「夢どの与一郎」は面白かったな。
忠興を主人公にした物語としては傑作。
前スレ落ちてたのに気づかず、この新スレを今見つけたわ。
京都でやってる細川家の至宝、見に行った人いる?
俺はこないだの日曜行ったんだけど、去年、東京でやったそれの展示品とは違う気が。おんなじ品出して欲しかったな。
>>6
細川となったのは大坂の陣の後だから、戦国期はずっと長岡だし、
足利、織田、羽柴、豊臣と臣下に徹するために長岡を名乗り通した。
忠興の婚礼の時、忠興が細川の家紋を使おうとしたことを藤孝が厳しく咎めて、
長岡紋を使ったということも。 藤孝が圧倒的に上
落胤設信憑性どんくらいなの?存命時からの噂だったの?
コミック版「細川ガラシャ」発売されてたが
「わしの妻に何を!!」と叫びながら庭師を切り捨てる
鬼蛇エピソードを載せてたのには驚いた。
子ども向けなのに…
子ども向けなのに…いいのか?
大昔の舞台「どんな・がらしゃ 細川忠興の妻」では
女房衆から削いだ鼻や耳を珠子につきつけてるシーンがある。
(かなりの残酷描写ですな)
ちなみにそん時の忠興役は横内正。
>>8
だったら長岡ガラシャじゃん。
夫婦別姓なら明智ガラシャ。
女性の名前が滅茶苦茶だ。 >>16
キリシタン名だと、女性は夫の姓で書かれること多いよ
幽斎の妻の麝香さんなら、細川マリア
京極マリアだって、旦那の姓名乗ってるし つーかこの時代は夫婦別姓、夫婦同苗字だ。源平藤橘などの姓はそのまま、苗字は旦那の家のものに成る。
親父はゆーさいくん、嫁はお玉ちゃんでご当地キャラになっとるが
忠興はムリか(宮津・小倉・八代が縁の地だけど)
>>11
落胤説は自分で流布してたんじゃないか?w 肥後の加藤忠広除封後、豊前小倉の細川家に国替えの話が持ち上がり、忠興は、国がえ先が、長門・周防なら大吉、筑前なら中吉、肥後なら小吉と、子の忠利(越中守)に書き送っていたとか?
>>21
そりゃ、その三択ならまさにそうだろ。
加増込みの話だし、肥後でも凶とは言わん。 長門・周防転封、筑前転封、今のまま豊前で加増、なら大吉
肥後転封なら中吉、だな
理由は肥後は実高が2倍と言われていたがそこまでではなかった
瀬戸内海航路から離れるから上方に米を送るのに費用が掛かるから、と書いてあった
父祖の地 和泉 や一族の本拠 阿波 は大阪に近すぎて危険か
>>24
阿波は阿波細川氏の拠点にすぎんぞ。細川宗家である京兆家の本拠は、讃岐と摂津と丹波だな >>22
周防・長門には毛利、筑前には黒田。
両方とも結構な大藩だし、動かしにくいんじゃね?
この頃の細川家はまだそれ程大きくはなかっただろうから転封しやすかったとか?
間違ってたら、ごめん。 細川家転封は九州の入口にあたる豊前に譜代を入れたかったからですか?
