本願寺との戦い
織田家→重臣幹部一族に裏切り皆無
三河一向一揆
松平家→利権宗教上の理由で幹部クラスまで本願寺について戦う始末
>>3
おっ、キーワードだけ見て状況とか環境をまるっきり無視するタイプのバカ登場 >>3
重臣に謀反されてぶっ殺されてるんだからさあw 552 人間七七四年 2019/09/03(火) 12:21:16.81 ID:gGsVwFfi
池上裕子とかが織田信長は大したことない、ってよく言ってるよ。謀反起こされまくり、農民とは向き合わない、尾張美濃武将超贔屓体制に、信長は天下統一なんか考えてなかった(以上、池上裕子の織田信長より)。
556 人間七七四年 sage 2019/09/03(火) 12:55:39.77 ID:DeX/+gZN
謀反起こされまくり→領土拡大率に比して平均的な大名より多いのか、そもそも家臣と呼んでいいのか微妙な奴も多いが
農民とは向き合わない→平均的な大名はどんな風に向き合ってたの?好きなだけ略奪していいぞとかそんな感じ?
尾張美濃武将超贔屓体制に→普通じゃね、上杉みたいに言うこと聞かない地元民ばっかりならともかく。徳川も譜代重用して長期政権
信長は天下統一なんか考えてなかった→平均的な大名はどんなビジョン持ってたんですか
まあ一言でいうと「好き嫌いの問題」だな
567 人間七七四年 2019/09/03(火) 13:50:14.11 ID:9QUKJ2Eg
池上裕子氏は
信長は農民と見向きもせず、農政に関する文書もほとんどなく、検地もほとんどしていない後進的。
織田家には軍役制度がなく、武田や上杉、北条より後進的。
信長の天下はあくまで五畿内にすぎず、統一など考えていなかった。
信長は譜代や地元武士を重用しすぎたから、謀反を何度も起こされた。
日本に革新をもたらしたのは秀吉、家康であり、信長はそこらにいる中世の武将と変わらない。
信長は敵を常に滅ぼすから時間がかかる。だが秀吉は敵を受け入れる寛容さがあったので、わずか8年で統一できた。
など、色々言われています。
仮に信忠が生き延びても、信忠に新体制を築けるとは思えず、やはり秀吉か家康に飲み込まれるものかと思います。
575 人間七七四年 sage 2019/09/03(火) 14:16:22.08 ID:DeX/+gZN
>>567
要約すると池上女史は秀吉が好きで信長が嫌いってことね 572 人間七七四年 2019/09/03(火) 14:02:40.43 ID:9QUKJ2Eg
池上裕子は、信長公記及び信長発給文書並びに先行研究を元に、信長は「英雄」や「革新者」などではなく、自らの「分国」拡大のため状況に応じた実利的な政策を行っていただけであると言っています。
検地・軍役制度の整備ではむしろ時代遅れな面もあったという。そして、信長への頑強な抵抗と外様家臣の度重なる謀反は一門・譜代重用、信長への絶対服従という信長の戦争、分国支配のあり方が生み出したもの、つまり信長自身が招いたものだと池上裕子は指摘しています。
そんな信長を継ぐ信忠が生き延びようと、やはり秀吉、家康にやられる運命でしょう。
576 人間七七四年 sage 2019/09/03(火) 14:17:06.68 ID:DeX/+gZN
実利を目的としない政策とは
クソみたいなアンチ池上裕子がまた来たよ。よっぽどボロっクソにされたのが悔しかったんだなあ
池上裕子さんが論破されてそんな悔しいのですか。オタサーの姫的な存在なのですか
ビジョン無しに拡大していったことなんて複数の研究者が指摘してるだろうに、なんで池上氏だけ攻撃するのかな
そらまあ、論理破綻が明らかで一番論破しやすいからでしょうね。
井沢氏と池上氏を同列で扱ってる時点で語る資格無しw
井沢が有名になりすぎたのと池上の吉川弘文館の著書がもう古い
池上は最新の説が聞きたいところ
>>10
俺がその「クソみたいなアンチ」だが、結局ここには俺が示した疑問に筋道立てて答えられる奴いるの?
それともただ自分に都合のいい主張をありがたがる盲目的な信者なの? >>17
著書が古いというより、局所的に切り取った印象論に終始しており、
具体的な比較論として成り立ってないのが問題なのだと思うのですが。 古いのかね?
