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日本(縄文人)の方が、匈奴に近いのに・・・
トルコめ、勝手に匈奴をコーカソイド化しやがって・・・
倭奴って言われるとむしろ誇りに思うようになってしまったら、貴方も立派な匈奴フェチだw
冒頓単于はトルコではメテ、METという
取る子ではかってにメテ姓を名乗る不届き者もおるとの情報
匈奴王族のレンテイ家は劉氏に改名したんだからいるわけねーw
頭曼単于の頭曼は、一万人の長という意味で
万士長というような将軍号か?
とうじは東胡が強盛で、なおかつ秦の始皇帝がオルドス、河南地方を狙って
大軍を送り込み併呑したので、よわった匈奴は東胡にこき使われていたようだ
なお頭曼は秦からオルドスをとりかえしており、むすこ冒頓単于に
1万騎を与えて万士長とした
蒙古タンメンなどで「モンゴル=激辛」というイメージがあるが
モンゴルの味つけは岩塩のみ、
あれはまったく日本の創作、唐辛子は南方植物なので激辛料理などないとのこと。
欧風ビーフカレーがヨーロッパに無く、日本人の創作という話に似ている
ところが白人は日本カレーが大好きだから、激辛ラーメンも現地にもっていけば・・
モンゴルで最高の料理は子羊の肉を切り取っててきとうにアルミ缶に詰めて
その上から焼いた石をたくさん積んで1時間待つと蒸し焼きになる
この料理法は最高の肉と汁が味わえるそうだ
日本のジンギスカンじゃなかった・・
勉強になりますありがとう
食もその土地柄、習慣や個性の文化の違いが想像を掻き立てさせる
人間のさいしょの牧畜は定住型で、一万年まえから
中央ユーラシアの主な家畜は羊がしめていたが、人間は集落に定住しており
羊は囲いの中で飼われていた
やがて、この囲いは不要となって人間は羊を連れて移動する
野営キャンプをして大きく移動するようになった
革命だが家畜の方に遺伝子的な変化があったのか、人間が羊をコントロールするすべを会得したのか
中央アジアの遊牧民は岩塩の革袋を下げ、家畜に舐めさせることで支配するとも言う
ゴビ砂漠はピンクの岩塩がでる。ここから遊牧に最適である東アジアが大きく飛躍する
岩塩を豊富につかう料理のためげんざいでもモンゴル人は高血圧に悩まされる
肉料理に岩塩はたいへん合う。マイルドな海塩より岩塩のほうが塩味がキツイためだ
インド人が香辛料を多用するのは食あたり防止だという
熱帯だと肉が腐り食物も痛みやすくカレーのような強い味が必要だった
自衛隊は、食材が乏しくてもカレー粉をもっていけば何でも食えるという
鍋に変な肉やカエル、適当な野草ぶちこんでもカレー粉があれば何でもカレーになる
このように便利な香辛料なので、日本軍は朝鮮討伐のとき多量の唐辛子をもちこみ
食事にふりかけていたようで、これで朝鮮の人は「唐辛子」を知った
当初は舌を焼く苦痛でしかなかったので「倭芥子には毒がある」と長く忌まれた
中国には花椒という強い香辛料が有るので唐辛子はうけいれられ、激辛四川料理になるが
日本武士がアジアでもっとも早い時期からとうがらしを野戦料理として利用していたようだ
ギリシャ人は胡椒を知っておりカルダモンはアレキサンダー大王がインドから持ってきたと伝えられる
アレキサンダーが東征したのは高価な胡椒を求めてのことだったかもしれない
ゴート王が1トンの胡椒をローマに要求したのだからアッチラ大王も胡椒は知っていた
バカ舌貧乏舌だけど20年前ブロンコビリーていうファミレスで初めて塩で食べたステーキがうまかった
ここで語られてるモンゴルの岩塩で紹介写真ではピンクだった(固まりは
岩塩の色はピンクが多く、ヒマラヤやモンゴルがそれで良質とされる。ピンクはミネラル豊富。
黒や赤や白の岩塩もあるけど
黒は泥で白は石灰で、赤は鉄分、パキスタンの赤岩塩は、赤粘土
人間が消費する塩の大半、7割は岩塩。つまり掘れば取れる岩塩は便利
日本では岩塩は取れないので馴染みがなく赤穂の海塩となる、
日本で輸入される海塩の殆どはメキシコと豪州が占める
ただ海にはマイクロプラスチック健康問題があり、げんざい
1キロの海塩で10粒のプラスチックが確認される。これは増えると予測される
岩塩は数億年前の海なので当然プラスチックはない
月氏のものと推定される古墳の発掘調査の結果どうやらサカや月氏は
腕や胸にイレズミをしていたらしい
文様は怪獣や魚などだがもちろん世界各地に刺青の風習は有る
中国は文様といい、野蛮として嫌い、また親から受け継ぐ身体を毀損する意味からも
道徳的に受け入れない。距離の近い匈奴もそうだったかもしれぬ
ただ日本や呉越など南方は全身にいれずみした
日本の使節による説明だと、もとは海に行く人の護身の意味だった
いまは実用味は薄れ形式的なもの、とのこと
おそらく月氏も魔除け、あるいは威嚇用に入れ墨したと思われる
モンゴル草原も夏は暑いから半裸になる、刺青した体のほうが見栄えはしただろう
白人も刺青はこのみ、ドイツの公務員は太い腕に刺青を見せびらかす
ゲルマン人も刺青したようだがローマ人はせず、やがて教会が下品として禁止した
日本だといくら禁令は出ても職人・博徒や遊女には刺青はやまなかった
遊女はお客への繋がりをしめすもの、だという。それからすると親分への忠誠をしめすため
だからかんたんに止む習慣ではない。日本に高い刺青技術があるため外国の王族まで来るという
アルタイの王女のミイラとして世間に勇名なウコクの王女はイレズミをしていた
この古墳群は月氏とされる。この人達はトカラ人でブロンドの髪だ
2001年のミトコンドリアDNA解析ではサモエード人、ケット人に近縁とされる
白のシルクの下着、フェルトのスカートや靴下、毛皮の上着
これが月氏の衣装であろうか
アルタイプリンセスはアルタイ人に政治的不和をおこした
死者をあばき展示するのは王女への不敬でありすぐさま埋葬すべきとした
ロシア学者は、こいつは王女ではないと反撃した
匈奴王族はモンゴロイドだが目はグリーンで彫りが深いとされ
オルドスの西半分にいたというトカラ人月氏の血縁を伺わせる
発掘調査からすれば月氏は金髪であった。匈奴は混血民族で
よめはんは月氏から来たのである。冒頓単于のよめはんは金髪だった
東胡は金髪女を羨ましがり単于の閼氏(えんし)を欲しいといい出した
ところが匈奴は刺青した白人をキモイと思っていたのでこれさいわいとあっさりと渡した
匈奴の民は怒り、これさいわいと単于は東胡を攻め滅ぼす
東胡の勢力は10万騎。ところで東胡の特色は装甲騎士だろう
東胡の子孫である烏桓は鉄の鍛造を得意としたくみに鎧を打ち上げる
鮮卑も鉄騎も有名で、20世紀まで西欧の主力だった重騎兵ははるか東方の
鉄騎(東胡)が元祖だとされる
サカやスキタイも重騎士でしられ、ペルシアの最精鋭部隊である不死隊
イモータルズは、たった一万だが屈強な鎧を着ていた。これもサカが多かったという。
東胡10万は重騎士で、月氏20万騎もおそらくガチンコの装甲隊、
匈奴やフンは革よろいのみ、軽量な軽騎兵である。
これでは匈奴1万ではかちめがない・・と思われるが優れた機動力と弓術で圧倒した。
匈奴は金で雇われ秦末の各地の戦乱に首を突っ込む、プロ傭兵隊長だった
これにくらべると月氏はお金持ちで交易で肥え太り白人デブで
東胡は勇猛だがやや、おっとりして文化が遅れていた
のちにローマをおそったアランは装甲騎士、フンは軽騎兵だったが王者はフンだった
フンの突撃はすさまじくローマ装甲歩兵はとうていたえられない、と述べてる
要するに戦闘慣れの問題だろう
九州や四国の兵は勇猛だったが、秀吉に率いられた上方軍は歴戦の兵で、あっさりやぶり
参謀の黒田如水は「田舎者ども、なんともお気の毒な感じがする」と吐き捨ててる
月氏の入れ墨と日本の刺青は一見関係ないようだが北方アイヌや
蝦夷もイレズミをこのんだことは一考を要する
シベリア極東部のギリヤーク、コリヤーク、チュクチなどので顔や腕にいれずみをする
アイヌではいれずみは成人女性の証とされ、ローマでもトラキア女性の風習
インドの例を見てもむしろ女性の成人儀式の利用が着目される
アルタイ王女でも、一人前の証、あるいは身分の証としてイレズミはこのまれる
ロシアシベリア北東の端のチュクチ半島に住む野蛮のチュクチ民族ではあるが
トナカイ遊牧と海岸漁労民族にわかれる
北辺の民族として植物も乏しいのでもちろん南方交易は望まれたが
この相手は日本ルートがおもで、チュクチは日本の鎧甲や武器道具、産物を頼りにした
つまりシベリア北東は日本の勢力圏でもあった。というと「えっ知らない」「そんな歴史がない」
という学者がほとんどだが、アイヌと択捉アイヌはたしかに沈黙貿易していた
沈黙貿易は・・ヘロドトス 歴史(ヒストリアイ)でもしるすが
カルタゴ人はアフリカ人との交易にこれを応用していた
直接接触は避けるというのが沈黙貿易のキモである
まずアフリカ沿岸にカルタゴの舟が来てさだめられた場所に商品を置く
黒人は白人が去ったのをたしかめて横に黄金を置く
カルタゴ人は黄金をしらべ不足ならまた消える
黒人は黄金を追加していく。これが繰り返されて十分な対価だとカルタゴが思えば
黄金を領収して品物は置いていく
おそらくこの形式だと「ケチなやつ」「今回はせこい」など色々な不満が出たのは想像がつくが
この沈黙貿易はきわめて礼儀正しく、横奪や暴行はなかった
トラブルや商品横奪があればカルタゴの船はもう来ない。アフリカ黒人にとって
交易船は有り難いもので、交易の優位はカルタゴになった
また文明国のガラクタが大量の黄金に変えてくれるのであればもちろん、旨味は十分である
カルタゴがアフリカ人との接触をきらったのは、ローマ時代にアフリカ黒人は伝染病の大元だと
認識されていたのでだいたい説明がつく。
日本のアイヌと択捉アイヌ(ギリヤーク)の交易は、
アイヌが米・味噌・鉄製品などならべ、ギリヤーク人はラッコの毛皮で交換
礼儀正しく長らく行われた
またアイヌは日本人と交易市でへいきで接触したので
人の接触を嫌う、これはもちろんギリヤーク人がのぞんだものだったらしい
ところが匈奴が中国との交易を望んだのはもちろん植物相の貧困で手に入らない
中国のコムギやコメやビタミン源の茶や野菜、文明の利器は
とにかく遊牧民が欲しいものだった
つまりギリヤーク人やシベリア民は、日本との交易はとてつもなく望んできた
しかし彼らにはケガレ思想ががあり、外界人や日本人を激しく拒んだという
ゆえに沈黙貿易しか接触がなかった。だから言語も文明もつたわらない
糞尿を満たしたバケツをあらって食料を容れても朝鮮もドイツ人も平気である
皮肉だがケガレ思想を持ってるのは世界のなかで日本だけで
むしろ日本の潔癖やケガレ思想、刺青の習慣は、シベリアからきたものではないかとおもえる
特産品からその土地柄、文化、風俗がわかりそこに繋がる話がとても面白かったです
田舎にある無人販売機みたいなのも立場の違い、必要性、顔を合わせてないのに信頼関係
面白かった
渤海と日本も交易があったとのこと
なにか機会があった時にでもお話があれば宜しくお願いします
渤海国はツングース系できわめて国際感覚に富んでおり日本と同盟を結び、
新羅を攻めようと計画した。さらに唐や突厥とも友好関係を結ぶ
渤海国の領域は朝鮮半島より遥かに大きく2倍は有る
また北朝鮮のかなりの部分、平壌のちかくまで渤海国の領土はひろがり
新羅はこれをおそれていた。渤海の攻撃を防ぎ国境に数千の弩兵を置いた
「渤海人は長人で、黒い毛皮をまとい、鋸牙鉤爪
火を知らず獣肉を生食する。人を捕らえたべる、婦人を捕らえ衣服を縫わせる」
この異国視は、朝鮮との断絶をあらわす
渤海人はツングースであり朝鮮人より背が高く、八重歯で爪が長く恐怖を与えたのは間違いない
しばしば人を拉致したのはのちの女真もそうなので驚くに当たらない
日本との関係は極めて良好で渤海の上都より日本道ルートを開いたのは注目される
のちの満州のホンタイジ太宗も朝鮮を攻め「日本との直接交流を許すこと」を条件にあげる
満州人が、高度文明の日本との友好に執着したのはとうぜんだ
渤海と日本との関係は「おじと甥」であり
上都は日本の平城京と同寸法で作られ、むしろ唐より、日本との交流がおもであったという
ただ最終的に渤海はモンゴル系の契丹にほろぼされる
東胡王がオルドスの匈奴に要求したのは
良馬、美女、広い土地であった
良馬は汗血馬といって西域から手に入れるのでわかる
またドスコイ顔の東胡は金髪白人のよめはんを珍重したのもわかる
東胡の東はツングースであり険しい山で、渤海国も「その地は峡なり」としてる
馬も進めず道もなく遊牧民には美味しい土地ではなかった
択捉アイヌやシベリアのトナカイ遊牧民が日本との交易を重んじたのは
なんといっても、味噌が挙げられる
今では想像し難いが大豆を原料とする味噌は日本ではタンパク源でも有る
そのまま食べたり酒の肴にした
うまみ調味料としても使えたのはもちろんだが、醤油は意外なことに江戸後期まで
あまり普及せず、ほとんどの時代で活躍したのは味噌だった
味噌を買うのはバカ、浪費家、とされて江戸時代まで自家製がおもになる
醤油は専用の絞り機が必要なので大きな農家や寺しか製造できないのも要因だ
舟で輸送するにしても液体の醤油は重く、味噌は軽い利点がある
かんじんなことに、大豆栽培の北限は北海道あたり
択捉アイヌ・シベリア遊牧民はもとより、北欧でも土壌の違いで大豆栽培できない
いまは北欧で空前の味噌ブームになりチーズのような発酵食品として捉えられる
東シベリアの遊牧民が自家製造できない日本味噌を欲しがったのは当然で
塩だけでは味気ない
戦国武将も野営に味噌や醤油がないと「味噌はどこですか」と詰問したという
シベリアの眠れる美女…貯水池の中から見つかった約2000年前のミイラ
シベリア連邦管区トゥヴァ共和国のエニセイ川上流の巨大貯水池で水量が低下した先週、
なんとミイラ化した女性の遺体が見つかったと報じている。
これはロシア科学アカデミー物質文化歴史学研究所の考古学者チームが発見したもので、
まるで埋葬に用いられたかのような長方形の石造物が見えたことから調査された。
ミイラ化した若い女性の遺体は石棺の中に納められていた。
蓋がしっかり閉じられていたため、遺体は中で自然にミイラ化したものとされ、
保存状態はよく、柔らかい組織や皮膚、布なども残っている。この女性は2000年前に
埋葬されたものと考えられる
その遺体はシルクのスカートを履いており、胸には死後の世界用に松の実の入ったポーチ
そのほかにもビーズで彩られたベルトのバックル部分は樹木の化石である黒玉など、
数々の装飾品や、白樺の皮で作られた化粧箱の中にはフェルトで包まれた中国鏡が入れられていた
また女性の付近には容器もあり、フン文化風のものだったという。
スキタイ・サカといえば生活形態は匈奴で金髪碧眼の白人だとされる
ヘロドトスによれば、スキタイはもとはアジア奥深く原住地で
マッサゲタイに攻め悩まされた結果、故郷を捨てて西進
黒海沿岸のキンメリア人をほろぼして乗っ取ったという
またバルバロイ、周辺蛮族の多く、ギリシャ人もこの説を信じており
ヘロドトスもこれには自信がある
スキタイはロシア人の先祖とされるが、もともとロシアあたりに居た学説
あるいはアジア奥深くにいたという学説は、スキタイ論争として
西欧人の興味を引いておりソ連時代の発掘調査がすすんだ
ヘロドトスの言う通り、スキタイの遺跡はやはりアジアがふるく、西アジアは
それよりあたらしいものだと確かめられる
エニセイ川上流のトゥバ共和国にスキタイの最も古い遺跡があるとされる
ミヌシンスク盆地のやや南だ
エニセイ川上流といえば匈奴や突厥、キルギスの発祥地とされる
さらに金髪碧眼のスキタイ・サカまでエニセイ川上流のトゥバあたりが原点とすれば
西欧人ならずとも興味を引かれる
エニセイ川は冬季は凍結して洪水を引き起こすので
ソ連ではダイナマイトで爆破して北極海にながすという事業をやっていた
一万年前はエニセイ川は氷河期の影響でさらにさむくカチカチで北極海に流れないので
シベリア巨大湖に形成し黒海に注いでいたとされる
多くのユーラシアの民が黒海からシベリア巨大湖にかけて羊の群れを連れて移動したとみられる
ただこの頃は人間は馬に乗るということはできず、西アジアでは牛のように鼻輪付けて使役した
やがてカザフスタンで小型戦車が発明され馬に引かせるようになる
これが印欧族でヨーロッパでは日本で言う卑弥呼の墓論議よりも興味関心をひいてるとされる
スキタイ・サカといえば騎馬と弓の民だが、騎馬の術はやはりアジアで発祥した
東アジアで磨いたすぐれた弓騎兵が、石器時代から農耕をおもとしてるキンメリア人を
駆逐したのは想像に難くない
スキタイがさいしょから金髪碧眼だったのかよくわからない、あるいはトルコのように
西進するにつれてしだいに強姦して白人化したのかもしれない
ともあれ黒海沿岸のキンメリア人はスキタイを恐れ民族移動することにきまったが
キンメリアの王族は反対して自害したので民衆は埋葬して逃げたとある
おそらく先祖の霊や墓を捨てて逃げれないという理由だろう
ソビエト連邦では、スキタイ人はもとからそこに居た、と決定された
ソ連の社会説では、共産主義の発展は。もとからそこに居たスキタイ人たちが
石器時代から進歩発展して農業を営み、さらにロシア人となり
ソビエト社会を建設する
ヘロドトスはスキタイは東アジアから来たと指摘してるのにかかわらず、だ
やがて西欧の影響でソ連の学者たちもおかしいと言い始めた
発掘資料が出そろうにつれてスキタイ原住地の東アジアは動かし難くなったが
エニセイ川の上流はモンゴルのすぐ北隣である
ひとつにはモンゴルの田舎から金髪碧眼のロシア人の父祖が来たとは信じ難い
という気分的な問題もあるので、なかなかソ連では認めることはできなかったようだ
このあたりはふるくはエニセイキルギス人、南サモエード人が住む
シベリアのトナカイ遊牧民のサモエード人の遺伝子は北欧およびロシア人のかなりの割合を
占めてるから容易に想像がついたはず、なのだが。
印欧族のヒッタイト人はアナトリア半島(トルコ)のさいしょの文明とされるが
鉄器を発明しエジプトと対決した超巨大帝国としてもしられる
このヒッタイト帝国の都からは巨石が多くヒッタイト人や王侯の彫刻があるが
いずれも非常に長い尖った帽子をかぶってる
長い帽子といえば尖り帽子のサカ、スキタイ人、また月氏も長い帽子を
かぶり、また月氏の末裔のタージク人も長帽子をかぶる
月氏の遺骨発掘によれば木の張り型で布や革の長帽子の形を保つようだ
ヒッタイト人は3500年前にトルコに来たようだがサカや月氏の血族だったのか?
