアートマーケット特有のゲームに
おいてあるリアリティーのプレゼンテーションを戦略的に組み立てていく、
そんな感じが多くて、それはそれで病んでるとは思うのですが。
逆にこういうことを投げかけても良いのかもしれない。
なにかが他人に通じるということはもちろんうれしいことでしょうけど、
通じないからこそ貴重だってこともあるわけですね。なんだか意味が分から
ないし、はっきり言ってクレージーだ、だけどどうしてもこの作品は気に
なるってこともある。すげー作品って多かれ少なかれそうじゃないですか? あるっちゃあるな。
評論家が業務上の都合によって付けた格付けがな。
評価される側からすれば、好評価を受けた芸術家ですら、内心
「なに分かったようなこと偉そうに言ってんだコイツ」って思われてる程度の存在だがな。
「なに分かったようなこと偉そうに言ってんだコイツ」>>396
>>395
レベルなんて見た事ないぞ。
ラベルはよく見かけるがな。
レッテルって今までみたことないけど、どっかで売ってる?
今じゃ芸術も資本に取り込まれて
ただの商売に成り下がってるぜよ
成金アーティストがうじゃうじゃいるだろ
それが芸術だ
写真が最低なのではなくて、写す人間と見る人間が最低だと思う。
写真ブームも過ぎたようなので、自然淘汰されていくんだろうな。
昔から芸術なんてそんなものだったと思うけどな。
具体的になにが気に入らないのか書けばいいんじゃないの?誰の作品とか、どの作品とのどこが
どう気に入らないのか。なんか愚痴っぽいんじゃない?
>>401
それって自分への言い訳?
諦めの言葉なの? 写真が芸術として最低とは思わないけど、俺が写した写真は最低かもな。
写真は芸術じゃない。
ただの記録方法。
しかし記録内容が芸術になりうる場合がある。
絵画は芸術じゃない。
ただの記録方法。
しかし記録内容が芸術になりうる場合がある。
>>408
おれも、其れやろうとしたが
記録内容でひっかかって止めた 写真って文学っぽい。
スナップ写真でも俳句的ななにかを語るものが多い。
たった一枚の写真でも散文的な何かを予感させるものがある。
なにかを喚起させてくれるなら写真の技術が拙くてもすげーって思う。
>>410
そんな写真が50枚同じテーマであるとしたら
何処まで深く読む事が出来ると思いますか? 読み物と考えれば、芸術になるんじゃないすか
便器を読み物にした人が、認められているんだから
現実を忠実に再現した紙だって、芸術の文脈で読ませるように作れば
そういうものになるんじゃね?
写真は読物っていうのは、写真を知ってる人の共通の認識だと思う。
通な人は「写真を見る」じゃなくて「写真を読む」っていうよな。
単写真はともかくとして組写真なんて「読む」以外に言いようがないじゃん。
でも「デジタルの画像」は読むとは言いがたいよな。
デジタルかどうかで結果が変わるような話なら、
なんら本質的な話では無いよと自らオチを付けてるようなものだが、それでいいのか?
写真の読み方は二種類ありますね。
写真を取り巻く環境や文脈こそが写真の意味内容を決定するのだとする社会学的な読み方と、もっと写真のメカニズムに内在的な読み方ですね。
後者は心脳問題やアフォーダンスといった人間工学的な問題と絡まりつつ、写真が再び現代美術的な関心をもたれつつあるようです。
写真の読み方は読み手の知性に関わるとロランバルトさんは書いていました。
無意味な映像からなんらかの意味を引き出しているのは読み手の知性なのですから当然ですね。
時代の記録も芸術も両立できて二度おいしいと考えて頑張ってください
そんなことバルトは言ってないと思うけどな。
知性で読める部分は脇に置いて、なぜか写ってしまっている不意撃ち的なものに写真の
特質を見たんだろ?理屈やモノガタリをはみ出すなにか、をプンクトゥムって言ってるだろ?
おい、知性は解ったがその前にうち込むことをしてるのか?
