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安東(秋田)、戸沢、小野寺、大宝寺(武藤)、浅利、由利十二頭など
出羽国の地味な戦国大名や豪族について語る総合スレです。
最上などの有名大名は、なるべく個別のスレをご利用下さい。
■過去ログ
【最上】出羽の戦国大名 弐【秋田】
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1156478887/ >>5 上杉や最上に浸食されて、最後は本庄に乗っ取られた大宝寺カワイソス。。。
>>8 最上はメジャーだろ
あと戸沢盛安はもっと評価されるべき
大宝寺と九州の龍造寺は縁起のいい苗字だったが
最後は衰弱したな。
安東もいい評価してもいいのだが・・・
小野寺は輝道の代はよかったが最後はその馬鹿息子のせいでうry
>大宝寺と九州の龍造寺は縁起のいい苗字だったが
そういえば、龍造寺は大宝寺(武藤)の本家筋の少弐家を
下剋上で滅ぼしてるね。なんだか因縁めいて見えるな。
・・・スレ違いか。
>>12 バカ息子・小野寺義道はお預け先の坂崎出羽守が憤死すると、
お墓を作ってあげてるのは感心すべきこと。
家を潰したことと、この一件で後世に名が残ったw
大名の当主としてはアレでも、人間としては真っ当な人だったんでしょうね。
>>10 もともとここは「地味な」という制約は無かったはずだけど・・・・・
何故か分からんが小野寺、大宝寺にやたら興味がある
これらの大名についてオススメ本はありませんか?
>>21 山形県史とかに詳しく載ってたりして。
新人物往来社の〜一族シリーズみたいなのが出てくれると有りがたいと思うが、
地元の図書館にでも買ってもらわないと、採算取れないだろうな……。
小野寺盛衰記ってのはあるらしいですよ。Googleで調べてみて下さい。
>>17 6000人率いてる
安東は大名だろ
一石250人で24万石だぞ?
でも交易とかでも儲かっていたらしいが…
1万石250人なんて超適当な目安にしかならん
いつまでそんな説を唱えているんだ?
そもそも安東氏は5万石だろ?
安東五万石の基準だと
上杉や伊達や佐竹なんかも精々10〜20万石にしかならない罠
>>27 5万石なんて表高だよ実際は20万前後あった。
だから
>>25が言うように6000人動員したっていうのは
不思議な数字ではない
>>28 言ってる意味が分からん
伊達氏(仙台藩):表高62万石 実高100万石超
上杉氏(米沢藩):表高30万石 実高51万石
佐竹氏(秋田藩):表高20万石 実高?万石
安東氏(三春藩):表高5万石 実高?万石
安東5万の基準なら伊達62万を筆頭に上杉30万、佐竹20万ですが?
>>29 そもそも実高なんてものはせいぜい表高の2倍ほど
実高20万石のソースはあるのかね?
まぁ戦国期の領地を石高であらわすのは難しいんだけどさ
あと6000人っていつの話?
個人的には大名扱いで良いと思うけど、
室町期までの日本将軍を名乗った安東氏と比べて
交易利権の喪失と内紛によって戦国期の安東氏は見る影もなく没落しているよなぁ
>>30 寄騎大名(半分豪族)を抜いた、純粋な石高で秋田5万石だから
それなら佐竹も常陸12万石しかないってこと
今は織豊時代の話
>>31 寄騎の意味分かってる?
寄騎は主家から与えられるもので、
それを以てして「実質は〜」などと言うのはどうかと思うが。
戦国末期の安東氏は、後の本領である秋田5万石と
後に太閤蔵入地となった2.5万石を合わせた約7.5万石が支配圏
戦国末期の佐竹氏は、後の54万石から江戸氏や大掾氏などの所領を抜いた分、
これが12万石とはちょっと少なすぎないか?
伊達や上杉なら尚更だよ
10〜20万石の確かなソースがあるならともかく、にわかには信じがたいね
安東氏の山北地方は当時まだ米作が盛んだったわけではなく、
海上&河川交易の収入への依存は大きかっただろう
石高の数値だけで推し量れば、安東氏の領地など弱小でも仕方ない
俺には安東氏の石高を大きく見積もろうと必死にしか見えないんだが?
佐竹義宣11万石
佐竹義重1万石
佐竹義久1万石
与力12万8800石
(↑江戸、真壁、武茂、松野、茂木、梶原親子など)
この計算でいいなら安東も浅利や由利十二頭の一部などを含めて良いことになる
>>30 奥羽の検地は結構いいかげんで、しかも秋田実季は
意図的に領地を少なく見せている。
秋田愛季死去直前の1587年頃、6000人率いていたが
そのころ実高で20万。
そのあと五万+蔵入り二万五千と確定されたが
あなたの言うように、倍が実高ならこの確定の時点で
実高15万ということになる。
20万と15万の差は豊島通季の乱で失われたとも考えられる。
>>35 1587年の対戸沢は3000騎
鹿野郡攻略戦で6000騎だったと思う。
>>32 秋田+由利の一部+津軽の一部
石高は少ないが
面積的に言えば
弱小ではないと思うが…
>>34 浅利は臣従しているけど
問題は由利十二頭だよね
臣従までは行かないけど
半従属位まではいったんじゃないの
関係ないが白神山地の木材資源もあったんじゃないかと
安東氏の経済には木材も大きかったと思うんだが、どの程度寄与してたろうね
戦国時代は建設ラッシュもあったし、結構大きかったのかな
>>37 木材の件では土佐林禅棟が羽黒山のなんかで
安東から木材を買ったことがあるらしい。
江戸期の佐竹が20万石だから、当然安東はそれ以下ってことだよな。
安東、戸沢、小野寺、浅利の領地を合わせて20万石だから。
でも安東の実高が20万石とはちょっと信じ難い・・。財政力はあったにせよ・・。
>>33-34 多分、それは戦国時代あたりの佐竹氏勢力圏の内訳かな?
江戸・真壁などは確かに家臣とは言い難い部分もあるね
ただ浅利氏の所領は後の秋田5万石にほぼ含まれてないか?
由利十二頭の所領は、それぞれがおよそ数千石程度(せいぜい5000弱ぐらい?)、
それらを合計しても由利地方全体でおよそ5万石程度
しかもそれらのほとんどが、大宝寺氏、天下統一後は最上氏の影響下にあり、
安東氏への従属の姿勢は弱いように思える(湊合戦は協力姿勢だろうし)
湊合戦を考慮にいれても10万石を超えるのは怪しいかもね
>>35 一応言っておくけど、
>>30の表高というのは江戸時代初期のもので、
(ちょっと自分が時代設定を勘違いしていた部分があったww)
その後の開墾などで生産力が高まった結果、実高というものが出てくるわけですよね?
戦国時代の所領を後の石高制で語るのも難しいけど、
そこに実高という考えを入れるのは全くおかしいんじゃ?