3200年前に海の民に滅ぼされて異民族のフュリギア国が取って代わった後も
民族衣装は女神の衣装としてローマ人に影響を与え
フュリギア帽子はフランスの自由の女神がかぶりフランス革命の象徴となる
またスキタイがキンメリアを追い払ったのおおよそ2700年前とされる
ヒッタイトの遺跡から埴輪のような牛を模した土器が出たことは日本古墳との
つながりもかんじさせる・・ヤマタイとスキタイのつながりも
ヒッタイトやフュリギアの信仰は天神だそうで、これも遊牧民に多いタイプだ
またヒッタイト人は死後の世界は地下にあると信じておりこれも日本と同じだ
スキタイの主神はかまどの女神ヘスティアであった
アニメでは勢力を伸ばしてる?ギリシア女神ヘスティアさまだが神話は殆ど無い
ヘスティア=ウェスタはローマ最高位神であって建国者ロムルスの母はウェスタ神官長だった
かまどの女神ウェスタの神官は処女でなくてはならず違反すると殺される
だが女性ながらウェスタ神官長として最高席をあたえられた
遊牧民スキタイのかまどの女神がギリシァローマに侵入したのかそこは定かでない
メソポタミア文明はかまどの進化に支えられていた
パンは初期は大麦を練ったものをそのまま焼くことが多く薄いパンだった
げんざいでもインドではタンドールで焼く発酵パン、ナンは一般的でなく
一般家庭にはタンドールはなく、小麦粉をねって薄く焼いたチャパティが
食べられることがほとんどだ。とインド料理店では主張する
コムギのチャパティは北であり当然南インドではコメの食事となる
かまどをアッカド語でテュヌール、アラビア語でタヌール、インド語でタンドール
すなわち古代語であるが、燃料を節約できる日本式かまどは最近後進国の
森林乱伐をふせぐためアフリカなどに指導されて大好評という
メソポタミアは大河による沖積平野であり、大麦などの農業には困らなかったが
石材や木材は不足気味だった。そこでペルシャ湾河口にちかいウル・バビロンなどの
城塞都市がさかんに交易をおこない、舟で多くの食材、石材、金属を入手して隆盛した
パンを焼く燃料も節約する必要がありそこでかまどが生まれる
丸いパン焼き窯もこのころつくられ、十分に燃料をいれて燃やして熱くなったとき
発酵パンをさし入れて余熱でふっくらしたパンを焼き上げる
原理はオーブンと同じでメソポタミアはこれでようやく美味いパンを食えるようになった
下から加熱したのではパンは焼けない
パンは形に工夫が凝らされ魚や獅子を模したものもあった
たい焼きと同じく陶器の型で抜いた型抜きパンで紋章があしらわれることもある
乳製品やはちみつ、ヨーグルトを練り込むこともあった。現在の菓子パンである
基本メソポタミア料理は肉と野菜を煮込むシチューで、これはイラン料理もそうだ
玉ねぎ、ねぎ、にんにくが人気あり、レタスやキュウリ、かぼちゃ、かぶもあった
パンをシチューにつけて食う
都市の野菜取引は大変な量になったようだが都市人口が多いため依然高価で
貧民はしばしばビタミン不足で病気になり悩まされた
交易で富んだウルやバビロンの北方でアッシュールという都市宗教ができる
アッシュール市そのものが神格化された神
シュメールの記録には気違いじみた野蛮人として記録される。
シュメール人のいう猿。礼儀しらずのマルトゥである
アッシリア大帝国は強大な軍事力でウラルトゥという北の王国を滅ぼしたあと
オリエント世界を全て併合しようとした
アッシリアの帝王はよほど憎まれた。異民族にはプルという蔑称で呼ばれる
彼は平民から成り上がり、平民だったときの本名だともいう。藤吉郎のようなものか
メソポタミアを統一しアッシリア王とバビロニア王を兼ね
これはおおむね上手く行ったが、ただし東には宿敵エラム帝国がのこってる
イラン系のエラム人はシュメールから東の混血やろうと罵られた
顔立ちも月氏やサカのような民族が混じり違ったのかもしれない
エラム王家の兄弟相続、末子相続を保持した。サウジアラビア王家もそうだが
匈奴やモンゴルのような遊牧民の風習と言える
アッシリアの軍事は正に完璧であると教科書でも教わるほど軍事特化タイプの帝国だ
3人乗りの大型戦車、兵員輸送車の発明、攻城兵器をそろえ、農民兵士を常備軍に替えた
軍事はプロの傭兵にまかせる。駅伝制度や幹線道路の整備もした
首都ニネヴェは膨大な粘土板が出土して世界初の巨大図書館と言われる
アッシリアの文化は婦人にベールをかぶせる。いまの中東にものこってるが
花嫁にベールをかぶせる西欧の風習もアッシリア由来とされる
ただし強制移住政策や重税などあまりに過酷な統治でにくまれて謀反が絶えない
とくにバビロニアの反乱は裏にエラム帝国がついていた
そこで征服王アッシュールバニパルはついにエラムを滅ぼす
エラム王は斬り殺され、全てのイランの都市は略奪されて宝物は持ち去られる
だが、これで終わりではなかった
唇が滅べば歯が寒し
エラム帝国はほろんだがエラム語はやがて、アケメネス朝ペルシアの重んじる所
でありペルシア帝国の公用語はエラム語となる。
後世のアレキサンダーの破壊でエラム語はたえたが、それほど高度な文明がある
イラン系のエラム帝国をほろぼしたアッシリア帝国はこんどは直接、猛烈かつ無尽蔵の
スキタイ遊牧民の侵攻圧力をうけることになった
軍事強化は尽くしたアッシリア大帝国だが弓を主体にした重装甲騎兵スキタイ・サカの攻撃は
全くの想定外であった
おそらく混血野郎のエラムはスキタイ遊牧民ともなんらかの連携・コントロールをもっていた
多分、エラム王は遊牧民とも濃い婚姻があったのではないか。末子相続制度まで同じだ
もちろんエラムが消えれば都市国家からうけていた野菜ビタミンの供給もなくなる
これら交易の旨味がなくなれば遊牧民が動き出す
農民スキタイ、農耕スキタイ、遊牧スキタイ、王族スキタイの四天王ラスボスである、
スキタイでも最強の王族スキタイがアッシリア制服にのりだした
しかもスキタイにやぶれたキンメリア人も嬉々としてアッシリア征服に付き従ったとされる
スキタイはアッシリア軍を交戦し「弱い」とみえるや総攻撃に移り首都ニネヴェを破壊する
彼らはエジプトまで進撃したがエジプトのファラオは泣き落とし戦術に出る
スキタイはしばらく30年ほどアジアを支配するが、とにかくひどい略奪と暴政であったとされる
聖書にスキタイの一文だけ挿入されてるがユダヤ王国には典型的な野蛮人として扱われる
友達から教えてもらったパソコン一台でお金持ちになれるやり方
興味がある人はどうぞ
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
X0N
ロシア学者の遺骨調査によればスキタイ人は森林スキタイと草原スキタイに大別でき
森林スキタイは頭蓋骨が長く、顔も彫りが深い
草原スキタイは頭蓋が短く大きく、鼻は高かったらしい。また背は並外れて高いという、
バカでかいというのは赤狄っぽいが月氏などがまざっているのかもしれない。
キンメリア人は黒海北岸から小アジアに追い落とされる。王は土地を死守すべきと主張したが
もちろん国民は死にたくはなかった。そこでスキタイ王と奴隷都市という階層が生まれる
都市との緊密な関係、牛、パン、毛皮、奴隷による大量の物資はスキタイ社会の変化も促す
身分差は大きくなった
スキタイ人は肥満体であり、ぽっこり腹が出ていた、とヒポクラテスはいう
革製の外套、カフタン、前開きのガウンをはおり、、羊毛もしくは革のズボンを履いてる
高貴なものは、ゴールドや金属のプレートを革服に無数に打ち付けていた。一種のお洒落か
またスキタイ騎兵は龍の紋章をこのんだ
これがギリシア世界には鱗のような印象を与え、スキテュア、蛇神の子孫ともされる
スキタイの社会は王族、これは匈奴モンゴル同様に血で永久に伝承すべきものとされた
日本天皇やロシアのツアーもやや似てる
組合評議会、国会、軍事専門職の軍貴族、兵士、聖職者などの階層がある
組合評議会には敵を殺した戦士のみが出席できる
敵の頭の皮を剥いで、手拭いとし、あるいはガウンに縫い付けた
もっとも恐るべき野蛮な敵のものは、記念として頭蓋を切り取り髑髏杯にされた
これに酒と血をまぜあわせ、友人の誓いや結婚の誓いとした
ロシア人は西欧にはスキタイ人の子孫そのものとされたがロシアはこの称号を嫌う
せいぜい東スラブ人、ハザールがスキタイの子孫だとロシアはいう
帝政ロシアではスラブの騎士が、棍棒をふり回すスキタイの大男と戦う絵の題材も好まれた
つまりスラブ人=文明、スキタイ=野蛮としてる
さてスキタイの上位互換、スキ隊より更に野蛮とされたサマルティア人だが、
かれらはまったくのテント生活で、匈奴や蒙古と変わるところはない
やがてアラン族、阿蘭国とされる名高い重騎兵はボルガ河の西側に住む
なぜマッサゲタイがアランと改名したかというと・・新しい名のアランとは
多くの部族が寄り合いアーリア組合というような意味だとロシアの学者はいう
ペルシア王がエーラーンの王と称したのはアーリア王という意味である
つまりアドルフ・ヒットラーもエーラーンの王もしくはアラン王となる
アランは重装甲騎兵で有名だが、また1メートルをこえる長剣をも好む
馬上で斬るのだから長剣が有利でもあった。手から柄が抜けないように半円の金具がある
スキタイの聖剣伝説も有名であって聖剣は常に隠されており
ロシアの聖剣伝説はクォデネンツ「魔法剣」、「隠された剣」、「鋼鉄の剣」などと意訳される
サモショーク「自動で振るわれる剣、自動剣」とおなじであるとされる
サモショーク剣はバビロニア王のネブカドネザルが壁に塗り込めて隠し
「エルスラン・ラザレーヴィッチ」主人公は、燃える盾と炎の帝王(ペルシア王)を倒すことができる剣を手に入れる
賢いアッチラは、伝説の聖剣を見つけたとと称して、まぬけなスキタイ族を心服させたという
現在のアラン族はオセチア人とされる総人口はおよそ60万人
オセチア国はアラン国に改名したいという動きもある
遺伝子調査ではやや否定的だが、長い混血も経てるので何とも言えない
オセチア人はただのスラブ人であるという
そもそもアラン族はロシア人であるともされるから、えっ何が悪いのか?と
プーチン政権だから政治的な見解も否定できず・・
アランと言えばフンに付き従った騎兵としてあまりに有名だが
アランの末裔アスト人はモンゴル帝国によって征服され、首都マガスを始めとする諸都市は壊滅的な打撃を受けた
モンゴル帝国もアラン重騎兵の名声には目を留めたらしくモンゴルに連れ帰りモンゴル皇帝の親衛隊に編成した
アスト人親衛軍である
阿速親衛軍は14世紀前半に頻発したモンゴル帝国の後継者争いを巡る政変において重要な役割を負う
アストの人々は1368年に元の皇帝が中国を放棄してモンゴリアに帰るとモンゴル遊牧民の一集団となる
匈奴の人口は、漢の一郡ほどでしかなく、大目に見積もっても数百万というところだが
税収は、秋に大会を催し、そこであつまった遊牧民は一部の家畜を取られるだけだった
あまりきびしくすると国も崩壊するのでかなり緩かったと思われる
国家のためには外部に収入を求めることが必要で、お金持ちである漢にたいして
冒頓単于が甘い態度に終始したのは、なんとか金を引き出そうという計算でしょう
そのあたりの冒頓の感覚は絶妙だったな
稀代の天才だよ、チンギスより上かもしれん
燕麦は健康食のオートミール(流行のグラノーラも)としてよく食べられてるが
作物利用は遅く5000年前の北欧ではじまる
ゲルマン人が栽培していたがローマ人は軍馬の飼料として利用
小麦と違い粉屋で挽く必要がないため安上がりな食事だったため、中世では
貧しい農民の物とされた。このため廃れたがスコットランドでは寒冷で小麦が取れず
例外的にオートミールやオートケーキが主食となる
米国でもスコットランド移民が持ち込み「キリスト教会の健康法」として宣伝したために
オートミールが大流行した。昭和天皇も好んで食べた
燕麦は東方にも伝えられてパミール高原においていわゆる裸性を獲得ハダカエンバクになる
ほとんど馬の飼料で、例外に主食としてるのはスコットランドとモンゴルであるが
モンゴルでは麺として食べるという
蒙古遊牧民も燕麦の主食は2500年前からやってるというから、匈奴や東胡も食べたということになる
北方に居住していたゲルマン人はやはりエンバクを栽培し、人間の食用としていた
やはり植物相が貧困であるから匈奴にしても選択の余地はないと思われる
中国の華北・中原において、黄河文明以来の主食は専らアワ
アイヌにとって最も重要な主食穀物がヒエ
現在のモンゴルで羊肉を煮込んだスープに粟を入れて食べるが羊肉は脂肪に富むので
かなりおいしい
粟は古代東ヨーロッパのの伝統的な食事でシルクロードを通してモンゴルに入ってきた
つまり月氏やスキタイの食事が匈奴に伝えられたようだ
モンゴル人の飲む茶ツァイは、ナイフでレンガ茶を切り出し、ミルクにいれて煮る
モンゴルでは馬、牛、羊、ヤギ、ラクダを「五畜」と言いますが、この五畜の乳を使用する
クリーミーな味わい。乳茶にバターとアワを入れると朝食となる
古代には茶はまだなかった、そこで匈奴や東胡はミルクに岩塩をいれて煮立ててのみ
さらにアワをいれ軽食にしたと想像される
塩ミルク→塩ミルクティーに進化した。
さらに塩ミルクティーの鍋に具材ぶち込んで煮て食べるのがモンゴル家庭料理、鍋茶だ
>>44 満州の農民は大豆と小麦を売却して、アワを主食としていた
中国との交易が盛んで、海西女真がその利益でさかえていたが
野蛮な建州女真に征服される。更に野蛮な野人女真、これが靺鞨、勿吉らしい
金の正史によれば、女真(金人)は粛慎の遺種、渤海は別種に当たるという
東アジアも遊牧民の影響で族長選出は合議制という民族が多いが
めずらしいのは、族長は大人といい、血で伝承される
なんとなく日本の大王(おおきみ)を思わせる
まぁ東胡の末裔であるモンゴルもチンギス統治原理をとったが
東夷の影響であると思えばおもしろい
大王=大人(族長)
鮮卑・東胡・粛慎と
さらに
大人=可汗となる
カマ・タルカンのタルカン(達汗)とカン(汗)の関係は?
鮮卑は大人(ダレン)という称号で、東夷のツングース族長でも大人と称した
日本の大王(ダイオウ)や大臣(ダイジン)も大人(ダレン)が変化したものか
なお
やがて鮮卑拓跋部は可寒。可汗号を採用、これはイエニセイ碑文で「カガン」と発音することが
判明しており、漢字以外では最も古い、日本のかな文字と同じくらい古いルーン文字で記述されていた
やがてカン、カーン、カアンなどに変化
大人(ダレン)の由来だが満州地方の伝承では
華北の長人(長狄)と同じ意味で、たんに並外れた巨人、超人の意味だ
大人(ダレン)は身長9メートルあったという
>>24 この女性どんな感じだったんだろう
写真はさすがにご遺体だから見るのは怖いけど絵でなら見てみたい気がする
>>24 DNA検査結果が待たれます
西ユーラシア系なのか東なのか
目は青かったのか
エニセイ上流あたりの原民族といえばエニセイキルギス・サモエードで入れ替わった様子もない
突厥・トルコの先祖でもあり、匈奴の祖先とも同根だとも言う
なお中国の史書ではキルギスは青い目で金髪で、ヨーロッパ系民族を思わせる
しかし時代が下ったげんざいのキルギス人は南下して混血の末か黒髪化してる
2000年前では、混血化する前なのでおそらく真っ青な目でしょう
このエニセイ川上流は、緑目のパシュトーン人の祖先がいた、とも言われてる
匈奴は緑目であったからグリーンの可能性も否定できない
グリーンの目はブルーより発生が遅く、故に欧州白人ではすくなく中東に多いため
差別対象になったりするがその源流はエニセイ川なのでおもしろい
そもそも突厥は匈奴の別種・・・みたいに言及されていたんじゃなかったっけ
突厥人は匈奴の古くに分かれた同種異族で、姓はアシナ氏という
これだと貴族だったアシナさんが単に匈奴の一族だったというふうにもとれる
その昔はシベリアの丁零も、冒頓単于に服従していた。匈奴の支配貴族も送り込まれる事もありそう
ちなみにフン語はテュルク語だしシベリアから流れてきた。アッチラ=アシナ氏だと思うんだよな
キルギス人男性の過半は白人の遺伝子ハプロの持ち主だから
その昔はアファナシェヴォ文化の担い手だったのだろう
しかし東から押し寄せるモンゴロイドのトルコ系に同化されて
今はモンゴロイドの風貌
ただ緑色の目の人はちょくちょくいるみたいだね
アシナさん柔然の鍛鉄奴隷だったから・・
柔然は、鮮卑の一騎卒とか
完全にドスコイ顔のモンゴル朝昇竜系ですな
中華文明の策源地は、黄河下流の南岸にある鄭州などだ
黄河は氾濫が多く治水は大変な時間を要し、帝しかできない仕事とされる
だから時代が下ると支流の洛水や渭水の都市のほうが栄える
西に洛水の南岸の洛陽、もっとずっと西に渭水の南岸に長安
鄭州が栄えたのは五穀、つまり米も麦も何でもとれる絶妙の位置からだ
中国の都市は北緯32度あたりに点在する。日本の京都も34度だ
多くの中国の都が、大河の南岸にあるのはもちろん、水利を得るためだが
河を盾にして北方異民族を防ぐ目的がある
黄河はたいへん長い河でそのかたちは龍に似てる
黄河上流はチベット高原で、中流域は北に大きく屈曲してオルドス地方になる
したがってオルドス屈曲部、オルドスループといい
北緯40度で寒く植物相は貧困だ。だから農耕民族は進出しにくい
オルドスが匈奴や狄など遊牧民の歴史が4千年もあり古い策源地だ
おなじ黄河にすむ民族ながら、漢族と匈奴は言語が異なった
大河で言えばナイル上流の黒人と下流のエジプト人種が違うようなものだろうか
全く異民族なのだが中国人も黄河中流のオルドスを、河南と称する
中国もせめて黄河南岸のオルドスはほしい。始皇帝はオルドスを奪う
オルドスの回復と戦乱の介入、これが軍事機会として匈奴大帝国をうむ一つのきっかけになる
匈奴の北には丁零(テュルク)西のミヌシンスク盆地には
堅昆(イエニセイキルギス)がいた
堅昆についてはよくわかってない
匈奴の北に阿謗歩(アッチラ)を大人(族長)とする堅昆があったが、彼が愚痴であったため、滅ぼされた。
阿謗歩(アッチラ)の兄弟は17人いて、その1人に伊質泥師都という者がおり、のちにこの2人の子から
契骨(キルギス)と突厥(トルコ)が生まれた
突厥の語は、かれらがすむ山地が尖った兜に似ていたともあるいは碧い天空を表してる
堅昆は金髪と赤い顔をもっていた。
顔は、主に白人の特徴および一部にモンゴロイドの特徴を有する。
史書は「人々すべてが赤い髪と緑の目をしている」と述べている
男は耳輪をした。また全身に入れ墨(古代日本や月氏もそうだった)
貴族は白いフェルト帽子、貧乏人は帽子はかぶれない
中国の記録によると、彼らはライ麦、エンバク(オート麦)大麦、小麦、キビを栽培して鉄を精錬した
小麦は石臼でひく。彼らの作る金属武器は鋭利である
魚も食べるチョウザメは特に好まれる
また優れた馬を持ち、足も早い
花嫁を買うときに100頭の馬を支払う(お金持ちは100頭〜1000頭)
10世紀のペルシアの文献では火を崇拝し死者を焼くとする(ゾロアスター、あるいは仏教の荼毘か)
周書によれば突厥の先祖はサカだという
サカとスキュタイは同じもの(ギリシャとイランによる呼称)とヘロドトスは言う
スキタイの起源地の議論は、日本の邪馬台国論議と同じで
白人の祖先にもあたるからヨーロッパではたいへん関心を集めてるが
やはり東方はるかアジアから移動してきたというヘロドトスの記述を
スキタイ文化の発掘結果が裏付けており、ただ殆どが旧ソ連邦の奥で
ソ連はスキタイ人がもとからそこにいて、文明化して
共産主義ソビエトを築いたと主張し、これは握り潰された
スキタイがモンゴルの北、エニセイ川の起源であると遺跡が裏付けるなら
もとを辿ればスキタイ=堅昆でもあったのだろう
堅昆の身体特徴は金髪で赤ら顔、あるいは赤毛で緑目という
まさに白人特徴を持ち、初期の突厥族長も青い目に、赤い顔であった
匈奴の冒頓単于は北方に住んでいた堅昆・丁零・屈射・などを従える
堅昆の大人(ダーレン)である阿謗歩(アゾフ?)が匈奴に滅ぼされて
キルギスやトルコはその子孫であるとの記述は一致する
現在のモンゴルの料理は、
・焼きうどん(羊肉やきそば風
・ラーメン(羊肉スープのうどん風
・焼き肉定食(羊焼き肉にごはん定食風
だいたいこの3種であるという
お米は寒いと取れないから必然的に最後のメニューのご飯は南方からの輸入品
であるが(そのむかしはヒエやアワ、あるいは麦めしか
モンゴル遊牧民といいつつ、いがいに農耕を前提とする、粉物の食事が多いのがわかると思う
もちろん麦はかなり北でも取れるし
更に過酷な環境に強い燕麦ですら2500年前から食べたという
(燕麦のおおくは馬の飼料としてであり、人がエンバク食うのはスコットランドとモンゴルのみ)
しかもエンバクの麺なんて、かなり変態的でもある。おそらくモンゴルのみだろう
シベリアの堅昆がエンバクを栽培したのも麺で食ったのだろうか
>>68 赤Fの祖先が赤谷城の出自だったら烏孫の末裔ってことになるな
堅昆はアファナシェヴォ文化人の末裔に間違いない
匈奴をサカに結びつけるのはやや暴論ではないかなあ・・・