信長が境目地域の動向への対処の果ての拡大でしかないのは今も指摘されてるでしょ
その指摘の根拠となる史料と調査結果を具体的に提示せよ
誰誰の本を読めと言うのはナシな
引用は可
それこそ前スレで書いてあった信長の最新の論集でも指摘されてるよ
鉄砲も経済政策もすべて今川のパクリだったのは事実
いや、いいものをこだわりなく受け入れられるのも凡人にはできないことか
今川は知らんが信長はパクりの天才だよ
ただパクるだけじゃなく政策戦術のメリットデメリットを検証し
極めて効率よく運用した手腕は賞賛するしかない
民衆の声にも積極的に耳を傾け領内の状況を正確に把握していたのも
制作戦術の検証を信長がやったなんて事は指摘されてないが
まあ信長が模倣したとしたら今川より六角のほうだろうな。楽市楽座もアレだが、石垣積みの城郭なんてのも六角のやりかた
真似たんだろう。
今川仮名目録は武田も参考にしてたり、模倣は他の大名もやってるから別に信長が特別という事は全くないけどね
鉄砲だってあっという間に全国に広まったわけで
誰でも良いものは取り入れるってことだよね
他の大名と変わりなくて近畿制圧できるのはすごいのでは
実際、上洛したら利権争いに巻き込まれて志賀の陣で苦労してるからな
あれを切り抜けられただけでも凄いやろ
尾張統一戦で生き残れただけでも凄いが
ならば過小評価と考える事例を上げていき検証すればいい
信長が特別だという結論から逆行して証拠集めをするから、素人のする検証なんて役に立たない
信長が特別どうか専門家が実証的に調べたら他と特に違いがなかったって話だからね
だから専門家出すならその専門家の調査結果の根拠となる
史料なり学術調査の報告書なりを提示するなり引用するなりしろよ
ちゃんと目を通してるならそれくらい造作もない筈
誰それの本読めはダメな証拠の提示は言い出した側はするものだから
疑惑を持たれたら持たれた側が潔白を証明しなきゃいけないんだぞ
ソースは政治家
そんな個人的独自ルールなんぞどうでもいいわな
自分の不勉強を悔い改めてどうぞ
自分で調査できないやつのほうが遥かに無能じゃねーかなあw
そもそも学術的に信長が「英雄」や「革新者」とか言われてたことあったの?
池上女史は小説やドラマのイメージと戦ってるのだろうか
>>32
能力が劣っているとは言ってないからな
過大評価を取り払ってもトップクラスの武将であることには変わりがないよ 当時の中央であり、現在でいうところの国家である「天下」 にコミットメントし続けたことが、普通の戦国大名と違うとこなんだろうな
三好長慶は中央権力を担える実力を有していたのに それを責任もって請け負おうとしなかった。
信長は義昭を奉じて室町幕府を建て直すことで「天下」にコミットメントしようとしたけど、義昭離反で、室町幕府自体が「天下」に責任を負えないことがわかると、
自分で名実ともに天下静謐の担い手を引き受けたわけで「天下」に対する責任感が高いのがわかる。
地域権力を維持することを目的としてる他の戦国大名との違いと思える。
責任感ってのは違うと思う
防衛面で糞立地で、それまではちょっと危なくなったら放棄するのが当たり前だった
畿内をタコ殴りにされても確保し続けることで長期的には役立ったというのはあるけど
朝廷を立て直し行政機能を回復させたのは大きいと思う
それが目的で京都を確保し続けて秩序を安定させた訳だし
それが利己的な目的なのか責任感によるものなのかは分からないけど
信長の出自で天下に責任感持つとか誇大妄想狂以外の何物でもないし、
戦国時代に利益度外視で動く奴いるわけないだろ
名声も含めて利益というなら利益以外の何物でもないな
信長が革新的なことをやりまくってたってのが否定され始めたから、最近は、信長は周りから積極的に良いところを吸収する合理主義者だった、みたいに聞こえのいい好意的解釈してるよなw
つか信長に限らず周りから積極的に良い所を吸収しないとあの時代生きてはいけんよ。
そういう意味でも「他と一緒。」「普通。」
本能寺の変さえなければ天下統一できたという風潮がおかしい
織田家と他の大名の国力の違いが圧倒的だからな
史実でも織田家中が賤ヶ岳小牧長久手の内乱でゴタゴタして隙だらけだったのに中国四国関東の大名たちは中央に対して手も足も出なかった
毛利と上杉は指をくわえて見てるだけ
長宗我部は四国、北条は関東の統一を出来なかった
秀吉のような出自、見てくれの人間をとりたてて、結果、秀吉にはその期待に
応える実力があった。
このことだけでも、普通じゃないよ。
>>58
秀吉の出自、遠江天野氏の記録に被官として、天文16年に木下藤三・木下藤蔵、天文24年に木下藤二郎という
人物が出ていて、秀吉の初名木下藤吉郎と「木下」「藤」、最後に至っては「郎」までかぶっており、同族の可能性が非常に高い。