知性という言葉への反応の仕方に知性が感じられない。
知性の外を感知すり知性はきみにはないでしょう、おそらく。
あんぐらいの文章読めないで「知性が感じられない」もないもんだ。
そんなこと
あんぐらい
アレをアレしとけ後でアレするから
的な。
じゃぁ明確にしよう。
>>419
>写真の読み方は読み手の知性に関わるとロランバルトさんは書いていました。
こういうことはバルトの主たる主張ではない。
『明るい部屋』の基本的なテーゼは以下のようなこと。
>知性で読める部分は脇に置いて、なぜか写ってしまっている不意撃ち的なものに写真の
>特質を見た
前者がストゥディウムで後者がプンクトゥムで、ストゥディウムを写真の機能として認めつつ、
バルトが写真の本質として切り出したのはプンクトゥムだ。 バルトさんは明るい部屋以外にも写真論は書かれていますし、随所で写真に触れていますw
写真論=バルト=明るい部屋、みたいなゆとり脳は便器に流してOK
まぁ鼻息荒いのは結構なことですけど、自説にこだわるなら具体的にしてくださいね。
いずれにしても「写真の読み方は読み手の知性に関わる」なんてことはバルトは言わないと
思いますよ。
なぜならそれは記号一般に妥当することで、写真特有のことじゃないからです。写真について
語るならバルトなら写真のメディアとしての特性を敏感に捉えて語るでしょう。で、それが
プンクトゥムとして抽出されたわけです。ちょっとお勉強したからって皆が馬鹿だなんて思う
のはとんでもない思い上がりですよ。ここではあと数時間黙れば忘れてもらえますが、いつも
それですむわけではないのです。
どうでもいいけど・・・・
写真撮らない人の写真論なんて一つの参考にしかならないね。
ソンダクが誰がこう言ったとか・・・バルトがこう言った程度の
事でそんな奴らは、永遠の絶対なんて書いているわけでもない。
知る事は大事かもしれないが其れに拘るのは・・・・つまらない事だね。
ある宗教研究者が宗教は、信じると破滅につながる!
宗教の教えを元に己が導き出しなさいと言っていたが
写真も似ているんじゃない。
知性とは以下の意味だそうだ・・・・
1 物事を知り、考え、判断する能力。人間の、知的作用を営む能力。
「―にあふれる話」「―豊かな人物」
2 比較・抽象・概念化・判断・推理などの機能によって、感覚的所与を
認識にまでつくりあげる精神的能力。
とするとだ、2 の能力は必要かもしれないね。
さー? 辞書に書いてることだからな。
>>認識にまでつくりあげる精神的能力
エロ写真見て認識にまでつくりあげる精神的能力は、誰にでも
ありそうな気がするが・・・・・
逆に言うと知性なんて大した事じゃ無いと考えるのが自然じゃねえかな。
例えば情に流されたくさい写真ってあるけど、その情を断ち切ってものごとを
直視する視線に宿る知性ってのがあるんじゃないの?
情に流されるのは心地よいけど、でも結局は内面的で見たいと思うものを絵に
しただけって部分もある。個人的にはそういうのを写真とは言いたくない。
撮ってる人だから写真のポテンシャルがわかるってわけでもないと思うな。
撮ることに埋没して自縄自縛っていうか見えなくなることもあるでしょう。
>>435
ここでの話は、見る側の知性だったと思うけど・・・・
撮る側の知性ってのは、また違ってくる気がする。
>その情を断ち切ってものごとを直視する視線に宿る知性
これ、経験があるけど知性って言うより、理念って表現のほうが
合っているんじゃないですかね?
僕は、「理念」という言葉を使っているけど・・・ >>435
追加
撮っている人が潜在性や じじょうじばく に気付く必要性が
有るのでしょうかね?
むしろ、自分の表現に埋没して自己矛盾を解決しながら葛藤しながら
作品作るのが本来じゃないでしょうか。
もし、客観で己を見る余裕があるなら其れは、「どの方向に向かうか」
の判断が迎合と重なる危険性が出てくるんじゃない?
無自覚に傑作撮れるのが写真の天才。だから撮り始めた当初はみなどこか天才的なわけです。
天才ではない秀才は無自覚なままやれないから努力するしかない。
自分が天才なのか秀才なのかをまず見極めることですね。
気付く必要があるとかないとかではなく凡才は気がつけない、躓けない。
ドジっこ属性は写真に必要な資質ですね。
>>438
見極めるのは良いが・・・
何処でその天才と知り合ったの?ソース ソース
自分を見失うまでに撮ることに埋没できないやつは伸びないし所詮ニセモノw
>>445
だいたい、その「アート」って言うこと自体が曖昧にボヤカシテしまうんだよな。
MIXIのアート写真とか芸術写真とかの写真見るがアホの集まりかってな感じで
将来ナイと情けなくなるし、誤解したものがアートっぽく取ったって笑うか腹が立つか
だけだね。 2006年を振り返って
さて、2006年も残すところあと僅かになってしまったが、ここで2006年を少し振り返ってみよう。
ホリエモン逮捕、荒川静香の金メダル、WBC初優勝、W杯全然ダメ、ハンカチ王子、「シンジラレナ?イ」などなどいろんな事があった、
2007年はどんな年になることやら。
それでは皆さん良いお年を!