匈奴は、黄河屈曲部、オルドス高原の族長で
西半分は月氏がいたという
オルドスは長安から500キロほど北になる
このオルドス屈曲部は日本の半分くらいの大きさ
ほとんど砂漠であるが昔は森や草原であった
月氏は遊牧王ではあるが、西域に点在するオアシス都市国家も月氏のものだった
西域の補給基地とされた敦煌は月氏が建設した都市
だから遊牧騎士でもあり都市民でもあり農耕民族でもあった
月氏20万騎といわれるのだから大帝国だ
匈奴の頭曼単于とは「万士長」の意味であったとされ
月氏において匈奴は辺境の1万人の軍、傭兵ていどにおもわれていたようである
冒頓単于が月氏を滅ぼすと西域のオアシス都市はすべて匈奴に属する
遊牧民は肉は豊富だが野菜・ビタミンが少ない
エスキモーのように生肉を食らうのであればビタミン豊富だが
彼らの料理には基本的に火で焼き、モンゴル岩塩をふりかける
モンゴル最上の料理は、子羊をつぶして肉を蒸し焼き
表面だけ焼いて中は血の滴る生肉というのであればビタミンは取れる
とくに辺境の遊牧人は野菜の交易市場はないから、生肉を引き裂いて食うほかないだろう
臭いとされて自称文明人の南匈奴やら鮮卑拓跋氏に差別されたようだ
現在のモンゴルでも大都市では野菜も豊富に手にはいるが、地方の雑貨店では
芋ぐらいしか置いてない、つまり致命的に野菜がないのである
ソ連の首都モスクワでいちばん羽振りがよかったのはグルジア人の野菜商人で
駅で南方の野菜や果物をおろし売りさばき、若い妾を何人も囲っていたという
そういえば秋葉原駅も、もとは神田青果市場だったね・・
げんざいロシアではトルコ産の野菜や果物が人気で若いロシア娘はトルコ人の嫁になりたがる
中国の商人が交易で、気前のいい遊牧民の足元を見て暴利を貪ったのは疑いなく
漢帝国と和議をした匈奴もしばしば市場で暴行したようだ
冒頓単于の時代に右賢王が漢に乱入
単于は「漢の役人が右賢王を侮辱したゆえに乱暴してしまったのであるが
しかし和親条約に反したのは事実、右賢王には罰として月氏の攻撃を命じた」
匹夫の謝罪は口だけで、君子の謝罪は実を持っていなくてはいけない
この礼法を意識してか同時に冒頓単于は名馬を送ってる
かなりの気の使いようだ
左賢王が皇太子ナンバー2で右賢王はナンバー3にあたり
このものが皇族というか冒頓単于の家のもの、次男であることは疑いない
なぜならば骨都候が外戚の地位とされたからであるが
左賢王のほか4王、左右大将軍、左右大都尉、左右当戸、そのしたが骨都候
この順位からすると匈奴帝国は単于の一族がほとんどの軍職を持っており
外戚、つまり他家の軍事地位はかなり低く抑えられた
冒頓単于が皇帝で息子たちが将軍、尉官という独裁であったようである
黄巾の乱が起こると、単于は右賢王於夫羅の率いる援兵をおくり、後漢を援助した
単于の暴政、度重なる徴兵に耐えかねた10万余人が叛き、単于を殺した。
あとを継いだのは子の右賢王於夫羅であったが、国人たちはこれを不安視して
遠戚の骨都侯を共立して単于とした。
そこで於夫羅は自ら洛陽の宮城の門にまで来てこのことを訴えた
なお五胡十六国時代を開いた匈奴大族長の劉淵は、於夫羅の孫である
冒頓単于が死んだ後も漢と匈奴の和親は継続された
70歳だったとされる。極北の遊牧民ではかなり長命したほうだ
家康が天下を取ったのも長生き競争だし、統治者が長く生きることは重要な政治である
梁の武帝のように長生きして恥を晒すこともあったが・・
右賢王である稽粥がたち老上単于となる、ラオ単于とは、賢い意味であり
賢明と言われることを好んだ人物だったようだ。
突厥のカンも「ビルゲ」つまり賢い王と称することが多い。族長の資質として
賢明と評判をとることは重要だった「バカ殿」ならたちまち配下は逃散する
月氏王の首をはねて頭蓋骨を盃にするなど相当の武闘派だが
また烏孫王昆莫も武将として育てた人物である
本人はすくなくとも、体の弱い、繊細なインテリと気取ってた
あくまで本人の理想であるが・・恐ろしい冒頓単于、恨みを買うことも多い
これまでの匈奴単于とは違う人物だと言いたいのだろう
フリードリヒ大王もインテリきどりで音楽に耽溺し
父王に杖で殴られてるから一種の変わり種だが、家業への反発であろうか
そんなちょっとアンニュイな二代目でも冒頓単于は容赦なくこきつかい月氏攻撃の
担当としてるから、もともと匈奴は家としても厳しく反抗は許されない
匈奴の集会で族長に少しでも逆らうと死刑だ
家が続いたのはやはり二代目が重要ということで徳川秀忠や足利義詮が注目されてるが
やがて老上単于も歴史マニアに人気!ということになるのかもしれない
老上単于が即位すると漢は皇族の子女をえらんで閼氏としておくり
宦官の中行説がつくことになる
中行氏は、晋の宰相荀林父の家であって中軍の将であることを栄誉として
改名したとされる。晋には三軍がありそれぞれ二名の将軍で指揮され
晋は六卿の国と言われ中軍の将がその筆頭に当たる
ふつう宦官は下層の出だが趙高は趙の王族だったとされる
中行説が荀林父の子孫であるかは不明だがそのように称した可能性はある
また蒙古ではオルドスの族長が「晋王ジノン」とされ高位であった
宦官の中行説は匈奴に読み書きをおしえ、単于の側近に札をもたせ
家畜の数を記録するようにさせた
また中華の着物を愛する単于に「自国文化を捨てては国は弱まる。
革の服が、絹の服より優れてるとお示しください」と進言
「ほしいものがあればいつでも漢から武力で奪えばいい」とすすめる
また匈奴は野蛮であるという漢人には「中国の礼節はうわべだけで
家臣が主君を滅ぼすではないか。匈奴のほうが道徳は優れる」と反論した
匈奴は軍事体制だからそく死刑で、不穏分子や下剋上などはないわけだが・・
周の成王が弟の虞と庭の木の枝を使って「これを以てお前を封じよう」と封建の儀式の真似事をして遊んでいた
周公旦がはるか北方のTang (唐)を征伐して、虞を唐公に封じた。唐叔虞である
このとき家臣として鬼方一族が付けられた(容易に従わない蛮族ともされる)
あとになって晋水にちなみ唐から、晋(JIN)と変える。これがのちの大国晋である。
周と同じ血筋である晋公は春秋戦国でおなじ姫姓の国家をほろぼしてゆく。そして超大国になる
これはいかにも奇怪なことからまったく異民族でないかと言われるが・・
Tang (唐)
Tang (天乙)
天乙は商朝の初代王。殷墟出土の甲骨文占卜には、名は唐、と見える。
湯王、太乙、成湯、成唐とも
殷の建国者として実在の可能性が高い。聖王とされその徳は鳥にまで届くと
Tang (湯王)はテュルクの王。天乙とは、単于のような天帝の転写ではないか
月氏も甘粛に大きな城塞都市をいくつも持っていた。遊牧民だから野蛮、というわけではない
ただ中国とは人種や言語が異なるから意思疎通できず恐怖であり野蛮とされた
殷の湯王は北方の唐(晋)に盤踞したテュルク遊牧民であった可能性がある
そして殷をほろぼした周も、唐の土地は無視ができず、弟など重要な血縁のものをおいた
植民した晋人は農耕に精を出したが北方の植物相が貧困で、
食事も全く変わったはずである。貧しい土地の漠北ではむしろ遊牧生活も悪くない効率になる
晋の文公は春秋の五覇王のひとりだが、重耳といって母親は異民族の狄の姫であった
北方の民の大多数は現地人であり代を重ねるうちに晋の公室も圧倒的に現地の色に染められて
妻は狄をめとるなど遊牧民の色が濃くなる・・晋は三国に分割してもっとも北方の趙は
異民族の建設した都市、代国を攻め、代王を殺し、領土を広げる
中行説は漢の領土に偵察を送り侵攻にそなえ地理を検分させた
匈奴は謀をめぐらしついに単于は14万騎を率いて関中の簫関をやぶり北郡都尉を殺した
その斥候の兵は甘泉宮にいたる。長安まで少しである
さすがに文帝も騎兵10万をひきい渭水の北に布陣した
長安は河の南岸になるから、北岸に軍を集め決戦して長安をまもる二段構えだ
劉邦が歩兵でたたかい、冒頓単于の騎兵40万に包囲された頃に比べれば
漢の騎兵も10万そろえるまでには、充実していた
史書によれば文帝の配下の将軍は代わりに戦い匈奴を追い払ったとも
戦闘などおこらず、匈奴は退散して、漢軍は恐れて追撃できず城に縮こまっていたとある
これは後者が正しいであろう
匈奴は相手がそれなりの戦力で手を焼きそうなら戦闘はさける
勝っても大きな損害が出ては高くつく。野生動物が無用な怪我を恐れるのと同じだ
なお文帝が死んで景帝になると七国の乱がおこり、反乱側の燕王が匈奴と密約を結ぶ
燕王は雲中を平定し単于は長安を直行するというものだった
成功すれば単于が皇帝になれる
つまり中行説の謀は、いつでも長安を突ける匈奴騎兵の力を示したねらいがあった
匈奴を追いつめたら馬を全部取り上げてやったら以後脅威となることは
無かっただろう。
文帝が10万の騎兵で14万騎の単于を追い払ったあとも数年の侵攻が続き
被害が深刻なので単于に親書したところ和親を回復したいということで
ふたたび和議はむすばれ、文帝は「匈奴と漢は隣どうしの大国で仲良くしたい
ついては匈奴の地は恐ろしく寒いので、これを憂いて役人に命じ毎年一定の
衣類や食を送る。モチアワ、麹、金、絹織物、などである」
モチアワは現在の雑穀米などに入れて炊くアワでおいしい
「米」の漢字はもとはアワを指した。中原の漢民族にとって古来からのアワの食事で
げんざいでもアワの雑炊などは食べる機会が多い
アワを使った麺は4000年前の黄河流域から見つかっており鉄糸麺とされる
前漢ではモチアワがまさに漢民族の主食で、匈奴にとっても望ましい食料だった
コメはもともと華南の食で、後漢のころに黄河流域でも多く栽培されるようになった
景帝でも和親がかわされ国境の交易市場を匈奴の望み通りに開く
これで匈奴の民と単于もすっかり漢に随喜してなつき、国境近くにすんだという
武帝の代も方針は同じで贈り物も手厚かったので大満足だった
ただこれまでの経緯から、和親を結んでから辺境を荒らしまた贈り物をもらって
というサイクルで無数で繰り返されており、ロシアの北方領土の対話のようで
意味がない恥辱、と感じる中国の士人は多かったはずで、そこでいよいよ
武帝は「匈奴を追い詰めて馬を取り上げる」というこれまで試してない懸案に
とりかかるわけだが・・
アワ麺はまったく違和感なく中華ラーメンに使うことができ美味しい
前漢の武帝の政策で西域との交流で小麦がはいってきて、小麦がアワより生産性がよいため
小麦麺がとってかわる
ウイグルのラグメンは、とても人気ある料理だがラグメンはラーメンの始祖だとウイグル人は自負する
キルギスでも麺料理に馬肉をのせるベシバルマックが国民食とされる
羊肉でもいいのだが正統派は馬肉でいかにもシベリア遊牧民らしい
もちろんラグメンもキルギスに人気あるがびみょうにちがい外国料理だと思われる
おそらく匈奴が食った麺料理は馬肉をのせるベシバルマックがちかい存在のではないか
またキルギスではパロー、肉を炒めてコメをたくピラフも人気ある
ピラフはトルコ料理の代表だが(日本では西洋料理としてしられる)
中央アジア全域でピラフは食べられる
匈奴は南方食コメが入手できるまえは、モチアワを使ったはずなのだがピラフにしたかは不明だ
匈奴の地は恐ろしく寒いってあるが、タリム盆地なんかは寧ろ恐ろしく暑いぞ 特に夏
匈奴の首都はノインウラと代とされるが前漢の全盛期は
単于を始め、代あたりに住んだと思われる
文帝は「万里の長城のむこうは匈奴のおさめ長城の内側は
漢が治める」としてるが、前の通り
始皇帝はオルドスを奪い万里の長城をきずいたものの
匈奴はオルドスを奪回してる
このいきさつから黄河中域の長城は放棄されてる
それでもおおむね大同(代都)の北を覆うように、燕国まで
つながる長城はあったはずだが
このころ多くの城壁はくずれて荒れ果てたが景帝まではすくなくとも
匈奴和親条約があったので、北方を敵視した補修もされなかった
匈奴が強大の頃は代あたり、北緯40度の南に単于は住んでおり
漢と関係が悪くなり北に帰ったころは北緯50度のバイカル湖(北海)の東に単于はいたのだろう
長城の破壊の要因は近在の農民が家を作るために石材を盗もうと
狙ってることで、国家権力が弱まって長城の兵士がいなくなれば
たちまち盗まれ放題になってしまう
匈奴の帝国は広大で、東は烏桓、西は烏孫としたら、その国境は
インド(身毒国)のはるか北から北朝鮮に至ることになる
なお万里の長城は北朝鮮沿岸に食い込んでおり、ちょうど平壌が
長城のすぐ外に当たる
後漢には東方の長城もあれはてており烏桓が多く住んでいた
幽州の田疇(でんちゅう)はこれに激しく抵抗し山に登って隠棲した
おおくの民が田疇に従い大勢力になり各国の使節が訪れるほどで
やがて曹操が烏桓征伐にでると田疇はその案内役になる
その大きな功績から爵位を与えるとしたが固辞してる
役人が固辞する態度が頑なで不快として、死刑に値すると
曹操に進言したが、曹操は問題にしなかった。
匈奴は遊牧帝国なので小麦など農作物の入手は、中国のような交易市場で得るか
あるいは自分の領土で農作するかの手段がある
西域諸国の最大規模である車師は、オアシス国家においてふるく国力も大きく
数千の兵士をもっていた。ほかのオアシスが百人ほど兵にくらべて10倍ほどおおきい
首府である交河城は世界最大の版築できずかれた巨城だ
この巨城は1000年後にモンゴルの攻撃で破却された
車師人は西洋の文献ではヨーロッパ人種だとはっきりしるされる
匈奴の日逐王の配下であり西域諸国に賦税し豊かであった
国が大きいゆえに西方貿易で、匈奴に多くを輸出しており漢はこれをさしとめる
目的で匈奴と切り離すべく攻撃したとされる
スキタイ帝国も、農耕スキタイ(原スラブ人)は東方の王族スキタイに作物を輸出しており
構造としては同じと言っていい
ニューヨーク・タイムズ紙によると白人至上主義者は、牛乳などに含まれる乳糖を消化する酵素(ラクターゼ)の働き方が
民族や地域によって異なることに注目。
白人は牛乳を飲んでもおなかを壊さないが、それに比べアジア・アフリカ系では壊す人が多いことから、
集会で牛乳を一気飲みする動画を撮影し、「牛乳を飲めないなら(米国から)立ち去れ」などと投稿しているという。
なるほど白人は遊牧民の子孫だ
この苗字って・・・乾隆帝(ヌルハチ)?
ドルチ、北海道またくるらしいな。
なんたって日本の親分並みだからなw
白鴎の精神は見習うところばかりだな。
なんであんなに精神が強いかって、神に近いからだよ。
特別信仰するものがないのになんで神に近いのか不思議だよな。
日常の生活が沿って生きてるからだろう。
黒人の神の近さとおなじだけど、モンゴルの方が厳しい環境下だから強いんだと思う。
それでも恵まれてるのは食べ物だろうなあの体格を保つんだから。
野蛮なモンゴルを目指さないと腑抜けのままになる日本人は。
>>90 愛新覚羅姓は金だとか他の苗字に変わったんじゃなかった?
>>97 大鵬はテレビでも見てないけど、朝青龍の方が強かったって思うよ。あの時代だからなw
感情を表に出す力士はあまりいなかったしね。
朝青龍って初めて覚えた日本語が「(テメーコノヤロー!)チンコむしりとるぞ!」だよ
チンギスの目は猫のように大きく
背が高く、ひげはない
⊂_ヽ
\\ Λ_Λ
\(´Д`)
/ ⌒ヽ
/ へ\
/ / \\
レ ノ ヽ_つ
/ /
/ /|
( /ヽ
| |、\
| 丿 \ ⌒)
| | ) /
`ノ ) Lノ
(_/
匈奴はドルジ顔じゃない コーカソイドも混じってる
鮮卑は完全にモンゴロイド 習近平みたいな感じ
チンギスは900年前の人物で
キルギス(堅昆)が金髪碧眼という中国史書とそうとう容貌が異なるように
げんざいの蒙古人とは人種が異なっていただろう
このあいだ逝去されたマイクロソフト共同創設者のポール・アレン氏は
アレン姓はスコットランド系で、フランスで言うアランと同じ
欧州人のアラン名は、匈奴とともにローマに侵入した重装騎兵のアラン族由来とされ
理由はそれいぜんにアラン姓や名が存在しないためで
傭兵としてローマに味方したアラン王サンパギヌスの恩賞としてフランス中央をあたえられ定住
かれらはアジアの阿蘭国の末裔であると考えられる
中国の記録によると、奄蔡という国がある時期から阿蘭国と改名した
ロシア学者によればアランとはアーリア人組合という意味であるとされる
ふるいイランの王がエーラーン王、つまりアーリア王と名乗った
突厥の先祖はサカ
突厥と匈奴の先祖は同じ
サカ(スキュタイ)とアランはおなじもの?
つまり
やっぱりふしぎなのは言語の壁です
フン語は、古代トルコ語のブルガール語群
スキタイ人はスキタイ語をしゃべっていた、インドイラン語のサテム語系ととされる
ゴート人やゲルマンはゴート語、死語だが文献が多く古英語にちかい
ギボンによればアッチラはスキタイ王としており、フンの大帝国はロシアとドイツの土地にあった
当然部下にはスキタイ人は多かった。またゲルマン王が重臣として勤めていた
スキタイ人が現在のロシアに変化したようだが、ロシア語には東イラン語の借用語が多い
(神=ボーグ)など
アッチラはスキタイ語で演説したのか(でなければスラヴ系の農民は理解できなかったろう
あるいはゴート語で演説した(でなければゲルマン人の重臣たちは理解できなかったろう
なおフンは西ローマのラテン語に熟達していた
東ローマ帝国やオリエントで主要とされるギリシャ語を被支配民言語として軽蔑したという
西匈奴はローマ軍団をしたがえていたのだから匈奴はユーラシア大陸のどんな方言でも
自在に喋れたのだろうが
チンギス軍のジョチやバトウはペルシア語が喋れたそうで、アッチラもスキタイ語を喋り
それをゲルマン人も理解したという線が強いかな
それとも同時通訳でもいたのか
古代国家の言語は考えてみると面白い
匈奴が黄河のオルドス屈曲部、黄河中流の民で
漢民族は黄河下流にいた民
おなじ河に住みながら言語も民族も全く異なるのもふしぎで
日本人もいっけん中国人に似てるが遺伝子的には
北方モンゴロイドでバイカル湖のブリヤートに近いという
中国や朝鮮は南方モンゴロイド遺伝子が多く混ざる
まんがは知らんけどヘロドトス歴史を
下敷きにしてるみたいだが
あれはスキタイにかんしてはかなり
正確な資料とされてるみたい
>>114 レスありがとうです
このスレで顔はドルジとか金髪碧眼、食事は〜などイメージしやすい用わかりやすく説明してくださるので助かります
漫画もその傾向で初心者の自分には向いてて三國志も横山三國志から好きになったのでスキタイ絡みでヒストリエ読んでみようと思います
ありがとうございました
アッシリア帝国の滅亡に遊牧民スキタイとキンメリア人が文明国に乱入してきて
オリエントに居座って強姦や略奪やりたいほうだいやったためその記憶で
聖書に「スキタイ」といえば残忍な野蛮人、遊牧民とかかれるようになった
キリスト教徒はスキタイを嫌い、ちょうど近世に勃興したロシア帝国が
ロシア人=スキタイ(もちろん悪い意味)といわれ
ヨーロッパ人にとってスキタイ人やモンゴル民族が立てた国であったために
とくに西欧人は、アジア混ざりのロシア人に強い偏見を持った
それがアメリカ合衆国のロシア嫌いにつながっており
アメリカはロシア人の移民を法律で禁止した。それは100年前まで続いた
だからアメリカでのロシア移民の地位は大変低い
移民なんてダメなのは、すでに歴史が証明している
ローマ帝国時代にローマ人は奴隷や兵士育成のために、ゲルマン人を受け入れたが
やがてゲルマン人は権利を主張し、ローマ帝国内に侵入し、ローマ帝国は滅んでしまった
三国志の時代の中国の英雄たちは防衛のために、北方の異民族を受け入れた
(献帝を守った白波軍とは匈奴
《フンヌ》=フン族=後のハンガリー、フィンランド人のこと、
ウイグルや突厥に追われた柔然とはブルガール人、後のブルガリアのこと、
突厥がその後オスマントルコになるのは言わずもがな)、
しかし、三国志の統一も20年くらいで、
その後に待っていたのは、五胡十六国時代と呼ばれる中国が異民族に跋扈された時代が300年続いたのだ
ゲルマン人や北方異民族によって、古代ギリシア人やローマ人は滅び、古代漢民族も滅んでしまったのだ
今のイタリア人もギリシア人も中国人も元々は乗っ取った異民族の子孫である
今の日本人が現在のヨーロッパ人や中国人よりも、三国志の時代の中国人や古代ローマ人に親しみを感じるのはそれは当然なのである
寛容と人の良さが素晴らしい文化と発展を促したのだが、それこそが付け入る隙間を与えたのだ
その結果がローマも中国も暗黒の中世である
このように、移民なんて受け入れるのは亡国に自ら進むことと一緒である
今、日本に移民を進める人間は本当の日本人ではない、敵国のスパイなのだ!!
フィンランド人の平均顔面
日本人の平均顔面
だって生粋のフィンランド人てこれだからな
なぜなのか
アファナシェヴォにもモンゴロイド系いたみたいだから
匈奴にもコーカソイド系がいても不思議ではない
匈奴の末裔で一番血が濃い現在の民族や国てどこですか?
原テュルクならトゥバとかアルタイとかハカスとかあのあたりだろ?