またこのこの木下氏は、尾張で犬山織田家に仕えた織田系木下氏の庶流と考えられ、だとすると秀吉の出自は、広い意味で
織田一門だった可能性がある。 >>60
秀吉が浜松で仕官したのは「松下氏」でなかったかな? >>60
あと、織田一門だったら、柴田とかともそんなに軋轢なくやれてたと思うけど、そうでは
ないよね。 >>61
>>62
別に天野氏の被官だった一族の中から同じ遠江の松下氏に転仕したのがいても特におかしくはないだろ。
あと柴田勝家との軋轢って手取川の戦いの事?つかむしろあれ以外に秀吉と勝家の間に軋轢と見られるような
事柄って有ったか?むしろ特異例と見るべきでは。
仮に軋轢が有ったとしても、それは秀吉が一応は織田一門であったからこそ、重臣筆頭と言っていい柴田勝家との
関係が悪くても大きな問題に成らなかった、という見方もできるんじゃないかな。 信長がその木下氏を継がせたともいえるかも
秀吉与力の木下祐久はその流れであるのは間違いないだろうから
つまり秀吉は庶民出身と言うのは誤りで
実際は尾張じゃそこそこの家柄だったって事?
確かに信長と言えども得体の知れない人物をいきなり重用したとも考えにくい
織田家臣団は訳アリの人物こそ多いが、皆素性はハッキリしてるし
秀吉は家紋として「沢瀉紋」を用いていたと考えられているが、実は織田一族木下氏も家紋は沢瀉紋だったらしい。
『織田氏族 家傳に「先祖津田親眞の三男親信、木下春重の女を娶り、舅の氏を冒す」と云ふ。家紋澤瀉』(姓氏家系大辞典)
秀吉の出自がどうこうっていってる歴オタ達は、 今川義元の死因がわからないとか、松平清康は存在しなかったとか、宇喜多直家は宇喜多家とは関係ないとかいってる人たちだから、まともに相手にしない方がよい。
秀吉が犬山織田家の木下氏と関係があったかもしれないといえる程度のことだとおもう。
ほんとに国衆出身ならそれなりに譜代の家臣や縁者がいるはずだが秀吉にはそういう人物がほとんど見受けられない。
わざわざ出自を低く騙る意味もわからない。
犬山織田氏は信長と和解と敵対を繰り返してたんで良く思われておらず
そこと縁のある家柄だとしたら、あまりおおっぴらに出来なかったんじゃ
遠江にいて木下氏と接点があった秀吉を信長が、木下の姓を名乗らせたってほうがすんなりくるような
坪内家の系譜によれば信長の美濃攻略戦において
尾張松倉城と鵜沼城は藤吉郎の誘降工作によって織田方についたそうだ
もし、秀吉が犬山織田氏所縁の人間だったとしたら
犬山と木曽川を挟んで真向かいの鵜沼や近郊の川島あたりには人脈も豊富だったと思われ
信長が東濃方面の攻略に秀吉を重用したとしても不思議は無い
確か蜂須賀小六もこの辺りの土豪だろ?
寡兵で大軍を破った戦いだと日本ならやっぱ桶狭間の戦いだな
駿河・遠江・三河を支配し、海道一の弓取りとまで言われた今川義元の軍2万5千を
小国尾張の一領主に過ぎない織田信長が3千で撃破し、義元の首級をあげた
まさに戦国最大の番狂わせ
>>71
河越や厳島と、同時代ならたくさんあるよ。
ただ、あの戦いであそこまで飛躍したのは、なぜだろうか。 そもそも通説って本戦に参加した織田の兵数vs今川の総兵力(と見なしてもちょっと多め)だろ
尾張統一しきれてなかったとしても石高で倍もの差がついてたとは思えんし津島からの上りもあるし
>>72
勝った後の織田が凄かったというより負けた後の今川がグダグダ過ぎた
おかげで背後を気にせず美濃伊勢に進出できた 秀吉が天下を獲ってなかったら信長の評価はせいぜい大内、六角、三好と同程度
信長の地盤うまいこと引き継げたから秀吉が天下取れたと言った方が適切じゃないかね
三好長慶・・・織田信長
松永久秀・・・羽柴秀吉
松永長頼・・・羽柴秀長(長秀)
に丁度あてはまる。三好長慶は42歳で病死したが、
50歳まで生きてたら天下を獲ってたろ。
また松永兄弟は羽柴兄弟くらいの能力があって天下を獲ってたら
三好長慶は織田信長のような評価を受けてた。
>>79
やばいなこれは。
三好長慶は京都を支配した、と言っても所司代みたいな機関すら置いてない。
武家伝奏がいた形跡もない。
堺を支配下にすらしていない。
単に勢力が河内や摂津にあったから、畿内を支配しただけの例で、政権と言えるかも怪しい。 京都の治安、秩序を回復させた訳でも無い
幕府、朝廷の軍事機構や行政能力を回復させた訳でも無い
今川や大内に疎開していた公家貴族が帰京したハナシも無し
何を持ってあと8年で信長と同等の功績を挙げられたと言っているのか理解に苦しむ
>>81
>>82
まさに信長そのものだろw
これだけ分かりやすいブーメランも珍しい
「京都所司代を置いたから政権ニダ」は笑うところ? >>83
織田も豊臣も徳川も、みんな京都所司代は置いてるんだが? 政権の体裁を整えるのに、所司代は必要だろ。 天下が畿内を指すなら、長慶でも可能だったんじゃないか?