>>36 由利十二頭は、ほぼ武藤氏に従属的だった時期が多く、
安東氏に従属的だった勢力はかなり少ないと思う
義宣の弟の岩城貞隆が川中島1万石
佐竹の石高が決まったのが義宣も死去した1664年で
秋田6郡に下野河内、都賀郡を加えて20万5800余石
まぁこの佐竹左遷に対しては北条氏勝が国替えを喜んでますね。
また豊臣政権下では
秋田52000
戸沢4
仁賀保5000
六郷5000
小野寺32000
ですね。
ただ石高は大名の序列による権威付けと関わりがあり
純粋な石高チェックによっているわけでない。
ちなみに佐竹の石高は御三家も含めた序列で21位に列する。
佐竹は金山開発や湊の収入、木材の売却で利益をかなり出してますしね。
花輪、斯波、雫石辺りも形式的に臣従してるし
死に際の戸沢との合戦じゃ決行食い込んでるから
それ含めれば十万越えるんじゃね?
その後、湊合戦でゴタゴタだけど
>>44 つまり安東家は織田領内ということですね、分かります
>>41 大宝時との争いで援軍をもらった由利北部は安東側についた。
半従属は言いすぎだった。連合くらいの関係でいいかな?
>>46 だから実高ってのは江戸時代以後のものだろ基本的に
>>48 羽後に関して言えばあまり変わってないんじゃないか
>>49 ほとんど伸びがないとなると、実高を出すのは尚更おかしくね?
実際は出羽の石高は江戸期に入って急速に伸びているよね
太閤検地で30余万石→江戸中期80万石
太閤検地なんて絶対視できるほど正確なもんではない
東北なんてなおさら。いわゆるドンブリ勘定だ
石高制や検地法にもいくつも方法があるしね
秀吉が枡を統一したというが、どこまで徹底されたやらも不明
絶対的な基準とまでは思わないほうがよさそうだ
>>50 江戸中期における出羽全土の「実高」だったら
140万を超えるね
太閤検地は差出だからなぁ、税金増えるのに馬鹿正直に申告する奴も居ない
☆このスレの流れ☆
つーか安東とかこいつら大名なん?
↓
安東は大名だよ。6000人だし、24万石だし。
↓
安東は5万石だろ
↓
検地が適当だから、5万石でも実質20万石あるよ。
↓
秋田藩で20万石だからそれ以下だろ
↓
斯波とかもカウントすればそんぐらいいくよ
↓
つまり安東家は織田信長の配下ですね、わかります
↓
いややっぱり秋田藩の実高は40万石だから安東だって20万石ぐらいあるよ
↓
実高は戦国時代に適用できねーだろ
↓
検地なんか適当だから5万石なわけないよ
ーーーーーーーーーーーーーーーーここまで読んだーーーーーーーーーーーーーーーー
戦国時代末期における太閤検地の石高が、そもそも
同時期の実高と乖離してるんだよね
安東愛季の歴史小説読みたい・・。
誰か執筆キボン。
女性説で半分ネタで書けばいいんじゃね?>愛季
三国志がボインボインになったりする世の中だし、無双やBASARAの若年層のヒットを考えれば
レーベルとして真面目に中公とか講談社の文庫を狙うより
あえてスクエニや角川でライト向けに書けばいい
>>61 女性説なら
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185649756/ と過去ログ
地元にあった小説「北前船」だったかな?に室町時代の話として愛季(なるすえ)が主人公の
小説があった気がする。
いっそ、コーエー大航海時代のネタでも良さそうな。
主人公:湊安東氏の一族
配下:由利十二頭より
アコンズ(赤尾津)♂
セリータ(芹田)♀
みたいな。
いや、そこのスレ以外に女性説なんて誰も唱えてないからw
多賀城の想像復元図を見たことがあるんだけど
秋田城や出羽国府の想像復元図はどこかにあるだろうか?
南部だと思うが、安東は水軍を使って後方かく乱とかできたのではないか?
南部は武士団って感じだな、よくも悪くも
九戸の乱を克服したことで格好はついたが、江戸時代まで武士団気風は残った希ガス
安東は総合商社みたいな感じかな。貿易商が武装したようなもんか?
南部って三戸(南部)、八戸、九戸の三者連合にみえる
基本バラバラなんだけど外からの圧力には連合する集合体
安東は武装商人というのは同感
烈風伝シナリオ0の安東(髭)の列伝には、海賊って書いてあったが・・?
当時の海賊は水軍プラス海上交易の従事者でもあった。
>>66 南部
石高:10万石(太閤検地時)
産業形態:農業重視
当主:武勇に優れるが人望はやや薄い(晴政)
家臣団編成:一族同士の連合体
鉱山:あり
港町:あり
水軍:なし
中央との繋がり:そこそこ
最大動員兵力:15000
安東
石高:8万石(太閤検地時)
産業形態:商業重視
当主:優秀(愛季)
家臣団編成:湊・檜山を統合
鉱山:なし
港町:あり
水軍:あり
中央との繋がり:強い
最大動員兵力:6000(蛎崎・アイヌ兵含まず)
ちなみに、1万石=250人は旧帝国陸軍が定めた基準で
実際は短期間限定&根こそぎ動員ならそれ以上の兵が動かせた
四国平定戦の時は長宗我部元親が土佐24万石+αの石高で
24000人を動員しているし、
姉川合戦では北近江12万石の浅井長政が8000人を動員している
南部は港町があるのに海上交易で稼ぐという発想が希薄だったんだろうか?
>>72 もっと細かく分かれているよ
三戸、八戸、九戸、大浦、大光寺、七戸と
多分あのまま戦国時代が続いていたら
大浦が他の南部家をアボーンしてたと思う(傍流の織田弾正忠家が
本家を乗っ取ったように)
大きな由利衆のようなものだったと思えばいい
南部光行の血統が定かではないから
どこが本家なのかはわからないんだが
最大動員兵力:6000(蛎崎・アイヌ兵含まず)
含むと、1万超えるのでは?北海道のアイヌも5000位動員できるだろ?
海越えるのが大変か?内戦なら、5千。外征なら、2千くらいか?
>北海道のアイヌも5000位動員できるだろ?
無理。
>>84 コシャマインの乱やシャクシャインの乱でさえ2〜3千人足らず
>>82 アイヌがそんなに動員できるなら蠣崎即終了だろ
>>75 安東は金持ってるから南部より兵一杯いるようなイメージなんだがやっぱり違うの?
当時の東北北部ではカネで傭兵連れてくるのは難しいのではないか。
傭兵王国・紀伊雑賀から引っ張ってくるのは地理的に遠すぎ。
動員すればいいってもんでもないだろう
人数少なくても火力があれば補えるし
南部や甲斐の武田のように貧乏な国ってのは
戦争が産業だから動員すれば集まるって側面もあるんだろうし
そもそも安東はなんで津軽を南部に奪われたのかな?
元々安東は北朝方、南部は南朝方で安東の方が有利な気がするが。
単純に北朝南朝で別れるもんじゃない
安東は南朝になってた時期もあるし、今の三戸南部は北朝について隆盛を得た
南朝に忠義を尽くしたのは八戸南部
安東って、東北最大勢力だったのが、
いつのまに、伊達、葦名、南部、最上とかの台頭許したのか?