フン=ブルガール同一系統説ならチュヴァシという考え方もできる
中国国内、ロシア国内に匈奴の末裔、どれくらいいるんだろう
フン族はササン様式の直剣を携えており、これはゲルマンに伝わりスマラサクスの起源、サクソン族の剣とされる
重い肉切り包丁だ
かれらの騎馬武装は槍と弓であり、巧みに持ち替えた。金箔張りの弓が高貴の証として重んじられた
小動物の毛皮を縫い合わせてカフタンとしてる。ローマはこれを野蛮として蔑む
ただしげんざいのモンゴルもリスやげっ歯類の毛皮をぬいあわせるのは一般的な民族衣装であるし
、北欧王族はロシア産のリスの毛皮を多数縫いマントの裏地とした
使用するキタリスが数百匹で非常に高価となるため貴族の紋章にも用いられる
リスの毛皮は緻密で大変暖かいという利点があり、ローマ人がどう思おうと北方民には賢い方法であった
フン族のよろいはラメラーアーマーだ。これは日本武士のよろい、胴丸に似たもので
打ち伸ばした薄い甲をつなぎあわせる。イラン系民族には標準装備だった
むしろ日本にラメラーアーマーを伝授したのは匈奴やサカ・アラン族だったかもしれない
東漢氏は崇峻天皇暗殺に暗殺の実行役となっており、蘇我氏の与党であったが、
壬申の乱の際には、蘇我氏と袂(たもと)を分かって生き残り、やがて坂(サカ)氏となり、征夷大将軍初代につく
東漢氏は独自の軍事技術を持っておりこれが理由であったらしい。この軍事技術が日本武士の原型となる
ゲルマン民族の剣、サクスは、西欧と東欧、フランスやロシアのあいだで広く出土しており
どこか原産地と特定するのは困難であるがフランク族の戦士が使っていた記録がある
フランク王のサクスは、少なくとも・・初期のメロヴンィグ朝のサクスは
ドイツ鍛冶の手により、ローマの剣よりも優れた鍛造技術でつくられていた
分析の結果、優れた鍛造処理、焼戻しの工程すら加えれていた
またドイツ鍛冶はアヒルの糞を加えることでマンガンを添加する試みもしていた
マンガンは河の水に多く含まれており、肝臓で分離されて糞に排泄される
したがって水鳥の糞には生体濃縮マンガンが含まれる
かなり高度のわざであるがこのようなローマより優れた技術が何処から教わったのか
といえば
やはり「沼に暮らしていた」というフン族は水鳥の糞の利用を思いつくのが自然である
匈奴、フンの剣が東方より伝わり、ドイツのサクスの原型であろうと思える
フン族、ペルシアに侵攻
ハンガリーに居着いたフン族は、アッチラの伯父ルギラ、あるいはロアという
テオドシウスは、ロアに年貢350ポンドの金塊を支払うことに決めた
帝国はパンノニアを放棄し進呈する
フン族の帝国はドイツとロシアを両方所有する唯一の例であり、北欧にも及んだ
北欧諸族ははじめてフンの帝国に毛皮など税を納め忠誠を誓う
この巨大な帝国がローマに襲いかかるか、あるいはペルシアに襲うか
世界がかたずをのんで見守っていた
フン王の重臣の幾人かが・・といっても彼らは強力なゲルマン王でもある・・
西帝国に派遣して攻守同盟の交渉の席でさいきん遠征の状況を語る
フン族は山岳地帯を抜けて15日、ついにメディア国境に達した
未知の大都市、バシック、クルクックにすすめた
じつはこのフン族のペルシア攻撃は資料が乏しく殆ど知れてない
ともあれ、そこでペルシア軍が襲いかかり、撃ち合う矢で天も暗くなった
雲霞の如き大軍に手こずったけっきょくフン族は撤退を決める
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これ見てもフン本隊はクリミア半島を攻めている可能性はあるが
コーカサスを越えて南進した可能性は低い
フンの分隊ならあるかもね
ドイツとロシアを支配する未曽有に巨大なフン大帝国としてはハンガリーに帝王の村を構え
ペルシアはもとより東西ローマを襲える位置にいた
イランは中国と並ぶ大国だが砂漠が多く緑は少ない。山岳地帯に囲まれ平地も少ない。
これは現代の旅行でも感想は同じで遊牧民としては征服のメリットは少ない。
また大軍の抵抗も熾烈。遊牧民は何十年も雌伏し機会を待ってから狼のように襲う
野生動物が怪我をおそれるように敵が強いと見ればスグ逃げる
ゴート族はいぜんからさかんにローマを攻撃し保証金をせしめることに成功しているが、
皇帝フィリップス・アラブスによって撃退された。ニコポリスでローマ軍を全滅させ
デキウス帝をも殺した。
ゴート王エルマナリクは一代で大帝国をきずいたといわれ暴君で知られていたが
非常に高齢だった。110歳と言われる。この弱みを突きフン族は襲いかかる
強い王は避けて、王が高齢化した代替わりの内紛を狙う。
王エルマナリクと王子は剣で自殺して娘はフン王の玩具となり子を産まされる
フン族はひじょうに慎重なので、ペルシアは攻めるには厳しいと感じ
また東ローマは城壁が固いので結局ムリと判断、西ローマを狙うことに決定する
フン族はペルシア人の多くの町を徹底的に排し大量のイラン人を拉致した
バハラーム4世はフン族との戦闘で同盟して回避したとされる
バハラームは矢で暗殺され兄であるヤズデギルド1世が立つ
ヤズデギルドは「罪人王」の異名を持ち大変優れた人物であった
間違い
?フン族はペルシア人の多くの町を徹底的に排し大量のイラン人を拉致した
○フン族はペルシアの多くの街を破壊して大量の人間を戦利品として連れ去った
フンもそうだがモンゴルも徹底的に敵の町を破壊するので遊牧民の特質かもしれない
ゴートも徹底的にやられ村は破壊しつくされた、と発掘調査であきらかだ
これをギボンは野蛮として非難してるが、まぁ当時のフンは、例えば日本で負けた武将が
腹切りさせられるようなもので、ごく当然の慣習、それほど悪意はない
中国陝西の犬戎や胡も、人をさらうのが目的であり、勿論奴隷にするのだが
奴隷は逃げるものでそれなら故郷を徹底的に破壊しつくしてみなごろしにして先に
戻る生活基盤をなくす、というのは合理的だ
おそらく遊牧民同士の戦闘法を国家間にもちこむとこんな形になる
サーサーン朝は、遊牧民パルティアを倒して作られた国家だから
遊牧民の弓に対する対策、戦闘法は得意だった
なにせ弓矢をはなってから馬で逃走するパルティアショットという言葉があるほどだ
西欧では敗者の捨て台詞というふうに使われるので、所詮はローマ農民兵の視点で
これも遊牧民の戦闘文化が理解されるとはいい難い
匈奴による漢土の略奪というのも、農産物とか財宝を持っていくのではなくて、
あくまでも人と家畜の略奪だったらしいね。
確かに遊牧集団間の紛争で価値ある戦利品といったら、敵勢力の持っている
家畜と労働力(遊牧労働力と冬営地における留守番農耕・工業生産労働力)が最適。
実際、匈奴は略奪してきた漢人農民を入植させた農耕コロニーを営んでいたことが、
考古学によって検出されている。
これがウイグル帝国ぐらいになると遊牧世界の中に商工民を入植させた城郭都市を
建設するようになり、契丹遼帝国では定住農耕地を「一国二制度」で永続的に
統治するようになって農耕民の生産力を継続的に吸い上げるようになる。
このシステムを洗練させて完成したのがモンゴル帝国。
その匈奴の農場だが、バイカル湖のほとりらしいですね
ここは重要地ともされるノインウラの北になる
古来よりバイカル湖は異民族の丁零の土地で
匈奴の本拠は千キロほど南のほうになるオルドスや代に居住していたようだ
代のあたりでも人間が住めないくらい寒かったので農民と遊牧民が雑居しているみたいです
匈奴の帝国は広大でどこにでも農場は設置できたものの
バイカル湖の農場は、漢の攻撃や、関係悪化を恐れてあえて遥か北、バイカル湖に置いたようです
あと漢族奴隷の逃亡も恐れたのでしょう
スターリン時代もポーランド人やウクライナ人は逃亡できないように極東に強制移住させたから
奴隷は「逃亡できない遠隔地に置く」のが基本でしょう
ただし、漢の農民は悪政と重税にあえいでおり「匈奴の土地のほうが生活は楽らしい」
といううわさがあり、逃亡・移住希望だったといいますが
匈奴の全人口は漢の一郡よりすくないらしいので、ほんの少しの農地で間に合ったようです
また車師国など西方の交易ルートから小麦など物資も献上されました(というかこっちがメインでしょう)
あくまで補助的な国営バイカル農場はそれほど大きくはなかったようで
一説には異民族の丁零にたいする軍事拠点として置いたのではないか?ということらしいですが
遊牧民は土地をひっかく農民を見るのを嫌いますから、もちろん匈奴だって自分の土地は全部使いたい、
異民族に対する一種の嫌がらせかもしれません
丁零は大雪で匈奴が弱り、苦しむと直ちに離反して攻撃してきます。おそらくですが
それ以前に匈奴の直営農場は何かの理由で、放棄されたでしょう
ギボンがもっともおそれたのは、フン族やモンゴルの、無文字文化の遊牧民のやり口
すなわち中央アジアの野蛮人は文明社会をその富と略奪するため攻撃してくる
たしかに西欧社会はトルコ大帝国の攻撃におびえておりウィーン攻略戦もありました
からやドイツが陥落すればフランスにトルコ人が押し寄せたかもしれません
もし将来、フンのアッチラのような残虐なアジア皇帝が野蛮人をひきつれて現れたら
そしてその思考内容がアッチラやチンギスそのものだったら・・・
すべての西欧文明を破壊し尽くし痕跡も残らない
あとは野蛮人の奴隷となるわずかな人間だけで人類文明は壊滅してしまう
しかしさすがにアメリカ大陸には攻略できないだろうからそこだけに文明は残るだろう
とギボンは考える
ですが
チンギスにせよアッチラにせよ都市を破壊し尽くすのは合理的理由があってのことなで
もちろん狂王であれば部下のフン族にたちまち離反されたでしょう
イギリスの無差別絨毯爆撃やら、アメリカの原爆投下をみるまでもなく西欧人だって
やることは野蛮人と大して変わりはない。異質文化は皆殺しです
第二次大戦の漫画読んでたら、
イギリス貴族がドイツ軍を「フンどもめ!」と罵る描写あった
イギリス人から見たらロシア人だけでなく、ドイツ人も東方の野蛮人なのかと思った
アッチラ大王はゲルマン人の王を配下に置く皇帝だからね
【超悪質!盗聴盗撮・つきまとい嫌がらせ犯罪者の実名と住所を公開】
@井口・千明(東京都葛飾区青戸6−23−16)
※盗聴盗撮・嫌がらせつきまとい犯罪者のリーダー的存在/犯罪組織の一員で様々な犯罪行為に手を染めている
低学歴で醜いほどの学歴コンプレックスの塊/超変態で食糞愛好家である/醜悪で不気味な顔つきが特徴的である
A宇野壽倫(東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸202)
※色黒で醜く太っている醜悪黒豚宇野壽倫/低学歴で人間性が醜いだけでなく今後の人生でもう二度と女とセックスをすることができないほど容姿が醜悪である
B色川高志(東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103)
※色川高志はyoutubeの視聴回数を勝手に短時間に何百何千時には何万回と増やしたり高評価・低評価の数字を一人でいくつも増やしたり減らしたりなどの
youtubeの正常な運営を脅かし信頼性を損なわせるような犯罪的業務妨害行為を行っています
※色川高志は現在、生活保護を不正に受給している犯罪者です/どんどん警察や役所に通報・密告してやってください
【通報先】
◎葛飾区福祉事務所(西生活課)
〒124−8555
東京都葛飾区立石5−13−1
рO3−3695−1111
C清水(東京都葛飾区青戸6−23−19)
※低学歴脱糞老女:清水婆婆 ☆☆低学歴脱糞老女・清水婆婆は高学歴家系を一方的に憎悪している☆☆
清水婆婆はコンプレックスの塊でとにかく底意地が悪い/醜悪な形相で嫌がらせを楽しんでいるまさに悪魔のような老婆である
D高添・沼田(東京都葛飾区青戸6−26−6)
※犯罪首謀者井口・千明の子分/いつも逆らえずに言いなりになっている金魚のフン/親子孫一族そろって低能
E高橋(東京都葛飾区青戸6−23−23)
※高橋母は夫婦の夜の営み亀甲縛り食い込み緊縛プレイの最中に高橋親父にどさくさに紛れて首を絞められて殺されそうになったことがある
F長木義明(東京都葛飾区青戸6−23−20) ※日曜日になると風俗店に行っている
まったく異民族である、アジア系のフンのアッチラ大王に、白人のゲルマンが服従したことは
まったく異民族である、アジア系のフンのアッチラ大王に、白人のゲルマンが服従したことは
まったく異民族である、アジア系のフンのアッチラ大王に、白人のゲルマンが服従したことは
異民族連合で西欧土着民に縁もゆかりもない。しかも見栄えも悪い異人が皇帝になる。確かに奇異なことに思われるが
しかし幾つかの理由が考えられる
・狄(テュルク)は長狄とも表記され孔子は身長6メートルだと言ってる
やたらバカでかい人が多かったらしい
フン族の頭が大きく手足が短く見栄えが悪いことは当時の記録に一致してる
しかし同時にフン族の戦士としての素質はきわめてたかく
ローマ最後の将軍スティリコの親衛隊はフン族であった
・ゲルマン諸王は生まれてから同じ白人しかみたことがなく田舎者
アッチラのような異人種の兵を携えた、自信たっぷりの人物
中華風の制度に権威づけされた皇帝は見たことがない
身長6メートルっていうと、北斗の拳に出てくる中ボスくらいかな?
弟子「人間の身長の限界はどのくらいですかね」
孔子「6メートルを超える事はないと思うよ。でも周代の長狄はそんくらいあったらしいけどね」
日本や中国では長ねぎは重要な薬味だったが、玉ねぎは無く
長崎のオランダ人は玉ねぎを求めて長ネギを購入したそうだ
現在のモンゴル遊牧民ではジャガイモと玉ねぎは重要な野菜である
玉ねぎはエジプトの労働者にも支給され青銅器時代からの歴史を持つ
原産地はイラン・中央アジアとされる。
イランはヒンドークシュ山脈を隔ててるとはいえ中国の隣だから
中国日本に伝わっても良さそうだが事実は地球を反対側に一周して
米国から日本に、台湾から中国へとつたわる
玉ねぎをことのほか愛好したのはローマ軍で精力剤として愛用し
ローマ人の拡大とともに玉ねぎ生産は欧州に伝播した
またアラブの旅行家がシチリアを訪れたとき現地民の玉ねぎ過食にあきれて
堕落した劣等民族だと断じてる
イラン人は玉ねぎ原産地だけに常に玉ねぎを持ち歩くと定評がある
ナマの玉ねぎを切って並べ食事にかじる
日本人は涙が出る刺激が強いというがイラン人はそんなことはないと笑う
インド人にも原種に近い紫の玉ねぎは欠かせないものでカレーなどに使うが
最近は安価な玉ねぎが高騰してキロあたり150円ほどになり
インドの貧しい農民に怒りが増しており政権も困ってるという
ゲルマン人やゴート人が玉ねぎやにんにくを大量に持ち込んでたべるために口が臭く
悪臭を放つ巨人にローマ人はうんざりしたという
もともとゴート人は原始農民であり、イランで盛んに生産された玉ねぎは栽培品目だろう
フン族はもちろん玉ねぎはしっていただろうが「パンのような軟弱なものはたべない」と
されるために玉ねぎを食べたかどうかは不明だ
ただ現在のモンゴル人は肉と玉葱まぜて饅頭・マントウに入れることをことのほか好む
モンゴルの征服でマントウが広がったとされるが、より原始的なフン族は食べただろうか?
バクトリア・マルギアナ連合、BMACは青銅器時代のオクサス川流域にさかえた
彼らは農民で城壁も作っていた。北方蛮族に潰されて四散し
インド征服しエラム(イラン)を建国したが玉ねぎはかれらがもたらした可能性がある
なお発掘人骨はベルベル人エチオピア人やアラブ人ユダヤ人など北アフリカに近い遺伝子で
まわりとは毛色が違う黒人王国であった可能性もあるだろう
また玉ねぎは7000年前の中国青銅器時代の遺跡でも発掘されており
意外だが中国が玉ねぎの原産地という推測もある
青銅器時代の殷人は商人ともいわれたように神権政治の他
キャラバン隊商を組む文明があり、錫は交易なくしては入手できない
かれらが月氏のようなユーラシアを横断する交易民であった可能性もある
殷の発掘人骨は母系ミトコンドリアに現中国人との類似は認められるが
いいかえると父系は現中国人と違ったということ・・中国は都合の悪いことは伏せる
まぁつまりそういうことだ
フランス王家の紋章は百合とされるが、このフルール・ド・リスはアヤメの花という
フルール・ド・リスが花なのか三叉の槍なのか矢じりなのか議論が分かれるが大して重要ではなく
493年フランク王のクロヴィスが王家の紋章に採用してフランク人の純血の象徴としたという
またブルグンド人の妻クロティルダがカトリック改宗をすすめ、そのさいに聖母マリアが与えたという
しかしこの紋章、じつはクシャーンのカニシカ大帝も全く同じものを用いており、もとはアジアが由来
大月氏の紋章であった。フランク族がフランスに侵入するアランやフンなどアジア騎士文明にふれて
これは良い紋章だと採用したものか不明だがそもそもゲルマンは原始農民で刀や鎧を作ることはできず
オルレアンに移住したアランが鎧や武具を製造して騎士文化をつたえたという
また日本の武士もこの紋章を採用していた。これもサカや月氏の傭兵が朝廷に仕えたためだろうとされる
実際のところフルールドリスは12世紀にルイ六世あたりから紋章や笏につかわれはじめた
はじめて確認できるのは1211年だという。まぁ月氏のほうが一千年古いわけで
カニシカ王はコインの図案では日本刀のようなスマートな曲刀をを得意然とぶらさげた覇王としてえがかれる
>>149
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|;:ヽヽ l::l ヽ ;:.... .. .. : /l::l ノ ,.イ
|;:;:;:;\\ l::l ', :;.:;::::::::::..::. / l::l,r'' /;:;:;| 西洋人の人名に多いカール・チャールズ・シャルル(女性形キャロライン・カトリーヌ)
は西欧の父祖ととされるカール大帝・シャルルマーニュが由来とされる
ちなみに英語圏でもシャルルマーニュで通じるがドイツ人は頑固にカールという
さてカールという男子名はたんに北欧で「農民」といういみで貴族は「ヤール」という
つまり農夫王といういい名前であったわけだ
メロヴィング王朝の宮宰カールマルテルだからカロリング王朝というわけだが
カロリング家が宮宰になれたのは、フランク王キルペリクが横死したあと幼い子ども
を補佐するために政務代行が必要となり
貴族がメッス司教アルヌルフの子であるピピンを宮宰に指定したのが始まり
まぁこのへんは全然よくわからないわけだが、メロヴィング朝は異民族に寛大で
大公や騎馬司令官に非ゲルマン人のガロ・ローマ人、奴隷上がりの卑しい人を
採用しても平気だった。ただし彼らはゲルマン名に改名し金髪のかつらを被る
これがフランス貴族が巻き毛のかつらを被る由来だ
フランク王族は大都市の司教に送り込まれた。これが一番美味しい職で
メッスはケルンと並ぶ帝国都市でさかえておりアウストラシア首都でもあった
この野蛮人の司教たちはきわめて邪悪で野獣のようにふるまい最終的には
王家をのっとるにいたる
フランクやバイキングの兵士といえば全員斧・フランキスカをもってるイメージだが
じっさいは棍棒が多かった。そもそもゲルマン原始農民に鍛鉄技術はない
バイユーのタペストリにも多くの兵士は棍棒を持ってる
中央アジアの重騎士文化は、アランやサカ・スキタイは棍棒をこのんだ
それなりに鎧を着ていても棍棒の打撃は有効だからで
ギリシャ・ローマは棍棒を蛮族の武具としてきらっていた。ひとつには
スペイン鉱山から金属剣が供給されたせいもある
ゲルマン大移動がはじまり、アランやフンなど中央アジア遊牧民がなだれこみ
ゴートやゲルマンが大量にローマにすみつくようになると
やはり棍棒は重要な武技として復活した
ローマ人の想像ではフランクのような蛮族が「まさかりで脳天を叩きつける」というもの
でありこのイメージでしばしば語られる。実際かれらは棍棒が多かった
モンゴル高原から中央アジアにかけてのステップ地域ではサカやスキタイ、トルコ・モンゴル騎兵が
メイスやウォーハンマーを愛用する
フンのアッチラが住んだハンガリーでは「玉ねぎ型」の棍棒がつたわってる
これがフランスやイギリスで貴族が王の持つメイス・王笏となる
また月氏・クシャーンのフルールドリスの紋章はあんがい玉ねぎ型のメイスにあったのかもしれない、ということだ
>>150-151 >イランはヒンドークシュ山脈を隔ててるとはいえ中国の隣だから
>中国日本に伝わっても良さそうだが事実は地球を反対側に一周して
>米国から日本に、台湾から中国へとつたわる
>また玉ねぎは7000年前の中国青銅器時代の遺跡でも発掘されており
>意外だが中国が玉ねぎの原産地という推測もある
だからどっちなんだよ!?書いてておかしいと思わんのかおめー
そこが玉ねぎの不思議なところで
当初、日本ではくせが強いとして玉ねぎは嫌われていた
それで長ネギが主流となったのかもしれない
イラン由来のたまねぎをたべるトカラ人や羌はあったにしても途絶することはアリエル
始皇帝の墓はイラン系人骨が多く出ることから秦人が玉ねぎを食わないとは思えす
始皇帝は食ったのではないかと想像してる
またチーズ乳製品発酵食品は古代中国の料理書にはっきり記載されてるが
鮮卑系の遊牧王朝のときにはやむなく食ったのだろう
また日本にも乳製品は醍醐味としてつたわってる
いまの中国人はチーズを嫌う、豆腐というものがとってかわったこともあるが
そもそも中国人にチーズの風味はあわないのかもね
むしろ日本では長ネギの特殊性について注目したほうが良いかもしれない
「ねぎは世界中どこでもある、うどんに入れる薬味だ」という常識について
長ネギは中国と日本いがいでは殆ど使われない
ロシアでは植物が貧困なのでサラダに使うそうだがほぼ東アジアに限定され
その中国の長ネギの歴史は2000年ほどしか無い
玉ねぎは7000年以上前から登場してるから長ネギは新しい食物だと言える
トルコでは長ネギは中国文化だとあっさりといい
イタリア人は長ネギ原産地はシベリアではないかと推定してる
つまりシベリアの匈奴人や丁零人が中国に持ってきたのかもしれない
ロシアの博物館らしいが匈奴の衣装はアイヌ民族衣装に似てる
アイヌの分家の諸民族はシベリアにたくさんいるから妥当かな
>>159 分家ってよりはアイヌがシベリア系民族の分家かな
日本に12世紀頃入ってきたシベリア系と東北の縄文系が混雑して
生まれたのが今のアイヌの先祖
>>156-158 つい最近までタマネギの野生原種は不明となっていたんだが、
比較的最近、2007年に発表された論文でイランとトルクメニスタン国境の
コペトダグ山脈山中の狭い範囲にだけ自生する Allium vavilovii から栽培化されたことがほぼ確定している。
https://scholar.google.co.jp/scholar?cluster=10961927123141812068&hl=ja&as_sdt=0,5
また、ネギの野生原種はシベリア南部からモンゴル北部にかけて分布する Allium altaicum だが、
1999年に発表された論文で、栽培化の原点はモンゴル北西部の限られた個体群に由来していることが
示唆されている。
https://scholar.google.co.jp/scholar?cluster=9340025453307044304&hl=ja&as_sdt=0,5
アイヌは温暖化の時期に南から来た縄文人がオホーツク人から寒冷地での生き方を学んだわけだから文化としてはシベリア系が濃い
ソ連は中央アジアの歴史研究はねっしんで発掘資料から復元してるから確かなものだろう
匈奴がアイヌみたいな、北海道ラーメンの鉢の縁取りみたいな衣装を着ていたとしれば
原点・起源は匈奴服であり、そこから最新ファッションのように辺境テュルク族に伝わり
パリの最新モードのようにアイヌが喜んで着たのじゃないー
もしかすると中国人が当時そんな服をきていたのかもしれないが?