義藤(義輝)を追放後、洛中は三好政権で平癒してただろ。
また当時、既に三好長慶は「天下人」と世間で呼ばれてた。
本来天下を獲れても少しもおかしくなかった三好は永禄の変で没落
六角は観音寺騒動で没落、織田は本能寺の変で没落
大体、同じ流れ。でもその三者の中でも病死ではなく謀反で殺された織田家が一番ヒドス
>謀反で殺された織田家が一番ヒドス
光秀に、誰が見ても謀反起こして当然な理由と確実な成算があったのに放置したならともかく
完全に意味不明なタイミングで事実グダグダに終わった謀反予測できなかったのは別に瑕疵にはならん
そもそも信長と同等の成果を後8年で挙げられた根拠を提示出来ない時点で・・・
死因云々は論点反らし以外何物でもない
家臣統制なんか評価されてないんだから突っ込むところでもないやろ
>>89
徳川が謀反したと思った人もいたくらい裏切られるのが珍しくもなく、信長は特に恨みも多く買ってるのだからそんな言い訳通用しない 三好もメチャクチャ裏切られとるがな。
その言い方だと。
だいたい三好の最大勢力時が200万石ほどだろ
これ上洛後の織田家と大差ない勢力だから、そこからたった8年じゃまず不可能
義輝まではそれなりに将軍・幕府の権威があったんだよ
義昭と同じに考えちゃいけない
義輝の頃も、将軍の権威は畿内ではからっきしだった。地方では未だかろうじて権威を保っていた。
義昭は畿内でもある程度は回復したが結局崩壊した。
足利ブランドは信長が死ぬまでは権威あったぞ
秀吉なんて下賎が台頭したせいで完全に崩壊したけど
本能寺の後、足利義昭の帰京プランが出て柴田勝家や徳川家康なんかは協力を表明している。
秀吉が反対してそれは潰れたが、もし賛成してたら何度めかの室町幕府復活があった可能性がある。
ゴンベエさんをボコボコにする程血気盛んな九州武者たちが
義昭がやって来ると雪崩打って平伏する程度には強い>足利ブランド
>>94
阿波、讃岐、伊予の一部、摂河泉(河内は反勢力あり)、丹波、大和、山城、播磨東部の一部。
200万石もいかんよ。
150万石あればいいほう。 >>95
権威って言うか、実質幕府の権威が及ぶ範囲って管領氏の勢力圏だしさ。
だから、細川晴元が三好長慶に敗北した時点で終わった気もする。
何故か三好は将軍担ごうとしたけどさ。
あれで実質、将軍の武力は消滅してるから。 >>87
「天下人」の正味がショボくなって久しくて、だからこそ戦国時代だったということかね?
>>88
正味が全然違うでしょ。 >>76
ショボい信長が圧倒的に大きい今川が押し寄せたのを倒したということではない、ということね。 >>79
? 三好がいつの間に関東北陸中国まで麾下を派遣してたの? >>105
中国は一応、播磨に派兵はしてるな。
ただ播磨は三好長逸が担当していたらしいし、別所に追い帰されたが。 昨今は、信長の「織田政権」とそれ以前の「三好政権」「京兆政権」などに、内実として違いが有ったのか、
という部分の研究が深化していて、実態としては大きな違いはなかった、と捉える傾向が強い
信長はそもそも目指すべき政権像はあったのだろうか?
本人が何も言わず残さなかったから妄想するしかないが
安土の自ら鎮座し覇王のように振る舞うつもりだった?