アマチュアでも上手い奴は上手い。
プロでも下手な奴は下手。
平均すればプロのほうが上手いとは思うが。
「こーいう写真が欲しい」っていうオーダーに
いつでも100点満点中70点以上の上がりで
応えられるのがプロだと思うがどうか。
撮りたい写真だけ突き詰めていけば、
いずれ100点に近くなるのは
当たり前っちゃ当たり前な気はするな。
そーいう見方をするってーと、
アマチュアがクオリティの高い写真を
残すことがあるのは何の不思議もない。
俺はプロと一緒に仕事をすることもある
アマ(本業は別種なので)なんだが、
「コイツ下手だなあ」と思う奴でも
平均すれば俺より上手い。
ただ、俺が自分なりに突き詰めた写真ならそいつの平均よりは上。
で、そいつがきちんと突き詰めたら俺よりやっぱり上なんだな。
下手プロ=平均60点、ピーク90点
俺=平均50点、ピーク85点
ってとこ。上手いアマなら下手なプロより上になるとは思う。
ちなみに上手いプロだと平均80点以上になるから頭が下がる。
暗室作業くそ懐かしす
あの地味さ堪らん
引き伸ばし機の使い方もう忘れたwww
>>1の言ってることは少しわかる。
安易な自己表現の手段に使われやすいものだと思う。写真って。
文章も映画も絵画も、くだらないものは
素人が一見しただけで「下手くそ」とわかるけど、
写真は、とりあえず構図やらピントやら光やらの勉強をすれば
“それっぽく”撮れて素人目にはわからないからね。
もちろん、最高級に素晴らしい作品をつくる写真家はたくさんいる。
そういう“それっぽく”撮れただけで評価されちゃう写真家が増えてきた。
写真家だけが悪いわけじゃなく、持ち上げる側にも責任がある。
と、思う。 マイケル ケンナの写真は、芸術だろ。
芸術と呼びたくない写真が多いことは認めるけど、探せば少しはあるだろ。
新宿ニコンサロンで観た伊藤進哉も、よかったわい。
芸術であるかどうかなんてどうでもいいのでは?
そもそも芸術って定義は何?
脳の持つ生きるための情報処理機能が時にお遊び的調和をするモノ
神経科学をやっている研究者のオレはそう解釈しつつある
>>455
>脳の持つ生きるための情報処理機能が時にお遊び的調和をするモノ
この変な日本語もお遊び的調和ですか? 細かい事はおいといて
これよっくない?
いいよね
ってそんなかんじなんじゃね?
写真てのは大前提として、まず画像記録をとるものだと思う。
巷で目にする写真も上手下手はあっても、その多くが記録の域でしかない。
芸術のカテゴリに入る写真なんて滅多にお目にかからないし、
上手な写真=芸術でないことは確か。
>>1
310 名前:名無しさん@十周年[] 投稿日:2009/08/09(日) 15:29:04 ID:gqMIHCxS0
写真て安易だからな
対象物を素材から一から作り上げるわけでもなく
ただその時その場所にいてボタン押せばいいだけだからな
事故現場に立ち会った事を自慢しているようなもんだ
選択眼だけしか無いくせにゲイジツ家を気取る馬鹿も多し >>458
ところがその芸術も「記録」なんだよ。
記録でない芸術はない、ってか自明の理。
手法と芸術そのものを一緒くたにしない方が良い。
>>459
全ての写真が事故現場のスナップだと?