宇宙戦艦ヤマトの沖田艦長や古代が着てるPコートってやつは
もとはフランスの漁民がきていたウールコートで
まぁイギリスの漁民はダッフルコート着ていたそうだから、おしゃれだ
しかしなぜかピーコートは
アメリカ海軍士官の制服になりソ連秘密警察もPコート着ていたから
一種の権威になってしまった
匈奴が権威象徴とみなされた時代、匈奴支配うけたシベリアは、当然真似る。
アフリカの黒人判事がフランク族を真似て金髪のかつらを被るように
zzガンダムでアフリカ人は白人をフランクと言ってたな
中華ラーメンの鉢のように、細部にこった文様をやたら付与することは
デザインの世界では幼稚なやり方とされておりまして
匈奴服のふちどりは、おそらく太陽と月をかたどったもので
麒麟ビールのような模様もありますね
ただし当時としては王様クラスでしか着ないような絢爛な衣装で
革に金属プレートを鱗のように打ち付けたスキタイ・ゴート族は
アイヌ服を着たアッチラをみて「凄えオシャレだ」と感じた可能性もあります
Pコートって80年代の高校生とかに流行してたの知ってるか
こないだやってたNHKBSの万里の長城特集やってたけど
まあ当然、匈奴や突厥の話なんかも出てきたな
https://www.afpbb.com/articles/-/3223940?act=all げっ歯類の腎臓を生で食べた夫婦、腺ペストで死亡 モンゴル
【5月7日 AFP】モンゴル最西部で、げっ歯類のマーモットの腎臓を生で食べた夫婦が腺ペストにかかって死亡したと、当局が6日、明らかにした。
今月1日に亡くなった夫婦は、ロシアと中国と国境を接するバヤンオルギー(Bayan-Ulgii)県の住民で、民族的にはカザフ人。地元自治体は、「2人の後に報告された感染例はない」と発表した。
国立人獣共通感染症センターによると、モンゴルでは毎年腺ペストで死亡し、その大半の原因がマーモットの生肉食。(c)AFP
>>170 それ俺も見た
現在の長城は主に明時代に造られたもの
知ってはいたが詳しく放送してくれた
過去スレ見れなく散々ガイシュツでしたらすいません
鐙(あぶみ)について何か関連のお話がありましたら気長にお待ちしてますのでご都合の良い時にでもよろしくお願いいたします
3万年前のライオン、氷漬けで発見 シベリア
シベリアの永久凍土から、氷河期に生息していたホラアナライオンの赤ちゃんとオオカミの頭部が氷漬けの状態で見つかったと、ロシアと日本の共同研究チームが3日発表した。
いずれも約3万年前の個体で、表情が分かるほど「奇跡的に良好」な保存状態だという。
発表によると、ホラアナライオンの赤ちゃんは昨年7月、シベリア北東部の川の近くで見つかった。
体長約40センチ、体重800グラムほどで、生まれて間もないとみられる。
オオカミは2〜4歳で牙や顔の毛が残っていた。
いずれも寒い地域に適応して生きていたらしい。
2体をCTで調べた東京慈恵会医科大の鈴木直樹客員教授は「筋肉や内臓、脳などが良好に保存されている。いまのライオンやオオカミと比べることで、当時の運動能力や生態を明らかにしたい」と話した。今後、DNAも調べる。
チームはシベリアで調査を続けており、2015年と17年に計3頭のホラアナライオンを発見していた。
ロシア科学アカデミーのアレクセイ・チホノフ博士は「極めて厳しい極寒の環境で、生まれてきても生存率は決して高くなかっただろう」と話した。(米山正寛)
朝日新聞デジタル 2019年6月3日 19時27分
http://news.livedoor.com/article/detail/16561188/ 鐙はもともと月氏やスキタイが利用していて発明されたのも恐らく中央アジアや北インドだった
ただ、片側だけにつけて、馬に乗る補助具とされた
これはスキタイの女性が男と同じく騎馬にのって戦闘に参加する風習から考案されたとも言える
またスキヤイやサカはすぐれた重騎兵、装甲兵であったからのりこむには補助具も必要だった
西洋の重よろいの騎士も、鐙の利用ががおおいに影響してる
スキタイ式の片鐙が、もともと騎馬には不得意な中国で貴人用してつかわれ恐らく補助からはじまり
大いに発展して鐙となった
匈奴はもちろん月氏から西方の知識として知っていただろうが鐙は使わなかったようである
というのは遊牧民は全員、騎馬の技術にすぐれてそんなものは必要なかったし
もともと非装甲の軽騎兵なので必要に薄かった
それと鐙には大いに問題があった
鐙を着けていると、落馬したときに一回転して頭部や上半身から地面にたたきつけられることになり
おおいに危険なのだ
有名人は源頼朝が落馬して死んだのが顕著な例だろう
というか
近代競馬界でもプロ騎手が落馬して死んだあるいは再起不能になった例は数え切れないほど多い
ようするに鐙は危険なもの、馬に乗れない素人の補助具だとわかっており
しかも日常的に落馬が避けられない遊牧民には致命的だ
これが「誰でも道具は思いついても」匈奴のような蛮族には、そう簡単に実用化しなかった理由で
むしろ馬に乗れない貴族や農民ドモを速成で騎馬隊に仕立てる必要のある中国や日本で
危険は承知で採用され、急速に発展した理由であるだろう
飢餓状態の北朝鮮、国境警備隊が中国に越境し食糧略奪
https://www.news-postseven.com/archives/20190727_1415739.html 北朝鮮は深刻な食糧危機に見舞われており、朝鮮人民軍国境警備隊が越境して中国の民家などに押し入り食糧を略奪する事件が多発していることが明らかになった。
中国側でも中国人民解放軍が警備を強化しており、両軍が戦闘状態になっているところもあるという、昨年は猛暑や洪水が重なったことから490万トンを割り込み、
今年の北朝鮮の食料配給量が大幅に減少。北朝鮮では人口の3分の1に当たる850万人が飢餓状態に瀕しているという。
事態を重く見た金正恩・朝鮮労働党委員長は災難用の備蓄米などの戦略物資を備蓄している「5号倉庫」を開けて、国民の配給に回したが、すでに枯渇してしまった。
その後、軍事備蓄用の「2号倉庫」も開放したというが、それもすでになくなりつつあるという。
北朝鮮指導部は物資を優先的に提供している軍に対しても食糧を供給するのは難しい状況で、1200kmに及ぶ中国との国境の警備を担当する北朝鮮の国境警備隊に対して、
「1カ月分の食糧を自主的に解決せよ」との指示を出したという。
北朝鮮と国境を接する中国の遼寧省や吉林省では自衛手段として、農民らが銃を常備したり、警察や軍に警備の強化を要請している。
侵入してきた北朝鮮軍と交戦になることも少なくない状態で、中国も人道支援との名目で、北朝鮮に対して、食糧を緊急支援しているという。
匈奴と漢みたいなもんかな。そのうちコンクリートの長城でも作るのか
勉強になりました
わかりやすい解説ありがとうございます
フン族は木製の硬式鞍を使っていた
あぶみは、まず木製の硬式鞍が前提でそこから革紐を垂らすから
フンが革紐式の鐙をつかっていた可能性はあるが時代としてはやや早い
また木製の硬式鞍は中国日本で最初もちいられてのちにテュルク民族に広がる
匈奴は軟式鞍だった。まず月氏の発掘資料やら秦の騎兵のようすからみて
軟式がおおく密接な関係がありそうな匈奴も、まず同じであると考えられる
ノインウラの匈奴の墳墓でも皮にフェルトをつめた軟式鞍が出土した
墳墓の絵からすると匈奴の王は口ひげを持ち、大きな目と鋭い鼻、きびしい表情
ややウェーブの掛かった長髪、三つ編みである
トルコの冒頓単于、メテの肖像もこれがもとになってる
アジア遊牧民に多い辮髪も(日本武士の月代もやはり辮髪の一種、モンゴル式に近い)
匈奴のように長髪を纏める手段として三つ編みにしてるタイプが多い
またアメリカインディアンも匈奴のような三つ編みの長髪が多い
遺伝的にもインディアンと日本人と共通するものがあるがかなり古代から
東アジアからアメリカにかけてこの三つ編みが主流だったようだ
ネイティブインデアンは短髪を強制され近代で先祖の長髪に戻すことが流行した
ヒッピーの長髪はこれに由来する
つまり冒頓単于=ヒッピー、長髪のオッサンみたいなかんじだったかも
匈奴の武器だが、やはり短剣だったようだ
そもそも匈奴の法律で、喧嘩で刀を一尺抜いたら死刑、というものがある
一尺といえば30センチで、カウボーイなどが家畜の解体で日常必要なナイフは
せいぜい5インチ、つまり12センチ位だったそうだから、そんな長物は必要ない
やはり獲物の解体や食事に使うていどのみじかい短剣は必要で
それなら抜いても、こわい単于に怒られて死刑にされることもないわけだ
そのせいか匈奴の貴族は短剣をもっていた
ただし重ねは厚く、頑丈で、幅広である。重い必殺武器だ
スキタイの短剣もこれに近い様式だ
匈奴の墳墓からでたY遺伝子はR1aとC2のふたりで
一人はイランや東欧に多いタイプ、おそらくソグド人(月氏)
もうひとりはげんざいのモンゴル人など多いタイプ。シルクロードからアジア遊牧民の多数派
C2は日本にも居るがアイヌと九州のみで、本州人だと1%程
予測通りというか、彫りが深いとか緑目だとかでスキタイの血が入っていないわけはないし
オルドス西半分はふるくから月氏の勢力だったと言うから、繋がりは濃い
月氏を滅ぼした後も匈奴19氏族のいくつかは恭順した月氏といわれ人口的には
匈奴よりずっと多いと推定される。敗亡後は国境や辺境におしやられた
羯族がそれだが、中国北部に居住したとされ司馬仲達も警戒してる
いちじは羯族も中国王朝をたてるが、あまりに顔立ちが違うため人種差別されて虐殺された
エニセイ川からも匈奴の石膏デスマスクが出土してるがロシアは白人だ!というものの、
そうはみえない。一つがほっそりした顔、もうひとつはデブの中国人にみえる
匈奴と漢は文化の違いが甚だ激しく、匈奴は漢を偽善だといい、漢は匈奴を露悪だといい、互いを罵り合った。
匈奴人曰く、漢人の偉そうで賢しらなところ、偽善そのものだ。あのように臭いものにフタをして何が文明だ気持ち悪い!と。
漢人曰く、匈奴人の野蛮さ露悪さはどうしようもない。まるで獣だ。と。
露悪と偽善は実に馬が合わないが、本質的に全く同じだからこそ同族嫌悪で憎み合うのだ。両者は、自分たちがどちらも同じだと気づかなければならない。
冒頓単于は劉邦を包囲しても
「隣り合う国同士で苦しめ合うのはいかがなものでしょう」
「そもそも劉邦を殺しても漢を占領しても、匈奴は中国に住めません」と閼氏にいわれ
講和に転換した、もともと劉邦を殺すかどうかそのあとの始末に悩んでたんだろうが、
皇帝にふさわしい大物に思える
匈奴の民族的な求心地はオルドスや代
丁零、テュルクの王様はどうもかなり西の方に住んでいたようで。
堅昆が先祖と言われる、でもバイカル湖のほとりともいう、
どのへんが中心なのかわかりにくい。とりあえず西方民族ぽい
キルギス、堅昆は10万騎ともいわれ無視できぬ大勢力だが
柔然、西突厥の代になってもキルギス、堅昆は独立勢力だった
人は背が高く緑の目で赤髪のコーカソイド、黒い目は不吉と忌む
また水晶のような瞳、赤い髪ともされる
黒い目のモンゴロイドは匈奴の右賢王である李陵の末裔と称する
なぜか女が多く男は少数だったという。女は強く男の寿命が短い?
今のロシア人を思わせる
堅昆の酋長は3人おりイルテベルという。のちに可汗を称する
キルギスの王は貂の帽子をかぶり、貴人はユキヒョウの毛皮帽
平民はフェルトの帽子をかぶる。婦人は錦や綾を着る
君主は小麦でつくる餅を食べる(マントウ?)民は獣肉のみ食う
水草を主神として祀り、「甘」(カム)と呼ばれる巫女がいる。
【ハゲ】南アフリカで大ブーム!タマネギジュースでやっぱり髪が生えてきた!?
http://2chb.net/r/newsplus/1569843980/ ヘロドトスがエジプト人とペルシアの戦争で
エジプト人は禿がいないのにイラン民族は長帽子を被るために禿だらけだと言う
未だ正体不明の匈奴語についてだが、三国時代の呉の資料によると
扶南国の言語が匈奴の言語によく似てるとある
扶南はカンボジアにあったクメール系国家だが、割と長く続いてる
その官僚はインド系が多く採用され、言語はクシャン語であった
クシャーンのカニシカ王はパルティア帝国と戦い、9億人を殺したとされるが
ローマ帝国を脅かし撃破したパルティア騎兵をやったあたりに
クシャーンの勢いをみることができる
クシャーン帝国の言語はバクトリア語だが、これもほぼ正体不明で
ただし最近は大量の文書発掘によって研究が進むはずだ
ともあれクシャン王族は月氏であるから、つまりは匈奴も月氏と同じ
ことばをを使っていた可能性がより強くなった
まぁ冒頓単于のころは、匈奴の住むオルドスに月氏王がいたらしいうえに
匈奴の王子が月氏に人質になっていては、言語の共通性は当然なのだが・・・
カニシカ王が都を構えた、ペシャワールは、パキスタン北部の古い都市であり、ガンダーラ王国の都でもある
当時としては世界でも7大都市にかぞえられる人口稠密地だった
アフガニスタンは、古代バクトリア国のバスク州にあたる、ゾロアスターのマギの大僧正がおり、
かれらはサーサーン王朝の尊敬をあつめており、またメソポタミアで最も豊かな部分は
ゾロアスター教に荘園として寄進されていた。
長年の伝道で物質的な富をあつめて繁栄を示してる
ペシャワールは地理的にはアフガニスタンの前門であるカイバル峠からほど近い
バクトリアをおさえ、インド平原にもひろがるためには、長安と洛陽のように便利な土地であった
なおパキスタンの首都イスラマバードはペシャワールから車で数時間だがごく最近に作られた
人口都市である。やはりインドや中国との紛争を抱えるカシミールに軍隊を送るため
軍人大統領が旧イギリス軍の兵舎があるこの地に首都をおく
ペシャワール峡谷の繁栄は、まずもって重要な商業地、商人都市であった
バクトリアは東西交易の拠点として、ペシャワールはアフガニスタンへのカイバル峠
の拠点として商人の休息地である
またこのあたりの古い都市のバザールは大変人間臭いものである
ガンダーラを支配したインド系ギリシア人王国は貴族と奴隷(アーリアとダーサ)があり
ギリシア人は階級が入れ替わることがあった、これは当時のインドには驚きであった
「…王は政治を行い、世を指導する。…彼は無垢白色の白傘を掲げる。…」
仏教にいたく帰依して出家されたというメナンドロス1世の死後は国がみだれ
黒い混血ギリシア人(カーラ・ヤヴァナ)は白い肌の大月氏の侵入によって滅びる
ギリシア人は犯罪的ともされるほど辣腕の商業民族だが
たとえば陝西の古いシルクロード都市、敦煌などは月氏が建設したとされる
ソグド人は匈奴よりは商業のうまみに比重を置く
月氏はユーラシアの交易民であり遊牧民であるのでクシャーンのカニシカ大王の
もとでペシャワールは大いに経済伸長となるも実利に重みを置くバランスの良い統治であった
クシャーナ朝は最初、征服したギリシア人都市の利便を重んじてギリシア語を使用していた
カニシカ王の碑文によると彼の功績としてイオニア語の使用をやめさせアーリア語つまり
バクトリア語を公用語にかえた。文字としてはひきつづきギリシア文字を使用した
このおかげでバクトリア語はイラン語系では唯一ギリシア文字で記述される
クシャーナ朝は勢力伸長につれバクトリア語もインド北部からアジアのトゥルファンまで使用された。
ただしバクトリア語(アーリア語)については死語であり現在ほとんどわからないが
考古学発掘で今後解明が進むであろう
この月氏のアーリア語、匈奴も利用したことは確実であろう
カニシカ王はその行為により、彼が支配し統治したすべての人々から尊敬され、
あらゆる面で彼の優しさ、謙虚さ、平等と、善の感覚のために
カニシカ王の偉大な性格は彼の名前を不滅にし、「王の王」と見なされた
カニシカ王の領土は西はタジキスタン、東はタリム盆地の死砂漠、ホータン、カシュガルに及び
カイバル峠のペシャワールを中心として南はパキスタンの沿岸都市におよんでいた
このような都市征服の目標ははっきりしてる、冷徹な統治原理で動いており
その最終目的地は東西の隊商の拠点、海上通行をもおさえて利益を吸い上げることにあった
唐がここまで勢力広めて戦い敗れ、紙が西に広まるてのも
東西文化はスプーン(匙と箸の文化に分かれると言うが
スプーンはローマ帝国ではふつうにつかっていたものの、その後はヨーロッパでは消滅
ながいあいだヨーロッパは手づかみで食べることになる。
戦国時代の宣教師は「ヨーロッパ人は手づかみで食べるのに日本人は箸を使う」と記録してる
なお日本では縄文時代に匙を使っており宮中料理にも匙は添えられたが平安時代に一旦消滅してる
中国ではふつうにつかわれるので不思議だが寺院は使っていたらしい
フォークは欧米では東ローマ帝国の発明であるとされる
なお4,000年前の甘粛省の遺跡ではすでにフォークが発掘されて見つかってる。古代エジプトでも
フォークは使われるので東ローマはおそらくシルクロード伝来である
フォークの以前はせいぜいナイフとスプーンの文化であったらしい。イラン遊牧民式である
モンゴル遊牧民では小刀と箸であるが・・・フォークより箸のほうが清潔にできそうではある
東ローマの皇女をもらったヴェネツァ共和国のドーチェ(元首が婚姻を通じてイタリアにフォーク広め
大銀行家のメディチ家、ロレンツォ・デ・メディチもフォークを愛用し
イタリアからフランスに嫁に行ったカトリーヌ・ド・メディシスがフランスに広めた
とはいっても、カトリーヌが使ったフォークはイタリアの芸術家がデザインしたもので
富の象徴であり、田舎のフランス貴族に見せびらかし、彼女はこれを背中を掻くのに使ったという
やっぱり食事作法を知らない野蛮人の使い方はそんなもんよね
いぜんとして庶民は手づかみが多かったが、このころヨーロッパ上流階級では贅沢品として
スプーンやフォークが使われはじめている
ナポリ王国では、熱いパスタを食べるときに木製のフォークが必要であるとされた
だが、カトリック教会がフォークが悪魔の尻尾であると言い立て反発、フランスの太陽王ルイは
城内でのフォークの使用をはばかり、旅行の食事でのみ使った。
古代のフォークは2本枝が多かったがやがて3本、4本と増えていき
げんざいの曲がったフォークはドイツで発明されたとされてアメリカでひろまり
やがて西欧ではこれが標準となる。意外に歴史は浅い
ナイフとフォークのセットを使い始めたのは約200年前
景帝のとき大臣の晁?は帝国に安泰をはかり対匈奴軍事策を具申した
・漢が歩兵がいまだ主であり匈奴とたたかうにはおなじ騎兵を揃える必要があり
「野人をもって野蛮人を撃つ」降伏した匈奴をもちいて匈奴を撃つべきだ
つまり、降伏した騎兵を漢軍に組み込む政策を提唱
・匈奴の婚姻政策も終止すべきだと支持した
それは「漢が文化的に高度であり匈奴の低次文化を従える」という儒教視点ではなく
もっと実際的な弊害を除くために反対した
晁?は匈奴和親条約が実際には機能せず、しばしば襲撃略奪がおこるため
・盟約が通じない相手に契約など結んでもしかたない、という意見だった
じっさい武帝において匈奴和親条約が破棄されて匈奴帝国を崩壊させるため軍事行使にうつる
晁?は次に考えたのはどうやって匈奴を破るか
・匈奴と漢の戦術を比較
匈奴の騎兵はつよい。しかし訓練を積んだ歩兵なら騎兵が通用しない馬からおリる戦闘なら
漢の歩兵でも破ることができると考察
馬に乗った騎兵は起伏のある地形は機動力に勝り弓もすぐれてる
しかし平地の都市戦では遊牧民も馬から降りる。歩兵戦が訓練されていない
また匈奴はレザーアーマー、革の鎧と木の盾しかもっていない
漢が歩兵が鉄鎧と鉄盾なら防御では有利である
(ローマも市民兵は自費で馬を買うのは高価なので、安上がりにおなじようなことをかんがえた
じっさいはローマ重装歩兵は、ハンニバルの高価なプロ傭兵やヌミディア騎兵にぼこられた)
匈奴騎兵のロングボウにたいしては、短弓で連射すれば対抗できると連弩も考案発明した
晁錯は法案を具申した
帝国の他の地域からの遠征隊の兵士は、匈奴族の性格を理解していない
国境地域に永住者を定住させる必要があります...政府は移民のために家を提供します。
そのような国境地域の移民のために、政府は高い城壁、深い堀、カタパルト、とげで十分に保護された
城壁都市を建設します。各都市は、大通りに沿って、1000世帯以上を収容するように設計される
都市は、200メートル離れた内壁と外壁を持ち二重の壁でまもられる
外壁エリアの各住宅地は「砂地もしくは畑」に囲まれ、夜間の敵の侵入を検出(侵入者は畑に足跡を残す)
帝国官吏は、移民が到着する前に家を建て、農業用具を提供。また、移民が自立するまで冬と夏の衣類と食料を
提供します...政府は独身の移民のためを妻やどれいを購入し提供してあげる
帝国は相応の階級を与え、彼らは課税から免除されます。
最初に普通の赦免された囚人をおくり、次に貴族の荘園から購入する与えられた奴隷、
そして次に行きたいと思うすべての一般人を登録し。
国は、匈奴襲撃を止めた人に報酬を与え、敵から奪った土地の半分を与えます。
地元に根ざし、密接につながり、相互に支援され、野蛮人に対して軍事的に団結したフロンティア
コミュニティを構築できるため帝国は安泰となる。
この防衛システムは、首都の皇帝親衛隊の派遣に頼るよりもはるかに効果的なはずです
武帝は晁錯の法案を採用し、のちに修正をくわえる
フロンティア都市は、水資源と豊かな耕作地の近くに位置
住宅にはそれぞれ寝室が2つ、居間が1つあり、家具と必要な器具が完備
庭には木が植えられる
政府は健康管理の医師とまじない師を各都市に雇い入れる
5つの家族を構成し、5人組の長が率います。リーダーは現地の状況に精通し、
人々の心を最もよく理解している移民の中から選ばれます。
男性は平時に軍事訓練を受け、これらのリーダーの下でグループとして
1人の匈奴兵にたいし5人で掛かる
5対1で戦闘する。
すべての移民は、政府の許可なしに地域を離れることをきびしく禁じられる
漢代の辺境の城塞都市は発掘品から想像できますが城門は3階建て
一階は門になっており、兵士が、扉を閉じる
そのうえの二階に多くの兵士の詰め所があり
下には弓をうつ縦長の開口部があり交代しながらたえまなく射撃できた
3階は見張り台・指揮所で隊長はそこで見張り、指揮した
狭い詰め所があり見張りの兵はそこで暖を取った
もちろんそのうえにも寺院のような屋根があるので雨天でも監視できた
晁錯はわかいころ法家をまなび、文帝から命じられて始皇帝が破壊した経書の研究を努めた
法家・儒学を修めた晁錯は文帝の引き立てで景帝の教育係になる
したがって第一の賢人では有るが軍事面ではいくつかの疑問は有る
たとえば匈奴騎兵の皮の服は弱いとした
さいきんのイングランド弓兵の実験によれば、たしかに厚い革はロングボウで容易に貫通される
矢の刃先にはノミのような刃物が付いてる
鎌倉武士のやじりは刃物のようで猿の首くらいはすっ飛ばす威力があったが
このようなするどい矢で、これで長弓でうちこむのだから革の鎧などひとたまりもない
しかし第二の実験で革をニカワなどで煮込んだ、いわゆる硬いハードレザー
これは貫通できない
もちろん匈奴がこのようなハード処理したレザー製作法を知らなかったわけはない
モンゴルも革鎧はもちいてた
単に鎧としてのみではなく防寒の機能もあるため、北東アジアの寒い地方では特に好まれた
中世ではイギリス貴族などが家紋を打ち出したハードレザーを愛用したが需要が少ないために高価だった。
日本でも革の武具はしられていて仏教の殺生戒から一部の武士が幕府の認可を受けて
彦根藩は革の武具を作る名目で近江牛をころし味噌漬けにして「薬」として献上した
水戸藩公は焼き肉をこのんだが彦根藩は仏教徒のためこれをきらい近江牛を献上せずいやがらせした
やがて桜田門外の変で大老井伊直弼は水戸浪士17人にコルトM1851リボルバーでうちころされる
直弼は腰部から太腿にかけて銃創を負い身動きができす斬りつけられる
この拳銃はなぜか水戸公の特注した貴重な品であった。水戸浪士の多くが襲撃の際にこのピストルを携帯していた
食い物の恨みは・・
晁錯の防衛策をとりあげて現代の視点で見ると
1000世帯以上のすむ強大な城塞都市を辺境に多数建設し
さらに囚人に地位を与え
妻子となる奴隷を貴族から買い取って与え
食事や家も提供しさらに医師も派遣し無税とする?