>>26
逸話の一種だろうが、加藤家(セイショコさん家)改易の頃はまだ、毛利改易を幕府が狙ってたって噂があったらしい。
>>21の話の出所が不明だが、江戸時代全般に渡っての天草の面倒くささからすれば、
忠興発言は正解だろ 出典は忠利宛て忠興書状、山本博文の著書からの引用なら正確には>>23 大国肥後を得ることで、細川は最大のライバル黒田とほぼ同格になった。
>>30
火薬庫肥後を手に入れたことによって
島津の侵攻による消滅(年を重ねて後、西郷南州が実現)と、内乱による改易の、二つの心労が重なって
忠興公に取って最後の生き甲斐だった息子が早死にしたのだったとしたら
小吉どころか凶だったのかもよ >>31
それだけの能力を認めた上での転封だろう。
と言うか、この手の意見見るたびに思うけど、そんなに仕事するのは嫌か?w >>33
最小の努力で最大の結果を目指すのが普通人。
まあ、現在の軽いノリからしたら、業績普通の支店社の支店長から業績最悪で前任の支社長は解任、前々任の支社長は解雇された支社に飛ばされるくらいの話だろ。
やり手と云われる奴や上から気に入られてる奴はそんなとこに飛ばされない。
姫路移封の話も有ったとされる細川からしたら、
断れない話でなければ断りたかっただろ。 何で根拠も無く言い切れるかなww
内々の書状では普通に喜んでますがな
秀吉の時には12万石だったんだから、それを考えたら夢のような話でしょ。
当初の予定では安藝広島の浅野安藝守を肥後熊本に、長門・周防の毛利大膳大夫を安藝に、豊前小倉の細川越中守を長門・周防に転封させる三方領地替えの予定であった。しかし、
しかし、浅野長晟、細川忠利、毛利秀就の転封に横槍を入れたのが、和歌山藩主紀州頼宣であった。
英邁の誉れ高きこの南海の太守は、薩摩の島津家久への抑えと、南海交易進出を考えて、自ら空白地の肥後熊本への転封を、内々に願い出た。
閣老土井利勝は驚愕し、毛利と浅野に手をつけるのを、中止し、細川を肥後に転封させる小幅異動で早期決着をみた。
なんとなれば土井侯からすれば、島津を抑えると言いつつ、密かに島津、鍋島、黒田など九州の外様大藩を糾合して倒幕の挙兵をしかねない紀州頼宣の豪邁さを恐れていたので有った。
まじめな話、「長門・周防なら大吉、筑前なら大吉」といった以上、毛利や黒田などを巻き込んだ転封の計画があったのだろうか?
筑前黒田は当時、黒田騒動で改易の可能性もあったので
その後に細川を転封させる計画があっても不思議ではない
>>43
最後まで武将としての心を忘れていなかったとされる忠興公のことだから、
自分から画策してたりしてね。
黒田長政も毛利輝元も死んでるから、減封・改易の可能性はなくもないし。
大国肥後転封が決定的になって緊張と大喜びが一段落した後に
さらに欲が出たでたから愚痴ってみた程度じゃね
現松井家・当主松井葵之さんは「松井あっての細川」って豪語してるらしい。
(寄之は忠興の六男だから結局忠興の子孫だけど)
忠興って大阪の陣で豊臣家が滅びるまで羽柴の姓を名乗ってたんだな。
薄情なイメージがあったから意外。
>>52
羽柴姓のことくらいで秀忠風情が、この俺様を潰せるわけないって自信過剰じゃね?
それも加味して
事実、今の時代にそのことで人情味があると>>52だって思ったわけだから
当時なら義の人忠興公って評判狙いもあったんだろ そもそも松平の名前とか貰わない限り
羽柴を廃止する理由もないだろ。
とくに豊臣は朝廷の支持を受けてたし
風流人なら羽柴だろ
細川は松平姓は辞退したんじゃなかった?
うちは昔からの細川で良いですって。
途中「長岡」だったり「羽柴」だったのは置いといて(w
徳川家もまあ出自のはっきりした細川に無理強いはしなかったみたいだが。
細川姓を名乗り始めたのは忠興ではなく息子の忠利から。
秀忠の許可をもらった。
忠興が細川姓になったのはその後
名門とはいえ、傍流だったからね。
京兆家や阿波守護家みたいな主流が衰退したからこそ、
脚光を浴びた面も否定できない。
戦国期をしぶとく生き残った強かさもすごいが、
傍流でアレだけのお宝を残したんだから、もし京兆家あたりがもっと大きな家で残っていたら、
とんでもないお宝を所持してたんだろうな〜。
義昭擁立時には京兆家伝統の細川千句やったりして管領職への欲だしてた。
信長義昭の関係がそのまま平穏だったら滅んだ阿波家の代わりのポジションに付けた可能性大
また安土桃山時代以降幽斎は自家和泉細川だけではなく京兆伝来の宝物買いまくった。そして当然のことながら貧乏になった。
忠興が長岡ずっと名乗ってるのは室町幕府との決別の他に親父への反抗もあると思う。
自分以前の和泉家のことは知らないとか言って子孫の系図無視してwikiなどでは奥州家末裔になってるし
三淵晴員
和泉上守護細川元常の弟にあたる人物
三淵氏自体の系図は不詳
和泉細川って家格的にはどうなん?