最近は豊臣政権の兵農分離政策や、太閤検地の画期的相違も疑問視されはじめて(戦国時代からの連続性がみられ)いるから、
織田政権の近世武家政権への過渡的性格を軽視することをベテランの歴史家が批判してるのは理のあることだとおもわれる。
桶狭間で奇跡的勝利と言うけど実際に今川の領国は小国ばかりだし、一方の織田の領国の尾張は一国で57万石の大国。
しかも今川の領国の三河には織田方に与する水野氏がいる。そう考えると今川と織田の戦力差はそれほど大差はない。
結局、あの戦いは信長を英雄視するために意図的に敵を誇張し、味方を過少にしているんだろう
>>112
馬鹿か。
当時の織田は完全に尾張を掌握しきってない。
北には斉藤、西には北畠、今川に通じる服部もいて、織田が全兵力を今川に向けるなんて絶対無理な状況。
水野は桶狭間時点は今川だろ。何言ってんだ。
桶狭間時点の信長は30万石あるかどうか。
今川は三国同盟で後背気にする必要なし。 粘着荒らし君に同調する訳じゃないが
桶狭間の時点では水野は織田方じゃないか?
俺は桶狭間のキーマンは水野だったと睨んでる
今川軍の退路を遮断して信長の強襲をアシストしたのではないかと
でなければ有力武将があれほど戦死した説明がつかない
織田40万石対今川80万石ってとこだろ水野は日和見してただけの中立
信長と義元では領地の統治期間に差があるのだから戦力差はあって当然
手に入れたばかりの領地で最大まで兵を動員できるわけないのだから
桶狭間の時点では信長が完全に抑えていたと言えるのは海東郡だけで
海西郡は服部が知多郡は水野が抑えてるし
あとの5郡も主要部を何とか抑えてるって程度だよな
ウィキペディアによると
織田軍 3,000 - 5,000(奇襲を実行したのは2,000)
今川軍 25,000 - 45,000
(諸説あり。また織田軍に直接対峙したのはこのうち5,000 - 6,000人)
となっている
未だに尾張一国の戦力で今川と勝負したって思ってる連中がこんなにもいる事が驚き
うん。ちゃんと調べてみた。
やはり定説は25000人〜45000人と認められてる。
太田満明(高校教師)と橋場日月(作家)が近年目立ちたいために逆張りして
今川の兵は実は少なかったと言い始めたとなってる。
この説を支持する学者は居ない。
『信長公記』 四万五千
『信長記』 数万騎
『甲陽軍鑑』 二万余
『武功夜話』 三万有余
『徳川実紀』『武徳編年集成』『総見記』 四万余
『改正三河後風土記』四万五千
『絵本太閤記』 五万余
『日本戦史 桶狭間役』 二万五千
『新説桶狭間合戦 知られざる織田・今川七〇年戦争の実相』(学研新書)橋場日月 少ない
桶狭間の真実 (ベスト新書) 太田 満明 少ない
橋場日月(高校教師)と太田満明(作家)の主張の根拠は
「僕が石高を数えたら25000人は居なかった」とか猛烈に根拠の薄い事しか言ってない。
江戸時代中期以降の石高は分かってるけど戦国時代の石高なんて
ほぼ分かってないんだよ。それを妄想で石高決めて史実の兵数は間違ってるとか
言い張るのは頭も悪いし傲慢すぎるだろ。当時の人が実際に見て2万だとか
4万だとか言ってるんだからどう考えてもそっちが正しいわ
江戸時代よりも石高が低いのは当然として
本拠地と言えども江戸時代のように完全支配は出来てないのだから更に割り引いて考えなきゃいけないよね
>>124
「当時の人から見て」も2万から4万と倍の幅があるんだから、あまり「当時の人」の目がアテにならないということになるのではあるまいか >>123
そもそも公記はなぜか、首巻だけおかしい。
何故だ? 他の巻とあんなに違うのは? >>127
首巻の時期は太田牛一は信長の家臣では無かった
デマを鵜呑みにして書いた可能性が高い
桶狭間の両軍兵力は織田5000、今川2万強くらいだろうな
4万5,000はさすがにありえん。全盛期武田の総兵力だぞ >>128
そも桶狭間の年が1553年とか嘘書かれてるし 多分アレ、村木砦の戦いと勘違いしてるんじゃないかな
つか信長公記首巻は信長公記の中で唯一太田牛一自筆版が無く、さらに牛一による
首巻への言及も存在しないので、太田牛一が書いていない可能性すら有る
>>128
全盛期武田でも45000なんてないよ。
精々頑張って38000がいいところ。