これはとんでもなく金がかかる政策だと気がつく
けちな自民党なら採用しないであろう。
ただすじは通ってる
金があればの話である
どんな国でも辺境民に軍事訓練までだろう
漢は景帝のとき経済は絶好調で政府は金銭がありあまり
紐をお通した銅銭がくさり落ちるほどだった
倉庫の食料は何年もたまり食えないので腐りすてた
そのようなバブルな背景もあって晁錯の防衛策がでてくるのである
秦代の竹簡から庶民への刑罰として完城旦などの刑罰があり、ようするに辺境に送られ
4年のあいだ築城に従事する重労働刑がすでにあったようです
もっとも重いので
ハゲ鉗城旦春、つまり髪を剃られ5年間も夜間・早朝に築城に従事というおしごと
つぎに完城旦春で髪はそられずに4年間築城に用いられる
完城旦春っていうのは城が完成するあかつきには春に開放される、という意味でしょうか
それ以下の刑罰として
・鬼薪・・・鬼神をまつる薪などを山で採集する刑期3年(良民を使うと嫌がられた?)
・司冠・・・警備員で刑期2年
・隷臣妾・・女性はメイドです刑期2年、なお爵位を持つ家は隷臣妾は免除されたようです
・罰作・・・辺境におくられる兵士、刑期一年(日本の防人のお手本?)
鎌倉武士も「大番役」といって都の警備をさせられましたが・・
労務は4年こき使うけど、匈奴と戦う士気が必要とされる兵は一年と軽くなってます
これをみると秦代も既に辺境築城や兵士を置く制度は、巧みに機能してると思われますね
前漢にできた「方言」という書物によればはじめて餅という言葉が出てきます
「餅とは併である、麺をこねて合併させる」とある
このころコムギ粉をこねた食品がよく食べられるようになる
黄河下流の漢民族では、主食としてアワがよくたべられてきたが
アワで麺をつくることも可能で鉄条麺という
匈奴への援助品目としてモチアワも文献にあげられる
小麦は機械で引いて食べねばならない
小規模農民はこの小麦粉をひく機械を持っていないので前漢代から
貴族などある程度資本力があるものが回転式の臼で小麦を挽く手段をもち
一部の上がりを取り富を蓄える
蒸餅、焼き餅、湯で餅にわかれる。焼き餅はうすくのばし焼くセンベイのようなもので
蒸す餅はセイロで蒸したもので饅頭ともいい肉や甘い物を詰めたものを袍子という
湯で餅はだいたい想像がつくと思うがお湯で煮たもの
まだ油であげたものはない(前漢では油は貴重品で中華料理に油が多用されるようになったのは
ねじ式の油絞り機が普及するモンゴルの元代から。回転式の臼も西洋由来であるがこれもそうだろうか)
>>90 満州族の標準は目が細くて左右の間隔が狭いから、本当に満州族なのかと少し疑問。
前の勤務先にラストエンペラーの従弟のお嬢さんというオバサン居たが、
本当に満州族の特徴がピッタリ当てはまる顔立ちで、しかも乾隆帝の若い時の
肖像画そっくりの顔してた。
>>210 ずっと満洲族ばかりで結婚し続けたわけじゃないでしょ
>>211 愛新覚羅の一族は満州族有力貴族かモンゴル族のボルジギン氏族と
しか結婚できなかった。
クシャーナ朝と南朝
現在のインド美女は北インド美女、東インド美女、南印度美女にタイプが分かれる
北インド美人は肌も白くイラン人そのもので、やや顔立ちはキツイ
東インド美女は当然アジアが混ざってるせいか神秘的な感じで日本人好みだろう
南インド美人はドラヴィダ人。肌は黒く足が長いという人種特徴がある
アレキサンダー大王の配下が驚愕したという美人ロクサーナは、スキタイや
東インドも混ざっていたかもしれない
北インドはクシャーン帝国が抑えていたがデカン高原はサータヴァーハナ朝がいた
サータヴァーハナ朝はバラモンだが南印度のナーガ族との混血を誇っており
王室の母系はドラヴィタ系と言われる
ナーガ族とは文字通り蛇信仰の邪教でありげんざいのナーガ人と異なるが
蛇信仰の本拠はインド亜大陸の南端やスリランカ島にあった
ドラヴィダ人の遺伝子タイプはややふるい系統ハプログループHで南アジアに多い
4万年前にインド亜大陸で発生したと見られロマ(ジプシー)にも高頻度である
なお、インド人のハプログループHは系統樹からも分かるように、全ユーラシア人の
最近共通祖先であるハプログループCTから早期に分岐した古い連中と見られる
さらにその子系統であるハプログループDはアフリカにおいて既に分岐発生していたと
考えられこれが日本人やチベット人である
ヨーロッパに多いR系や、中国人の多いハプロOはこれらに比べればさらに子系統で
もっとも新しい型と考えられる。
北インドは当然イラン系のハプロR1aが多いがこれは新しい系統に属する
だいたいインドの人種というか各地方の美人が俯瞰できたところで
古い系統のチベット・日本人としては、最近出てきたイラン白人や中国人よりも
同じくらい古い系統のドラヴイダ人に親近感が湧く・・かもしれない
当時、インド洋においては、ローマ帝国と南インドのサータヴァーハナ朝の間で季節風
を利用した船便貿易が行われておりサータヴァーハナ朝の主要港は
なんとインド洋の裏側のポンディシェリ、旧フランス植民地にあった
ローマの船は紅海をわたり、インド洋をわたる。このときのルートは北インド行き
南インド行きの船にわかれる
北ルートはパキスタンあたりで上陸してヒンドークシュ山脈をこえ死の砂漠を越え
長安に達したという。いわゆる絹の道。このあたりはクシャーン帝国である
南まわりルートはまずインド南端をめざし、まぁ最終的には、インド亜大陸の裏側の
東がわポンディシェリ商業港(ローマ風の建築も発掘されてる)
そのさきはベンガル湾の果てまで行ったようだが、すべて船便であり積載はラクであった
またローマ人が求める胡椒や香辛料も南印度しかない、といういわけで
サータヴァーハナ朝のローマ貿易の粗利は百倍といわれ、得た富は膨大であった
いかに中国のインドの特産物がローマを魅了したか、はいうまでもない
けっきょくはソグド人、月氏がすぐれた商人で
青銅時代からせっせと文物を小アジアにはこびこむルートが有り、富貴を得ていたとわかる。
もう一つのルートはいわゆるロシアである
モスクワの中心にキタイゴロドという地名が有る。クレムリン、モスクワ大公の居城
の商人街だった。キタイというのはいわゆる契丹人だがロシア人は不明だと言う
モスクワ公国の利益と繁栄はほとんどキタイ商人によってえられキタイゴロドも城壁で覆われる
都市モスクワは北のはてで何の利益もないように思えるが
じつは東方のルートは交差する河をうまく乗りつげばアルタイ山脈のあたり、モンゴル近くまで
船で往来できるという絶大な利点があった。
重量物を船で運ぶことができれば、兵隊や兵糧を運ぶにも便利である
ジンギス汗の長男ジュチのロシア遠征では、キエフなどロシア人の古都は全て破壊されたが
補給基地・商業地としてモスクワ(キタイゴロド)を珍重しないわけがなく、温存策がとられる
利益にさといイギリス商人ははやくからモスクワに商館をおきモスクワ大公に機嫌をとっている
イワン雷帝がエリザベス女王に求婚したときも、可能性はゼロながら
けんめいにイギリスは他の美女を紹介したり、ロシア皇帝の機嫌をそこねないようにつとめた
このあたり、冒頓単于が呂后に求婚したエピソードに似てなくもない
ロシア帝国が単位として採用したのが「アルシン」1アルシン=72センチ
もともとイランやペルシア、トルコでは肘の長さでものをはかる風が有るので
南方ルートの交易がふえていたロシア国は16世紀からこの単位を採用した
なお第二次大戦末期のベルリンで国民兵にロシア帝国製モシンナガン小銃が配られたが
照準単位がメートルとは互換性のない微妙なアルシンなので困惑したという
かんじんのロシア農奴はアルシンしか知らないし
兵隊に教えこむにも困難なので近代小銃にもこの刻印が彫られた
ギボンによれば古代ロシアにおけるスキタイ人騎馬民族つまりギリシアのいう王族スキタイ
であるが、スキタイの王は、小さな宮廷を持ち賄えるほどけっこうな金持ちだったらしい
もちろん富は農民から略奪したり、多くの家畜をしたがえていたから意外にも
遊牧民の小王はけっこうな勝ち組。またローマのほしがる毛皮交易の金銭も受け取っていた
匈奴の族長も一族それなりにお金持ちであったけど漢帝国から略奪したり贈り物をとることで
要するに多くの人の生活をゆたかにするという目的がある
毎年まつりの集会で税金の家畜を取ったりしていたが、取りすぎれば不満も起こる
そこでサウジ石油王のように別の収入があれば税金を軽くすることはできる
匈奴が漢帝国の一郡にもならない人口ながら意外に豊かで中国人が匈奴に亡命したがるという
はなしがあったしフン族帝国もローマ帝国の重税よりマシであるというギリシャ人が亡命してる
19世紀に西欧化を志すアレクサンドル二世によってロシア農奴は開放されたがかえって人民は困窮
ナロードニキ(人民の中へ)運動により皇帝は殺される
アレクサンドル二世の例を上げるまでもなく「民の生活を立てる」のが野蛮人の王では
重要なことで民衆にとって用がなくなれば王族など殺される
経済手腕にたけていたのが匈奴の単于、フンのアッチラ大王、クシャーンのカニシカ大王である
かれらの侵略や征服は、文明国に受け入れられることではなく、とてもそうはみえないが
「善なる王」という評判も有るのは理由のないことではない
秦末期の項羽の戦乱でも、匈奴は積極的に傭兵として参加してるし略奪した
それら「出稼ぎ」は危険でもあったが、遊牧民には重要であった
「北方民族は体格もよく戦争が強い」といわれるが
遊牧系の王朝が北方支配できても南中国あたりにくると途端に侵略が頓挫してしまう
曹操のひきいる100万の大軍が長江で3万の孫権に敗北する「赤壁の戦い」は有名だが
正史によればそんなに激しい戦いではなく、むしろ長期の対陣で北方軍がつかれ
病気が蔓延したので曹操は戦わずひきあげた、という
傷寒論という有名な漢方薬の本が有る、この漢方処方は大変有用で
江戸時代のヤブ医者といえば痛み止めだった葛根湯を飲ませる人
傷寒論にかんする研究書は江戸時代に500冊を超える
これだけ有用な傷寒論はちょうど後漢の三国志のころにかかれた
献帝のとき長沙太守として南方に赴任した張仲景が、一族の者を傷寒で多く失ったため、
記したのが本書と言われる
内容は伝染性の病気に対する治療法が中心となっている
張仲景の4年前に長沙太守をしたのが有名な武将の孫堅で北上して董卓を破る
戦闘パラメータは最強だが地元の評判はかんばしくなく「教養にかける」と人に言われた
こうして献帝に選ばれたのが教養にたけている張太守だが
張仲景が太守を務めた時期はみじかく後漢末期の混乱と更に追い討ちをかける疫病
(二百人いた親族のうち3分の2が死亡し、おおくが「傷寒病」だったという)
に心を痛め、官を退いて医学の研鑽に務める事になった。
なぜ北方民がそれほど南中国で死んだのか?といえば気候や病気も有るが
まず食い物のちがいがあげられる
モンゴル遊牧民は家畜を飼ってるからさぞ牛乳など毎日飲んでるだろうと考えるが
じっさいモンゴルでは牛乳は売ってない、つまり乳などのまない
家畜から乳は取るのは重要だが、発酵させてヨーグルトや馬乳酒にして飲む
家畜を殺すということは減らすわけだからモンゴル遊牧民としては極力取りたくない
したがって、家畜から乳から出る春からはそれを発酵させて飲む
真冬で乳が出なくなったら家畜を殺し肉を食う。あまったら干し肉にして天幕に釣る
肉の乾物とヨーグルトではあまり雑菌もなく清潔な食物
日本人はアジアなどいくと必ず腹を壊すと言われるが熱帯では水や食い物が腐りやすい
曹操の精鋭は、烏桓族の騎兵とされる
匈奴兵は食い物が違う南方ではたちまちはらをこわし下痢にやせ細る「疫病」になり
これでは戦争はできない
インドで香辛料が発達した背景には不味い肉でもカレーにすれば臭みが飛び食えるということで
自衛隊もカレー粉を持ち歩けば草でもなんでも煮込んんでくえるという
また中国でも激辛料理といえば南で、モンゴルには激辛料理など存在しない
イラン系の月氏、クシャーン帝国も南インドに手を伸ばさないのは白人にはとても生存の厳しい
土地だというのも一つの要因だ
サータヴァーハナ朝の国家構造はおおくの「大将軍」がいて各地方をおさめる緩いものだった
デカン高原のインド王は、ドラヴィダ人の母を持つことで混血して南方支配をかためる
中国には大昔から「野人」というのがいて要は文明に属さない人
原始人みたいのが雑居してる
習主席が「下放」されて西安のちかくの田舎で勤めていたとき
穴居人がたくさんいて、アメリカ留学の娘に見せたら不潔で吐いたという
製作費100億円の中央電視台の三国志では城内に裸のやつがうろついて
これが再現されてちょっとおどろいたが中国人には普通の感覚かもしれない
中国湖北省から山の方には「ヤオ族」という原始部族がいて
もとは「五渓蛮」などと歴史に現れる山岳民族
三国志では蜀にしたがい呉の甘寧将軍を討ち取ったという沙摩柯王が有名だ
日本人にもサンカなど山岳民がいたが、中国の場合はスケールが大きく
独自の道教を持ち、言葉も独自のものでミエン語といい中国語とは違う
ようするに国内の外国人なのだ
野蛮人と言っても彼らは50万人や100万人は普通にいる
金銭万能の時代になってそういう野人が湖北省の大都市で労働者としてはたらき
ネズミを食うとかコウモリ食うとかそうした辺境文化も流入してく
さて西方の無文字文化の蛮族に目を転じてみるとゲルマン人が居る
ガリアの北、ゲルマーニアはひどく狭い地域ではあったが(ユーラシア大陸から見ればだか
ローマ帝国では不毛の大地、常冬の国、厳寒の国としてしられていた
またこの時代はゲルマーニアは大変寒くトナカイが多数生息しており
冬季になると河はことごとく凍結した。もちろん現在はそんなことはない
ローマ時代にはゲルマン人やゴート人が大軍団で凍結した河を徒歩でわたる記録がしばしば見られる
この寒気が緩んだのはフランスのように森林を伐採して開拓したせいだろうと推測するが
ミルマンによれば三十年戦争でも大軍団が凍結したライン河をわたったとのこと
ともあれローマ人にとっては北を征服したところでほとんどの南方作物は作れないから魅力はない
アウグストウス帝は、もうこれ以上の領土拡大は得るものが少ないため遠征はやめろと遺言した。
東方は交易によって富を積み、記録によればエジプトからの貢納金はポンペイウスのときの
5千万ドラクマから1億4千万ドラクマまで跳ね上がりローマの財政は堅調に伸びていた
地中海のローマ帝国は、大雑把な推定にすれば、1億数千万の人口があり、現在とは逆で
西方はまだ多くが野蛮で未開で、東方は都市がずらりと並んでオリエント世界の隆盛をほこる
とくにエジプトだのシリアだのはゆたかな大都市がおおい
現在これらの大都市は多くが廃墟とかしており、イスラム農民は、この遺跡は鬼神のしわさだ!と言う
まいとし夏至にはエジプトのスエズ湾を大船団が出港していく。目的地はインドのセイロン島などで
四十日の航海で到着すると現地ではより遠い東アジアから来た商人たちが荷を積み待ちかねていた
おびただしい交易品をつんでもどるのである。紅海からラクダの背中に乗ってアレキサンドリアに
ついた荷物はまたローマ世界に還流する。この荷物はまた、またくだらないもので
金と同じ重さで取引された中国の絹やら、ダイヤと同価値とされた真珠、バビロビア絨毯の工芸品
胡椒やら乳香やら香木やら名馬やら学問やらローマ貴族が欲しがるものをおよそすべてもっていた
ただしインド人や中国人は伝統的に自国産の物品でまんぞくしており売るものは大してなかった
ティベリウス帝のときローマ女の買う贅沢品・・・おもに布だろうが・・・が国の富を
敵性国家におびただしく流してると問題になる。
またスキテュア(ロシア)からもたらされる貴重な毛皮、北欧からわずかばかりの琥珀にも
気前よくローマ貴族は散財した。蛮族はこんなくだらないものを大金を支払うのに驚く・・
ゲルマン王はローマの友という名目でたまに銀の皿など下賜されても土器となにがちがうのかと
いう態度だった。ようするに北欧社会としてそれら工芸品は無用の役立たず
商品に対する評価も特になかった
ゲルマニアは10万人といわれたが、その戦士団は奇妙な原始宗教を信じており
太陽・月・あらゆる事象を礼拝した。その点は匈奴やらテュルク、狄とかわらない
たまに北から地母神が中にいるという垂れ幕の牛車が回ってくるぐらいだが
そのあいだは戦闘は避けるという掟があった
ガリア人は良馬をこのみ、そのために大金を支払う。またガリアの騎兵は有名である
さらに奥地に住むサルマタイ人やスキタイはもちろん遊牧民で騎馬軍団をほこっていた
しかしゲルマン人は馬などに関心はもたない
馬は持っていてもひどく醜い小さい馬であり、粗食に耐えるのがとりえだった
だからつまるところ、ゲルマン人は浮いた存在であり狭い地域にすむ原始農民であった
ゲルマン人には王はもたず、有力な農民が話し合って物事を決める民主制であった
そのなかで有力な貴族・・血筋は尊いとされたものは酋長となる
ローマ人はゲルマンの王とも言うが王の役人などは軽蔑されて徹底的に無視された
農民の調停官というべきか
したがって王の権限はほとんどなく、おもに毎年の土地配分を決める権限のみであった
しかもゲルマン人は土地にも関心ない、充分に広く荒れ地ばかりであったせいもあるが
貴族は働かず、畑で働いたり牛馬を飼ったりするのは奴隷や妻子であり
腐敗した大麦からつくるビールで酔っ払うのみであった
もちろんローマ人が作る美酒ワインはかれらにとって最大の魅力ではあったが
自分でぶどうを作ることは関心がない。欲しければローマ人から買うか、奪い取るのみである
僧侶階級や戦士階級は富をほこっていたが平民やどれいの生活は悲惨を極めた
また体格に優れ、多産であったため人口が増えると土地が狭いと不平言った
人口が過剰になると戦士の3分の1は移住を命じて、他の地域に大移動していく
そんな場合は兵力は十分多くてもたいてい無計画のため失敗したが、これが繰り返された
ゲルマン王の権威はとくになかった。がゲルマンの貴族の集会は全員武装して集まり演説するので
はなはだ危険なものであり。民会の流れによっては・・・
そこですぐさま興奮して全員が殺気立って隣の村に戦争を仕掛けることはおおかった
ローマの民会も、武装した市民の集まりであり、ここで執政官やら護民官・法務が選挙された
このばあい、議決で戦争の方針が決められると・・・かれらはすぐさま高名の戦士
をえらんで、すみやかに将軍にきめた。興奮はたかまりデンと軍旗が据えられ
(軍旗といっても獣の頭を木の棒に突き刺したものだったが)
将軍たるものは、というより剛勇の武士が先頭を駆けおのずと武勇の規律を示す
いってみれば一番槍の武士のようなものだった
その戦争が大きいとなると幾つかの部族の共同体から兵士を出すことになるが
ゲルマンの将軍は多くの若い戦士がつきしたがい、よろこんで命を捨てるのが美風だった
もちろん隊長も部下のためにつくし、分捕品は分かち与え、もし負けでもすれば
まずもって若者は将の馬前で戦死する、しかるのちに全員戦死するのこそ名誉とされた
いまなお北欧ゲルマン族でアッチラ大王が尊崇されるものもこのゲルマン流家元のためで
最も高貴な若者でも軍務に喜んでつき、隊長や上官の好意を得ようとはたらく
この数が多いほど将軍はえらいとされ暗黙の力を持つ
のちにフランス王やイギリス王が有力戦士を貴族に封じた封建制の源流とみることができる
じつは軍人、これがゲルマン社会の最大の権力者というものであこがれ嫉妬もされる
しばしばゲルマン人やゴート人が異常に好戦的であるのは
たとえばゴート王アラリックは王家につぐバルティ家のうまれであり、
軍人であること、勝利をもたらすことがかれのゴート王位確保につながるためであった
もちろん、となれば有力貴族たるもの、大した理由でなくても民会で舌三寸の大演説を奮って
ゲルマン族を戦争に煽り立てて、みずからは大将軍に任じるのが最大の欲望になる
そしてこの一世の大演説、勝利の予言こそ、アッチラ大王やヒットラー総統の得意とした
さてゲルマン人はローマ帝国にしばしば頑固な抵抗や、狂人のような好戦性を示した
が、それは
1億数千万の大帝国とせいぜい10万の戦士しかない山賊では。
漢の武帝の如く断固たる決意でローマ帝国がせめかかれば、狭い地域でもあり、