有馬あたりと同格?
道も柔道もサムライも文化財も韓国の文化になってしまっている。
泥棒だな。でもマスコミも民主も韓国人だから抗議しない。
くそ韓国め
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忠興が小さな頃に使っていた宗八って偽名、読み方はどうなるんだろうね。むねはちなのか、そうはちなのかな
細川忠興が奥州家の養子になっているのは、藤孝が佐々木系細川氏の用紙になっているからだろうか。
>>69
実家の和泉細川でなく大原系細川家継承したのは確定なん? なんかおいらのアタマの中で黒田官兵衛とごっちゃになったのか、細川藤孝は
かなりの策謀家、智将、といったイメージがあったんだけど実際は
ぜんぜん知略とか使う人じゃなかったかなあ
忠興の妹が嫁いでいた一色家を攻め滅ぼしたのは、信長の命令によるものでっか?
東は堀尾山城守除封後の出雲国松江に京極若狭守が入り、西は細川跡地の豊前国小倉に小笠原大膳大夫が入った。
名門守護大名の末裔から挟まれ、いかに大江広元の流れをくむ毛利さんも、見劣りがするという指摘がなされていた。
となると、対毛利の西の窓口は、小笠原に任せ、今後は島津対策を期待されて熊本に移封したのが真相であろうか?
>>67
そういや与一郎と千代の関ヶ原の文庫版って、今月発売だっけ? >>74
黒田官兵衛は策謀と知略で
細川藤孝は外交と政治ってかんじかな?
なんか真逆なようで同じベクトルというきがしなくもない 藤孝って聞くとなぜかポニョとCCさくらが思い浮かんだ
(藤孝)っていうのは若い頃の名前ですか?
萬吉(天文三年)→細川藤孝(天文十五年)→長岡藤孝(天正元年)→長岡幽斎(天正十年)→細川幽斎(慶長五年以降)
通称 与一郎
だから若い頃は「藤孝」とか「与一郎」とかじゃない?
>>80
幽斎玄旨は法名、藤孝は諱(いみな)。
改名もしてないので若い時だけじゃなくて死ぬまで藤孝でしたよ。 はぁぁぁしまった!
せっかくはるばる福岡までいったのに!
展示替えで三斎さんの鎧が見れねぇ!
某ブログに書いていたけど確か細川家で先祖を代々奉っている所が
台風で傷んだので開かずの扉を開けてみると、先祖代々の位牌の真ん中に
信長の木像が置かれていたらしい。
多分大元は忠興じゃないだろうか。。。。
藤孝じゃなくて忠興だったとしたら、信長うんぬんではなく
忠興の秀吉に対する本心が見て取れて歴史的価値が高いように思う。
豊臣の無能なる者どもに思い知らせてやらねばならんからなぁ
>>92
秀吉に対する本心というのは関係ないんじゃないかな。
彼は豊臣家滅亡まで豊臣姓を名乗っているし。 第17代当主(故)細川護貞さん「細川家には、昔はもっと良い宝物があったんですが、戦争でかなり焼けてしまったんですよ。いやいや太平洋戦争の時ではなく、応仁の乱の時ですがね」
細川ガラシャの血筋のほうが本家になれなかったとは。
細川幽斎「玉(ガラシャ)の死を無駄にするな。直ちに籠城の準備を整えよ」
↓
攻囲軍の中には幽斎の歌道の弟子も多く戦闘意欲に乏しかった
↓
学は身をたすく
戯曲「気丈な貴婦人」
1698年7月31日 神聖ローマ帝国のイエズス会の劇場において、皇后マグダレーネの
祝日にあわせ、新しく作られた戯曲「気丈な貴婦人」が披露されました。
戯曲の舞台となるのは、遠い東洋の国。
美しく聡明な女性グラーシャが、野蛮な権力者に嫁がされ、その横暴に傷つけられ
ながらも、信仰を貫き、最後は自らの死をもって夫を改心させるという物語。
このグラーシャのモデルとなったのが戦国時代の日本人女性。明智玉子(あけちたまこ)。
しかし、本名よりも夫の姓と宣教師からの洗礼名を組み合わせた通り名のほうが
はるかに有名。そう、彼女は「細川ガラシャ」です。
多くの方が既に知っているとは思いますが、彼女の生涯を紹介します。
玉子は、明智光秀の三女として生まれ、信長のすすめで、名門細川氏に輿入れ。