写真って言うジャンルの事知らなすぎだろ、いくらなんでもw イラスト関係のスレで
ある絵をトレスして新しい絵を描くのは駄目だけど
写真からなら問題ないって論調が多くて凹んだ
ある写真を撮影して新しい写真を撮るのは駄目だけど
絵からなら問題ないと思う
画家は写真家を内心見下してるよね。
東京芸大卒の画家が学生時代、高価なカメラを持ってたら指導教官に怒られたらしい
西洋絵画進化の歴史の問題かな。
写真の無かった時代に、今の写真のような立場にあったからな。
つまり、光学的なイメージ主体の存在。
だが写真の存在により主権をそれに奪われると、
その存在意義を求めて、人の頭の中にある、主観的イメージ主体へと変化させた。
それはそれで結果的に良かったのだと思うが、
変化の過程で、創造性に欠ける絵画をレベルの低いモノとして蔑む文化が生まれてしまったのだな。
そのことの影響だろうこれは。
俺も写真やってたけど、
芸術表現として安易で
底が浅いものだと気付いてやめた。
俺は何の才能も無いけど、
芸術の才能がずば抜けてる人は
そもそも表現手段として写真なんて選ばないんだろうな。
むしろ絵の才能ない奴ばかりがフィルターにかかって集まってる気がする。
レンズがどうのレンズがどうのレンズがどうの。
味とかいっても詰まるところはボケ味アピール
絵心はあるけれど、描く技術がままならない奴の撮る写真はそこそこ良いものだが、
それもないくせに
>レンズがどうのレンズがどうのレンズがどうの
といって創作に関わってるつもりになってる奴は・・・生暖かく見守ろうw
さて今回はカメラの悪口を言はせてもらふ。私はカメラを持つてゐないからである。国内の旅行はもとより、
二度の海外旅行にも、カメラを持つて行つたことがないといふのが、私のヘソまがりの自慢である。(中略)
私がカメラを持たないのは、職業上の必要からである。カメラを持つて歩くと、自分の目をなくしてしまふ。
自分の目をどこかへ落つことしてしまふのである。つまり自分の肉眼の使ひ道を忘れてしまふ。カメラには、
ある事実を記録してあとに残すといふ機能があるが、次第に本末転倒して、あとに残すために、現在の瞬間を
犠牲にしてしまふのである。
ゲーテの生きてゐたころは、カメラなんかなかつたから、彼は、
「お前は実に美しい! しばし止まれ!」
などと言つてゐた。こんなことは今ならお茶の子サイサイで、天然色フィルムを仕込んだカメラを向ければ、
その美しいものは、「しばし止まれ」どころか、永遠にとどまつてゐる筈である。
とどまつてゐる筈である。しかしさうではないかもしれない。
美しいものは、カメラを向けた瞬間に逃げ去つてゐるかもしれない。
三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より
まあ一例が、湖水のかたはらを歩いてゐて、白鳥が今正に飛び立つところを見たとしよう。これは実に美しい
瞬間である。思ふがはやいかカメラを向け、手練の早わざ、見事に白鳥の飛び立つ瞬間をとらへるかもしれない。
いよいよ現像して、友だちにも自慢する。アルバムに貼り込む。何度もくりかへして眺めては、
「ああ、よかつた。あのとき撮つておいて」
とたびたび自己満足の嘆賞を洩らす。
ところで、アルバム上の一枚の天然色写真には何が映つてゐるか。湖面から飛び立たうとしてゐる一羽の白鳥である。
なるほど写真としては美しい。しかし、それが本当に、その瞬間美しいと思つた印象と同じものかどうかと
いふと疑問である。
それから先は、われわれ文士といふものの考へ方だが、そこに写つてゐるのは一羽の白鳥にすぎない。しかし
美しさの印象といふものは、一羽の白鳥よりも大きなものである。写真は一羽の白鳥しか写さないが、われわれの
目は瞬間にもつと大きなものを写す。
三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より
たとへば、撮影者が、その瞬間に、チャイコフスキーの「白鳥の湖」の一小節を思ひうかべてゐたとする。写真には
そんなものは写らない。しかしわれわれの肉眼には、目に見えてゐる対象、一羽の白鳥以外に、音楽も写つてゐれば、
歴史も写つてをり、さういふものが渾然として美的印象を形づくつてゐるのである。
アルバムに貼られた一羽の白鳥の写真は、彼自身は美しいと思つて何度も眺めるかもしれないが、それは彼自身が
そのときの美的印象を思ひ出しながら見るからである。何度も見るうちに、その印象もだんだん忘れられて、
一羽の白鳥そのものしか目に映らなくなる。まして、ただ写真を見せられる人が、誰も彼も、それを美しいと
思ふかどうか疑問である。
われわれ文士は、実物の証拠よりも、そのときの印象のはうを大切にする。なぜなら、写真は万人にそのときの
私の印象同様のものを与へるわけには行かないから、文士としての私のやるべきことは、そのとき現在の私の
美的印象を心ゆくまで味はひ、その上で、それを強め、深め、分析し、言葉を通じて、何とか私の印象を万人に
伝へなければならないからである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より
このとき、あわててカメラを向けて写真をとつたりすれば、美的印象はスルリと私の手から脱け出してしまふ。
飛び立つ白鳥はフィルムに残されても、それはもう私にとつては、ただの剥製の白鳥にすぎない。
――以上は、私の、小説家としての、写真不信の原則論である。
しかし写真にもいろいろな利点はあつて、その利点と限界をよくわきまへてゐれば、カメラきちがひも悪くないと思ふ。
よく人の家へ呼ばれて、家族の成長のアルバムなんかを見せられることがある。ところがこんなに退屈な