ハエのようなうっとおしいゲルマン人はほろびざるえないのでは?と思える
じっさいダキア属州、イリリクム属州と・・ローマ帝国の辺境制圧は進んでいた
ダキア人(ルーマニア人)は不死の霊魂を信じており、全く死をおそれずにたかかった
トラヤヌス帝がローマ帝国の全力をそそぎようやく占領することで事なきを得る
古代イリュリア人は、牛馬や農産物を育て、銅や鉄を採掘し道具をこしらえ生活していた
好戦的なイリュリア王はマケドニア王にとって長年の敵であったがフリッポス二世はこれをやぶり
アレキサンダーの母もこのふきんの小王国エピロスの王女である
このような関係もあり大王のペルシア遠征には、イリュリア族が援軍として同行している。
イリュリア王国の併合はローマにとってアドリア海沿いの寄港地、鉱山を得ることを意味した
このダキア属州、イリリクム属州はその東方の地理上から野蛮人との戦闘に長けており
ゲルマンと戦う駐留軍となった。
重要なことだが、のちにイリリクム属州は軍人皇帝をローマに輩出する
イリリクムの民は城塞にたてこもり重い弓を持つすぐれた弓兵であった
先祖のならいからすれば当然といえようが頑強な辺境の民である
ゲルマン人との長い長い防衛戦争にうってつけの民族
ゆえに有能なイリリクム属州民が高位軍人になりローマ帝位を奪うのも流れと言える
三十僭帝時代、プロブス帝はあまたの軍人皇帝の中でも練達の勇将であり、うっとおしい
ゲルマン人をこのさい一掃すべく大軍をすすめる
プロブス帝の将軍ボノススは酒豪であり、プロクルスは漁色の剛の者であった
サルマタエ処女百人を捕虜としたとき一晩で十人を交わって十五日間で全て女にしたと豪語した
これら勇将のもと、ローマ軍はいきおいよく勝ち進む
ゲルマンの9人の王はおそれおののき、プロブス帝に降伏をきめた
皇帝は情け容赦なく、ゲルマン人にたくわえた家畜や穀物をすべてさしだすことを命じた
またローマから奪った財宝につき、それを捜索して全て返却すること、また資産を隠匿するものは
ゲルマン王9人がみずから裁判して死罪とすべきことをさだめる
プロブス帝はこのさい、ゲルマン人の武装をすべて解除してローマの軍駐留地をおき、森林を切り開き
都市を建設することも計画はした。
しかしそうなれば、ドイツ人より東方のロシア人ども
評判わるいサルマタイ人やスキタイ遊牧民がおそってくること、確実である
無尽蔵と思えるユーラシア大陸を防衛し、さらにさらにゲルマンの
氾濫を抑えるのは、いささか時期尚早であるとの結論をくださざる得なかった
そもそも無用の土地、そんな土地は攻めてもしょうがないと攻めてから気がついたというわけで
こうしてゲルマニアの征服は断念された
数ある異民族にあってサルマタイ族はもっとも変わっており、匈奴と同じアジア遊牧民の生活をしながら
その容貌は金髪碧眼であり、アジア源流ながらヨーロッパ民族の特徴それをあわせもっていた
ときにタナイス河まで退却することもあり、ロシアからきえうせアジア奥地に逃げ去る時期もあり
またヴィスラ河、ボルガ河までひろがり、おびただしい家畜をつれてけっこうな左団扇の生活を送る
鉄材は乏しく原始的な工業によって一種の装甲を発明して身につける
それはただ馬の蹄をうすくきって魚の鱗のように固く縫い付けるだけ
だが実に有効であった
攻撃武器は短剣と槍と重い弓、槍先や弓矢には魚骨が用いられ毒が塗られていた
そのため受けた傷からはかならず毒が回り死ぬのが常である
おもに略奪行の要求がかれらの放浪生活を促していた
サルマタイ族の中心は妻子たちを住まわせる草原の移動式の牛車、移動する都市ともいえる
大型の天幕を張る貨車それらをひくのはだだ牛のみ、この大群だけで成っていた
そのサルマタイの戦士は曲刀を地に突き刺したものを礼拝して神と崇めており
軍の主力はすべて騎兵であり戦士は一人あたり三頭の替え馬をつないでその進退は敏速、かつ長距離を
駆けて神出鬼没であった。この装備のためひとたび追撃を受ければ遁走するのみであり
またはるか離れた敵を奇襲するといったていであった
サルマタイやスキタイ遊牧民の王さまがかなりすぐれた経済手腕を持っていて
小さい宮廷を賄えるほどゆたかであったのは歴史家も指摘するとおり
スキタイがフン族のアッチラ大王にしたがったのは「付きあえば金になる」と見込んだからだろう
大金持ちの大会社に買収されたほうが我が組織は確実にもうかる、とゲルマンの王は見込んだのだ
これゆえにフン族は速やかにロシアとドイツにまたがる史上唯一の帝国となる
ぎゃくにロシア帝国に北欧征服できなかったのも「ロシアの農奴になっても金にならない」に尽きる・・
北ドイツの小王であったプロイセンが強かったのはユンカーという貧乏士族の支持を得た
ためで、もともとユンカーは教会に属する騎士であったらしいがドイツは寒いので
土地を貰っても言語を絶するほどにまずしかった
プロイセン参謀長のモルトケは母君が食うに困って桶屋に息子を売ろうと考えたこともあったという
それでもユンカーは貴族には違いないので士官学校に入校でき軍人として困難に耐える気質がある
このユンカーの支持は「食わせてくれる王を求める」ゲルマン原始農民・戦士の原理であり
「こいつは残酷でまずいんじゃないかな」という感覚はない
独裁者ヒトラーにも、大きな恩賞があればよろこんでプロイセンのユンカー貴族はしたがう。
どんな命令でも実行されるからヒトラーはさらに残酷無比となる
またヒトラーもお気に入りの勇猛な将軍は毎年かれが査定してボーナスを弾んだ
ボーナスなしの将軍もいれば、何億円も貰える将軍もいた
鎌倉幕府と関東武士のようなもので恩賞しだいでドイツ人は働く
日本軍のお偉方といえば陸軍学校のトップ秀才であるが逆に言えばそれ以外は出世できず
高級官僚コースと変わらない。高齢で戦争になれば決まって逃げ出す老人。
おかげで戦死率は低かった。年金をもらいたい公務員なのだ
がドイツの将軍は騎士貴族ユンカーであるため「常に先頭で戦う」美風があった
ヒトラーの将軍のうち3分の2は戦死したという凄まじいものだ
有能で若い将軍が先頭に立って戦う。そりゃナチスドイツ軍はむちゃくちゃ強かった
もちろん総統からタップリと恩賞はもらえたわけだが
ナチスの将軍たちはヒトラーに忠誠を誓い、一種の急成長企業のようなものだが
売上成果を上げることで多額のお金をもらう
かれらナチスの将軍がよろこんだのは「東独やポーランドに邸宅や領地」をもらうことで
ソ連軍に全て没収されたが西ドイツ政府は屈せず、将軍たちの弁償を要求した
東ドイツ政府の回答は「あなたの銀行の預金は全て無効といたしました」というものだった
秦の将軍の王翦が60万の大軍をひきい楚にせめこんだとき、王に毎日のように使者を送り
金銭や領地を要求した。
秦王政はよろこび「いい土地をわたしが視察するから子孫の美田は心配するな」と返事した
ヒトラーと始皇帝も似たタイプのやり手で人心の統御手段が似てる
食い物が不味い国は信用できない、これはフランス大統領の言葉だ
北国が貧しいので生存権とかいって必ず理不尽な要求・戦争を仕掛けてくると
確かに文明国の想像の外の軍事冒険は
まずしい寒い土地の専制君主、独裁者、貧乏貴族の専売特許と言える
経済原理から必然的にそうなるわけで、しかも民族の本質は数千年何も代わってない
こうしてみれば歴史上、フン族のような遊牧民が戦争に強く帝国主義だというのは的外れで
野蛮だ残酷だと批判してもなにもならないし、遊牧民内部の経済を観察する必要があるだろう
古代中国では自分とその一族と姻族いがいは人間ではなかった
一族がたいせつとか先祖を敬うレベルではない
それ以外は非人間なのだ、だから赤の他人は殺して食ってもよい
まぁ城塞都市にすみ、いろんな野蛮人や目の色の人間が来れば
そうかんがえざるえない
これを否定したのが孔子で、全ての人間は人であり人類愛を説き
仁と名付けた
孔子教団は勢力を増したので野蛮人に形から入らせるために
形式上の礼教と身分固定がすすみ、ひにくにも
春秋戦国時代以降の中国の文化進展は停滞する
欧米だとチンギス・カンは赤毛で青い目という人がいて調べたら、
同時代のユダヤ人の書いた資料もあるがたぶん怪しい
ただし中国の文献ではジンギス汗は黄色い髪で緑目だったとなってる
月氏の子孫だと不自然ではないが・・
呂雉が皇太后になると、盧綰は匈奴に亡命した
冒頓単于は歓迎し、盧綰を東胡王に任ずる
中世ペルシア語で「ボルジギン」とは、青色を意味します。
一方、スラブとゲルマンの年代記者は、ペルシア語から「ブルーアイ」と翻訳
ペルシャ人と比較すると、ヨーロッパの人々は生前にチンギスハーンを目にしたことがなく、
その歴史的記録とテキストはすべてペルシャの歴史的テキストからの翻訳です。
チンギスハーンについての翻訳版を読んだ人たちは、チンギスハーンは青い目をしたヨーロッパ人で、
おそらく赤い髪をしていると仮定し、単純な翻訳エラーと誤った仮定により、
ヨーロッパ世界はチンギスハーンが青い目と赤い髪を持っているとながく信じました。
チンギスカンは薄茶色の髪と緑がかった目を持っていると言ういくつかの中国語のテキストがあります。
それは本当かもしれません、「元朝秘史」彼は青い目と赤い髪を持っていることの記載はありません
チンギスハンの息子オゴタイ
この画では青い目と赤毛である
現在のモンゴル人の一部で青い目と赤毛は珍しくない(ただし顔は完全なアジアフェイス)
オングット、ケレイトなんかはトルコ系だから白人的な
風貌の部族民もいたかも知れん
チンギス紅毛伝説は白人社会に根強いようで欧米の掲示板ではこの件を
信じてる人がたくさんいる。(子供だが)
義経伝説とおなじく信じたい白人は多いようだ
同じく古代トルコ人が金髪碧眼であるという説が欧州では根強いが
これはトルコ学者に一蹴されてる。
中央アジア侵略するロシアがトルコ民族を味方につけるためまいた宣伝
謀略たという
混血や言語交替などで
トルコ語を話すようになった金髪碧眼もいただろう
蒙兀室韋(蒙瓦部)の一族であるボルギジン族
室韋国とは東北のチチハル周辺にあり鮮卑宇文部の末裔、丁零の子孫だとしてる
西のモンゴル高原で勢力を拡大していた突厥の支配を受けた
室韋は突厥を攻撃するようになり、勢力を増やしたが
このころ勢力を増してきた契丹は室韋を敵視して、撃破した。
唐の節度使と連携、これをふせぐが唐朝が滅亡する
萌古国が遼に遣使を派遣したことが『遼史』に記されてこれが蒙古であるとされる
室韋は契丹に降ると、その属民として名馬の朝貢を行うようになる。
室韋の衣服は契丹と同じである。南室韋では、豚と牛を飼っているが羊は飼っていない
穀物で麹酒を作って飲み、習俗は靺鞨(ツングース)と同じである。(フケツという意味)
ようするに契丹に近く、めざわりな野蛮人でライバルでもあった
もともと契丹と似たような民族であるから降伏すればあつかいは悪くなかったと推定される
匈奴の攻撃をうけて、ほろんだ東湖の末裔が東北の山でようやくいきのこったのが烏桓・鮮卑で
烏桓は騎兵として有名だが、けっきょく鮮卑が急激に人口を増やし匈奴をほろぼした
鮮卑の大人である檀石槐が中興の祖。このころ、鮮卑の人口が急激に増え、農耕・牧畜・狩猟だけでは、
食糧を十分に供給することができなくなった
檀石槐は倭人が魚獲りに巧みだと聞き、烏侯秦水のほとりに移住させて魚獲りに従事させ、
食料難を解決したという。
匈奴は大雪にくるしめられ家畜もやせて子を産まない状況で鮮卑に撃破された
この功績によって檀石槐の子孫が鮮卑の大人を世襲するようになる
契丹は頭がよく、モンゴル高原には珍しく魚が主食だった
契丹がモンゴル高原と東北ツングースの混血のような奴らであるし両方の言語に通じ
さらに漢字も読み書きでき3言語翻訳できるバイリンガル民族で、モンゴル帝国では通訳として活躍した
もともと三民族の交易商人がなりわいで、さらに魚を食べる民族のため遊牧民とは競合しないで
勢力を増やした。
契丹の魚食の伝統は、鮮卑が倭人をつれてきた事に発するのかもしれない
チンギスカーンは「我らの先祖の時代」と冒頓単于のことを語ってる
宇文部の出自は匈奴であり北匈奴が後漢に敗れて西に逃れた際、
これに従わずに漠北に留まった部衆が
その起源といわれ鮮卑と雑居するようになったいう
宇文部の族長は、檀石槐の時代には東部大人といわれた
宇文莫珪の時代には大人という称号をかなぐり捨ててついに
先祖に戻り単于を自称した。匈奴皇帝を称したわけだ
ついで鮮卑の慕容部を攻撃させたが敗れた。慕容部と戦い
慕容部の建国した燕にしたがうようになるが
北魏の道武帝が中山を攻めた時に
宇文部は装甲騎兵五百を率いて北魏に降り安定公に封じられた
北周の祖である宇文泰はこの子孫である
宇文部は元々の出自が匈奴であったからか、本来の鮮卑族とは話す言語が異なった
契丹の起源は宇文部から古くに分かれた東部鮮卑の後裔 ともされるが
室韋と同系になると考えられている。宇文氏は匈奴の末裔とされる
が契丹は東湖系であると言ってるから、多分そうなのだろう
さて室韋国で、チチハルが拠点とされるが、これはげんざいの
中国東北、満州にあたる、チチハルは北朝鮮のずっと北と考えればわりとわかりやすい
室韋国モンゴル部はバイカル湖にいたとされていわゆる北室韋にあたるが
牛や豚を飼う南室韋とは風俗が異なり、羊を飼っていたとされる
チンギスの時代にはバイカル湖をやや南下しており、ボルギジン氏は北のキヤト
南のタイチュウトにわかれてあらそっておりチンギスの父イエスゲイは
モンゴルの有力なケレイトの族長とくんでタイチュウトとたたかった
ケレイトはモンゴル高原からキルギス帝国をおいはらったタタルで
キリスト教を信仰し文字も書ける進んだ部族だった
タタル部族はチンギス・カンの父の仇であり、祖先の敵であったため、チンギス・カンは一人も生かして
おかないよう命令し、女・子供はもちろん妊婦の腹を裂いてまで根絶やしにしていった。
中にはチンギス・カンの親族すらいたが、その多くも殺された
このタタルというのはじつは、南室韋と同系になると考えられている
近年、解読された西夏の文字
日本人が解読したんだよな
匈奴は発掘調査によれば、アイヌ民族衣装のような服を着ており単于は
三つ編みの長髪だったという
ところがモンゴル帝国になると衣服はだいぶかわり日本の足軽のようなズボンをはき
貴族になるとその上に毛皮のカフタンのようなコートを羽織り
ロシア貴族風でもある。まぁロシアがモンゴル帝国そのものだという見方も出来る
いくら宇文部が匈奴の末裔でも衣装が変わると民族が入れ替わったとしか思えないが
唐代に服の大変革がなされたらしく、庶民までズボンに革ベルトに革ブーツとなる
鮮卑族支配の北支ではずっとまえから主流で、もとは胡服といい、西方由来の
ものだという。まぁ最終的にはイラン系の戎服を着るようになった、と
ズボンや筒袖といった胡服は、モンゴル帝国よりもっと前からある騎馬民族の伝統衣装だろ
胡服騎射を中原に取り入れたのが趙の武霊王だからかなり古くからある
ただし胡服軍装であって普及したとは思えませんが
匈奴の皇帝に、中行説が中国の絹をやめ
革や羊毛織物の服を身に着けて、漢服より優れてることを民にお示しなされ
と説いた
良い住居に住み、良い服を着て、おしゃべりをしている漢民族には何も優れた点はありません
中行説は説いた
匈奴皇帝は漢から送られた食料を地面に捨て、まずい食い物であると罵るべきだ
たしかに匈奴の人口は中国の一地方より少ない。しかし匈奴の文化は漢帝国とはちがう
匈奴の文化風俗をまもり、自立してる限りは軍事面で漢に負けることは永久にないであろう
これが匈奴の軍隊が最強である理由であり、漢民族からの分離政策を奨励する
中行説はかつて漢奸であり裏切り者の宦官といわれた
しかし彼は匈奴単于に忠誠を誓っただけのものであり何ら非難される理由はなく
さらに彼は卓越した軍事的才能と、地政学の先駆者であった
匈奴帝国の人口を計算し、その力を推定し、匈奴の限界を見極め、取るべき岐路を示した
2005年のテレビシリーズでは彼の評価はかわり、匈奴単于がもった最初の謀臣であるとされる
月氏王が黄河上流のオルドス屈曲部にすみ、匈奴の族長と通婚していたのだからふだん
アーリア語をはなしたことは確実だろう。モンゴル語系・鮮卑語ではないかともいわれるが
それはテュルク語系統であり、匈奴の東半分が両方使えたのだろう
追い詰められた匈奴は西方に走り、残りの匈奴の部下は東の鮮卑宇文部になったのだ
からつまり
遊牧民の王と言うのはいわゆる定住民の王様とは性質が異なり
たえず巨大なゲルで移動してるから交易商人にちかい
匈奴の勢力圏では西方はかなりゆたかで傘下の都市も多く
献上品も多かった。月氏王をころして追い払ったあとはなおさらだろう
敦煌など都市は月氏がつくったものとされてソグド人の比率も高い
西方の文化を伝えワインを飲んでいた
東のはてはツングース雑居して豚を飼い糞便で顔を洗うきたなさだった
鮮卑が中原に北魏を打ち立てても、先祖の東胡の隣は蛮人として無視。
戦争はやたら強いと認めていたが
モンゴル帝国もチンギスの家臣たちは東方に領地をもらい、息子たちは
西方に領土をもらった
当時の支配層は月氏の東イラン語も、テュルク語系もできないと生活にならないということ。
冒頓単于の嫁は月氏だし家庭内でクシャン語(アーリア語)は交わされたろう
当然子供や孫も
だから月氏も匈奴が衰えるとオルドス追われて、東方よりやや豊かな西方に移った
百年戦争のころ英国では貴族はフランス語、民衆は英語を喋った
言葉の通じない民族が同じ土地でくらすことは恐怖だったろう。
時間が経てば融合するということだね
植民地から移民を大量に入れても欧州は困らない、そもそも労働力を人間扱いしない
ビルマ英軍収容所に暮らしたアーロン収容所という本を読めばわかる
月氏に人質になったこととかはwikiで調べたよ
老上は月氏の夫人の子なの?
匈奴の発掘結果ではイラン系のR1aもしくはモンゴロイド系が半々
どっちが支配的だったかわからない
子孫には、トカラ系もしくはイラン系の血は入っていたでしょう
匈奴の支配的な氏族はレンテイ氏で、彫りが深く目が緑とある。これも裏付ける
緑の目の民族と言われるアフガニスタンのパシュトーン人も
シベリアからきたらしいから先祖から緑の目だった可能性もある
月氏の勢力は20万、圧倒的で、オルドスで匈奴はよほど衰えており
父親の頭曼単于は万士長という意味らしいから、月氏としては傭兵隊長クラス
今川氏における松平元康みたいな待遇か
匈奴の19氏族には羯族のように月氏が降参した氏族もいて、匈奴の19氏族は
たがいにまじわらない(独立の国)ので匈奴連合体のようなもの
ただし月氏系は勢力は大きいとはいえ国境付近におかれて外国の盾にされた
政治的にロシア人は白人系のR1だろと
中国の学者はモンゴロイドだったと言いたいし、トルコはトルコ系だという
げんざいも中央アジアにはテュルク系が多く、匈奴の前身?オルドスに長くいた狄=テュルクだという
フン語もテュルク語ブルガール語群だったという、
匈奴の連合体も大きな部分がテュルク文化だという考えはおそらくかなり真相に近い
現在の中央アジアではタジク人が月氏やサカ・スキタイの子孫と言われる
タジク人口は2500万人。ハプログループR1a (Y染色体)でペルシャ系人種
帽子が特徴だ。月氏も長ーい帽子をかぶった
ソ連アフガニスタン侵攻ではタジク人はマスード将軍のような勇猛な軍人を出した
中央アジアでもっとも多いのがウズベク人で人口3300万人
最大の人口を抱えるテュルク系民族で、容貌的にはモンゴロイドを基本とするが
キプチャク汗国ウズベク・ハンに由来する
ソ連アフガニスタン侵攻ではウズベク人の英雄はドスタム将軍である
ドスタム将軍のウズベク兵は、残虐でパシュトーン人の娘をさらい強姦して恐れられた
現在の人種に当てはめてみればタジク人=ウズベク連合体の
アフガン北部同盟が、人種構成で言えば匈奴連合に近い
月氏を破って王のドクロを杯にしたのが老上単于でしょ
月氏が母方ならそんなことするかね?
足利義詮は北条守時の妹・赤橋登子の息子でありながら
鎌倉攻めの総大将となりようしゃなく北条を皆殺しにした
ま、老上単于もさいしょは
オヤジの命令で月氏を攻めていたのだが
だからご自分で調べましょう。
本を買ってみたり外国のサイト翻訳していろいろしらべたり
ここの板の過去スレは読んだ?