夫である忠興は武将・政治家、さらには文化人としても一流。
今で言えば、学業優秀、スポーツ万能、芸術方面にも造詣の深いイケメン。
家柄もよく、文句なしの御曹司です。しかも忠興は玉子にベタ惚れ。
夫婦仲は良好で、二人は当代一の美男美女夫婦とされていたそうです。
しかし、本能寺の変で玉子の人生が一変します。
信長を殺害した彼女の父・光秀は忠興に協力を呼びかけますが、忠興はこれを拒否。
光秀は天王山の戦いで秀吉に破れ、逃亡の末、殺害されます。
忠興は玉子を幽閉。彼女がキリスト教に惹かれたのはこの時期のようです。
その後、玉子は忠興のもとに戻されるのですが、今度は忠興が九州へ出陣。
この機会に、彼女は覚悟をきめて侍女らとともに洗礼を受けるのです。
折り悪く、その年の五月に秀吉によるバテレン追放令が出されていました。
帰還した忠興は侍女らが改宗したことに激怒し、鼻を削ぎ屋敷を追い出します。
玉子自身は改宗したことが発覚しなかったのですが、夫の行為に絶望した彼女は、
宣教師のもとを訪れ、「離縁したい」と申し出ます。
ところが、宣教師の言葉は意外なものでした。
「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」
つまりは、離縁せずに夫のために尽くせということでした。
驚いた玉子でしたが、宣教師の言葉に従い、献身的に夫に仕え、忍耐強い人柄を
養っていくのです。時がたつにつれ、忠興も心を開き、彼女の信仰に理解を
示すようになったようです。
1600年、徳川家康は上杉景勝討伐のため、豊臣傘下の武断派の諸大名を引きつれ
会津に向け出陣。一方、この間に、石田三成は西国の有力大名をまとめあげ、
打倒家康の兵を挙げます。関ヶ原の戦いです。
三成は、家康の陣に加わっている大名の妻子を、人質とするべく各地に兵を送ります。
大阪にいた玉子にも兵が差し向けられますが、玉子は人質となることを拒絶。
実力行使に出た三成が、兵に屋敷を囲ませる中、玉子は家老に槍で自らを貫かせた上、
屋敷を火薬で爆破したのです。
玉子の壮絶な最後により、三成は他の大名の妻子に対しての強硬策が取れなくなり、
それが、関ヶ原の戦いの西軍敗北の一因となったとされています。
忠興は、宣教師に玉子の葬儀を依頼。自らも参列して彼女の死を悼みました。
九州征伐、小田原の陣、朝鮮の役での忠興の活躍って、
具体的にはどんなのがあったんだっけ?
朝鮮出兵エピソードだと政宗との王羲之真っ二つのが印象強いし、
武断派といわれる割には戦場ではイマイチ目立ってないよな、人物として面白くはあるんだがw
九州征伐で新納忠元の守る大口城を攻めてた忠興の軍が極端な兵糧不足になって、
敵である新納から「兵糧無いのなら分けてやろうか?(・∀・)ニヤニヤ」と行ってきたが
「そんなものいらねえ!」と突っぱねた。ってのは結構有名な話ではある。
タモリ倶楽部武家屋敷ぶらつき企画で細川→黒田の順に巡っててわらった
あ、ちなみに細川忠興、黒田長政両名の名前が読まれる事はありませんでした
ブラタモリとは違ってこの辺は民放っぽいな
>>111
そうか?所謂武断派と言われる武将の中では
一番戦場で活躍した方だと思うが。個人的な武勇にも優れてたし。
つーか武断派自体、初陣が唐入りの追撃戦だったり
どっちかと言うと三成達みたく後方支援がメインの奴もいるし
武断派文治派という区分け自体、割と微妙な気もする。 幽斎のどの部分が忠興に受け継がれたんだろう。正確真反対な感じなのに。
かあちゃん似だったのか。
>>118
穏やかな部分は息子をスルーして忠利や重賢にいってるな 忠利はできすぎ君だから父・祖父ともまた違う人物やねぇ
奥州仕置の後、会津92万石は当初蒲生さんじゃなくて
忠興に任せるつもりだったみたいね秀吉は。
そこから考えると当時の忠興の武功って相当評価されてたんじゃない?