もてなしはない。人の家族の成長なんか面白くもなんともないからである。写真といふものには、へんな魔力がある。
みんなこれにだまされてゐるのである。ある家族が、自分の家族の成長の歴史を写真で見れば、なるほど血湧き
肉をどる面白さにちがひない。しかもそれが写真といふ物質だから、物質である以上、坐り心地のよい椅子が
誰にも坐り心地よく、美しいガラス器が誰が見ても美しいやうに、面白い写真といふものは、誰が見ても
面白からうといふ錯覚・誤解が生じる。そこでアルバムを人に見せることになるのであらう。
三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より
しかし写真といふものは、そんなものではないことは、さつきの白鳥の写真の話でもわかるとほりである。
大部分の写真は、不完全な主観の再現の手がかりにすぎない。それは山を映しても、ふるさとの懐しい山といふ
ものは映してくれない。ただ「ふるさとの懐しい山」を想ひ起す手がかりを提供してくれるにすぎない。
「ふるさとの懐しい山」といふものは、あくまでこちらの心の中にあるので、その点では、われわれ文士の
用ひる言葉といふやつのはうが、よほど正確な再現を可能にする。
いちばんいい例が赤ん坊の写真である。
他人の赤ん坊ほどグロテスクなものはなく、自分の赤ん坊ほど可愛いものはない。そして世間の親がみんな
さう思つてゐるのだから世話はない。
三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より
公園で乳母車を押した母親同士が出会つて、
「まあ、可愛い赤ちゃん」
「まあ、お宅さまこそ。何て可愛らしいんでせう」
などとお世辞を言ひ合ふが、どちらも肚の中では、
『なんてみつともない赤ん坊でせう。まるでカッパだわ。それに比べると、うちの赤ん坊の可愛らしいこと!
どこへ行つたつて、こんなにキリャウのいい子はゐやしない。誰でも《まア可愛らしい》つて言ふから、誰が
見たつて、きつとさうなんだわ。(中略)』と、自分の言つたお世辞はみんな忘れて、さう思つてゐる。
カメラはこの「可愛い赤ん坊」を写すのである。実は、本当のことをいふと、カメラの写してゐるのは、
みつともないカッパみたいな未成熟の人間像にすぎないが、写真は、言葉も及ばないほど、「可愛い赤ん坊」の
手がかりを提供する。なぜかといふと、赤ん坊の可愛さなどといふものは、あまりにも主観的で、あまりにも
エゴイスティックで、あまりにも普遍性のない感情だから、さすがの言葉も追ひつけず、写真ぐらゐが丁度いい
ところだからである。しかしかへすがへすも注意すべきことは、自分の赤ん坊の写真なんか、決して人に見せる
ものではない、といふことである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より
>>1
わかるよ、写真と創作ダンスは糞レベル
ある写真が芸術として扱われることはあると思うけど、
撮りながらこの写真は芸術だ!と思ってる奴は頭おかしいと思う そーんなことはない。
道一本描いた作者の意図に普遍的な価値が見出されるかどうかが、
芸術か単なる創作物か〜の別れ道。
いよいよ写真展します!是非きてねっ!!あなたもメンバーに?
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\~~~~ _ノ / 二二二___
/7lニ/ /
| ( 三三三二二――
|_ _ )
l⌒lヽ_ -`  ̄ ̄ )_
| | | ノ_  ̄T -⌒\
\ |_ -―  ̄  ̄ ̄ ┴-|_ | ⌒
ヾl_ ノ 二二二== )
写真は情報量が多すぎなんだよ。
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ちゃんとした芸術性や芸術センスみたいなのがない人や確立してない人はやるべきじゃないね。俺にはあるがね。。。
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( )
( )( ^q^)// あーい
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| _ \ / /_(^q\\ ああーい
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えびばで . | / ヽ |
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なんでみんなバカっぽいんだろうw
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を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
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ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪
写真は芸術じゃないだろw
著名な美術館で写真展なんてやってるの見たことないだろ
だからこそ東京都には写真美術館っていう、写真だけやる箱が存在するわけで
わざと「最低!」スレを作って、良レベルを集めようとしても、無駄。
良レベル写真家は、みんな著作権を持ってる。
写真を撮るようになると判るが写真業界は虚飾が過ぎる
受け手の感情を騙すことに固執しすぎている
これを芸術として認めることは俺はどうしてもできない