むしろ本当に最大勢力だったのか疑問
色んな称号が伝わってはいるけど
当時は朝廷や幕府に献金して官位や称号を買うことができたはず。
煽りじゃなく、安東も南部も当時はリアルに最果ての地だからな
安東の財力に目を見張るようなものがあったにせよ、
米などの生産高、鉱山などの資源、人口などを考えた場合、
武家としての東北最大勢力ではあるまい
文献の記載を裏付けるほどの遺物もないんだろう?
>>97 分裂は十三湊喪失の後じゃあなかったっけ?
うろ覚えなんで間違えていたらすまん。
ぶっちゃけ、鎌倉から室町時代前期の安東家の所領の範囲に諸説あって、
説によってその広さが全然バラバラになってしまうので、
安東氏が東北最大の勢力であったかどうかなんて結論は出ないし、
広く見積もってもその領域はせいぜい陸奥北部の沿岸部(大体青森県の範囲)と出羽北部の一部ぐらい
日之元将軍とかの自称は、勢力の広さ云々と言うよりも、
古くから北東北で続き、蝦夷の子孫を自称し、
鎌倉期から代々蝦夷地支配を認められてきた安東家の矜持みたいなものかと
実際、明治期に秋田家は安日彦の子孫なんて言い出しちゃうほど、
蝦夷を祖とする自家の家系によほどのこだわりがあることだけは確かだし
いや、日ノ本の将軍は対外的に蝦夷や大陸北東と貿易してたから名乗ってたんだろ?
鎌倉時代、安藤氏は津軽全部すら支配していない。
買いかぶりすぎ。
例の和田とかマスコミが安藤氏を持ち上げたからこうなっている。
現代の感覚で十三湊をみるから不思議に感じるんじゃね?
それこそ
>米などの生産高、鉱山などの資源、人口などを考えた場合
津軽全土を支配する意味などさらさらない訳で
沿岸部にながーく支配を拡げて貿易利権を得てたのが安藤氏の姿
つがるそとさんぐんし
という東北にとってトラウマがありましてね
安東は交易とか鉱山開発とかで儲けていた。
武将というよりも東インド会社みたいなもんだろ。
そう、安東は津軽、下北、外ヶ浜の全てを支配していたわけじゃなく
港の周辺を収めていた。
陸地とかは幕府の御家人のもの
思いっきり御内人ですな>安東氏
最近では御内人だった関係を元に、安東家の出羽進出を鎌倉期にまでさかのぼらせる見方もあるそうな
北海道、青森、秋田。3県分にまたがる地域に勢力圏を
鎌倉時代に持ってたのは凄いと思う。
伊達より上だな。
ただし当時の北海道、青森、秋田は繁栄している都市(主に港町)の数が
多いわけではなかった。
安東は港湾都市や鉱山をピンポイントで把握していたが、
内陸部を実効支配していたかどうかかなり疑問。
>>114 鎌倉期に執権である北条得宗家(北条氏惣領)に仕えていた武士のことを指す言葉
基本的には北条家の被官という感じに考えてよいかと
彼らの多くは北条家守護任国の守護代や北条家の所領の代官などを任されるなどした
(元寇以降は御内人から内管領なんかが出てくるが)
当然、北条家の隆盛とともに御内人もその力を伸ばしていったが、
彼らの多くは鎌倉幕府滅亡とともに没落したと言われている
でも、一部にはその後も勢力を保ったものもいて、安東氏はその一例
他には信濃の諏訪氏あたりも知られている
北条と深い関係あるから北条の代理を勤めれたってことか
つか御内人のようなポジションに収まったんだよ
得宗家に息子とか近従させて
始めから御内人なら蝦夷大乱など起こって無かろうし
南北朝初期は御内人は北条戦力として暫く北朝でも南朝でもない勢力だが、彼らに安藤氏は味方してないし
北条得宗と安達秋田城介の微妙なバランスの上に乗っている。
でも前スレも最上安東いてもつまってたしな^^;
むしろ最上安東辺りが独立してあそこまで
人が集まったのが以外
>>122 出羽限定なら最上はメジャーだからな
「出羽の六角」と言ってもいいぐらいメジャー
>>125 「出羽の六角」の意味がようわからんのだが
そこら辺を大名と呼ぶのは中央だと水野あたりを大名と呼ぶようなものだ
大宝寺・寒河江・浅利・・・・・べつに、小大名でいいじゃん
大宝寺はまだおkじゃね
織田に一応、庄内屋形だったかに認められてるはずだし
同族争い克服して、由利や村山にも侵略繰り返してる
・・・寒河江・浅利はきついかな
寒河江・浅利は論外だろ
大宝寺も上杉の子分から本庄の子分になっていくし…
本庄から養子もらったからねぇ。
そうでもしなきゃ最上にやられてたからね。
まぁ伊達が最上の足を引っ張って大宝寺を支援してたのもあるんだが。
小野寺や戸沢や由利の事が詳しくなれる良い本ないかな?
湯沢市史や横手市史あたりを通販で売ってくれないかな。
>>141 Googleで北出羽物語と検索してみて下さい。
>>141 伊達や最上の小説はあっても、秋田の大名は安東ですら小説になってないから、そういう意味ではありがたいよw。
>>145 小説じゃなけりゃ結構見つかる。
Amazonで検索してみな。
話変わるけど、浅利って愛季に攻められるまで、そんなに強かったのかね?
比内一帯を勢力下に治めてて海沿いまで出張ってきたのかね?
東北在住じゃないんで、いまいち文献が手に入らなくて分からんのよ。
情報キボン
比内と海をつなぐルートは米代川だけど
河口部の能代は早くから安東氏の支配下にあったっぽい
北には南部氏が強盛を誇ってるし
前から浅利氏は苦しかったと思う
ここらへんは浅利氏に関する有力な史料がなかったりで推論を積み立てるほかないが、
浅利氏が明確に勢力を示すようになったのは16世紀に入ってからというのが一応の説
これは、1510年頃浅利則頼の代に今の大館を中心に勢力を張っていたことがわかっており、
それ以前の比内浅利氏の動向がいまいちはっきりしないのと、
また、15世紀は南部氏が北出羽一帯にも勢力を伸ばしていたことがある時期でもあり、
浅利氏もこの時期は南部家の圧力で閉塞状態にあったのではないかとも思われる
で、その間、15世紀後半には檜山安東氏が今の能代市一帯を中心に勢力を張ったから
浅利氏が海沿いまで出張っていたというのは考えにくい
それでも50年近く耐え抜いたのは、
南部氏:元々家中が安定していたわけでなく、さらに、この時期は津軽地方への進出と
その統治確立をはかっている時期であり、比内まで手を出すのは困難だった公算が大
安東氏:南の湊家との対立がしばらく続いたのと、当時は阿仁地方を勢力下には置いてなかったため、
比内への進出自体がまだ簡単ではなかった
という、外部から攻められにくい要因があったのと、
浅利氏自体の衰退の要因自体が浅利則頼死後の家督を巡る家中対立にあると考えられてるあたりからも、
則頼の代には領内統治と家中統率をうまくできていたこともあるかと
(安東氏による比内攻略は、安東愛季が浅利勝頼に助勢する形で行われたと伝えられる
その結果として、浅利氏が間接的に安東家中に取り込まれたと考えればよいか
で、その後独立をはかろうとした結果、浅利氏は衰退した)
江戸時代も米どころ+海運が盛んなイメージだね庄内。
常陸から移って来た佐竹に使えた末裔も結構いるのかな?