ありがとう、見てみる。
蒲生、上杉、鳥居、保科松平並の信頼があったと考えるとすごいことだな
細川忠興って加藤清正とは結構仲良いよね?
けど、黒田長政とは凄く仲が悪い。黒田長政
は清正とも仲が悪い。親父の如水と清正は
懇意なのにね。
>>127
黒田長政と仲が悪くなったのは関が原後の移封ごだっつーに それまでは7本槍とは良い顔なじみって感じなんだよね
そもそも清正と黒田の息子って、仲悪いか??
むしろ黒田のとこは、親父も息子も清正とは良好だろ
忠興と清正は「キリシタンでもないくせに、半端なやつ」発言で
大喧嘩してるけど
興秋の子孫が天草の大庄屋になったって説、どう思う?
俺、細川って言うんだけど幕末の先祖が天草の出でらしいんだわ。
近畿圏に住んでるから実感わかないんだけど、もしかするとご先祖は三斎様
かと思うと胸が熱くなるよ。
江戸城の宮廷政治が絶版になってた
最新版でも十年以上前のだったんだな
あの本の最後らへんの忠利病状悪化の報で取り乱す三斎様のくだりが泣けて仕方ない
「細川三斎 茶湯の世界」矢部誠一郎著
手紙や各論文等の紹介止まりでツッコミの足りなさを感じる
読み下し文を最後にまとめて載せてたり松井康之について深く触れてるのは貴重だが、
これで3000円強はちょっと高いが、あまり数を出せない本だし仕方ないかな
サルではない。
サルはてめぇら池沼バカアカバカサヨ糞バカチョンシナ畜猿。
刀に手を伸ばして集めて何が悪い。
嫉妬するんじゃねぇよ死ねカス。
てめぇらこそ頭を熱くさせて嫉妬に手を出すんじゃねぇよ。
秀吉様最強。
力の差は見せつけられないだろ。池沼バカアカバカサヨ糞バカチョンシナ畜猿は雑魚(大爆笑
)
てめぇら図に乗るんじゃねぇよ。捏造偏向歪曲するんじゃねぇよ。生きてる価値ねぇからさっさと死ねカス。
サルではない。
サルはてめぇら池沼バカアカバカサヨ糞バカチョンシナ畜猿。
刀に手を伸ばして集めて何が悪い。
嫉妬するんじゃねぇよ死ねカス。
てめぇらこそ頭を熱くさせて嫉妬に手を出すんじゃねぇよ。
秀吉様最強。秀吉様は尊敬されてた。
誰からも尊敬されず嫌われてるてめぇら池沼バカアカバカサヨ糞バカチョンシナ畜猿どかどか違ってな(大爆笑)力の差は見せつけられないだろ。池沼バカアカバカサヨ糞バカチョンシナ畜猿は雑魚(大爆笑
)
てめぇら図に乗るんじゃねぇよ。捏造偏向歪曲するんじゃねぇよ。生きてる価値ねぇからさっさと死ねカス。
忠興の責任ではない。
最後はガラシャの判断だろ。自害は妥当。
バカフェミナチうぜぇよ。ヨーロッパカスの戯曲は糞。
ヨーロッパカスのが女悪く扱ってるだろ。
強姦率、DV率も上。
ブーメランするバカ白土人ワロステラワロリンヌ。
忠興は名君。
暴君はバカ白土人とバカフェミナチのスカし五流音楽屋のオカマ野郎とマリーアンクソネットとか
興元の家の史料が欲しいけどネット上だとまともに落ちてないな
地元に行くしかないのか
神戸市の東、芦屋西宮の知的障害者施設で未成年利用者に性的な行為をして淫行条例で逮捕された三田谷学園元職員の堂垣直人(西宮市老松町)は、結局どういう罪になったの?
被害者家族のケアを芦屋市役所と兵庫県警はちゃんとやったのか?
差別や虐待は環境を選べない子供には関係ない。
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;sns=em >101
偉そうに言うけど応仁の乱の頃の細川本家と、細川幽斉からの大名家は直接の
血縁も子孫でもないだろう。
そのころは、室町管領の本家様と単なる一族の下級貴族みたいなもんじゃん。
自分の家の財産が燃えたなんて見たような嘘は恥ずかしいな
立別れ松に名残ハおしけれと思ひ切れとの天の橋立
松=まつ=つまなんですね!