遊牧民の行動を現代視点で、現在の日本の道徳や常識で批判するのは間違っていて
「母親の親族だから攻撃するわけがない。そんな考えを反省しろ」といっても
当時の社会・経済を理解しなければなにもすすまない。
中国の学者が匈奴を禽獣だの言っていたのと同じだ
キリスト教徒に関しては、聖書で蛮族批判してるから教条的になってもおかしくはないが
ギボンも蛮族については残酷だときりすて、空想の批判のみでついに理解はしなかったようでもある
ヘロドトスは蛮族の風習実情を理解しようとする余り「蛮族好きの変わり者」といわれた
そのような知的な人が古代にいた事は貴重だ
まぁそのギボンも「非キリスト教的な本を書いてる」と猛批判されたようだが
【古代】武器とともに埋葬されていた2600年前の遺体、13歳の少女戦士だった…
伝説の女戦士部族アマゾーンとスキタイの女戦士の関係 [樽悶★]
http://2chb.net/r/newsplus/1593167686/ 1万3000年前のマンモスの牙に「ラクダの争い」や「ラクダに変装した人」の彫刻絵が発見された
→彫刻絵を描いたのは、同時期にシベリア西部に住んでいた遊牧民と思われる
シベリアで見つかった約1万3000年前のマンモスの牙に、不思議なラクダの彫刻絵が発見されました。
「アジアで見つかった動物絵画の中では最古の作品」とのことです。
マンモスの牙は、1988年に、シベリア西部のトミ川下流で発見されたものです。しかし、今回に至るまで調査はされず、同国のトムスク大学に保管されていました。
牙の長さは150センチに達し、表面の劣化や剥離が進んでいるため、調査には慎重を要しています。
放射性炭素年代測定の結果、マンモスの牙とラクダの画はともに、95%の正確性で、1万3100?1万3005年前のものと特定されました。
画は表面が婉曲して不安定な牙の上に鋭い刃物で彫られており、線も非常に細くて浅く、全体像を識別するのが困難だったそうです。
場所によっては、線の厚みが0.1?0.15ミリの部分も見られています。
それでも、牙の拡大写真を撮るなどして、「ラクダの争い」と「ラクダに変装した人」の特定に成功しました。
研究主任のユーリー・エシン氏によると、「ラクダの争いは、毎年の発情シーズンに起こり、オスがメスをかけて闘います。
ラクダの変装をした人、上半分がラクダの毛皮、下半分が人の足
「ラクダに変装した人」について、エシン氏は「狩猟民がラクダの格好をすることで獲物となる動物に近づきやすくなり、捕らえるか仕留めるかしたのではないか」と話します。
彫刻絵には、矢傷を受けたラクダも見つかっており、人々はラクダを家畜としてだけでなく、狩りの対象にもしていたのでしょう。
画を残した集団の正体は遊牧民という以外にほぼ分かっていません。
それでも「同時代にシベリア西部に移住したグループがいた」という先行研究が報告されており、同一集団の可能性も
モンゴル中央部を流れるオルホン川沿いの発掘調査で、ルンチェン、またはルウト(「竜の都」の意味)で名を馳せた、遊牧国家「匈奴」の首都が見つかった。
匈奴は紀元前220年から2世紀まで中国の北方に栄えた一大遊牧国家。万里の長城が建設されたのも、匈奴の進入を防ぐのが目的だった。
発掘調査はモンゴルのウランバートル大学が主体となってアルハンガイ州ウリジンスキー地区で行われた。発掘関連のニュースサイト「ヘリテージ・デイリー」によれば、古代都市の遺構は2017年に最初に発見されていたものの、研究者らは3年を経て、この発見を公表した。
発掘現場からは都市の二重の壁、ため池、「天子」の飾り文字の入った建物の跡が見つかったことから、考古学者らは遺跡が匈奴のかつての「竜の都」のルンチェンではないかと考えている。
この発見に対して、考古学者らの間からはそもそもルンチェンが存在したかどうかを疑う説も多く挙げられている。
https://jp.sputniknews.com/science/202007207627634/ ユーラシア大陸の草原地帯(ステップ)にかつて存在した遊牧国家。
その崩壊が、数百年に及ぶ激しい闘争の時代をもたらしたのではないか。
シベリア南部でこの時代の遊牧民の墓を掘り起こした考古学者たちは、そう考えた。
墳墓から、暴力の犠牲者と見られる遺骨が多数発見されたのだ。
ロシアとスイスの考古学チームは4年前から、ロシアのトゥバ共和国で埋葬のための墳墓(クルガンと呼ばれる)を発掘していた。
「トゥンヌグ1」と名付けられたその墳墓は、遊牧民族スキタイが築いた初期の大規模なものだった。
スキタイは、紀元前1100年ごろからヨーロッパとアジアの間にある広大なステップの大部分を支配していた。
※省略
ところが、スイス、ベルン大学の考古学者マルコ・ミレラ氏らがトゥンヌグ1から掘り起こした数十体分の遺骨を調べていくと、
驚きの事実が浮かび上がってきた。
「これほど暴力にまみれた民族の遺骨を見たことはありません」と、ミレラ氏は言う。
「最初に見つけたときは、それほど驚きませんでした。ところが、次から次へと暴力を受けていた跡が出てきました。
成人男性だけではなく、子どもまで、多くの人々が暴力にさらされていました」
ミレラ氏らは100カ所以上に残されていた傷跡から、古代ステップの暴力的な社会を描き出した。
小さな墓所に埋葬されていた少なくとも87人の遺骨のうち、20人以上に切り傷、矢じりや剣先で
開けられた穴、殴られた跡などの傷が残っていた。犠牲者は子どもから老女まで幅があるが、ほとんどが10代前半から成人だった。
遊牧国家の興隆と崩壊
この調査結果は、シベリア南部で起こったことが遠く離れた古代中国にも影響を与えていたことを示す
証拠にもなりそうだ。墓に埋葬されていた人々は、激動の時代を生きていた。
その数世紀前、この地方は匈奴(きょうど)と呼ばれる遊牧国家に支配されていた。
匈奴は南東へ向かって略奪を繰り返しながら勢力を伸ばしていた。万里の長城は、中国の皇帝がこの匈奴の脅威に対抗するために建設したものだ。
当時の中国の文筆家たちは、隣人である遊牧国家を驚嘆と侮蔑の眼差しで眺めていた。
漢の歴史家、司馬遷は、紀元前1世紀に、匈奴に関して次のように書き残している。
「平時には家畜の群れを牧し、狩猟によって生計を成すのが習わしだが、危機においては武器を手に取り、
略奪と襲撃に打って出る。生まれながらに備わった彼らの気質のようだ」
西暦100年ごろに匈奴が崩壊すると、ステップ一帯は混乱に陥った。ベルン大学の考古学者で発掘責任者のジノ・カスパリ氏は、「トゥンヌグ1の遺骨から察すると、
匈奴の滅亡によってこの地域の政治的安定が崩れ始めたのだろうと考えられます」と話す。
骨の傷が伝える暴力の痕跡
首に近い脊椎の前部分に切り傷がある男性や少年の遺骨も発見された。
向かい合って格闘したり、自己防衛だったのであれば腕や上半身にも傷がつくはずだが、
そのような傷跡は見当たらなかった。
つまり、のどを切られて処刑されたか、何らかの暴力的な儀式が行われていたと思われる。
「少なくとも一部の遺骨は、儀式で殺されたものと考えられます」と、ミレラ氏は説明する。
ステップの遊牧民にとって暴力は当たり前のことだったかもしれないが、過去の発掘では情け深い一面があったことも示されている。
1990年代にトゥバの別の場所で似たような遺跡を発掘したアイルランド、クイーンズ大学ベルファスト校の考古学者アイリーン・マーフィー氏も、
やはり外傷と暴力を示す遺骨を多数発見した。しかし、印象に残ったのは長期的なケアを受けていたことを示す遺骨だったという。
「子どものころに障害を負ったものの、成人した人も多くいました。ステップの人々は、ただ残虐なだけではなく、人を助ける思いやりの心も持っていました」
トゥンヌグ1がまだ使用されていた西暦1世紀、匈奴が崩壊し、その強力な余波はアジアとヨーロッパにあった他の帝国をも襲った。
その頃、匈奴から遠く離れたローマの文筆家たちは、中央アジアで戦闘好きの民族が台頭していると記録に残している。
西へ向かって勢力を伸ばしたゴート族、アラン族、フン族の猛攻により、ローマ帝国は崩壊の危機へと追いつめられる。(続きはソース)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200926-00010000-nknatiogeo-sctch
中央ユーラシアは匈奴の国家制度のおかげで長い数世紀の平和を享受していた・・・?
40年くらい前の映像の「もうひとつのシルクロード」をデジタル映像化で美麗にしてNHKBSでやってるけど
匈奴、ホータン、敦煌、西夏、カシュガル、クチャとか色々出てきて面白い
焉耆(東トルキスタン)の兵士像とかホータンのイラン系菩薩の出土品とか西夏の勝三世明王とか発掘されたお宝も様々紹介してたり
阿倍比羅夫とか坂上田村麻呂とかがやっつけた蝦夷は近世以降のアイヌとは別民族なのではないかといわれている
アイヌの文化に完全に欠けてる要素「鉄」と「馬」が蝦夷の特徴とされるから
トルコ「匈奴も先祖だ」としてウイグル問題に介入
2015年には、パレスティナ自治政府のアッバース議長を迎えるのに、
儀仗兵として、2000年にわたるチュルクの諸王朝を象徴する16種類の甲冑に身を包んだ兵士たちを登場させて話題になった。
匈奴・西匈奴・フン帝国・エフタル・突厥・アヴァール・ハザール・ウイグル・カラハン朝・ガズナ朝・
セルジューク朝・ホラズムシャー朝・ジョチウルス朝・ティムール朝・ムガール帝国・オスマン帝国である。
なかには、トルコ化されたとはいえチンギスハンの子孫まで混じっているが、
エルドゥアンは本気なのだから笑っておれない。
http://agora-web.jp/archives/2038208.html オスマン帝国スルタン、エルドアン様(彼に平安荒れ)「匈奴やフン族やエフタルはトルコ人」 [832754451]
http://2chb.net/r/poverty/1604149705/ トルコとかも食い物は饅頭と麺と焼き飯が基本だから近親感わくね
【歴史】デニソワ人のDNAがチベットの洞窟から発見され、人類の歴史が [かわる★]
http://2chb.net/r/newsplus/1604859257/ ヨーロッパ人が民度が低いのは
征服者が被制服民に文明を上げようとしなかったから
それはローマ時代から同じ方針
これがたたり、あちこち野蛮人だらけの世界にしてしまった
たとえば英国は香港に学校は作ってない
香港大学とかは現地人の自費
ヨーロッパ植民地は、学校やインフラは作らない
そこで思い当たるのが、モンゴル帝国の支配領域は一つも先進国は存在しないこと
日本も西ヨーロッパも遊牧民の蹂躙は免れた
そもそも古代中国では欧州も、狄や禽獣の世界とみていた
十字軍が東ローマのスラブ人地域をとおったとき「豚飼いしかいない世界」だとのべてる
ギリシャ正教、スラブの正教は収奪するだけで停滞し何の文明もつくらなかった
【歴史】「卑弥呼は中国の魏と外交し、邪馬台国の南にある狗奴国と戦った」 古代日本における女性、妊娠・出産後も社会的地位を得ていた [樽悶★]
http://2chb.net/r/newsplus/1605250818/ 【研究】縄文人、東アジアの最古級人類? 金沢大・東大などDNA解析 「北側ルート通った集団の影響を受けなかった可能性が高い」 ★2 [樽悶★]
http://2chb.net/r/newsplus/1607927646/ 古代の歯石から判明、聖書に登場するペリシテ人の食事はアジアン
3000年以上前の古代人の遺体から、大豆やターメリックなどアジアの食材
新約聖書にある東方の三賢者の物語は、古代の中東において長距離貿易が盛んだったことを示している。
このことは学者の間でも定説となっており、ローマ時代には、アラビア海やそれよりも東の地域から、めずらしい油や樹脂が地中海一帯に持ち込まれていた。
そして今回、学術誌「米国科学アカデミー紀要(PNAS)」に掲載された新たな研究で、現在のイスラエルがある土地に住んでいた人々は、アジア産の果物やスパイスを3500年も前から口にしていたことがわかった。
研究では、青銅器時代中期から鉄器時代初期(紀元前1500年〜1100年頃)の遺体十数体から、化石化した歯垢を採取。
分析の結果、バナナ、ターメリック、大豆の痕跡が見つかった。
当時こうした作物はどれも、はるか遠くの南アジアで採れるものだった。
既に古代の地中海文明では、ニワトリ、黒コショウ、バニラなど実に様々な食材が、はるか遠くのインドやインドネシアから輸入されていたことがわかっている。
ニワトリは当初は観賞用・闘鶏用であったと推定されている。ただし、家禽化されて間もなく肉および卵も
食用とされるようになり、やがてそちらの方が飼育の主目的とされるようになった。
モヘンジョ・ダロの遺跡から像と印章、ニワトリの大腿骨が出土しており、これがニワトリの存在を示す証拠としては最も古い
西方への伝播はまず紀元前15世紀から紀元前14世紀にかけてエジプトに伝播した。
他の西アジア地域においてこの時期はニワトリの存在が認められないため、この伝播は海上ルートによるものと考えられているが、
まもなくエジプトのニワトリはいったん絶え、プトレマイオス王朝期に再び持ち込まれた
ほー
北京がマイナス20度、上海でもマイナス7度?
中国って寒い国なんだ
【考古学/人類学】世界最古、4万5500年以上前の洞窟壁画 インドネシア洞窟で発見 [すらいむ★]
http://2chb.net/r/scienceplus/1610594181/ ロシアで、ソ連時代にほぼ途絶えたとされる土着の原始宗教シャーマニズムが勢いを増している。科学万能の時代に、なぜ神や精霊との交感を望む人がいるのか。ロシア宗教史で「異端者」ともいえるシャーマンの姿を追った。
祈祷(きとう)を見せてくれたのが極東ブリャート共和国の女性シャーマン、オクサナ・キムさん(51)。最近は新型コロナウイルス封じの依頼も多く、各地に出張する。ロシアメディアでもたびたび登場する。
取材を兼ねて祈祷を受けたのはモスクワ郊外の信者のアパート。食卓に供物のウオッカと牛乳、バターを塗ったクッキー、チョコを並べると始まりだ。
香草に点火し、オクサナさんは祭文を唱え始めた。モンゴル系ブリャート語で歌声のようなリズムが心地よい。途中、目を閉じ故郷の大自然を思い描くよう求められる。最後は中庭に出て、シャーマンが神聖視するシベリアのバイカル湖に向かって供物を投げた。
https://www.chunichi.co.jp/article/187339?rct=world 【1月27日 Xinhua News】中国河南省(Henan)洛陽市(Luoyang)にある商(殷)代の都城遺跡、偃師(えんし)商城遺跡に、これまでに発見された商代の都市水路の中で最も古く、最も整備された水路があったことが、最新の考古学研究で明らかになった。
偃師商城発掘チームを率いる中国社会科学院考古研究所の陳国梁(Chen Guoliang)副研究員によると、偃師商城の内部水路は主に排水用で、外部水路には護城河(堀)とその外側を南北に流れる2本の川があった。内外の水路を循環させることで、都市の安全性や排水・洪水対策を確保したほか、宮殿エリアに3千平方メートル近い水面面積を持つ庭園を持つ美しい景観を実現したという。
https://www.afpbb.com/articles/-/3328604 人間のフンをたべるので豚や犬はリサイクル動物として、つごうがよい
中国東北は山岳地帯ということもあり豚を飼っていた
大草原であればモンゴルのようにむろん羊が良い
豚は専門業者のように多く飼育して沢山肉を取るにつごうがいいが
大量の餌の問題があり悪臭もあって都市では難しい
戦後の食糧難では餌の問題から、そこらの草をたべる牛のほうが
危機に対応できたとという
その点、犬であれば餌もさほど食わず、とれる肉も限られるが
農家ていどの消費ではつごうがよかった
ヨーロッパ人もローマ時代までは喜んで犬を食べた
属州ガリアであるフランスにながくローマ風犬食料理が残り、スイスでも盛ん
イギリスでは嫌悪されるがサクソン族は羊飼いのため牧羊犬を可愛がり
犬食しにくかったのだう
【長鼓峰古墳】日本の古墳にそっくりだったため埋め戻される…韓国学界の負担になり、日本右翼が「任那日本府説」の根拠にすることを懸念 [れいおφ★]
http://2chb.net/r/news4plus/1616410310/ ■気候変動から崩壊へ
しかし、残念ながら「モンゴルの平和」は長くは続きませんでした。教科書などで言われる経済政策の失敗や、モンゴル貴族のぜいたくなども理由と言えますが、避けがたい世界的な気候変動に原因がありました。
全地球的な寒冷化は世界各地で凶作や天変地異を引き起こします。人々の抵抗力が低下すると共に、モンゴルによる統合でヒトの交流が促進された結果、14世紀半ばには黒死病(ペスト)の大流行が各地で見られるようになります。いわゆるパンデミックの始まりでした。
そして、モンゴルの経済運営も限界を迎えます。最大の要因は、ユーラシア規模での経済を回すには基軸通貨たる銀の不足を解決できなかったからでした。銀で繁栄したモンゴル帝国は、銀によって衰退していったのです。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/292206 【福岡】伊都国「王墓」のガラス玉、弥生時代と同時期に栄えた騎馬民族・匈奴の墓の出土品と一致 「半島を経由してもたらされた」 [樽悶★]
http://2chb.net/r/newsplus/1631975917/ 東北寒冷渦と地上低気圧の影響を受け、中国遼寧省ではこのほど、ブリザード(暴風雪)に見舞われ、低温により、640万の家畜が凍死し、17億元(約300億円)以上の経済損失が発生した。新型コロナウイルス(中共ウイルス、COVID-19)と吹雪のダブル攻撃に見舞われ、地元のスーパーは「野菜も肉もなくなった」と嘆く人がいた。
中国北部では6日から大雪が降り、気温が大幅に下がり、一足早く冬に入った。遼寧省では7日から9日にかけて史上稀に見るブリザードに見舞われた。遼寧省気象局の統計によると、省内にある62カ所の国家気象観測所のうち、30mm以上の超大雪に見舞われたのは39カ所で、省内の観察所の5分の3を占め、12都市に広がっている。現在、同省の最大降雪量は80.3ミリに達し、11級(28.5〜32.6m/s)の強風を伴って、気温が16度以上下がっている。
遼寧省政府は現在、今回の大雪を最も深刻レベルの「レベル1ブリザード災害」に分類している。10日午後4時まで、同省の被害を受けた農場は1万1600軒、倒壊した家畜・家禽の畜舎や付属施設面積は676万1600平方メートル、死亡した家畜・家禽は640万5000羽で、直接的な経済損失は17億元(約303億円)以上にのぼる。
https://www.visiontimesjp.com/?p=27509 【考古学】1万2千年前「文明史塗り替える世界最古の神殿」日本隊が調査 エジプトのピラミッドやメソポタミアの都市国家より7千年古い [かわる★]
http://2chb.net/r/newsplus/1637757495/ 【ナゾロジー】革の鱗でできた2500年前の「スケイルアーマー」を発見、史上2例目 [すらいむ★]
http://2chb.net/r/scienceplus/1642318944/ NHKBSPでやってたけど天梯山石窟って匈奴が作ったんだな
スウェーデンはフィンランドを目がアジアン的と嫌悪してる老人が多い
道家や『荘子』の「徳」とは、大体のところ、客観的には、世界の根源者である「道」の作用・働きを指している。例えば、『老子』第51章に「道 之(これ)を生じ、徳 之を畜(育、やしな)う。」とあるように、「道」が「物」の存在に関わるのに対して、「徳」はその成長に関わっているのを参照されたい。
北欧、特にスウェーデンは美化されているが、人間のクズばかり
まさに日本人だ
http://2chb.net/r/chinahero/1624933240 夷狄は遊牧生活を送っているが、これは大変に不安定なものである。
故に略奪で生計を立てているのだ。これはもう、強盗殺戮集団以外の何者でもない。
こんな危険な連中が長城を隔てた北隣に棲息しているのだから、国境は枕を高くして眠ることもできぬ。
故にこの騎乗人面獣を退治することが最優先なのである!
夷狄は凶暴で野蛮で交戦的で無知無学で不潔で礼儀知らずで人の心を持たない、まさに獣と変わらないっ!
ならば獣に対する態度と同じでいいっ!
夷狄と話し合う必要はなく、駆除・退治・絶滅の対象
それを可能にするのは軍事力のみであり、常にその軍事力維持に努めるべきである。
そもそも夷狄は文字も持たない低能のゴミクズ
略奪で生計を立ててるから善悪の道徳判断能力が皆無で、農耕を知らないから野菜も穀類もない。
だから肉と乳しか口にしないので凶暴で知能の発達が遅れている 。
DNA的にはホモ・サピエンスだが、中身は野獣と変わらない。
夷狄はDNAレベルで悪魔そのもの、生まれながらの凶悪な強盗
熊や虎と変わらない。
現存の人物との交際だけでは、飽きたらなければ、歴史上の人物と議論せよ。詩歌を暗誦し、書物を読解するだけで、著者のことを知らなくては、どうしてもダメである。その人物の生きていた時代ついて議論することが必要である。これが「尚友」である。つまり歴史上の人物と友達になるということである。
残っている史料の分量が少ない時代で筋書きを切ることで、反証しにくくする。
>>304 グレタ嬢とプー様ってよく似てると思ったら、出身地が目と鼻の先だったのか
これってモンゴル帝国の恐怖戦術そのまんまなんだよなあ
https://twitter.com/paper_house_/status/1512959705144258564 小泉悠先生(@OKB1917)
「ロシア軍は拉致して拷問や虐殺してから敢えて一部を返して残虐性を語らせる」
以前国際政治chで語っていた『残虐性の価値』について改めて仰ってました
#日曜討論
27: 世界@名無史さん [sage] 2022/04/10(日) 15:39:12.49 0
【ウクライナ侵攻】ロシア軍に深く根付いた「残虐行為の文化」 [oops★]
http://2chb.net/r/newsplus/1649561982/ https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
>>118 クレイジーだよな
しかしこれローマ帝国からの常套手段だな
@ロシア(騎馬)住民が住みつく
A権益闘争や自治権要求を繰り替えさせる
B権益や主権を脅かされた元々の住民が反発する
C親露(騎馬)派住民が差別虐待されていると軍事介入
フィンランド人やバルト三国人は
古代にシベリア系民族の影響をうけているからね
スウェーデン人やノルウェー人にもサーミ人の影響はあるだろう
加えてご指摘のとおり寒冷地適応もあるのかもしれないね
ヒストリーチャンネルのMANKINDって番組でチンギス・ハンの孫の一人のジャーニー・ベク・ハンがヨーロッパの国の城壁を投石機や石弓を使ってペスト患者の死体や一部を投げ込んでパンデミックを起こしちゃうの見たな
そもそもスキタイ人からして白人系に若干モンゴロイド系が混じっている
中央アジアの人的交流はかなりのスケールだったのだろう
モンゴル高原のアルタイ系種族にもコーカソイドが大なり小なり混じっている
匈奴もモンゴロイドを中心にコーカソイドが一部混入した集団とみてよい
世界の精豪
・乾隆帝(ヌルハチさん、2万人以上の女性を抱いた)
・チンギス・ハン(今の世の人間の20人に1人が彼の血をひくとか)
・毛沢東(毎晩2人の処女を献上されて夜をともにした)
-curl
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