小場とか石塚とか大山とか小野崎とか皆さんいらっしゃるんでしょ。
戸沢、小野寺、大宝寺はそれぞれ何万石の領地があったんだろ?
戸沢:6万石
小野寺:4万石
大宝寺:8万石
くらいじゃね?ただしそれぞれ表高
戸沢の方が多いの?
領地の広さから小野寺の方が多そうだと思ってたけど。
>>162
>>160とは別人だが、
時期によっても違うだろうが、基本は
戸沢:山本郡北部(注:今の仙北郡にほぼ相当、現山本郡は江戸期に檜山郡が改称されたもの)
戸沢盛安の代に大きく広がって、山本郡の大半を占めたと思われる
小野寺:雄勝郡と平賀郡が地盤
大宝寺:田川郡を軸に出羽郡・飽海郡あたりに影響力があったのではないだろうか
あたりかと思われる
安東から秋田に何で変えたんだろ?
秋田城介の名前って、そこまで良いものなんですかね?
>>166 鎮守府将軍には劣るかも知れんが、十分に武門の栄誉だろ
ちなみにのぶりん息子が秋田城介
のぶりんは惟任とか古いもんを持ち出すの好きやね。
確か最初、信忠は出羽守になったはずだよ。その後に秋田城介。
出羽は最上のもの。
おまえらみんな隷属弱小大名。
最上の石高圧倒的。
小野寺とか安東とか津軽とか南部なんて
みんな3万石前後だろwwww
最上も最初は伊達に従属してた弱小大名だろ
最上義光の時代に成長するが、死後改易だし
大宝寺家、最上義光、坂崎直盛。
江戸時代だと出雲松平家、柳沢吉保。
有名なのはこの辺かな?
>>185 坂崎は配流されて来た小野寺を客分として遇したんだっけ?
>>186 その通りで、小野寺義道は関ヶ原後、出羽をおわれ、
その後は津和野で過ごしたとなっている
で、その間、坂崎家は千姫事件によって没落、坂崎直盛も死んだわけだが、
その坂崎直盛の津和野にある墓は、生前の恩に報いるために小野寺義道がたてたものとされている
ちなみに義道の子孫はそのまま次の津和野藩主となった亀井家に仕えてるね
昔から歴史スキーだったのに
高校在るところが元角館城あったとこなのに
戸沢に当時は興味無くてスンマセン
ていう後悔
小野寺氏の重臣で川連綱道って人がいたみたいなんですが、
この人について生没年、事績などわかる事はありますでしょうか?
川連城主で、稲庭小野寺氏の小野寺道長に娘が嫁いでいることくらいしかわかりませんでした。
すみません、小野寺スレがあったので、そっちで聞いて見ます。
戸沢はたしか金森長近が弁護してくれて、
長近には逆らえない家康が上杉との内通疑惑を不問にしたから助かったような…
たしか秋田家文書の記録にあったはず。
金近は家康の超お気に入り
戸沢は幼い時に金近に仕えてたよしみがある
出羽の史料で非常に良質で精度が高いのはわずかに秋田家資料のみなんだよね。
んで秋田家資料によると
義光が戸沢や安東を讒言した際に
戸沢が穿鑿すら無く助かったのは、
長近が「政盛はまだ幼く優れた家臣もいないので風になびく草のごとき傍観者となったから謀反はしてないし、例え謀反したとしても、政盛は以前、自分の子に仕えていたことに免じて許してくれ」と談判したので助かった。
長近は戸沢盛安が急死した際に弟光盛に出された家督安堵発給の秀吉朱印状伝達者で、
奥羽大名と家康の仲介をしていた鷹買の田中清六と長近は親しい間柄。
ちなみに長近は「家康公気相の人なり」と当代記に記され、
長近の伏見屋敷に頻繁に御成して長近と囲碁や蹴鞠に興じたほど親しかった(寛政重修諸家譜や時慶卿記)
逆に改易を免れた戸沢が親しくしてた金森長近から最上はかなりの恨みを買ったことだろう。
最上改易の導火線の一つにはなっていただろう。
金森って岐阜県ローカルな人のイメージあったから意外だわ
金森さん尽力したんだ
>家康公気相の人なり>長近と囲碁や蹴鞠に興じたほど親しかった
なるほどそうなんだ
戸沢には小野寺との内通疑惑があったからねぇ。
もっとも南部も怪しくて、関ヶ原の後に急ぎアリバイ作りで小野寺領日帰り侵攻して誤魔化したと義光が家康にチクってる。
基本的に奥羽は東軍、西軍を天秤にかけて曖昧にしてたやつらばっかり。
>>228 > もっとも南部も怪しくて、関ヶ原の後に急ぎアリバイ作りで
小野寺領日帰り侵攻して誤魔化したと義光が家康にチクってる。
家康はどう対処したの?
伊達が南部にちょっかい出したおかげで、南部は小野寺まで手が回らずと言うことで南部はなんと不問になった。
小野寺って、関ヶ原後に功績作りのために周辺勢力からフルボッコされてるよな・・
まあ、みんな本気じゃなかったろうけども
陸奥では政宗が相馬ざまあ
百万石の約束プラス相馬領も俺が貰えるの間違いねえ!とワクテクしてた妄想家政宗であった。
今の北秋田市周辺って誰が納めてたの?
やっぱ浅利の殿様か?
>>240 南部の米内沢とかは安東家に仕えた嘉成氏の勢力下
北部は浅利勢力下と見るのが自然だったかな
>>241 嘉成氏は海上交易で多少は儲けていたんだっけ?
そういえば、愛季時代の比内抗争って、嘉成氏とか地元勢が主役って印象を受けるな
実季時代になると、浅利氏との法廷合戦に実季自らが乗り出してくる
>>190 由利 鎌之助(ゆり かまのすけ)
百合 カマのすけ
安東家は石高こそ高くないが、領土は非常に広かったんだよな?
蝦夷島はもちろん千島や樺太など日本国外にも勢力あったらしい
出羽ではないけど大崎さんのことも思い出してあげてください
ぼくのあいのこしょうよしあきはでわのはおう
しっとしておおうそ、でたらめばかりかきのこしてよしあきをけなした
あんどうやとざわやおのでららでわじんはみんなきちがいだからこくがいついほうだ!
>>259 そのはずだが、ここは出羽スレなのでスレ違い。
まったくの無関係ってわけじゃないが。
詳しくは南部スレのほうがいいんじゃないか?
>>257 名目にすぎないとはいえ傘下だろ
交易圏なんていってたら自治下のアイヌが大陸やカムサッケまで交易してるから
それも含まれるんだよな?