忠興さんさすがー
なんだかんだ言ってもガラシャを見殺しにしたよね
自害を踏み台にして出世した
息子の嫁がガラシャの変わりに人質になりに行ったとかいうのはやっぱりガセかね
村重秀次妻子の死にざまが忠興サンのトラウマになってるんじゃね
捕まって無残に殺される危険があるならお玉は自害しろってことで
忠興サンが死ねって言って唯一後悔してそうな件だけどね。
にすぎ 「54万石の大名である一方、千利休の教えを忠実に継承し、
古田織部亡き後武家茶の湯を継承した細川忠興。
その茶人としての側面を解き明かす。」
利休随一の弟子 三斎忠興 著矢部誠一郎
タイトルと帯は出版社側が主導して決める事が多いらしいが酷い
忠興が真田のお兄ちゃんからたけのこ貰ったエピソードもあったな
>>148
寧ろ、姑が死んだのに何でお前は生き残ったんだ嫁のくせに!と
ぶちぎれて離縁させようとしたわけだが・・・ 忠興モンペ爺のせいで忠興がキモがられてるっていい加減気付きな?
ブラタモリで熊本を二週やるけど忠利の治世にどの程度触れるのか
浮気するしガラシャ見殺すし光秀は裏切るし最低のクズ
忠興狂信者といえば官兵衛狂アンチのマジキチ自称物書き(笑)tnkwだなぁ
あれの痛さは専用ヲチスレ建ってもおかしくないレベルw
あのクソワナビ自分を作家だと本気で思い込んでるから真性のキチだわ
あんな奴に細川語ってほしくないし刀ゲー叩きながら媚びるって意味わからないことしてるあたり
糖質かなんかなんじゃないの
興孝が三斎にただ嫌われていたのではなく
他兄弟からも冷めた目で見られていて自業自得な所はあるけど泣ける
ぶっちゃけ三成やもしかして家康からも死んでほしいって思われても仕方ない戦歴
細川政誠ー細川高久ー細川晴広ー細川藤孝説もあるのかあ
三淵藤英とその息子の三淵秋豪って信長から自害を命じられたけど
理由はなんだ?
細川藤孝は和泉上守護家だから
肥後藩主の細川忠興もそうだとおもっていたら
和泉上守護家は弟の細川幸隆が相続していて
忠興は家督上は奥州家の当主なんだな
和泉上守護家だなんていつまでそんな旧説を…
藤孝の細川は淡路守護家から派生した家で、しかも細川氏の一族でもない近江大原氏が細川名乗ってただけの家だぞ
国産最古の細川家ワイン 国替え機に製造終了 永青文庫研究センターが忠利の新史料
熊本大永青文庫研究センターによると、細川家では、忠利が南蛮技術を身に付けた家臣の上田太郎右衛門に
命じ、中津郡大村でヤマブドウの一種の「ガラミ」と黒大豆を使って葡萄酒を製造。文献で確認できる
日本最古のワインで、忠利が薬効を高く評価していたため薬酒として飲まれていたという。これまで
27年から4年間の記録が確認されていたが、忠利の命令を書き留めた32年8月の「奉書」に「葡萄酒を
造らせるので、ガラミを採らせて太郎右衛門のところへ持って行かせるようにとの殿様の命令を、
太郎右衛門自身が奉行所に伝えてきた」との記述が見つかった。
https://news.yahoo.co.jp/articles/76a6f56e014fcb9fa49b7c6c74d68221b57276bd 藤孝は細川刑部家じゃない以上
一度元常の死を持って刑部家は滅びた
その子元春は地下人細川家を興した
忠興5男興孝で長岡刑部家を興したと
伊達一族の瀬上氏がいたり広く人材集めてるな細川家って
ずっと細川とおもっていたけど当時は長岡だったというから驚きだわ
>>173
和泉上家でもなかったのか
さらに驚きだわ
少し詳しくなった頃に京兆家とは別の家と知り
さらに三淵家から細川家を継いだ養子と知り
本当は長岡と名乗っていたことを知ったのでやってきたのだけど
たまげたなあ 上の方に細川忠興を姫路に転封する計画があったとあるが…真実か?