関ヶ原で安東や戸沢が疑惑に満ちてる中で唯一、明らかに反上杉行動をした六郷7の謎
衡盛母は藤原雅邑(範伊)女
兼盛母は楠山平良政女
泰盛母小笠原長練女
家盛母本堂親清女
久盛母六郷政英女
征盛母本堂親末女
秀盛母小笠原長之女
道盛母小笠原長祐女
盛安母本堂親条女
六郷が生き残ったのマジ不思議!
特に関ヶ原で奥羽で唯一、山形に味方して東軍として旗印を鮮明にしてるし
六郷は農業生産力が高いし、その国力あってこそだろうね
>>279 それは現代だからでしょうよ。
気候や地形等からいっても生産力・人口共にそんなに高いわけじゃない。
周りが敵ばかりの地域性がそうさせたのかも知れないし。
六郷が東軍についたのは対小野寺の部分が大きいんじゃ?
小野寺・・・最上と敵対→西軍
六郷・・・弱体化した小野寺の傘下から独立したばかり。敵対してた?→東軍
奥羽の空気が読めなかったというより、
徳川を勝ち馬と見抜いたのではないだろうか?
敵の敵は味方の理屈でいったら、たまたま徳川方だっただけでしょ
>>245
長部日出雄の「津軽風雲録」では智将だったはずの
津軽為信が秋田実季の謀略に嵌って比内攻めに利用された話が載っている。
以下空気を読まずに・・・
(為信「比内落ちねー、そうだ、浅利と敵対してる秋田と同盟しよう」
実季「よかろう、浅利滅亡後は比内は半分こね」
為信「じゃ冬になるからそろそろ弘前に引き上げるわ」
実季「・・・ふっ、浅利が津軽方面防衛に力を割いてる今のうちに・・・」
津軽家臣「・・・とのぉ!比内が秋田勢の手によって落ちました!」
為信「・・・秋田殿、比内の分け取りは・・・?」」
実季「そんなもん(゚听)シラネ 浅利はもともと俺の被官だし謀反を鎮圧しただけ、
文句あるなら力づくで分捕れよm9(^Д^)プギャー」
津軽も安東も南部もほんと懲りない面々だよなw
比内に関しては浅利も懲りないやつだけどw
そして滅亡した家の記録は津軽が焚書して『なかったこと』にしちゃいます
>>295 仙台「その手法をパクるなら使用料取るぞ」
角館行ってみたいのだけど
街の礎を築いたのは戸沢氏ということでおk?
いまの武家屋敷あたりは佐竹氏が来てからかと
かくだてには桜と武家屋敷くらいしか目ぼしいものはないよ
行くなら4月下旬、GWちょい前が良いかと思います
ちょっといけば払田柵もあるけどこっちはもっとマイナーかw
戸沢氏なら転封先の山形県新庄市に行った方がいいんじゃないか?
桜なら同じ佐竹の久保田城や横手城も結構いいよ。
いまは横手焼きそばでも有名だね〜。
個人的な感想だと桜の三戸城が予想外にかなり賑やかでびっくりだったな〜。しかも山上が広くてコンサートも可能な広場があった。
戦国時代の出羽国でもっとも要害だった城というとどこになるの?
戦国期の出羽に要害イメージある城は無いなあ。
出羽の南方は政宗期になり義光が自立した以前は伊達軍がやりたい放題やって最上を傘下に組み込んでたし
戦国末期までの出羽の北は比較的安定してたしな。
まあ陸奥の大内氏が下克上したのが珍しいくらいだし。
上杉時代の米沢城のあのシンプルさから見て
伊達時代の米沢は躑躅ヶ館と似たようなレベルだったろうから
関ヶ原までの山形城もその程度のレベルだろうね。
戦国時代の出羽での代表的な城攻めや籠城戦というとなにがあるの?
陸奥を含めて拡大中の伊達の一強だったからな出羽は。
安東は十三湊が失われ南部により津軽を奪われてたし
小野寺は統治能力が消失し衰退中。
あとは下克上らしい事件もなく一揆連合もロクに組まずに小国人たちが昔ながらに割拠してただけ。
見どころなら
戦国終わったあとだけど
佐竹の石垣を使わない土塀築城術がかいま見れる久保田城や
佐竹の最前線だった横手城はかなり良いかな。
安東は愛季の時代に檜山と湊を統合して
阿仁方面に豪族連合を家臣の南部や嘉成に統括させて浅利と戦わせながら
鹿内巡って石川高信&南部信直とオセロゲームして結構忙しいと思うが
そもそも下剋上がないから戦国時代じゃないって認識がおかしかろうよ
全国的にみても守護や守護代による上剋下の方が多いんだし
>>310 安藤が十三湊を南部に奪われた時代って享徳の頃だろ
その頃の小野寺はむしろ鎌倉期からずっとジワジワ勢力を拡大していった時期だと思いますよん
平賀氏(=小笠原氏)が安芸国の経営に専心した為に、小野寺氏が伸張した頃だしね
一方で山北群では国人の中から戸沢氏や六郷氏、本堂氏らが抜き出始める
小松山城や千屋城はこの時期に築城されているし、梅沢氏、白岩氏は戸沢氏に半家臣化
小野寺の統治能力が消失するのは義道の代で、戸沢氏との合戦に勝てなかった為に求心力が低下
そのため国人一揆である由利衆と戦線を交えることになり、ここでも敗北してボロボロ
城攻めじゃないけど、羽後で度々野戦の地になるのが刈和野じゃねーかな
南部vs湊安東、南部vs小野寺、小野寺vs戸沢、小野寺vs安東…etc
出羽は陸中とは違い小田原参陣してるから
淘汰が進んでない。
>>319 海路で上方の政情を入手しやすかったからな。
斯波、浪岡北畠が滅んだ時から室町権威は無くなったはずなんだが、各地の動きは鈍いね。
これには気候的な要因も大きいだろうけど。
冬の雪で動けない期間が越後等よりは長いだろうし、特に山間の地域は。
今年の東北地方のドカ雪を見てそう思った。
利用価値自体は継続して存在してたと思うし
それは室町権威というよりは上方(京都)とのパイプラインであったと思うよ
浪岡北畠を保護した安東愛季の意図なんてまさにソレだよね
本来は将軍に近従してた湊家とは別に、檜山家独自の繋がりが欲しかったんだろうし
>>322 日本一の豪雪地帯の越後ですら謙信は大雪の中、関東諸将に懇願され三國峠などを越えて越山してるから
軍事的要請があれば行動可能だよ。
吹雪の雪山行軍中に書いている書状で謙信は手が震えて字がうまく書けないと書いてるけど。
あと出羽の最上は斯波支族の出羽探題家だから室町権威の生き残りでしょう。
>>322 浪岡北畠には南部も援助してたし、
北奥羽と出羽の大名にとっては上方との貴重なパイプ役だったのは容易に想像が付く。
四人いる奥州探題だからなー
権威というより神輿だよな
>>322 > 斯波、浪岡北畠が滅んだ時から室町権威は無くなったはずなんだが
室町幕府がグロッキーながらも存続しているのだから
権威が大きく低下したとはいえゼロに落ち込んだとはいえない。
というか、南北朝から室町期の負の遺産(中央勢力からの色々な手先が赴任し混沌とさせる)を一掃させようとはしてなかったよね。
土豪は土豪なりに誰につけば得かを考えていたようだし。
とはいえ…この時代のこれらの地域は決定的に資料が少な過ぎなんだよね。
でも南北朝の時期にはいた奴らが結構消えてるんだよな
特に国境沿いの鹿角の連中は
成田、安保、奈良、秋元……どこいった
六郷が有力文官御家人二階堂氏の子孫て仮冒でしょ?
ただの土豪じゃん。 自称菅原氏前田や山内みたいなものか
居住者を変えると名字まで変わるからな・・いや『苗字』っていうぐらいだから土地が先か名前が先かって話にはなっちゃうけど
出羽の一番の要害は檜山城?
安東氏家臣団とか周辺豪族の詳しい資料が欲しい。重臣の大高氏でさえ諸説紛々でよくわからない……。
安東不伝斎は燃える!若年当主実季の名代として、湊合戦では名采配!もっと取り上げられて然るべき名将かと。
でも湊合戦以外で何したって話全然聞かんのよな
湊合戦の時にはもう結構な高齢だと思うんだけど
ではでは、能代市史より抜粋。
安東不伝斎は秋田氏の一員で不染斎とも称している。所領4795石余。秋田氏の財用に関与し、金銀を財用奉行に渡したり、米を大工や鍛冶に手間賃として払った記録が残っている。
また代官として慶長3年に栗山二蔵なる上方商人に熊皮2枚を売った記録が残っている。慶長7年の秋田氏宍戸転封の際、実季の方から同行を求められた重臣33人のうちの一人である。
ちなみに、能代市史では他の史料と違って下国相模と不伝斎を同一人物扱いしていない……。
>>359 おお、ありがとう
慶長年間にも活躍してるのか
安東氏は謎が多いけど、ミステリアスな魅力がある!今に史料を集めて、安東氏家臣団のデータを揃えたサイトを作るつもりです。
大高筑前殿の諱はまさに安東フリーク最大の関心事と言えよう……。何より大高氏ってこれと云う通字もないので推察も出来ない。光忠説も訝しい。
連カキ失礼。能代市史には、大高筑前の通称が大高又兵衛とある。ただ、大高筑前は湊合戦の和談交渉の折りに討たれているはずだが、又兵衛の名は慶長年間にも見えるので、おそらく子孫代々この通称を用いていたと思われる(“筑前”も同様か)。
つまり何が言いたいかというと、今後の研究が待たれるのである。
個人的には戸沢氏の家臣団に興味がある
大名として残ったわりにこれと言った人物の名前を聞かないけど
メジャー?なのは前田薩摩と戸沢政房ぐらいですかねー?
浅利が独立してたら何万石くらいの大名だったのかな?
人口は今の弘前市くらいにはなってた気もするけど
隣の鹿角郡が1万石弱だったことを参考にすると
1万〜2万石程度の勢力かと。
どの程度浅利氏が勢力を持っていたのか詳細は分らないが
大館周辺だけだと思うのでそう試算してみました。
まあ江戸の城下町が今の都道府県の県庁所在地になってる地方も多いので
今よりは栄えたかもしれないけど弘前市には及ばないと思われ。
>>375 えー、1000人くらい動員できそうなのに・・・・
大館や鹿角は平地が少ないし、そんなもんじゃないの。
その分、林業とかで収入がありそう。
それ豊臣以降じゃね?
畿内の森林伐採しすぎて材料ねーよ→地方から捜してくりゃいい→秋田の杉いいじゃん!
こういう流れ
輸出自体は天正年間からやってたらしい
需要が急増して上方に輸出しだしたのは確かに豊臣以降だけどね
輸出品としては鉱山資源の方が重要だったよ。
杉何ていたるところで採れるんだし。
輸出に限って言えば、少なくとも豊臣政権時代は杉のウェイトはかなり大きいべ
大型船や巨城に使えるような良質な木材資源はどこでも採れるもんじゃない
唐入りで杉の需要が増えたけどそれ以降は
そんな大したことないんじゃないか?
うんにゃ、領地のインフラ整備やら主城建設やら航路の整備による船舶の増加やらで
輸出需要は唐入り後もそれなりにあったと思われ
実際、秋田氏が改易された後も輸出は続いてるし
周りを全部敵に回して、傘下の豪族に背かれて、親父が拡げた版図を大幅に縮小。
最上との抗争に血眼になって最後は改易。
小野寺は義道がアホとしか言いようがない。
最上って江戸時代になってから御家騒動が起きてお家断絶だっけ?
一寸先は闇とは言うけれど本当に怖いね〜((((;゚Д゚))))
一応交代寄合として存続してるけど旗本じゃ爵位貰えないからな
血筋は繋がっているのだろうか
最上本家よりも大身重臣が大量にいた最上が義光死後に
統制不能になるのは目に見えていたので
最上改易は最上家臣ですら予見できていた。
戦国から幕末まで改易も転封もなく
大名やれたのは津軽くらいだな。
なんで津軽が出羽でなく奥羽なんだろう?
地域間の繋がりでいえば奥羽よりも
出羽のほうが強いと思うけど。
奥羽ではなく陸奥。
奥羽山脈の「奥羽」は、陸奥と出羽のこと。
陸奥と出羽の国境に関しては、奈良・平安期に朝廷が蝦夷に対して版図を広げて
いった過程で決まったと思われるが、よくわからないことも多い。
津軽平野は奥羽山脈で囲まれた出羽側からは外側に当たる
山科言継の歴名土代だと津軽浪岡氏の使者が『出羽から上洛してきた』っつう記述があって、浪岡氏は出羽者扱いだし
一方で『陸奥出羽者称浪岡氏』って書いてもあるんでどっちなのか明確には決まってなかったんじゃない?〈津軽
陸奥を本拠地にしてた南部が支配してたから陸奥になったんでしょ。
安東が津軽を追われてなかったら出羽だったと思う
陸奥守(北条得宗家)の代官職としての蝦夷沙汰職だった安藤氏の津軽が出羽?
官位はあまり関係ないんじゃね?
この時代の陸奥守は全く関係ない島津や毛利にも
叙せられたこともあったし。
畿内から見れば最果ての地だし、中世は国境とか適当な感じだったんだろう。
陸奥(みちのく)の由来自体、「道の奥」・・・要はずーーーっとあっちって意味だし。
最終的に決まったのは佐竹が秋田に移封になったとき。佐竹と津軽の間で領土交渉をして、
佐竹の領土が出羽で津軽の領土が陸奥って感じに決着したんだろう。
官位が関係ないなら葉室光顕や北畠顕家に出羽守や陸奥守を叙任させて奥州統治しないだろJK
安東は津軽からおん出されて、本拠を出羽秋田に移した時点で出羽の大名扱い
その後官位は有名無実になるし、政府もメタメタ
出羽の大名が津軽占領すりゃ出羽扱いになったでしょ、比内みたいに
多田貞綱が羽州守護と津軽検断の両方を申請してるので
昔から津軽が出羽には含まれてなかったんでしょう
そも津軽検断である稗貫時長自体、北奥の訴訟を担当する糠部奉行所の構成員だし
鹿角奉行の成田頼時も参加してたはず。
成田氏をはじめとした鹿角四氏は歴応四年には北朝に寝返り活動してる
浅利と南部に挟まれてじり貧を地で行くけど
官位と領地が同一じゃないといけないなんて官位乱発してる時点で破綻してますがな。
守護職や探題職ならわかるけど。
あのさ官位じゃないんだから、検断職や奉行職が領地と一致してないと意味ないでしょ
そんなことも分からないの?
多分
>>419には検断の意味が分かってないと思うからそこから説明しなきゃダメかな
検断職はその土地に於ける税収と軍の動員の権限を持つ役職(官位ではない)だから
○○守みたいな自身のステータスアップの為のものではなく、実際に無いと実行支配の名目が立たないという代物
(そもそも○○守みたいなのは権官が成立するから乱発しても、場所と官位が違っても別に構いやしない)
だからドコソコの検断職を呉れっていうのは、「そこは俺が支配してるから認めてくれ」か「俺が切り取るから認めてくれ」という意味
多田貞綱なんかは曽我氏討伐で軍忠状を何枚も貰う程活躍したから、褒美に津軽の土地を呉れって言ってるということ。認められなかったけど
この郡検断制を雛形に郡守護というシステムが確立されていく、それが奥州の中世
流れさえぎって申し訳ないのですが・・・
以前大高筑前について書き込んだ者ですが、
国立図書館のデータベースで南部史要を見つけたので読んだら、
永禄元年の和睦のとき、出てきたのは「大高近忠」
???
「大高光忠」では無かったのでしょうか。
「近」なら「秋田近季」からの偏諱なので理にかなっているのですが・・・
誤植でしょうか?お詳しい方ご教授を・・・
出羽戦国史の観点から言うと、安東・戸沢・小野寺はむしろ有名な方。
戸沢は何で忠正のようなみっともない最後を遂げた物の末裔名乗った
忠正孫婿の宇都宮氏と縁があった文書でも系図作成時に見つけたんなやい
体制?
豪族を従えるって事でしょ。
土豪はどっちにつくかどうするかの選択で滅さないようにしてるわけで。
随分マイナーな中世城郭(家臣の城)のジオラマだ。
沼地に突き出た台地の要害に築かれた土の城だ。
大きさも500o×330oで卓上サイズで手ごろな感じ。
博物館仕様で作らせただけあって見事なできばえだ。
http://saikatsutramway.sakura.ne.jp/saikatsu_tramway/furumaki.html 小山評定後にアッサリ帰った真田
万石も無ければ、将軍にも媚びない喜連川氏
1万500石でも苗木城持ち遠山氏(金さんの親類)
家光側室の町人だった増山氏 米が取れない松前氏など
【陪臣・喜連川ほか】 「小大名」スレ 2 建てました
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1329412330/l10 >>462 想像復元図ならなんとかならんのかと思うが。
>>464 一応最上家と争ったのだから、ある程度の経済力はあったと思われますね。
小野寺家
>>464 流動的な旗下を含めて、およそ10万石くらいでは?
そりゃそうだろw
小野寺の領地なんて大部分が山奥の小さな盆地。たかがしれてるわ
っていか10万石って江戸時代なら結構な大名だけどな
まあ、盟主としての10万石じゃ実際の石高はもっと低いが
オマンコ舐められクイーン、長野美郷
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小野寺と戸沢は直接対決して痛み分け。
小野寺の方が巨大だったのに、戸沢盛安大暴れで
その後、小豪族共は戸沢に付き始めると
まあその戸沢も安東の圧力に耐えきれなくなる訳だが
これまたギリギリの所で安東愛季が死んで助かると
取り敢えず戸沢は押しつぶされる。物流止められて追いつめられてたから
愛季の寿命がこなければ淀川の戦いで戸沢を押し切り、仙北方面に勢力を増す
比内の浅利氏の引き続き従属→解体の憂き目に遭う
小野寺は引き続き最上と挟み撃ちにして圧力かけていくだろう
中央とは織田時代から秀吉とツテはあるのでほぼ問題ない
湊騒動が無ければ惣無事例違反でいちゃもん付けられることもない
後の検地で最上や伊達のように独自に裁断できるか、中央からのテコ入れがあるかは分からん。個人的には入る気がする
仙北まで管理下に置いてた場合、史実でも起きた仙北一揆をどうするかという問題もある
戸沢が解体されてたら、裏で確実に糸を引くだろうし、史実より強力になる。
一揆起こるだけでもアレなのに、長引けば中央の印象は悪くなる。
あと史実では仙北一揆は羽後勢にとって、介入してきた豊臣奉行系と親密になる機会だった。
逆を言えば自力で何とかできるなら、関ヶ原の時に西軍との関わりが薄くなる
>>480 その場合、一時的には繁栄するだろうが、関ヶ原でどちらについたか?
そこがすべて。
出羽の大名について分かり易く書いた本があったら教えてください
>>481 津軽為信や南部信直にちょっかい出されながらだと
仙北地方の制圧は相当手こずりそうな気がするけどな。
戸沢頼盛
戸沢盛恒
戸沢朝盛
戸沢盛能
戸沢盛喬
戸沢盛倫
戸沢盛武
戸沢盛敏
戸沢盛精
戸沢盛右
戸沢盛次
戸沢盛由
戸沢盛静
戸沢政盛
戸沢右京亮政盛は義兄鳥居左京亮忠政の与力大名として山形の鳥居を輔翼する立場にあった
出羽の戦国大名で江戸期に佐竹家臣になった奴いるの?
>>493 ???
>>492 由利十二頭の中に居そう
500なら今年は出羽にスポットライトがあたりまくる年になる
羽州新荘の戸沢政盛は、鳥居元忠の女婿にして、代々、從五位下右京亮を名乗った。
秋田における知名度
佐竹>安東・戸沢・浅利・小野寺etc
茨城における知名度
水戸徳川>佐竹・結城・小田・多賀谷・大掾etc
やっぱり江戸期のが有名なんだな
来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/ >>506 秋田における知名度、これは版図の大きさもあるなあ
金森長近を調べてる者です。
もっと資料を教えていただけますか?
宜しくお願い致します。
>>510 金森氏はスレッド違いでしょう。
飛騨スレッドや織田家武将スレッドに行かれると良いのでは?
ありがとうございます。
金森長近が秋田家史料目録の中のどこに戸沢政盛が助けられたという文献が載っているのでしょうか?
探しております、
教えていただければありがたいです。
ありがとうございます。
金森長近が秋田家史料目録の中のどこに戸沢政盛が助けられたという文献が載っているのでしょうか?
探しております、
教えていただければありがたいです。
>>506 史料の数が違うからな。
江戸時代は武士が自家の歴史を後世に残すことが流行した
東京金行虎の門演説有番場茶丹治啓藻煮田亜エブリイなりたシーマヨマックさむらいあっぽーらく久美国会公明党内定調査ラーメン
東京金行虎の門演説有番場茶丹治啓藻煮田亜エブリイなりたシーマヨマックさむらいあっぽーらく久美国会公明党内定調査ラーメン
東京金行虎の門演説有番場茶丹治啓藻煮田亜エブリイなりたシーマヨマックさむらいあっぽーらく久美国会公明党内定調査ラーメン
40代50代自動車科学道牙税踏み倒しブッコフ対戦マナー
中国会対戦マナーコンパTPP経済EHK警察介護桜TV煽り営経媚リベンジバック温水水かけヤーフォー廃品宇宙商魂井尻井冥土加布江低原化飲料嗜好品リスク管理詐欺コンサルらーめん
yakusimafujiTPPneicher福岡名古屋私利亜兵庫航空駐車近代衛府獲濡慶(社長出自樽息子工場見学物色問題)安芸らーめん
戸沢の重臣楢岡氏に関する良い資料があったら誰かおせーて
安東氏(秋田) 安倍氏
戸沢氏 桓武平氏忠正流
小野寺氏 藤原氏秀郷流で山内首藤氏の庶流
大宝寺(武藤) 藤原北家秀郷流武藤氏流
浅利氏 清和源氏義光流
由利十二頭
矢島氏 大井田氏または大江氏
仁賀保氏 大井氏または大江氏
赤尾津氏 大井氏
潟保氏 藤原氏または海野氏
打越氏 大井氏
子吉氏 大井氏
下村氏 大井氏
玉米氏 大井氏
鮎川氏 大井氏
石沢氏 大井氏
滝沢氏 由利氏
岩屋氏 大井氏
羽川氏 源氏新田氏
芹田氏 大江氏
沓沢氏 滋野氏
寒河江氏 大江氏親広流
白岩氏 寒河江大江氏
左沢氏 寒河江大江氏
本堂氏 清和源氏為義流
八柳氏 賀茂氏
六郷氏 藤原氏
天童氏 清和源氏最上氏流
白鳥氏 安倍氏または小野氏中条氏
大宝寺氏と縁のある
越後国人大川氏が川中島で戦死してるけど
大宝寺勢も謙信の援軍として
川中島に行ってたと最近知って驚いた
>>522 > 大宝寺勢も謙信の援軍として
> 川中島に行ってたと最近知って驚いた
それは知らなかった。
ぐぐった。
謙信は会津の蘆名盛氏、出羽の大宝寺義増らに応援を求めたそうだ。
>>519 楢岡氏の系図か、増田の寺に文書が残ってたはず
それしかないっしょ
北青森の小泊村付近は関ヶ原以後の転封まで秋田領だったらしいけど、細かい文書とか逸話とか無いの?
>>515 嘘だとしても
何故に平忠正というショッパイ人物を先祖にしたんだろうな
出ない杭は打たれない・・・。
戸沢氏の出自は説(自作)が多すぎて事実は不明らしい。
奥州攻めの際に藤原方から寝返った(郷士・鉱山士)と言う説を挙げると、その後の二重スパイ的行動や小野寺氏からの離反も筋が通る気がする。
南部氏に隠れて秋田氏から県北の金山を手中にし、転封の際も買収工作で秋田に領地を残した手腕は悶絶もの。
佐竹家を100年以上も苦しめ、600年以上も権勢を誇った智略は真田親子や黒田親子の比ではない。
俺の実家は湊安東家の居城近く。
今はそれなりの神社が建って、城跡の形跡はほぼ無い。
戦後しばらくは堀跡もあって、二の堀町内会っていう地名ぐらいしか無い。
一騎当千って言われる家臣が住んでた地域は壹騎町と言われてるぞ。
湯沢市に菅姓の人が多いみたいだけど、角館城主菅利邦や小野寺配下菅氏の末裔(親戚)なんですかね?
出自は神奈川の菅地区なんですかね?
>>532 湯沢の菅姓は小野寺配下の菅氏の末裔の可能性が高いと思う
「秋田人名大辞典」に菅氏について記述あるけど、出自については言及してません
>>530
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、最上氏と共に上杉氏と戦う。
しかし上杉討伐で秋田氏の勢力が増大することを恐れ、消極策に終始する。
戦後、この行動が咎められて、常陸国松岡へ減転封される。
(ウィキペディア)
↑
これはまずかった >>528 保元の乱のあと、清盛が処刑した忠正から没収した荘園を調べてみたら、
ろくな荘園を持ってなかったんだよな>荒地不毛で
正盛忠盛がいたのに、よほど才幹or仁徳がなかった人なんだろう。
家計詐称で平忠正というショッパイ人物を先祖にするってのは考えにくいから、
本当に平忠正の子孫だったのではないかと思う。
平忠正は処刑で族滅させられたから子孫を自称しやすい
戸沢は本当なんだろうな
平忠正の直系をあの時代に名乗るのは
イメージダウンどころじゃない、仮に本当でも嘘を言うところ
☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪
戸沢藩家老片岡理兵衛一門粛清問題に興味があり、色々調べたが、鳥居忠定改め、戸沢定盛を、戸沢政盛への面会を片岡木歪は
小野寺も陸中の和賀や葛西と協力して南部と戦っていたようだけどその辺の
小野寺の動きについて詳細はないのかな
今の岩手県西和賀町と北上市の一部も押さえていたし小野寺は
出羽の中でもかなりの有力者だったのにマイナー扱いなのが切ない
戦前の寺内正毅首相って戸沢氏の庶流だったのか
宇多田ヒカルが正毅の曾姪孫(兄のひ孫)なのは知っていたが・・・・
あの辺りは小野寺と和賀の境目だからなあ。気候的には出羽だけど、和賀と小野寺の改易のドサクサに紛れて南部が領有下してしまった
東北は戦国末期まで小豪族が乱立していて面白いですね
東北は公家からの輿入れがないから近隣勢力は否応無しに親戚になるからなあ
親戚だとなかなか滅亡させるまでは難しいんじゃないの
角館の戸沢藩は隣国の酒井藩に大敗、城を焼き討ちにされ、藩知を放棄して退却しました
秀吉在命中に
浅利頼平✕秋田実季
小野寺義道✕最上義光が文禄年間でも私闘してるみたいだけど
なんで処罰受けなかったんだろう?
豊臣政権的には田舎の小競り合いくらいなら見過ごしたのかな
太閤検地、刀狩、破城令の施行、大名の国替など進行中の
施策が全国で行われていたし出羽の争いの優先度は低かったんだろう
浅利なんて一万石にも満たない弱小なのによく安東に立ち向かえたな
津軽為信がバックに付いていたから。
塩止めや港湾を使わせない経済制裁も背後に津軽が控えていたら意味を為さないし、
大軍で一気に片付けたいけど大規模な軍事行動はしたくないという
ジレンマに安東実季は悩まされただろう
浅利騒動は美林を巡る中央の思惑も渦巻いていた根深い騒動
杉なんて日本中に植えられてるのに中央政権の思惑なんてないんじゃ無い?
> なんで処罰受けなかったんだろう?
領地2万5,000石が没収されて秀吉の直轄地に編入されたみたいだから処罰はされたのでは?
マイナー勢力の雄である由利十二頭もちょこっと参戦していたらしいな
安東愛季の北天の斗星って褒め言葉なのはわかるけど
具体的にどう称えてるんでしょう?
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